① 空近し
ディンスレイにとってここ最近の発見は、自室での起床にだって、慣れというものが存在するという物であった。
(いや、その手の感情については、私が特殊なだけか?)
そんな事を思いながら、固めのベッドから身体を引きずり出す。
部屋の窓の位置を高めにしたのは、窓から空を眺めやすくしたためだが、そこからの日差しが何時だって心地良いかと言われれば、そうも行かないのが人生というものだろう。
(自室……というものが落ち着ける場所ではない。そういうのも人生としての在り方か? それはそれで間抜けだが……)
寝ている間に崩れた寝間着を整えつつ、最近までは慣れていなかったその自室を見る。
軍の寮か飛空艦内部の士官用の部屋での寝泊りが、十代を過ぎてから大半を占める自らの人生。
そんな自分が今、自分の部屋……というより自分の家を持つというのは、新鮮さを通り過ぎて、違和感のある日々だ。
(これはこれで、ある種の責任の取り方ではあるんだが……)
部屋を見渡す。高めの窓と固めのベッド。クローゼットに本棚が一つ。どちからと言えば殺風景な部屋であったが、知人に言わせれば、まさに飛空艦の士官室染みているらしい。
これでも、個人的に気に入る形にしたつもりなのだ。それが飛空艦内部に似ているというのは……。
(まあ、未練があるのだろうな?)
やはり窓から空を見る。そこには偶然、グアンマージの空を飛ぶ飛空船の影があった。
(飛空船はともかく、飛空艦の方に乗っていないのは何時からだったか?)
ディンスレイは部屋を出て、洗面所まで歩き出す。
シャワーでも浴びたい気持ちも無いわけでは無いが、とりあえず顔を洗って意識をはっきりさせたい衝動が優先する。
ここは中央都市グアンマージ。ディンスレイ・オルド・クラレイスの自宅。そういう認識をはっきりさせなければ、何時までたっても足元がふわふわしたままだ。
(そういえば、今日はこの街に住む事を決めてから丁度一年だったか?)
洗面所へと辿り着き、顔を洗えば、その手の脳の記憶もはっきりしてくるものだ。
グアンマージがオヌ帝国との戦争の最中に破壊されてからも、既に一年以上が経過していた。
その戦争の最中に謹慎を言い渡されたディンスレイであったが、現在は降格も無く、追及されるべき責任についても不問となっていた。
それもこれも、オヌ帝国との和平が正式に結べたから……だとディンスレイは思っている。
シルフェニアとオヌ帝国。この二国の戦争は、ある時点を境に、双方にとって急速にやる価値の無いものへと変わって行ったと言える。
まずオヌ帝国側の勢いが減じた。というより、国境の侵犯回数が極端に減った。これはシルフェニア側の予測に寄ると、長距離での進軍が国の負担になったからというものであるらしい。では何故、そんな無理を押してオヌ帝国は戦争を続けたのかという意見については、現状、各論がある状況である。
そうして、オヌ帝国側が攻め込んで来なくなれば、シルフェニア側は攻撃を受けた恨み以外に戦争に注力する意味が失われる。
そんな恨みを徐々に減じさせたのが、進む中央都市グアンマージの復興。というのは、言い過ぎでは無いだろう。
貧民街の瓦礫は、その周辺の建築物ごと撤去され、歴史だけを刻んでいた行政区画もまた、国内最新の物へと変わって行った。
その変化への対応が、攻めて来なくなった戦争相手への感情より優先された……というのは、恐らく、目線が上を向いている連中だけの理屈だろうか?
(確かに、未だにオヌ帝国に恨みを抱きつつけている者もいるだろう。親類縁者を殺された者に関しては、それがその人生においてずっと続く。それを無視する様な理屈は、無遠慮極まるものだろうが……私はそうじゃないから、共感が出来ない。申し訳なく思うしかない……か)
だからこそ、ディンスレイはせめて復興を始めたグアンマージを見続けるために、自宅を構えたのだと思う。
破壊された貧民街の再建が始まる中で、地価も下がっていた。国軍の士官としてそれなりの給金を貰いながら、使うアテもあまり無い我が身なので、購入する余裕があったのだ。
ただそこに住み続けて政治に参加するというだけで貴族扱いされていた頃とは大きく変わった。それもまた、グアンマージの変化なのかもしれない。
何にせよ、復興の勢いに混じってか、かなり大きめの自宅になってしまった事が、ディンスレイがこの自宅に馴染むまでの時間を長引かせている……とは思うのだ。
「さて、こういう時は、さっさと仕事に向かうに限るな」
顔を洗い終え、用意されていた黒いシルフェニア国軍の制服に着替えれば、向かう先は朝食が用意されていたリビング。
そこにはこの自宅における同居人の姿があった。
「いや、世話役が居るというのも、慣れない理由の一つかもしれないな」
「朝から随分な事を言いますね、ディンスレイ様」
と、不躾なのか畏まっているのか分からない言葉を返される。
そんな相手は、初老の男であった。
名前をコトー・フィックス。古くはディンスレイに実家というものがあった時代に、その実家の執事をしていた男であり、ディンスレイが艦長を勤めたブラックテイル号においては副長をしてくれていた、旧友とすら呼べる相手である。
そんな彼は今、この慣れぬディンスレイ宅で世話役までしてくれていた。一応、働き始めた自らの脳に対して、給金は払っているのだぞと言い訳しておく。
それにしたところで、わざわざこうやって彼がそんな仕事をしてくれているには理由がある。
まず第一に、やはり購入した自宅が広すぎるという事。ディンスレイ一人が暮らすには、本当に広すぎるのだ。そもそも寝泊りする部屋が、ディンスレイが使っている物の外に三つ程ある。
国軍での仕事をする自分にとって、行き届いた管理というのは難しい家となっており、家主はディンスレイであるが、実質の居住者という意味では、このコトーが主と言えるのではなかろうか。
「しかしな、コトー。わざわざこうやって着替えの準備をしてくれて、朝食まで用意して貰うというのは、どうなのかと思う自分が居るんだがなぁ……」
リビングのテーブルの上には、簡素であるがパンとサラダと卵が揃ったものであり、ディンスレイにとっては十分と言えるものであった。
「これに関しては、わたくしの癖の様な物ですので。もっとも、今後は少しずつやり方も変えていくかもしれませんね。なんと言っても、ララリート様が居ない」
コトーの言葉を聞いて、元部下であり、また今は、一応、書類上はディンスレイの養女となっているララリート・イシイという少女の事を思い出す。
一週間前までは、このディンスレイの自宅には彼女もまた同居していた。コトーが世話役というのは、彼女に対する部分も含まれており、それもまた、彼を雇った理由の一つでもある。
「彼女がいると、もう随分と騒がしかったからな。この家の広さを実感する事もあまり無かった」
「分かりますが、言葉にされると、この方はこの年齢で子の旅立ちに心細くなっている親の気分かと言いたくなりますな」
「自覚させてくれるなコトー。仕方ないだろう。彼女は立派に旅立った。その事に思いを馳せる事だってあるだろうさ」
「最低限の事を学ばせる臨時的なもので無く、正式に士官学校へ通う事になったというだけでしょうに。ララリート様なら、確かに立派な日々を送ってくれるでしょうが、それはそれとして、これからですよ、彼女にとっては」
それはそうだろう。ララリートの夢は飛空艦の艦長になる事。
先に国軍の軍人としての実務を行ってから、その後に士官学校に通い始めるという、何やら順序が逆に思えるものであるが、彼女はまだまだ年若く、今後の栄達を考えるなら、正式に士官学校へ通うというのは、通っておくべき道である。
基本的に国軍所有の寮で暮らしながら、士官としてのイロハを学んでいく事になるわけだから、ディンスレイ宅を出る必要があるし、何より学び続ける必要がある。
つまりはこれからだ。今から感慨深くなってどうなるという言葉には、その通りと言うしかない。
「だが、多少なりとも、寂しくなっても仕方ないとは思わんか?」
「飛空艦に乗れなくて、拗ねてらっしゃるのですか? 若?」
「若はやめろ若は。確かに、気分的に愚痴を言いたくなる環境だがな、今は。だが、自宅を構えたおかげか、昔の部下が顔を出してくれる時もある。恵まれている自覚だってあるさ」
「昔の部下……ですか」
ブラックテイル号とブラックテイルⅡで艦長をしていた頃、船員をしてくれていた面々の事をそう表現する。
コトーがそうであった様に、ディンスレイもまた、その意味について思うところはあった。
「関係性が変わってくる前兆……そう言えるか? 副長?」
「わたくしが副長は無いでしょうに、艦長」
「それこそ、飛空艦に乗れぬ仕事を続けているのに艦長は無いだろう」
「戦後処理の事務仕事はお嫌いですかな? ですが、これは年の功からくる助言ですが、その内、また空を飛ぶ事になりますよ、ディンスレイ様なら」
「都合の良い事を言ってくれる」
「これはあなたの運命という物です。あなたはそういう空の元に生まれたのですよ。今まで気付いた事がありませんでしたか?」
さて、コトーのこの言葉に対して、あくまで希望的観測だと愚痴を返すか、自信を持って胸を張るか。
考えるよりはまず、ディンスレイは食卓のパンを齧る事にした。
ディンスレイの今の仕事は戦後処理の事務仕事。今朝方は世話役にそう表現されたが、言い得て妙であると昼のディンスレイは考える。
オヌ帝国との和平が内々で決まってからこっち、謹慎が解けたディンスレイが任されたのは、破壊されたグアンマージの行政区画において、その復興状況に合わせて、国軍と関係各所の新たな関係を、グアンマージ内で構築していくというものであった。
ディンスレイがグアンマージに居を構えたからか、それともそういう仕事が増えそうだったから居を構えたか。
どっちが先だったか記憶が曖昧であったが、行政関係の組織回りを国軍がする上で、ある程度の地位がある人間がそこに居るというのは都合が良かったのだと思われる。
(別に遣り甲斐の無い仕事だとは思わんが、戦後の復興期において無駄に状況を荒らすのもおかしいと、本当に顔を出すだけのために歩き回り続けるというのは、事務仕事より退屈ではあるな)
ディンスレイだけで無く、他にも数名、それなりの地位の人間が同じ仕事に掛かっており、今日も今日とて、そんな複数名で、とある組織に挨拶をした帰りだった。
何故かその組織で見覚えのある顔があり、非常に怯えられた上で、こいつこそ戦争を裏で動かしていた怪物だと指差されたわけだが、たかが通商同盟のたかが構成員の一人の発言。どこぞの小さな流通会社の社長が何かを言っても、変な勘違いをしているんじゃないかという話で終わった。
その程度で終わる挨拶回りにしても午前一杯は掛かるというのが、この手の仕事の厄介なところである。やっている意味は勿論あるが、やる意味があるのか? という問い掛けが頭の中で何度も成される。
自分向きかどうかは他人の評価に寄るが、自分好みでは無いなと思う日々が最近のディンスレイの日常であった。
(だからと言って手を抜くのは、責任の無い輩になってしまうからしないがね)
などと国軍の事務所へと帰る道すがら思うのも日課になって来た。
同行した他の国軍士官とも雑談をしつつこれなのだから、世話も無い。
「しかし、人にはどうしたところで向き不向きがあるものでしょう」
「そうは言うが、向いている仕事に誰もが就ければ、世の中もっと幸福になっているだろうに。そうでないというところに、どうしようも無い現実がある」
「現実という話なら、もう少し成果を出せる人間がそれをしていないというのは、現実的に考えて怠けている様なものなのでは?」
「怠け……そこまで言うか。これでも色々と事情があると言いたいが……それ以上に言うべき事があるな。何時の間に話に混じった?」
「混じったというより、私とディンスレイ中佐の二人ですがね、今は」
以前より広くなったグアンマージの道の途中で立ち止まり、何時の間にか隣で会話をしていた男を見る。
知っている顔のせいで、ついツッコミを入れるのが遅れてしまった。
何なら、二人きりで会話をするために、歩く速度まで調整させられたと言うべきだろうか。他の士官は気が付かなかったのか? それとも気が付いた上で厄介事を避けて来たか。
だとしたらうちの軍もやるではないか。
「で、何だ。テグロアン大尉。大尉だよな?」
「ええ、変わらず大尉ですが。ここに階級章もあるでしょう?」
制服の襟元を見せて来る彼、テグロアン・ムイーズ大尉は、以前会った時と同様の、どういう感情か分からぬ表情を見せながら、碌な挨拶も無く話を始めて来た。
そもそも、何時から始まっていた? 隙を突かれた様な気分である。これは彼がこういう唐突さを得意とするせいか、もしくはディンスレイの側が鈍っていたせいか。
「何にせよ、健在を越えて何時も通りそうで安心したよ、大尉。それで何時も通り、何かしら難題かな?」
「何時も難題を吹っかけている様な言い方は心外です。ブラックテイルⅡに乗っている時は偶にだったでしょう? 艦長」
「今は艦長ではない。そうして、その偶にがきっと今だ。そんな気がする」
場所を変えた方が良いのでは無いか。周囲を伺ってみるものの、立ち止まっているのは道の端である。戦後の復興途中の街並みでは、国軍士官の制服だって目立つものでは無く、話をしたってわざわざ聞き耳を立てる人間は少ないだろう。
世間話をしている風を装えば、他に聞かれる危険性も無いと来た。なるほど、これだって狙った状況だな?
「ディンスレイ中佐が何を考えているかはさっぱり分からぬ私ですが、仕事の話を持って来たのかと問われれば、まさにその通り。さすがの慧眼ですね」
「褒めるつもりならそれらしく言わなければ嫌味に聞こえるぞ、大尉。で、漸く本題に戻れるが、何だその仕事というのは」
「聞いていただけるのですか?」
「聞かないという選択肢があるのか?」
「中佐は国軍の命令に不必要に逆らえる立場では無いでしょうから、聞いていただけるというのは双方共に良い事かと」
これは素直な嫌味である。なんだ? 戦中では国軍の指揮系統から外れて無茶した事に今さら文句があるのか? 乗ったのはこの男も同様だろうに。
「面倒になってきたから、早く話せ。本当に内容も聞かずに断る事になるぞ、このままだと」
「ではさっそく。中佐は、ナーガンラップ山脈をご存知ですか?」
「シルフェニア北方にある山脈壁だろう? 飛行高度限界にまで聳え立っているせいで、未だその向こうを踏破するどころか観測すら出来ない未踏領域の一つだが……何かあったか?」
「その山脈壁の一部が、崩れました」
「……何?」
ナーガンラップ山脈。シルフェニアを囲む四方の未踏領域の一つ。そのうち西方と南方は、何の因果かディンスレイ自身が踏破する事になったわけだが、未だそれを成していない物が二つあり、そのうちの一つがナーガンラップ山脈だ。
この無限の大地においては、飛空艦すらそれ以上は飛べない限界となる高度が存在し、一方で自然環境というのは、その限界までもを塞ぐ山脈を作り出す。
その手の構造を山脈壁と表現するが、ナーガンラップ山脈はとびきりだ。
まさにシルフェニア北方をほぼ一直線に、海すらも塞いでおり、それ以上の探索を不可能にしている。
そんな山脈が、一部でも崩れたというのか。
「それは……どういう事だ? 何かしら自然の猛威でもあったか? それとも……何にせよ、一大事件ではないか」
「はい。ですので、中佐に話を持ってきました。詳しい内容を聞いていただければ、きっと中佐向きの話だと納得していただけるかと」
「言うじゃないか。いったいどういう根拠の元にだ、それは?」
「何せ中佐、既に好奇心が擽られてますから。話を詳しく聞くなら、仕事を受けて貰う必要があると言うつもりでしたが、その必要も無いでしょう」
最近の副長というのは、どいつもこいつも艦長のこの先について予言してくるものなのか?
少なくとも、一筋縄では行かない連中を好んでいるのは自分自身の責任ではある。
そう考えながらも、ディンスレイは今朝方のコトーの言葉を思い出してしまう。
(きっと空をまた飛ぶと言われたが、これがそれか? まさかだろう?)
そのまさかだぞと、自分の頭の中から聞こえて来た。
擽られた好奇心とやらが囁いて来たのだ。今のディンスレイには、そうとしか思えなかった。




