① 未踏領域
空に船が浮いている。
大気を切り裂き、風にその身体を乗せるための広く大きな翼を持って、空に船が浮いていた。
それは船でありながら、金属質のそれに覆われており、船底は浅く、一方で甲板があるべき部分もまた、滑らかなドームに覆われ、船の全体的な印象は翼の生えた縦に長い円盤というものとなっていた。
それはまさしく船と形容できる程に相応の大きさを持ちながらも、さらに二隻、やはり空を飛んでいた。
「当艦射程距離まで残り五秒だ! 四、三、二、一、今だ! 撃て!」
片方の船。その内側に存在する、メインブリッジと呼ばれる空間において、彼、ディンスレイ・オルド・クラレイスの声が響く。
壁の代わりに埋められた重層ガラスの窓に幾つもの席と、そこに座る人で飾り立てられたそのブリッジの中心に立つディンスレイは、偉丈夫と言うにはどうしたって細く低めの体格を黒い制服で包み、それでも姿勢と心意気は偉丈夫であるばかりに吠えていた。
その叫びと共に、彼が乗り込む、いや指揮する空飛ぶ船は、もう一方の空飛ぶ船に対して、叫びの代わりに緑に光輝く光線を放った。
攻性光線と呼ばれるその光線は船の壁面より放たれるや、まさに光の如き速さでもう一方の空飛ぶ船へと届かせる。
ブリッジの窓に映る相手側の船が大きく揺れている。先手はこれで取れたと見たディンスレイであるが、それでもまだ彼の指揮は終わらない。
「手を休めるな! 攻撃に関しては惰性で良い。船を急旋回させろ。上下への動きも忘れるなよ」
ディンスレイはブリッジに座る人間達へ自分の意思と指示を伝えると、スクリーンの向こう側に未だ浮かぶ相手の船を睨み、考える。
(反撃が遅いな。手間取っているのか……いや)
自分の指示に寄って船が傾き、旋回していくのを体で感じながら、相手側の船の反応や動きを考える。
艦長にはそれが必要だ。
そう。ディンスレイは今、自らが乗り、指揮を取る船の艦長という役目を担っている。
船の命運は今、この瞬間、ディンスレイの肩に掛かっていると言って過言ではあるまい。
だから考え、辿り着く。
「旋回方向を変更だ。さらに下方。地面すれすれまで行って良いぞ」
「本気ですか!? 艦長!」
ブリッジ中心にある艦長席に座るディンスレイに対して、そのやや斜め前方にある副長席に座る男が慌てた様子で尋ねて来る。
「悠長に会議をしている暇は無い。艦長命令だ。危険が怖いかな? だが今は敗北を怖がる時だ」
ただ指示するだけで無く、ただし長話も出来ないから、こちらの意思の強弱だけを伝える。無理はするな。ただし船の高度を下げる事だけはやってもらう。そんな意思を込める。
空飛ぶ船同士が戦う時、高度は上の方が有利。それが定石である。その定石を副長席に座る男は問うているのだろうが、ディンスレイはそれを無視する。
相手が定石を外してくるつもりなのだ。こっちも乗らないでどうする。
「ほおら来たぞ諸君! 空戦というのはこういう事がある。今後気を付ける事だ!」
まるでディンスレイの言葉に合わせたが如く、相手の船が軌道を大幅に変えて来る。
文字通り常軌を逸した、恐らくディンスレイが地面に向けて降下しろという指示より余程危険なその軌道。
それはディンスレイ達が乗り込む船を押し潰さんばかりの軌道だ。
「船ごとの特攻!? そんな馬鹿な!」
「そんな馬鹿な事が起こるのが、船同士の、飛空船同士の戦いというものだ諸君。さて、我々の反撃はこれからだ。副長、主任操舵士。教本においてはこの場合、どうするのが正解と書いてあるかな?」
「相手艦が特攻を仕掛けて来た時の対処方なんて、書かれているわけが無いでしょう!?」
叫び返して来る副長役に対して、ディンスレイは笑った。
「勉強不足だな。六十年前にあったカニアシアの大空戦においては敵味方合わせて三十もの飛空船が飛び交い、その様な事態に陥った艦があった。その時の艦長が取った行動はまさに、緊急時における芸術的とすら言える軌道と選択だったと言えるだろう。今ここで、私はそれを示す。良いかな? 諸君」
「そ、それはいったい……」
今度は操縦士役がおずおずと尋ねて来る。けれどディンスレイは笑みを崩さない。
「こちらも特攻だ。操縦士君。無理だと思うなら―――
「無理です!」
「そうか。なら操縦権限はこちらがいただこう!」
手元の端末を操作し、操縦士の全面にある艦の動きを制御する操縦桿からその制御を艦長席のそれに移す。
有事の際において、艦長は飛空船の全機能を操作出来る権限が与えられている。今、それを行使したのだ。
時間はもう無い。相手の艦は既にこちらの艦へ真っ直ぐ進んでおり、もはや話をする暇すら奪われていた。
すぐさまディンスレイの操縦により、艦は地表に向かう進路からU字を描く様に上方へと向かう。
白い雲と輝く太陽。そうして青々とした空の中央に、相手艦の影が映った。
互いを真正面に見据え、ついでに互いに緑の攻性光線を撃ち合いつつ、双方は驚くべき速さで接触する―――
「もう駄目だぁ!」
接触するその寸前で、艦と艦はすれ違っていた。
こんな状況で泣き言を発する副長の声を聞こえている以上、正面衝突は避けた事を意味していた。
互いの艦は互いを艦の横に見据え、交差する。
そうしてその時点で、相手艦からブリッジに向かって通信が入って来た。
『こちらの降伏を伝える。君の勝ちだ。ディンスレイ・オルド・クラレイス』
そんな野太い男の声がブリッジに響き、ディンスレイもまた言葉を返した。
「了解しました。これにて模擬戦試験を終了します。諸君。艦が展開している火器の収納を忘れるなよ」
「ど、どうして」
頭を抱えていた副長役の言葉に、ディンスレイは教師が生徒へ教える様に言葉を発した。悠長に話をする時間が出来たからだ。
「迅速な火器の収納に関して聞いているのならば、それは空戦が終わった時におけるもっとも紳士的な対応だからだ。誰だって戦いの後で剣を抜き身にはしておくまい? さっきの空戦の軌道の話で言うならば、こちらは上空に向かい、向こうは地表に向かう形でぶつかろうとしていた。相手は地表にぶつかる事を避けるための軌道を考える必要がある以上、こちらに少しばかり、付け入る隙が出来たというわけだ」
あれやこれやと聞かれる前に、先んじて説明をする。相手艦は特攻であったが、それでもその動きに躊躇があったのだ。その躊躇に合わせ、こちらはぶつからないぎりぎりの軌道を取り、反撃の機会を見つけ出したといわけだ。
もっとも、これは模擬試験。こちらの艦の有利が決まった時点で、こちらの勝ちとして扱われる。
そう。今まで行われた空戦は試験であった。飛ぶ船は本物であれど性能は並の訓練用飛空艦を使った、命の取り合いでは無い試験でしか無かった。
ではそれは、いったい何の試験か?
「こちらの勝ちで終わった以上、私の艦長資格試験は合格で終わったわけだが……」
ディンスレイはブリッジをじろりと見回す。
まだ事態を受け入れられていない副長に、緊急時に怯えてしまう操縦士。ついでに素早く移り変わる展開に追いつけず、黙ったままだった管制も見ながら、ディンスレイは我慢していた溜息を一度だけ吐いてしまった。
「ま、今後の課題の多さを考えれば、喜ぶわけにも行かないな」
そう誰に対したものでは無い言葉も吐く男、ディンスレイ・オルド・クラレイス。
年齢にして今年二十三。若手の中でも若手な、そんな軍艦の艦長がこの瞬間、誕生したのである。
無限に続く大地『マグナスカブ』。その遥かなる大地の中に一つの国がある。
このどこまでも続く世界に対して、大空を飛び挑むという選択をした国『シルフェニア』という国だ。
シルフェニアはその歴史の中で、空に浮かぶ船である飛空船を作り上げたのだ。その後、シルフェニアは様々な理由から、多くの飛空船を空に浮かばせ、マグナスカブの大地へと乗り出す事となる。時に領土欲から来る外征へ。時に他国からの侵略から自国を守るため。そうして現在、今、もっとも飛空船を飛び立たせる理由となっているものは二つ。好奇心と冒険である。
「ま、空に浮かぶ連中にとっては、お題目なんて何だって良いのかもしれないけれどね」
彼女、ミニセル・マニアルは大地と同じくらいに広い青い空を見上げながら、ぽつりと呟く。
幾つかの飛空船が見えるその空の下にあるシルフェニアが幾つか領有する開拓都市サンザーラントの、赤い屋根と白壁の街並みの片隅を歩くミニセルは、街並みに負けないくらいに情熱的に長い赤髪と白い肌を軽装に包み、ただ一人笑った。
苦笑に近い笑いだ。空は広く、そこを飛ぶ船を少し羨ましく思うなどは、苦笑に値する感傷だろう。
(ま、そういう思いを抱いちゃうから、一所に留まれない性質なんでしょうけれど)
自分をそういう人間として位置付ける彼女は、サンザーラントの住民ではない。自分が生まれた街の内だけで一生を過ごす事を良しとしない、シルフェニア国民らしいと言えば良いのか、最近は風来坊みたいに国内の街を見て回っている旅行者と表現するのが正しい。
特にサンザーラントは観光地としてはそこそこに有名だ。
シルフェニアが大陸に対して、むやみやたらと領土を増やしていた時期のそのさらに初期に開拓が始まった都市であり、街並みは起伏に富み、坂や階段が多く、日常を暮らすには不便が多い土地ではあった。
街そのものはそれだけで済むのであるが、いざ外界に出れば、そこに広がるのは建材にも使われている頑丈で赤茶けた荒涼とした大地が広がっている。
そちらは世辞にしたところで人が住める場所では無く、照り付ける陽の光が大地を乾燥させ、さらに痩せ細らせていた。
けれど、人間というのはしぶとくその大地に住まいを作り、そうして発展した都市まで作り上げたのだから、先祖の偉大さが分かるというものだ。
このサンザーラントが観光地として存在出来ているのも、そんなかつての先祖の生き様というのを体感出来るからかもしれない。
(けど、そんな景色を見ても……どうにもあたしは……)
退屈を感じてしまう性質だった。
旅行者が何を言っているのかと馬鹿にされるかもしれないが、ミニセルには時々、どうしようも無い退屈感に襲われる時があった。
生来から悩まされたものである。赤子の頃から、寝る場所を毎日変えてやらないと泣き出していたというのだから、人間としての業とすら呼んでも良い。結果として、安心安全とはかけ離れた日々を送っている我が身。先日などは―――
「ああ、やめやめ。今日ばっかりは、こういう思考じゃいけないわよ」
頭を振り、額を押さえながら呟く。
このサザーラントに来た理由は遊興目的だ。行楽と表現するのも良いだろう。疲れる日々を送っているのだから、偶には気楽に過ごすのも悪く無いと考えて今、ここに立っている。
波乱に満ちた日常に戻るというのも、平穏に我慢できなくなってからで構わない。
(そうね。観光地らしく、食事もそこそこ美味しいわけだし、今日はそれを楽しんじゃいましょ)
そう考えて、適当な食堂を探す。痩せた土地であるこのサザーラントにも名物があり、焼ける様に辛いスパイスと野性味溢れる現地動物を家畜化した肉料理がどこの店でもおススメされている。
滞在中に、大半のメニューをコンプリートしてしまうのも悪くはあるまい。そう考え、目に付いた看板に誘われ、店の外側に配置されたテーブル席を選んで、店員に注文を告げる。
やはり平穏の色しか見えないそんな時間の中で、ふと、一つだけ、非日常が紛れ込んだのをミニセルは感じた。
というか、一人で座ったはずのそのテーブル席。その対面に、一人の男が座って来たのだ。
「相席を提案された憶えも許可した記憶も無いのだけれど?」
「ああ、こちらも許可を貰った記憶は無いし、何なら今、店員が私の存在に困惑しているのも知っている」
そんな風に言葉を返して来た若い男。黒い制服姿の、背丈はやや低め。線だって細く見える青年。その姿を確認したミニセルは考える。
(突然襲い掛かって来たとしても、簡単に撃退出来るでしょうけれど……だからって悠長に話でもする理由も無いわよね?)
これでナンパ目的とかならば、店には悪いが張り倒させて貰おうか。そんな風に思えるくらいに、ミニセルは度胸と、実際の腕もあった。
あったのだが……。
「ミニセル・マニアル。国内の中央都市圏、その中流層に生まれて、何不自由無いというのは言い過ぎだが、それでも順風満帆な人生を十代の前半までは送っていた……が、学生時代に何を思ったが学校を中退し、親に無断で家を出た。その後、両親への定期的な手紙での報告以外に知人達の前から姿を消す事になるが……その理由は別に隠れ潜むつもりでは無い事は、君のその後の遍歴を見れば一目瞭然だな」
「は?」
その青年は、突然に、ミニセルの半生を語り始めたのである。
ナンパ目的ならば用意周到だ。そうで無くとも趣味が悪いと言わざるを得ない。
こいつは何者だ? 何か言葉を返すより前に、ミニセルは視線で訝しむ。
「おっと。これは失礼。他人の名前を尋ねるより先に、こちらが名乗らなければ失礼にあたる。この手の礼儀は当たり前過ぎて、つい忘れがちになってしまう。私が反省するべき点だろう。私の名前はディンスレイ・オルド・クラレイス。身分については、この制服を見てくれれば分かると思うが……」
それが仮装で無ければであるが、彼はその制服を着るべき地位にあると言えるだろう。
シルフェニア国軍の軍人が着る制服がそれだ。
だが、ミニセルはやはりそれを仮装であると判断する。
「分からないわね。その服装。国軍の中でも上級士官服よ? あなた、見る限り若くって、幹部候補生だったとしても、有り得ない地位にある事になっちゃう。だからごめんなさい。ちょーっと笑っちゃうわね」
ナンパか詐欺の類だ。ミニセルはそう判断した。どうしてこちらについてを詳しく知っているのかは謎だが、相手の恰好を見てそう判断したのだ。
一方、ディンスレイを名乗る男は、きょとんとした目でこちらを見ていた。自分の正体を見抜かれた事が、そんなに意外だったのだ。
悔し気な表情を次に浮かべるかと思っていたが、彼は笑った、楽しそうに。
「なるほどなるほど。思った通り、目が良いらしい。頭だって働いている。これはいけるな」
ディンスレイの笑いは、どうにも当人自身に向けられているらしいが、今度はミニセルが困惑する番だ。
この男はいったい、何者で、何が狙いだ?
「ナンパにしては……やり方が迂遠ね」
「いや、実際のところ、これはナンパに近い。だがもっと近い表現があるな。スカウトだよ」
そう言いながら、彼は紙を一枚渡して来た。上質紙、思ったより硬い質感の紙。
「つまり、ナンパじゃなくて詐欺の方?」
「契約書を見て、すぐに詐欺か何かだと判断するのは世間を知っているが、擦れ過ぎてはいないかな?」
だってその契約書の内容はあからさまに詐欺の内容だ。
ミニセルを、中型飛空船の操舵士として雇いたいというものなのだから。
「自分にとって過分な話なんて、大概が詐欺に決まってるでしょうが」
「君は確か、飛空船の免許なら持っているはずだ。中型飛空船のそれもな。この街にだって、自分で飛空船を操縦して来たのだろうに」
「大きさの話をしているのよ! 個人で扱う飛空船なんて大半が小型のそれ。中型の飛空船なんてねぇ! 大勢の客を乗せる旅客船規模の船を言うなんて誰でも知ってるでしょうが!」
ちなみに、大型にもなれば、空飛ぶ街とすら表現出来るものとなり、シルフェニア国内でも片手で収まる数しか存在していない。
要するに小型と中型で大まかに分けられるのが飛空船であり、後者はなんらかの大規模な組織でなければ管理出来ない規模の物であるという事。
目の前の男の恰好が仮装で無ければ、それこそ軍艦と表現出来る規模のそれだ。
そんな物の操縦士が出来る程に、自分が上等な存在だとミニセルは自惚れていない。
「つまり、腕に自信が無いという事かな?」
「そんなっ……挑発には乗らないわ」
「ふん? そう取るか。なら、この話は一旦中止だな」
そんな事を呟きつつ、ディンスレイは席から立ち上がる。
「一旦って、言っておくけれど、もう一度話す機会なんて無いわよ。与太話なんて聞き続ける気分じゃあ―――
「その契約書、渡したままにしておくよ。次の機会では、持って来ておいてくれると手間が省ける。店員さん。私の方は早々に立ち去るが、何も注文しないというのあれだな。飲み物と軽食のテイクアウトは出来るかな? ああ、それで構わない。すぐに頼む」
「なっ」
流れる様な仕草でディンスレイは店員の方へ向かい、次に店のレジで会計をして、商品を受け取った後に去って行く。
呆気に取られたままのミニセルは、その次にどうにもしてやられた様な悔しさを感じる事になる。
ぶつけるべき相手はとっくに店を去った後の事。
「ああもう! どうせ無駄に終わるわよ、ミニセル・アニマル!」
悔しさによる苛立ちを、自分にぶつけるミニセルは、はしたないと思いながらも、髪を強く掻いた。
どうにも生来から自分の中にある、厄介な欲求が働き始めたのだ。
その日、ディンスレイは公園のベンチに座り、空を見上げていた。
シルフェニア領内の外縁部。シルフェニアという国の最前線の一つと言えるその場所には、トークレイズと呼ばれる都市が存在していた。
未だ開拓途上という見た目で、発展した地区とそうでない地区があちこちでぶつかり、そこに住む人間同士は、お互いの身分と経済力の差異でいがみ合う事が多いという、ちぐはぐとした印象を持つそんな街だが……空には青空が広がり、多くの飛空船の影が見えた。
(この街がどれほどの物であろうとも、一歩踏み出せばそこにはシルフェニアの外の世界が広がっている。彼らはその世界に踏み出した側が、それとも、泣きを見て這う這うの体で帰って来た側か……)
影が向かう方を見れば、そのどちらもである事が分かる。片方はシルフェニアの国境外へ、もう片方はこのトークレイズの飛空船用の空港へ。
それぞれ正反対の方向に進んでいるのだが、街のちぐはぐさと同様に、ここには天国と地獄が交差している。
(ま、地獄の方だろう空港が目的地なのは私も同じだから、馬鹿にはすまい。いや、どちらも目的地ではあるかな)
それが比喩でもあるが直接的な言い回しでもあるだろう。ディンスレイは空港からシルフェニアという国から出て、地獄や天国を目指すのだから。
「ディンスレイ・オルド・クラレイス。シルフェニアの歴史初期において、多大な功績を出した事で貴族の地位を与えられた一族の一員。と言っても、そういう一族って幾つかの家に分かれて、さらに現代に至るまで没落してる家が殆どだから、大した事じゃあない。クラレイス家もそうなんでしょう?」
その声を聞いて、大空を見つめるのを止める。代わりに隣に座って来た赤髪の女を横目に、ディンスレイは薄く笑った。
「随分遅かったじゃないか。ミニセル・マニアル君」
「そうね。あなたがここの場所をあの契約書にあえて書いてなかったのだから、それも仕方無いんじゃあない? だからあなたと名前と、契約書に書かれていたあなたの家の住所から、あなたがどういう人間かを調べる必要があった。住所にしたところで、人手に渡ってたわけだけれどね?」
「諸事情により、財産の大半を手放してしまってね。あの家もなかなか高く売れて助かった」
「おかげで、あなたが家を売り払った先の人間から、あなたの人と成りに経歴と、幾らか知る事が出来たわ。どんなものか知りたい?」
「自分の事は自分が一番良く知っているだろうが、他人から聞いてみるのも悪くはあるまい。それに、君がせっかく調べた事だ」
ディンスレイが調べさせた……とも表現出来るだろうか。
彼女に、例の契約書を見せてから、それをして欲しいと期待していた事でもある。
「結構波乱に満ちた人生を送ってるみたいだけれど、私にとって一番の驚きは、あなたの今の地位よ。驚いた事に、本当に、正真正銘シルフェニア国軍の士官だって言うじゃない。それも、中型の飛空軍艦の艦長になれるくらいの地位。いったい、どういう手を使ったの?」
「多少の有能さと、それ相応のコネ。だいたいはこの二つかな。これでナンパや詐欺ではない事は分かってくれただろう?」
「ナンパじゃ無さそうだけれど、詐欺よ」
ふん? その心はいったい何だ? 片方の眉を上げながら、ディンスレイは疑問に思う。心の中と表情だけの呟きだったが、ミニセルはそれをしっかり理解出来たらしい。
「大きな夢を見せようとしてくるのは、詐欺って言うの。それが無謀なものだったら特に」
「どうやら、本当にこちらの事を良く調べたらしいな」
「シルフェニアから国外へ向かう飛空船は最近になって増える一方よ。この国では、今や冒険がブームとすら言える。大きな領土と領空を持って、幾つもの開拓都市が発展を続ける中で、必要以上の拡張なんてする事は稀になったから……みんな好奇心を優先する様になったのね」
文明的になったのだとも表現出来るだろうか。空に船を飛ばし、広い大地を開拓していく中で、シルフェニアが保持する技術や知識も増えて、何時しか大した労力を払わずに生きて行ける様になった。
そうなって来ると人間とは不思議なもので、違う何かを求めだす。生存欲求が満たされ、空虚になった頭の中を、今度は違うもので埋めようとし始めるのだ。
それを人は、好奇心と呼ぶ。
「そうだ。私もまた、好奇心を満たすための冒険を始めるために、君を雇おうと考えて居る。飛空船で、シルフェニア国外に出るのさ。だが、それは大それた夢と言えるかな? 君が言う通り、ブームになるくらいに多くの人間が挑んでいる」
「それが未踏領域だとしても?」
ミニセルの言う未踏領域とは、文字通り、広すぎる大地において、シルフェニアが一度もそこへ踏み込んだ事の無い領域を指している。
飛空船で乗り込んだ記録も公式に無い範囲で、そうなっている理由にも色々あるだろうが、大きく分けると二つ。世界が広すぎる事と、危険があるという事。
「未踏領域への探索は昨今のブームにおいてされていない訳では無いけれど、民間が行った際の帰還率は三割程度。あなたがこれからするであろう事は、国軍からのバックアップがあるだろうと思うけれど……それにしたって、無事である保障ってなかなか無いわよね」
「率直に言って、そんなものを私は用意出来んね。無論、私が艦長をする船の乗組員の安全は第一に考えるつもりだが……」
なるほど。だから詐欺の類か。どんな報酬があろうとも、その命を賭けにベットしろというのは、詐欺と言われても仕方あるまい。
「私がしようとしている事……飛空船による未踏領域への冒険がそれであるという事まで調べた手腕については、素直に評価しよう。確かに、これは遅いというより随分早いと表現するべきだったな。それで、そこで終わりかな? 詐欺だから付き合えないと」
「……そういう答えじゃない事を、知ってそうな顔してる」
「他人の心の中など、そう簡単に分からんもんさ。ただ、こちらが依頼する仕事を断るために、わざわざここに来る様な人間で無い事は、こちらとて調査済みという奴でね」
彼女、ミニセル・マニアルという人間については、これから知って行かなければならないのだろうが、表向きの彼女くらいなら調べれば分かって居た。
彼女は今、シルフェニアの中で流行るブームに、もっとも当てられた人種だ。
外の世界への好奇心。それに突き動かされるタイプ。
もっと言うなら、彼女のこれまでの仕事がそれを証明している。
「国内での冒険者なんぞは、そろそろ飽きて来た頃合いじゃあないかな?」
「そ。そりゃあそこを調べたから、私を雇って来たって事よね」
冒険者。それは文字通りの職業だ。
広く、ひたすらに広いこの世界において、もっとも最初に出来た仕事。あくまで一説であり、もう一つの説では娼婦がそうであるなどと言われているが、兎に角、昔からある仕事である事は変わらない。
一方で、こういう話もある。最近では時代遅れの仕事だと。
「危険が大きいうえに、かつてはあった実入りも、シルフェニア国内においては大半の場所が公的に調査済みだ。地面を掘ればお宝がザクザクというのもおとぎ話でしか無いしな。危険な獣の討伐にしたところで国軍や都市警察が満遍なく行える様になって久しい。文明の発展は、太古から続く伝統の仕事を無くそうとしているわけだ」
「そんな事、私の方が良く良く知っている事だけれど……」
「そうだな。ここで重要なのは、君がそんな仕事である事を理解しながら、続けて来た事だ。利が少ない仕事で、それ以外に仕事が無いというわけでも無さそうだ。となるとつまり、どうしようも無い生来の性から来ていると予想出来るわけだが……」
尋ねてみるディンスレイであるが、彼女は嫌そうな視線を向けて来た。少々、相手の事を探り過ぎたかもしれない。
「まだ契約書は渡していないと思うけど、そういう風に相手を値踏みしてると、いらない反感を買って、紙を千切られてしまうかもしれないわよ?」
「良い紙を使っているんだ。勿体ないから止めて欲しいと思うが、そうだな。今のは私が失礼だった。謝ろう。ただ、君の性について予想したのは、こちらの事を明かす目的もあったんだ」
首を傾げて来るミニセルに対して、ディンスレイの方はさっさと話を進める。そろそろ、このベンチから立ち上がらなければならない時間だ。
「私の方も、そういうどうしようも無い性を持っている。未だ、人が知らぬ世界がそこにあると知った時、私は居ても立ってもいられなくなったのだ。どんな努力を、どれだけの金銭を捧げても、そこに挑みたいと考える様になった。君も、そうであって欲しいところだが……」
「……ま、とりあえず、仕事を受けても良いと思える理解者には出会えたって事で良いのかしらね」
ディンスレイの言葉に、ミニセルはそう答えながら立ち上がり、ポケットに収めていた契約書を渡して来る。
ディンスレイがこれから乗り込む飛空船の操舵士となる事を了承した旨の契約書だが、実はあまり意味も無いものだったのかもしれない。
(今、交わした言葉の方が重要だろうさ。本当に重要な契約というのはそういうものだ)
お互いの性を、これから行う仕事の目的を疎通し合う事。今後はそれが、何より大切になって来るはずだ。ディンスレイはただそれだけを覚悟していた。