即死スイッチ(4)
驚愕の表情を浮かべる撫で男に僕は再度拳を打ち出した。
先ほどまで全く防御を行わなかったはずなのに、僕の無慈悲な攻撃を受けた撫で男は慌ててそれを避けようとする。
死ぬ一歩直前にまで追い詰められていた僕だったが、もはや形勢は逆転していた。
撫で男の腕を弾き飛ばし、彼の胸部を殴りつける。肉に骨がめり込む感触がして、撫で男の表情が苦悶に変わった。
何故だろう。拳を放つたびに、撫で男の顔が腫れていくたびに、僕は言いようのない悲しみと恐怖を感じていた。暴力という激しい接触行為に慣れていなかったせいかもしれない。自分自身でもショックを受けてしまっていたのだ。
「いい加減諦めて下さい。もうあんたの負けです」
撫で男をぼこすか殴りながらそう叫ぶ。しかし撫で男は全く諦める事なく果敢に僕に向かってきた。
恐らく僕が殴るという行為に嫌悪感を抱いていることに勘づいたのだろう。僕の台詞を耳にした撫で男は、敢えて防御を捨て拳をくらった。凄く痛そうに顔を歪めてみせる。
そのあまりのオーバーリアクションに思わず手の動きが鈍る。すかさず撫で男は伸ばしたの僕の腕の下を掻い潜り、脇を撫でようと手を伸ばした。
駄目だ。殴り続けても撫で男は止まりそうにない。それどころかあの痛そうな顔を見るとどうしてもこちらの動きが鈍ってしまう。
ただひたすら撫で男を殴り続ければ、すぐに決着はつくはずだった。だが生まれて初めて人を殴り、その感触を知った僕にとって、その行為は心底恐ろしいものだった。
しばらくの間、公園の端っこでお互い涙を流しながら腕の応酬を続けていたが、次第に見るも無残な顔になっていく撫で男の姿に、僕はとうとう我慢ができなくなってしまった。
出しかけていた腕があからさまにゆっくりになる。その隙を虎視眈々と狙っていた撫で男は、今がチャンスとばかりに素早い一打を僕の胸部に差し込んだ。あっと思った時には既に遅く、見事に鳩尾の位置を押下されてしまっていた。
今度こそ死ぬか……!?
僕はそう覚悟したのだが、一呼吸置いても体に違和感は生じない。幸運なことに鳩尾も安全圏のようだった。
「ねばりますね……!」
腫れまくった顔で顎をしゃくれさせる撫で男。そんな状態になってまでなお攻撃の手を休めないとは、もはや感服に値する根性だった。
このまま殴り続けてもきっと撫で男が諦めることはないだろう。そればかりか殴る僕自身が動揺してしまって隙が生まれやすくなってしまう。仕方がなく僕は殴るのを止めることにした。
撫で男は僕の殴打が止まったことにほっとしたのか、ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返している。
恐ろしい執念だ。
この男を止めるには、やはり即死点を押下するしか方法がないのかもしれない。
もはや言葉を交わす気力も無くなりつつある。
僕はどうにかして撫で男の即死点を特定しようと、疲れた頭を頑張って回転させた。
先ほど僕は、撫で男の顔や上半身を触り続けていたが、彼はびくりともしなかった。恐らく撫で男の上半身には即死点が無いのかもしれない。可能性が高いのは下半身のどこかだ。足かおケツかお腹か。どこにしろ即死点の候補が残り脇しか残されていない僕は、かなり不利な状況に立たされていると言えた。
……諦めるな。彼は今までひと撫でで他人の即死点を押下してきた。撫で男にとってもここまでの長期戦は想定外だったはずだ。
両脇を守りながら撫で男の下半身を撫でるのは至難の技だ。上半身とは違い腕をより伸ばさなければならないし、その間脇はがら空きとなってしまう。
僕は悩んだ末に片手を犠牲にすることにした。左脇を強く締め、そのまま左手で右の脇を守ったのだ。これなら手数は減るものの、自身の即死点を守ったまま攻撃に転じることができる。
僕の構えを見た撫で男は、眉を強く眉間に寄せ、同時に目に炎を灯した。
僕にはもはや後がない。これが最後の攻防になるであろうことは、お互いわかっていた。
空き缶が風に吹かれ、ころころと公園の中を転がっていく。
既に周囲は真っ暗になっていた。
どうしてだろう。僕は無性に田中さんの顔を見たくなった。今なら自分の気持ちを素直に伝えられるような気がしていた。
撫で男は前傾姿勢になると、左右の足を交互に前に出したり引っ込めたりする謎のステップを刻みだした。僕の考えに気が付いているようだった。
道路を走る車のハイビームが自販機を照らし、一瞬周囲が明るくなる。刹那、僕は唯一の武器である右手を撫で男の足めがけて伸ばした。
渾身の一撃だったのだが、撫で男はそれを難なく掴み取り自分の脇の下に挟み込んだ。腕を固定された僕は、攻撃の手段が何ひとつ無くなってしまった。
左手を右脇からどかすわけにはいかない。マウントポジションを取ったとばかりに撫で男は苛烈な猛攻を開始した。
何とかして僕の脇に手を侵入させようと、僕の首元やわき腹をくすぐり隙間を生み出させようとする。僕は目を見開き、歯茎をむき出しにし、喜びなのか苦痛なのか判断のつかない複雑な表情を浮かべた。
僕の人生上類を見ないほどの超絶な刺激であったが、どれだけ撫で男の攻撃を受けても脇が開くことはなかった。それどころかより固く体は丸まっていく。
くすぐりが逆効果だと気が付いた撫で男は、今度は強引に両手で僕の左腕を右脇から引き剥がそうとした。腕一本に対して二本で挑まれれば、流石に力負けしてしまう。徐々に脇はゆるみ、隙間が生まれていった。
撫で男は僕の左腕も自身の左脇で挟み込むと、僕の両脇めがけて人差し指を伸ばし近づけようとした。あの二本の指が脇に刺されば今度こそ僕は死ぬ。もう僕の即死点候補は両脇しか残っていないのだから。
田中さん……!
雄たけびを上げて撫で男の足を足で押しまくる。偶発的に即死点に当たってくれと祈った。
「あなたはよく頑張りました。でも、ここまでです」
ずいっと体を前に押し出し距離を詰める撫で男。一気に両指が僕の脇の下に到達した。
――前島や。負けたと思わない限り、負けじゃないんやでぇ。
恩師の言葉が蘇る。
僕は脇を突かれる寸前となってなお足を振り上げた。
「うっ……!」
膝が撫で男の股間に当たる。男の急所を打たれた撫で男は、苦悶の表情を浮かべた。僕と撫で男はお互いの足をもつれさせながらそのまま横に倒れ込む。激しく地面にぶつかったせいで土煙が上がり、視界が茶色く染まった。
目の前に雑草に塗れた茶色い土が現れ、視界の半分を覆いつくした。
顎と肩に鈍い痛みが走る。倒れた時に打ち付けてしまったようだった。
――どうなった? 僕は生きているのか? 即死点は押されなかった?
一瞬のことだったため自分の脇が押されたかどうかはわからなかった。今すぐにでも悪寒が全身に走るのではないかと恐怖する。
正面に倒れている撫で男に目を向けると、彼は信じられないものを目にしたような表情を浮かべていた。
「馬鹿な……ありえない……」
彼の視線の先には僕の脇に向けられていた。僕は倒れた姿勢のまま自分の脇を見下ろすと、伸ばされた二本の指が、鋭い槍のように僕の脇を突いていた。感じる圧力からして、間違いなく即死点が反応するレベルでの突きを受けているようだった。
脇を突かれている。
僕は唖然とした。これで最後の即死点候補を穿たれてしまった。もはや死は確定したも同然だ。「ふぅんっ」くすぐったさに小さく吹き出しながら頭が真っ白になったのだが、いくら待っても異変は生じなかった。信じられないことだが、どうやら両脇も即死点ではなかったらしい。
撫で男に会う前までは、僕の即死点候補は背中と鳩尾、両脇の四か所に絞り込められていた。だがその全てが押下されてしまった今、一体どこに即死点があるのか自分でもわからなくなってしまった。
「まさかそんな高等テクニックを……即死点を誤認させるとは」
何かをぶつぶつと呟きながら撫で男が地面に手をつく。先に立たれれば不利になってしまう。僕もすかさず立ち上がった。
疲労と倒れた痛みで体がふらふらと揺れる。撫で男はそれをチャンスとばかりに縦横無尽に僕の身体を撫でまくった。
もはやどこを守ればいいのかわからなくなっていた僕は、撫で男の攻撃に対処しきることができなかった。あっと言う間にありとあらゆる部位を撫で男の手で愛撫される。
だが不思議なことに、撫でられれば撫でられるほど撫で男の表情が曇っていった。
「ど、どういうことだ。も、もう触っていない箇所はないぞ。あなた何をしたんですか」
何をしたと言われても、特に何もしていない。
どうやら僕自身が己の即死点を見失ったことで、撫で男も僕の即死点の場所がわからなくなってしまったようだった。
こうなればこの状況を生かすしかない。リスクは高いが、どのみち死ぬか生きるかの争いなのだ。即死点の候補を全て触られた以上、今さら怖いものなど何一つなかった。
僕は防御を捨て撫で男の全身を撫でる事だけに意識を集中させた。これまでの彼の腕の動きを真似るように、頭からふくらはぎとありとあらゆる肉体をお触りしていく。
撫で男も負けじと僕の身体を撫でまくったが、どこをどう触っても僕が平然としているため、酷く困惑しているようだった。
だがそれは僕も同じだった。上半身、下半身のほとんどの部分を優しく撫でたにもかかわらず、撫で男は平然と立っていた。普通は即死点を押さない方が難しいのに、ここまでまさぐってお互いに死なないとは信じられないとしか言いようがない。
撫で男は相手の動きから無意識に守っている即死点の候補を読み取っていると話していた。彼の目的が即死点の無い人間を探すことであるのなら、彼自身には必ず即死点が存在するはず。よく見るんだ。撫で男が守ろうとしている場所を。彼が無意識に庇っている場所を。
足を前に踏み込んだ時、僕は撫で男が僅かに内股になったのに気が付いた。最初は先ほど股間を蹴られたことがトラウマになっているのかとも思ったが、それにしては痛がっている素振りが見えなかった。
――……そういえば、僕は撫で男の股間を触ってはいなかった。無意識のうちにその部位に触れるのを拒否していた。
股間は男性にとって共通の弱点だ。触れれば守ろうとしてしまうのは当然の反応ではあるが、もしそこに即死点があれば、股間を守ろうとする男性特有の動きでごまかすことも可能なのではないか。
これまで隙のまったくなかった撫で男が、股間に腕が近づく時だけ妙に緊張の色を見せている。あれは、そこに即死点があり、先ほど僕の足がかすったことで、恐怖を覚えたからだと考えれば、納得がいく。
僕は試しに撫で男の股間に嫌々ながら手を伸ばした。その瞬間、撫で男は強い力で僕の手を払った。先ほどまでいくら全身を撫でられようとまったく意に介していなかったにも関わらずだ。
撫で男と目が合う。彼の顔には「しまった」という感情がありありと浮かんでいた。
そうか。股間か。先ほど足で股間の前部は蹴っていたから、可能性があるとすればその裏側だろうか。確かにそんな場所、いくら即死点の探し合いだろうと中々触ろうとは思えないだろう。
ここまでくれば恥じらいも尊厳も何もない。僕は集中的に彼の股間に手を伸ばした。
撫で男は全力で股間を守ろうとしたが、必死になりすぎるあまりこれまでの優雅な動きが完全に影を潜めてしまっていた。
逆に撫で男とのこれまでの攻防でその動きを覚えつつあった僕は、巧みにフェイントを織り交ぜ彼の股間を急襲し続けた。手を払いきることが不可能だと考えたのか撫で男は切羽詰まった表情で両手で股間を包み込む。僕は待ってましたとばかりに足で彼の股間を蹴り上げようとした。
弾き飛ばされる撫で男の手。股間自体は無事のようだったが、その瞬間、撫で男の顔に初めて恐怖の色が浮かんだ。
間違いない。あの周辺が即死点だ。今のは外れたみたいだけど、このまま攻め続ければ――。
もはや勝利は目の前だった。再度彼の股間を蹴り上げようと足を後ろに下げたところで、
「ま、待ちなさい!」
撫で男が声を上げた。
僕は足を止め撫で男を見下ろした。
「わ、私の負けです……。もう勝てる気がしない」
内股で股間を必死に隠しながら震えた声を絞り出す撫で男。
僕は試しにフェイントで足を素早く上げてみたが、撫で男は悲鳴を上げ後ろに仰け反った。どうやら本当に勝負を諦めたようだった。
勝った。勝ったのか。僕が、あの連続殺人鬼――撫で男に……。
生き延びるために必死に戦った。そのために足掻いた。でもまさか本当に自分が撫で男に勝てるとは思ってもいなかった。これでまた田中さんの笑顔を見る事ができる。そう考えると胸が熱くなった。
「警察に連絡します。……逃げないで下さいね」
そう言うと、撫で男は小さく頷いた。
僕は自分の全身を見回した。撫で男との撫で合いのせいで、スーツのあちこちがほつれぼろぼろになっている。千切れてはいないものの、これでは買い替える必要がありそうだった。
地面の上には複数の足跡と千切れた撫で男のスーツの切れ端が散乱している。どれほど壮絶な争いであったのか、その光景が物語っていた。
「あなたは……――」
ぼそりと撫で男が何かを呟いた。
「え、何て?」
「あなたには、即死点が無いのかもしれない。もしかしたら……」
どこか神々しいものに相対したような目で、撫で男はこちらを見上げた。
「そんなことはありえませんよ。……気が付いていないだけで、安全圏だと思ってるどこかにあるはずです」
生物であれば、誰だろうと必ず即死点は存在する。僕は撫で男の言葉を信じる気にはなれなかった。
「いや間違いない。あなたに即死点はありません。私は全てを触った。あなたの身体を撫でた。短い間でしたが、私は恐らくあなた以上にあなたの身体を理解している。あなたの身体からは即死点の気配が全く感じられなかった」
負けたにも関わらず、撫で男の瞳にはキラキラとした輝きが生じつつあった。
「やはり……私の仮説は間違ってはいなかったんです。あなたには即死点がない。この世の中には即死点を持たない人間も存在したんだ」
撫で男は即死点の存在しない人間をずっと探していると話していた。そのために殺人を繰り返してきたのだと。
警察への連絡を終えた僕は、端末をポケットにしまうと、改めて自分の全身を見渡してみた。確かに即死点の候補だった背中や鳩尾、脇だけではなく、彼の即死点である股間裏も含め、頭頂部から足先までの全ての皮膚を僕は触られていた気がする。目に見える範囲では、もはや即死点の候補が存在できる場所はどこにもなさそうだった。
まさか……本当に僕には即死点が無いなんてことは、ないよな。
あの撫で男に確固たる自信をもってそう言われると、自分でも本当に即死点があるのかと疑問に思ってしまう。そんなわけがないと頭では理解しているはずなのに。
もし本当に即死点がなければ、僕は他人との接触も日常生活の制限も何一つ気にする必要は無くなる。いやそれどころか、一躍有名人になって、遊んで暮らせるかもしれない。
想像すると妙に欲が出てきた。信じてはいないはずなのに、何故か胸が高ぶってくる。
撫で男は乙女のような表情で僕を見上げた。
「あの……あなたの身体を調べさせてはもらえませんかな。もしあなたに即死点が無ければ、あなたの体の秘密から人類の即死点を無くすことだって叶うかもしれないんです」
「ちょっ、近づかないで」
僕は撫で男から数歩離れ、
「申し訳ないですけど、あんたは犯罪者なんです。おとなしく牢屋で刑期を過ごして下さい」
「なら、せめて知り合いの医者に紹介させて下さい。著名な研究者がいるんです。あなただって、どこかに即死点があるかもしれないままじゃ、怖いでしょう」
「医者にかかるとしても、それなら自分で探しますよ。あなたの知り合いなら何をされるかわかったもんじゃないですもの」
そう言うと、撫で男はショックを受けたようだった。「何故なんだ?」という表情でこちらを見返す。
「……まあ、ちゃんとした医者に診て頂けるのでしたらどこでも構いません。お願いします。約束ですよ」
イエスと言わない限り永遠に話を終わらせそうにはない。仕方がなく僕は了承することにした。
「わかりました。僕も自分の即死点候補が無いのは不安ですし、医者にはいきますよ」
僕の返答を聞いた撫で男はほっとしたように胸を撫で下ろした。
「よかった。あなたは人類にとって大変貴重な存在なのです。世界で唯一の希望と言ってもいい。あなたの秘密が解明されれば、きっと私のしてきたこともいずれ世間に認められるはずなんです」
撫で男はいかに自分の目的が崇高なものか、僕が特別な存在なのか力説し始めた。ここまで追い詰められてなお自分の行動に罪は無いと本気で信じているようだった。
何だか段々彼のことが気の毒に思ってきた僕は、仕方がなく話に付き合ってあげた。もちろん、話の中身については全く聞いていなかった。
しばらくして、一台のパトカーが魚谷公園の前に停車した。中から姿を見せた警官が、公園の奥にたたずんでいる僕と撫で男の姿を見て近寄ってくる。
両手が安全圏であることを確認された後、半裸の撫で男は問答無用で手錠をかけられた。だがパトカーに乗せられていく彼の姿は最後まで笑顔だった。何かが吹っ切れたような、心からの幸せに満ちているようだった。
警察からの事情聴取を終えアパートに着くと、妙に懐かしさを覚えた。
朝家を出てから十時間ほどしか経っていないはずなのに、まるで一年は家を離れていたかのような気分だった。
階段に足を乗せると、金属の擦れる音がして僅かにきしんだ。その音を聞いて何故かほっとした気持ちになる。
帰ってきた。やっと家に帰れたんだ。
顔を上げると、田中さんの部屋から光が漏れていた。夕方電話で聞いた通り無事に家に帰れたらしい。
田中さん……。
あの電話を受けてから色々あった。
数時間程度の出来事だったはずなのに、一生分のスリルと奇妙な出来事を味わったような気がする。何度身の危険を感じたことか。何度死を覚悟したことか。その度に僕は田中さんの笑顔を思いだし、踏みとどまった。
彼女からすれば、ただ背後の歩行者が気になって僕に電話をしただけのつもりだったのだろう。僕が電車内で暴れまわったことも、撫で男と死闘を繰り広げたことも、全く知る由はない話だ。
だが僕は確かに彼女に救われた。彼女への思いが僕を突き動かした。
ゆっくりと、彼女の部屋のチャイムを押す。しばらくして金属の噛み合う音がなり、扉が開いた。
「田中さん」
僕は満面の笑顔を浮かべたのだが、視界の中に彼女の姿は無かった。
「お! おっちゃん」
足元から高い声が聞こえる。視線を下ろすと、扉のノブに掴みかかった隆司がこちらを見上げていた。
「どうしたの変な顔して」
少しだけにやつく隆司。彼は僕を見ると何故かいつもこのように馬鹿にしたような笑みを浮かべることが多かった。僕はそれで隆司に対して親しみを抱けずにいたのだが、撫で男との争いを得て迷いが吹っ切れていた僕は、珍しく穏やかな気持ちで白い歯を見せた。
「隆司くん。お姉さんは?」
「夜ごはんの片づけしてるよ。今日は焼きそばだったんだ」
自慢げに隆司は胸を張った。
「おっちゃん。どうしたの? 服が泥だらけだよ」
「悪い人と戦ってきたんだよ」
僕は意味深な笑みを浮かべて答えた。
「嘘だあ」
「嘘じゃないって。本当だよ」
「絶対嘘だよ。おっちゃん弱そうだもん」
「お兄さんは本当は強かったんだ。明日のニュースを見てみな。お兄さんが悪い人を捕まえったって報道されると思うから」
「悪い人って?」
「半裸のおじさんだよ。怖いことだから詳しくは言えないけど」
「何それ」
隆司は何故か盛大に声を上げて笑った。
「隆司、誰と話してるの?」
蛇口の音が止まり、田中さんの声が聞こえる。どうやら水の流れる音でチャイムが聞こえていなかったようだった。
「隣のおっちゃん」
隆司は部屋の奥を振り返り、笑顔でそう叫んだ。
「前島さん?」
食器を置く音が鳴り、田中さんが顔を覗かせる。彼女の姿を目にした途端、僕は心臓が跳ね馬のように高鳴った。
「あ、田中さん。こんばんは」
いつも挨拶をしているはずなのに、妙に緊張してしまう。告白しようと決意したからだろう。まさかこの年になって中学生のように顔を赤くしてしまうとは、我ながら驚きだ。
田中さんは手に残っていた水滴をエプロンの裾で拭うと、ぎょっとしたように僕を見返した。
「どうしたんですか。その恰好。泥だらけじゃないですか」
やはり兄弟か。態度は天と地ほども違うが、隆司と似たような反応をする。
「ちょっと事件に巻き込まれてしまいまして」
「事件?」
「ええ。帰宅中に不審者に襲われたんです。どうやら最近話題の撫で男だったみたいです」
「え」
驚いた声を上げる田中さん。彼女の麗美なまぶたが大きく見開かれた。
「大丈夫なんですか? 犯人は……?」
「幸いにも、通りかかった警察が助けてくれまして。何とか犯人は捕まりました」
僕には即死点が無いかもしれないなどといきなり言ったところで、頭がおかしい人間だと思われるだけだろう。僕は無難に言葉をまとめた。
ズボンに違和感。何故か隆司が僕の太ももを撫でていた。付着していた泥が気になっているようだ。別に強く押しているわけではないから即死点があったとしても押下する危険はないのだが、僕でなければ激怒してもおかしくはない行動だろう。
田中さんは撫で男の話のショックで隆司の行動に気が付いていない。雰囲気を壊したくなくて、僕はそのまま隆司を放置することにした。どの道、この程度のお触りでは僕を殺すことなど到底不可能だ。
「あ、捕まったんですね。良かった」
田中さんは安堵したように表情を緩めた。
そのまますぐに思いついたように、
「どこで襲われたんですか? この近く?」
「魚谷公園の中です。喉が渇いてたので、ベンチで缶ジュースを飲んでいたら急に背中を撫でられてびっくりしました」
「ええ、それは怖い。……よく即死点を守り切れましたね」
「運が良かったみたいです。僕も何度も死ぬかと思いましたよ」
これは本当のことだ。僕は苦労を振り返る様に額の汗をぬぐった。
「最近この近辺で事件を起こしていたみたいですから、気を付けてはいたんですが、まさか僕が実際にこんな目に遭うなんて思ってもみなかったです。田中さんも無事でよかった。電話が切れた時、僕はてっきり撫で男の被害に遭ったんじゃないかって心配してしまって」
「あ、あの電話は本当にご迷惑をおかけしました。私昔からちょっと怖いことがあるとすぐに不安になっちゃうんです。前島さんだって予定があったかもしれなかったのに。……もしかして私を探しに公園に行ったんですか」
田中さんは僕が襲われた理由について考えが及んだらしい。はっとしたようにまずそうな顔をした。
「いえ、公園に行ったのは喉が渇いてたからです。いつもあそこで飲むのが習慣なんですよ。それで撫で男の目にとまったのかもしれません。……まあ過ぎたことなので、今さらどうでもいいですよ」
僕は別に田中さんを困らせたかったわけではないので、早々にその話を切り上げた。彼女はまだ迷っているように僕を見返していたので、安心させるように笑みを浮かべる。
僕の表情を見た田中さんは、申し訳なさそうにうつむいた。
そんな彼女の仕草を見て、僕はいよいよ本題に入るべきだと考えた。
ここだ。ここで言うしかない。僕の気持ちを今ここで田中さんに伝えるんだ。
息を大きく住み込み、口に力を籠める。僕は田中さんをまっすぐに見つめた。
「……田中さん。僕は撫で男との争いの中で、あることに気が付きました」
「あること?」
「ええ。突然撫で男に襲われた時、僕はパニックに陥っておりました。撫で男の手が僕の肌を何度も強く撫でていくたびに、僕は死を覚悟しました。これで死んでしまう。僕の人生は終わりだと、でもそのたびに――……」
おかしい。田中さんが不気味なものを見るような視線を向けてくる。別に変なことは言っていないはずなのに。
まさか。鼻毛でも飛び出していたのか。それはまずい。
僕はとっさに玄関の鏡を見た。すると鼻毛は飛び出してはいなかったものの、何故か顎が盛大にしゃくれていた。どうやら緊張すると顎をしゃくれさせるという撫で男の癖が移ってしまっていたようだった。
くそ。あの強烈な顔を見過ぎたのか。僕は慌てて表情を作り直し、言葉を続ける。
「……――死を覚悟したたびに、僕は――、田中さんの顔を思い出しました。あなたの笑顔が脳裏に蘇り、僕に力を与えてくれたのです。田中さん。そこで僕は改めて気が付きました。僕はあなたが好きだ。ただ挨拶をするだけの関係でしかなかったけれど、そのひと時が僕を元気づけてくれたんです。もし嫌じゃなければ、僕と付き合って頂いても宜しいでしょうか」
まくし立てるように言った。
田中さんは目をまん丸に見開いた後、困ったように表情を曇らせる。どう返答すべきか、悩んでいるようだった。
イエスと答えてくれるかどうかはわからない。でも僕に対して悪い感情は持っていないはずだ。僕のことが嫌いであれば、不審者を見かけたときにわざわざ電話を掛けてくることなんてありえないのだから。
どくん、どくんと、心臓の鼓動が強く意識の上に浮かび上がる。僕は期待を胸に込めて田中さんの回答を待ち望んだ。
田中さんの唇がゆっくりと開き始める。答えが決まったようだ。自然と僕の鼓動も早くなった。
緊張し過ぎたせいだろうか。僅かに呼吸が苦しくなる。全身にびっしりと汗をかき、痺れのようなものまで感じ始めていた。
僕は震えを我慢して田中さんの麗美な顔を見つめ続けた。
「前島さん。お気持ちは大変嬉しいです。私は……――」
そこで田中さんが急に目を見開いた。
「隆司、何してるの?」
先ほどから感じていた痺れがより一層強くなり、全身を駆け巡る。何か妙だ。思わず振り返ると、隆司の両指がカンチョウをするように僕のお尻に突き刺さっていた。
「ウンチみたいな泥がとれなくて」
隆司は無邪気な笑顔で舌を出す。その刹那、僕は強烈な寒気と眩暈を覚えた。
「前島さん!?」
田中さんが素っ頓狂な声を上げ僕を見下ろす。どうやら僕は倒れてしまったようだった。
そういえば聞いたことがある。へそ穴や耳穴など、明確な表皮の一点でなくその部位が即死点となる特殊な事例があると。まさか肛門が僕の即死点だったのか。
―― お前も座れるからってあんまりケツに負荷を強いるなよ。実はケツのある一点が即死点だったなんて可能性も無いことは無いんだからな。
ふいに今朝の山田の言葉が脳裏をよぎった。
「前島さん! 前島さん。ああっ、なんてこと……!」
田中さんが顔を青くして僕の身体を揺さぶっている。恐怖からか泣きそうになっていた。
まさか撫で男にすら穿つことのできなかった僕の即死点を、こんな子供に押下されるとは。日頃から感じていた敵対心は間違いではなかった。
隆司は事態が飲み込めていないようだったが、何かまずいことをしてしまったことはわかるのだろう。驚いた表情で心配そうに僕を見下ろしていた。
視界が徐々に暗くなっていく。
せっかく英雄になれたと思ったのに。田中さんと付き合えると思ったのに。まさかこんなことであっさり死んでしまうとは。
いつ死ぬかわからない生活だったけれど、どこかで僕は僕の人生が今後も続いていくと勘違いしていたらしい。
やはりもっと早く告白しておくべきだった。
……彼女の答えは、どちらだったのだろう?
パニックを起こしている田中さんの顔を見上げつつ、僕はゆっくりと意識を失っていった。
ご読了ありがとうございました。
気が向いたら、数年後、撫で男が前島を殺した隆司に興味を持ち、脱獄して会いに行く話も書くかもしれません。