御命切符
とある夏の日、ある言葉がSNS上で話題になった。
「御命切符」
きっかけはひとつの投稿だった。
掌に載った白い切符。
そこには今日の日付が印字されていて、その写真と共にこんな言葉が添えられていた。
『どうしよう。友達に「御命切符」を渡された。今日が終わるまでに誰かに渡さないと「お迎え」が来てしまう……』
この投稿は多くの人に拡散される。
「御命切符」とは一体何なのか?
「お迎え」ってどういうこと?
投稿は続いた。
『お願いです。僕の代わりにこの切符をもらってくれませんか。誰か助けてください』
訳の分からない切符を欲しがる人など誰もいない。
意味が分からない。
もらった友達に返せよ。
批判するコメントが多く並ぶ中、24時が近付くにつれて投稿者の焦りは強くなる。
『嫌だ。まだ死にたくない。誰か。ここに。僕はここにいる。誰か』
書かれる住所。
面白がった人がその住所を検索し、そこにあるアパートの写真が貼り付けられる。
本当の住所?
だとしたら頭おかしいな。
23時59分。
男性はこんな投稿をする。
『汽笛が聞こえる』
その投稿を最後に男性は沈黙する。
自作自演の悪質な投稿。
誰もがそう思ったが、翌日、アパートを訪れた者から報告があった。
『なあ、あの住所に住んでいた人、死んだらしいぞ』
SNS上は騒然となる。
本当に死んだのか?
「御命切符」のせいで?
それからそれに関する投稿が相次ぐようになる。
『どうしよう、噂の「御命切符」もらっちゃった』
言葉と共にあげられる写真。
友達、恋人、親。
大切な人から押しつけられた人。
学校の下駄箱やロッカー。鞄の中や家のポスト。
いつの間にか入れられていた人。
小さな切符はたやすく入れることが出来た。
不信感は広がっていく。
そして、問題はもうひとつ。
「御命切符」には多くの「偽物」が混ざっていた。
白い紙にただ日付が印字されているそれはとても作りやすかった。
もらった者は印字された日付が終わるまで怯えて過ごし、24時が来たときにそれが偽物であることを知る。
本物をもらってしまった者は皆、最期にこんな言葉を残している。
『汽笛が聞こえる』と。
人はきっと自分の身に起こるまでどんな出来事も他人事として見てしまう。
僕だってそうだった。
「御命切符」の噂は知っていた。でも、何処か他人事として見ていた。
あの日が来るまでは。
僕の同棲している彼女はバカが付くお人好しだ。
様々な人にだまされてはそれでもへらへらと笑っている。
そんな彼女が夜、落ち込んだ様子で帰ってきた。
また誰かにだまされたのだろう。さて、話を聞こうと思った僕の前に彼女はへらっと笑って差しだした。
「もらっちゃった」
白い紙に今日の日付が印字されている切符。
僕は言葉を失った。
御命切符。
「……それって」
掠れた声でやっと言葉を口にする。彼女はリビングの机の上にそれを置いて、スーパーの袋片手に台所に向かった。
「ご飯、すぐに作っちゃうね。パスタでいいかな?」
「……うん」
返事をしながら僕は机の上の切符を手に取った。
コピー用紙のような手触り。表に日付が印字されているだけで裏には何も書いていない。
誰かが作ったと言われれば納得出来る。
本物? 偽物?
見た目だけでは何も分からない。
僕はリビングの壁掛け時計を見る。
今、20時30分。
今日が終わるまで、あと3時間30分。
台所に立つ彼女の元に向かう。
お湯をわかす鍋の横でフライパンでミートソースを作っている。
こちらに背中を向ける彼女に話し掛ける。
「あの切符、誰にもらったの?」
彼女はこちらを向かないまま明るい声で答える。
「友達。怖くて泣いてたから私がもらってきちゃった」
「何でそんなのもらってくるの」
「きっと偽物だよ、大丈夫」
「本物だったらどうするの?」
「大丈夫だよ、心配性だな、君は」
大丈夫。彼女がそう言う時は大体大丈夫じゃない。
僕は「分かった」と離れるとリビングに戻った。
机の上の御命切符。
かおるミートソースの美味しそうなにおい。
好物のにおいをかぎながら僕は頭をフル回転させた。
出来上がったミートスパゲティを食べながら僕たちはいつも通り話をした。
僕達は同じような感覚を持った二人だった。
僕が綺麗だと思うものは彼女も綺麗だと思ってくれたし、僕が好きだと思うものは彼女も好きだった。反対に汚いと思うものも嫌いだと思うものもいっしょだった。
例えば綺麗な夕焼けを見たとして、「今日、綺麗な夕焼けを見たんだよ」と彼女に伝えたとする。
僕が見たものと全く同じ景色じゃない。でも、きっと空の色や照らされる街の雰囲気や。僕が見たものと同じような景色を彼女は想像してくれる。
そう信じることが出来る人だった。
だから、僕は彼女と話をするのがとても好きだった。
今日も互いの日常を語り合って、互いの景色を共有した。
ただ、今日の彼女は時々、意識がどこかにいっていた。
リビングの壁掛け時計をちらちらと見て、やけに時間を気にしている。
その度に僕も時計を見て、刻一刻と今日が終わっていくのを感じていた。
「ここ片付けておくから。お風呂、入ってきなよ」
ご飯を食べ終わってそう言うと、彼女は「うん」と言って立ち上がった。
僕はその姿を見送ってから机の上の御命切符を見た。
さて、と。
時計は22時を指していた。
それから、僕もお風呂に入って、寝間着姿でまた彼女と話をした。
どちらからともなくTVを消して相手の声をよく聞こえるようにした。
壁掛け時計の秒針が響く。一回りする度に一分進んで、終わりが近付く。
23時から1分2分3分と進んで、長い針は「11」のところを指し始める。
二人の瞳がそれを捉えて会話が止む。
僕が机の上の御命切符を取ろうとすると彼女が奪うようにそれを掴む。
胸の前でぎゅっと握って横に首を振る。
僕は彼女をじっと見る。
1分、2分、3分……
23時59分。
部屋の中に汽笛の音が響き渡る。
彼女の肩がびくりと揺れる。
僕は思う。
ああ、そうか、本物だったのか。
「お迎えにあがりました」
身体に響く低い声がして振り返るとそこには車掌の格好をした黒い物体がいた。
彼女はひとつ唾を飲むと覚悟を決めたように震えながら手の中の切符を差し出す。
「はい……」
車掌は切符を受け取ると確認する。
そして、
「おや?」
車掌は不思議そうに傾く。
「どうしましたか?」
彼女が戸惑いながら訊ねると車掌は言った。
「こちらの切符は偽物のようですね。これでは汽車に乗ることは出来ません」
「え」
動揺する彼女。
僕は寝間着のポケットから取り出す。
「切符ならここにありますよ」
「おや、そちらでしたか。失礼致しました」
車掌は僕から切符を受け取る。
「はい、確かに。では、行きましょうか」
彼女は訳が分からない様子で僕を見る。
「ちょっと待って。どう言うこと?」
僕は言う。
「だまされたね。君が持っているのは僕が作った偽物だよ。君がお風呂に入っている時に作ったんだ」
「なんで、そんなこと……」
傷つく彼女に僕は笑う。
「君が僕の大切な人だからだよ」
車掌が僕の手を引くと魂が抜ける感覚がした。これが「お迎え」か。
彼女の姿が遠くなっていく。
僕は彼女の泣き顔を刻みつけた。
汽車に乗った僕は向かい合わせの椅子に案内された。
座り心地の良いビロードの椅子。
汽車の窓からは星空が見える。
綺麗だなあ。
ぼんやりと眺めていると向かいの席に入れ替わりに様々な人が座った。
怒っている人。泣いている人。絶望している人。
誰かに裏切られたと悲しんでいる人が多くいた。
御命切符を押しつけられた人たちだった。
僕はその人たちの話を聞いた。
「あなたは?」と訊かれると「僕は自分の意思でもらったんです」と答えた。
相手はいつも驚いた顔をしていた。
汽車は何度も駅に止まった。
向かいの人達は諦めたように降りて行った。
僕は何だか降りる気にならなくて、いくつもの駅を見送った。
横を通り過ぎる車掌に訊いてみた。
「僕はいつまでここに座っていてもいいんでしょうか」
車掌は答えた。
「あなたの気が済むまで」
僕は気が済むまで座っていることにした。
それから何人もの人が僕の向かいに座って、話をして、駅に着くと降りて行った。
ある日、「ここ、いいですか?」と一人のおばあさんに声を掛けられた。
綺麗に化粧をした上品なおばあさん。
「どうぞ」
そう言いながら僕は何だか悲しい気持ちになった。
こんな人も御命切符を押しつけられたんだろうか。
おばあさんは僕の前に座るとじっと僕の顔を見た。
「何か?」
訊ねるとおばあさんはへらっと笑った。
「やっぱり気付かないか。私、歳とり過ぎちゃったからなあ」
驚いた。その笑顔に見覚えがあった。
「どうして? だまされたの?」
そんな歳になっても?
訊ねると彼女は横に首を振った。
「だまされたのは君が最後だよ。私はやっと御命切符を見つけたの。君に会いたくて」
「僕に会いたくて?」
彼女は苦笑する。
「でも、君は全然歳をとっていないんだね。せいいっぱい綺麗にして会いに来たんだけど、こんなおばあちゃんじゃだめだよね」
僕は言葉を受け取った後、当たり前のように微笑む。
「どうして? 君は僕の大切な人だよ」
彼女は一瞬息をのむと泣きそうな顔になった。
「話したいことがたくさんあるの。聞いてくれる?」
「僕も君に話したいことがたくさんあるんだ。知ってた? 僕はね、君と話をするのがとても好きなんだよ」
彼女は目を細めて涙をこぼした。
「知ってた? 私も君と話をするのがとても好きなのよ」
そろそろまた次の駅に着くだろう。
まだ汽車から降りるのは先になりそうだけど、互いの知らない時間を話し終わったら降りようと思う。
二人で。彼女と一緒に。




