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即死スイッチ(3)

  3


 不安に耐えながら走り続けていると、視界の中に緑色の塊が見えてきた。

 通話が切れる直前まで田中さんがいたはずの魚谷公園だ。

 ――田中さん……!

 通話が切れてから四十分は経っている。流石にまだそこに居るとは思えないけれど、確認しないわけにはいかない。僕は道路を渡ると、一気に公園の敷地に入った。

 魚谷公園は中学校の校庭の半分ほどの広さの場所だから、それほど歩き回らずとも全体を一望することができる。

 夕暮れ時だからだろうか。住宅街の外れということもあり、ひと気はほとんどなかった。精々数人の小学生が中央の広場で‶達磨さんが転んだ〟をしているくらいだ。

 やはり田中さんの姿は無い。わかってはいたものの僕は酷く落胆した。

  僕は最後に目にした田中さんの姿を思い出した。

 ――前島さんに何かあったら私も悲しいですから。

 潤んだ瞳。ほんのりと赤く染まった頬。

 彼女は恥ずかしがるように、照れたように、心から僕の身を案じ、そう心配してくれた。

 就活という忙しいイベントを過ごさなければならないのに、彼女は頻繁にアルバイトを行い、あんなにも生意気な弟に対して天使のような愛情を注いでいた。

 誰にも好かれ、誰にも笑顔を振りまく。そんな素敵な彼女が何故こんな目に遭わなければならないのだろうか。悲しさのあまり思わず目じりに涙が溜まっていく。

 ――やめろ。田中さんは生きている。きっと無事に家に帰れたはずだ。

 言葉に出したことが実現するという概念を言霊というが、頭の中で単語を並べるだけでもそれは現実に影響するものなのだろうか。僕は必死に頭に浮かんだ光景を振り払おうとした。

 今彼女の危険を知っているのは、僕だけだ。僕だけが彼女を助けることができる。ここで諦めれば田中さんを救う者は本当にいなくなってしまう。

 目元の涙をぬぐい、必死に自分を奮い立たせる。

 救うんだ。田中さんを。この僕が。

 覚悟はとうに決めている。田中さんのためなら命を危険にさらしても構わない。

 半ば自分に酔うようにそう決意すると、僕はアパートに向かって走り出そうとした。どこかでピンチになっている田中さんを見つけ、ヒーローのように彼女の身を守る。そんな光景が僕の頭の中を駆け巡っていた。

「ん……?」

 ズボンのポケットがいきなり振動した。小刻みに僕のケツを揺らしている。どうやらだれかが電話を掛けてきたようだった。

 すぐに端末を取り出し画面を表示させると、そこには‶田中〟という完全な美を体現した文字が表示されていた。僕は思わず端末を落としそうになったが、何とか耐え耳に当てた。

「もしもし! 田中さん!? 田中さんですか」

 思わず大声になってしまう。僅かに間が開いた後に、声が聞こえた。

「あ、その……前島さんですか」

 この、高級ピアノの音色のような気品に満ちた声。間違いなく田中さんのものだ。良かった。彼女は無事だった。生きていた。

 その事実に僕は体が震えるほどの喜びがこみ上げた。かっと胸の奥が熱くなる。

「今どこに居るんですか? 大丈夫なんですか」

「はい。すみません。途中で電話が切れてしまって。私は大丈夫です」

 何だ? 心なしか声のトーンが低い。まるでいつもの田中さんではないようだ。もしかして嫌な目に遭ったことで落ち込んでいるのだろうか。僕は田中さんの状況が気になった。

「田中さん。今どこに居るんですか?」

「アパートです」

「よかった。じゃあ無事に帰れたんですか。誰かに追われているって話の途中で通話が切れたから、心配してたんです」

「すみません。端末の充電が切れてしまったんです。その……何度も連絡してくれたみたいで」

 田中さんの声が少しだけ小さくなった。

「誰かにつけられているって言うのは、私の勘違いでした。たまたま同じ方向だったみたいで。後ろを歩いていた人は途中で近くの一軒家に入っていきました。だから不審者とかそういうのじゃなかったです。最近友達がストーカー被害にあって凄く落ち込んでたから、私も過敏になっちゃって」

 勘違い――……。ということは、田中さんは別に誰かに襲われたわけではないのか。ただ背後を歩いていた一般人を自分のストーカーではないかと思い、僕に連絡した。そういうことなのだろうか。

 僕はどっと肩の力を抜いた。大きなため息が口から漏れる。

 何だ良かった。何もなかったのか。ただの勘違い。そうか……。

 張り詰めていた緊張の糸が切れたことで、疲労が意識の前面に這い出てくる。体が急に重くなったような気がした。

「本当にすみません。ご心配おかけしました」

 再度謝る田中さん。正直言って人騒がせなという気持ちも少しはあったが、元気な田中さんの声を聴いていると、その気持ちも薄れていった。また生きている彼女の声が聞ける。あの笑顔を目にすることができる。その喜びの方が大きかったのだ。

 何故かとても穏やかな気持ちになる。僕は流れかけていた涙をぬぐった。

「……まあ、弟さんとふたりぐらしですからね。警戒心を抱くことは悪いことじゃないですよ。何かあってからでは遅いですから。……また気軽に連絡して下さい。僕に出来ることであれば、いつでも手をお貸ししますから」

「すみません。そう言って頂けるとありがたいです」

「あんまり気にしなくていいですよ。それじゃあ」

「はい。じゃあ失礼します。……本当にお騒がせしました」

 そう言って田中さんの声が途切れる。

 僕は通話モードの終了した端末の画面をしばし見つめ、田中さんが生きていたという事実に酔いしれた。そして一分くらい経った後に、気が付いた。

 僕のこれまでの死闘に、何の意味も無かったと。



 僕は魚谷公園の奥にある自販機まで移動すると、そこで炭酸ジュースを購入し、近くのベンチに座った。

 蓋を開け一口中身を飲み込むと、口の中でしゅわしゅわと気泡が弾ける食感が広がりとても気持ち良かった。水分が瞬く間に胃に吸収されていくのがわかる。

 頭の中では今日の記憶がぐるぐると回っていた。

 新任の部長がカツラを叩きつけられ即死したこと。

 警察に相手にされず列を無視しモーゼのように電車に乗り込んだこと。

 電車内で痴漢に勘違いされ、乗客の即死点を危険にさらして必死に逃げたこと。

 逃げた先の別の車両で、酔っぱらいのおじさんに絡まれ、吐しゃ物を吐かれそうになったが、それを利用して強引に駅から逃げたこと。

 無我夢中で気が付かなかったが、列に割り込んだのも、電車内で暴れたことも、自社や付き合いのある会社の人間に見られれば、間違いなく大問題になる行動だろう。

 いくら田中さんのためとはいえ、何故あそこまで愚かな真似をしてしまったのだろうか。今頃になって、自分のやってしまった行動に対する恐れが押し寄せてくる。先ほどまでの幸せな気持ちとは打って変わり、僕は暗い穴底に片足を突っ込んでいるような気持ちになっていた。

 まいった。どうしよう。小さな地域なんだ。絶対誰か知り合いに見られたよな。何がモーゼだよ。僕はなんてことをしてしまったんだ。

 田中さんを救うためとは言え、妙にテンションが上がっていたことも事実だ。いくら急いでいたとしても、あそこまで強引に障害を突破することはなかった。あの路線はいつも通勤で使っているものだから、僕の顔に見覚えがある人間だってきっとたくさんいる。

 田中さんが本当に危険な目に遭っていたのなら、まだ言い訳ができた。だが実際は、ただ強引に電車に乗り込み乗客の即死点を次々に危険にさらして走り回った異常者に過ぎない。なんてことだ。まさかこんなことになるとは……。

 明日から一体どんな顔をしてあの電車に乗ればいいのだろうか。考えるだけで恐ろしい。

 僕は再度ジュースを流し込んだ。炭酸が胃からせり上がり思わずげっぷが出る。

 いくら悩んでも解決策は浮かばない。だがすぐに家に帰る気にもなれず、僕は燃え尽きたボクサーのように、ただじっとベンチに座り続けた。

 

 放心したままぐびぐびとジュースを飲み続けていると、自販機に黒い影が差した。誰かが飲み物を買いに来たらしい。顔を上げると、白髪交じりのスーツ姿の男が立っていた。皺のある顔立ちを見るに、五十代前半といったところだろうか。恐らくは賢者の域に達した人間だろう。

 僕と視線が合うと、男は会釈をして財布を取り出した。そのまま何を飲もうか吟味するかのように、じっと前を眺めている。

 賢者か。羨ましい。あそこまで生き延びれば、もはや即死点の候補はほとんど絞り込まれていると聞く。賢者の域に達した者は、物に触るのも運動するのもそのたった一つの即死点にさえ気を付けていれば、自由に行動し放題なのだ。前に一度商店街を笑顔で走り回っている賢者の姿を見たことがあるが、実に幸せそうだった。生物学的には歳をとるほど筋力が衰えていくはずなのに、逆に動き回る自由が増えていくとは皮肉なものだ。

 ボタンを押してお茶を取り出す賢者の男。それを横目に見ながら、僕は缶に入ったジュースを一気に飲み干した。勢いよく炭酸を呑んだせいでまたげっぷが出たが、気にしないことにした。

 既に夕日は沈む寸前だ。いつまでもここで黄昏てはいられない。そろそろ家に帰らないと。

 空き缶を自販機の横のゴミ箱に捨て、とぼとぼと歩き出す。僕はさっさと公園を出る気だったのだけれど、それを食い止めるように、背後から男の声が響いた。

「――あ、すみません。これあなたのではないですかな」

 なんともダンディーな声。これが一部の女子の間で人気の賢者ボイスというやつか。振り返ると視線が合う。どうやら僕に向かって呼びかけているらしかった。

 僕が黙っていると、彼は手を前に伸ばし、五百円玉をこちらに見せた。

「自販機のお釣り入れに入っていたんですけど。違いますかな」

 お釣り?

 僕は代金ぴったりのお金を支払ったから気が付かなかったが、誰かのお釣りが残っていたのか。

「いいえ。違いますよ」

 気にせず盗む奴もいる中、随分と真面目な人だ。僕は男の言葉を否定し、そのまま歩みを再開しようとした。

 再びどんよりとした空想にふけりながら数歩進む。

 しかしそこで――ふと背中に違和感がした。一部分だけ妙に湿り気を帯びているようだった。

 ん? 何か濡れてる?  

 横に生えている木から水滴でも落ちたのかと思ったが、今日は晴天だからそんな可能性はありえない。一体何がと少し考えたところで、自分の手が濡れていることに気が付いた。この暑い中、冷たい缶ジュースを握りしめていたことで、温度差から水滴がついていたのだ。飲み物の水滴? そう考えた瞬間――僕は全身にぞわりとした悪寒を感じた。

 ばっと背後を振り返り、男の姿を確認する。男は先ほどと全く同じ場所で、こちらを眺めていた。彼の手には買ったばかりのお茶が握られており、その掌にはきっちりと水滴がついていた。

 ――……え、何で?

 自然な動き過ぎて全く気が付かなかった。どうやら呼び止められたときに背中を叩かれていたようだ。

 他者の身体に許可なく触れるということは、殺人未遂を適用されるほどの重罪。それをこの男が躊躇なく行ったということが、僕には信じられなかった。

 賢者のレベルに達したものは、即死点の位置が極限まで絞り込まれている。賢者同士のスキンシップともなれば、若者たちよりもずっと大胆で激しいものになると聞いたことがあるが、まさかそのノリで触ってしまったということなのだろうか。――いや、そんなわけがない。

 こちらを見つめる男と目が合う。穏やかな表情の中にぞっとするような冷たい瞳が覗いていた。

 自然と足が一歩後ろに下がる。

 背中中央は即死点ではなかったものの、もしそこが即死点であれば、僕はさっきの一撃で間違いなく死んでいた。偶然か? いやこの男はピンポイントで僕の背中の中央を触っていた。狙ってやったとしか思えない。でも何で? いやそもそも一体どうやって即死点の候補がわかったんだ?

 頭に今朝のニュースの話題がよぎる。すれ違いざまに即死点を押下し、人を殺す通り魔。連続殺人鬼‶撫で男〟の話を。

「どうかされましたかな?」

 あくまで紳士な態度で接する男。その温和な笑みが逆に不気味だった。

「今、あなた僕のことを触った。触りましたよね……!?」

「触った? 何のことですか」

「いや間違いなく触りましたよ。濡れてますもん。背中。何なんですかあなた」

「何だと言われても。あなたこそいきなり何なんですか。そんなに血相を変えて」

 心配そうにこちらへ近づこうとする男。この状況でさらに接近してくるなんて明らかにおかしい。

 何だ? 何で僕を殺そうとしてるんだ? この男が撫で男なのか?

 意味が解らず頭が混乱する。僕はとにかくこの男から逃げようと思ったのだが、その刹那、男は物凄い速度で腕を伸ばし僕の脇下から背中を撫で上げた。

「ひっ!?」

 明らかに殺意の籠った動きだった。

 背中の中央、そして右端側。一瞬にして即死点の候補と思われていた場所が押下されてしまった。

「触った! また僕に触った!」

 アホみたいに声を上げる。

 僕は死の恐怖に怯えたが、身構えても特に体に違和感は生じなかった。どうやら背中の中央と右側も安全圏だったらしい。即死点の候補が減った喜びと死にかけたという恐怖が同時に押し寄せた。

 逃げないと……! いや駄目だ。背中を見せればすぐにまたお触りされる!

 残った背中の即死点候補をさらけ出して逃亡するなんて度胸は、僕にはなかった。ただ恐怖に顔を引きつらせてじりじりと後ろに下がることしかできない。

 男はもはや殺意を隠す気がなかった。

 背中を撫で上げたにも関わらずまだ息をしている僕を見て、プライドに傷がついたのか、それとも闘争心が触発されたのか、先ほどまでの温和な表情はどこへやら、まるでプロの陶芸職人がこだわりの壺を作ろうとするような表情で、手を次々に繰り出してくる。フェイントを織り交ぜた実に多彩な動きだった。背を向けて逃げることのできない僕は、ただしゃがむにに男の手を必死に払い続けるしかなかった。

 このままではらちが明かない。僕は男の手を掴もうとしたが、それを察知した男は伸ばしかけていた腕の向きを途中で変え、僕の右胸に掌が衝突する。鳩尾が即死点候補である僕はひやりとし一瞬動きを止めかけた。

 男の口角が僅かに上がった。突然僕の胸を撫でようと手の軌道を変えてくる。どうやらあの僅かな僕の反応を見て、胸部のどこかが即死点の候補だと気が付いたようだった。

 まずい、まずいぞ……!

 時間が経てば経つほど、男は僕の即死点の位置を絞り込んでいく。このままではいずれ即死点を押されてしまうことは明白だった。

 背中と言う触りにくい場所にも関わらず、男は巧みな手さばきで何度も僕の背中に手をかすらせる。一体どんな訓練をつめばこんなこそばゆいテクニックが身に着くのが意味不明だった。

 男は「ふっ」と不敵に笑みを浮かべながら両手をぐるぐる回しつつ、モデル歩きのように両足を一直線上に揃えて近づいてくる。恐ろしいほど美しい姿勢だった。

 背中がコンクリートブロックの壁に当たる。いつの間にか公園の端まで追い詰められてしまったらしい。もはやこれでは逃げ切ることは不可能だった。

「や、やめろ。僕に近づくな!」

 僕は裏声で叫ぶも男はその笑みと歩行を止めない。むしろ嬉々として腰をくねらせた。

「何が目的なんだ。何で僕を殺そうとするんだよ」

 これ以上背中を壁に押し付ければ即死点を押下してしまうかもしれない。僕は壁と男のはざまで何度も揺れ動きながらパニックになっていた。

 男は再び「ふっ」と笑みを浮かべた。

「たまたま、ですよ。ターゲットを探して歩いていたら、たまたま公園で黄昏ているあなたを発見しましてね。ここはひと気もほとんどなく、夕暮れ時と言う運よく人々の視界が惑わされる時間帯だった。それでついチャンスだと。高ぶってしまいましてね」

 ということは、僕は偶然この男に見初められただけということなのか。何故だ。何でまたもやこんな訳の分からない目に遭わなければならないんだ。

「あ、あんたが連続殺人鬼の撫で男なのか」

「ちまたではそう呼ばれているみたいですね。私としては不本意なのですが、まあ呼び名などどうでもいいことでしょう」

 そう言って男――撫で男はさらに一歩踏み込んだ。もはやお互いの拳が届く距離になっていた。

「こんなことしてあんたに何のメリットがあるって言うんだ。何で僕を殺すんだよ」

「大いなる目的のためです。あなたには理解できないかもしれませんが、これは別に快楽や性的興奮を得るためではないんです。言うなれば、人類を救済するための手段と言ったところでしょうか」

「はぁ……!?」

 言葉の意味がさっぱり理解できない。僕は後ろに逃げようとして壁に両手をつき、どたばたともがいた後に再び前に向き直った。

 まずい。逃げられない。殺される……!

 腕を繰り出す速度、防御をすり抜けるテクニック。あの謎に姿勢の良い歩行。どれをとっても勝ち目がない。

 こんなところで僕は死ぬのか。意味も解らず、殺されるのか。この謎のおじさんに。

 僕は今日何度も絶望的な目に遭った。何度も背筋を凍らせた。だがここまで恐怖を感じたのは初めてのことだ。常日頃死の恐怖に直面しているはずなのに、明確な殺意を持って目の前に立たれるだけでこうも足が震えるとは。結局いくら頭で死を覚悟していると思っていても、どこか他人事のままだったということなのだろうか。

 嫌だ。死にたくない。僕はまだ田中さんと付き合ってはいない。まだ田中さんに告白してすらいないんだ。こんなところで死ぬなんて、そんなのありえない。

 確実な死の気配を感じた瞬間、僕の中に再び田中さんの笑顔が蘇っていった。田中さんろ手を繋ぎ花畑を散歩する光景。海辺で水を掛け合う姿。結婚式でケーキを割る映像が脳裏に浮かび上がる。

 そうだ。僕はまだこれからなんだ。これから田中さんとのフォーリンラブな日常が始まるはずだった。僕が死ねば田中さんを悲しませてしまう。

 男を睨みつけながら恐る恐る腕を上げる。

 僕はまだ電話でしか田中さんの安否を確認していない。まだ彼女の元気な顔を見てはいない。彼女が本当に無事かどうかわかるまで、まだ死ぬわけにはいかないんだ。

「ほう。やる気ですかな」

 ファイティングポーズをとった僕を見て、撫で男が不敵に笑みを浮かべた。

 そうだ。恐れるから防戦一方になり追い詰められる、殺人鬼とはいえ相手も人間なんだ。人間なら必ず即死点がある。やつより先に僕がそれを押下すれば、まだ生き延びるチャンスはある。

 撫で男は両手をゆっくりと左右に広げると、僕の目の前でそれをぱんっと打ち合わせた。

「はっ!?」

 僕は思わず目をつぶってしまった。すぐにまぶたを空けると、撫で男の手が左右から同時に僕の背中めがけて忍び込もうとしていた。

 やら、れるか!

 僕は肩で撫で男の右手を逸らし、それを握りしめる。撫で男が目を見開いたと同時に、彼の腕を高速で撫でまくった。

「なに?」

 撫で男の口から驚きの声が漏れる。

 彼は強引に僕の腕を振りほどこうとしたが、僕は死ぬ気で掴んでいたため中々腕は剥がれず、空気を弾く音がして撫で男のスーツが敗れた。

 相手が虚を突かれている今しかチャンスはない。続けざまに僕は撫で男の懐に腕を侵入させそのじょりじょりの顎や頬、胸などを縦横無尽に撫でまくった。撫で男は気持ち悪そうに表情を歪め、何とか僕の猛攻から逃れようとするも、再び僕が服を握りしめて離さなかったため、またもやスーツが破けた。

「こしゃくな」

 撫で男は敗れた布切れを後ろに投げ捨てると、上半身をぐるぐると上下に回しながら腕を伸ばして迫ってきた。それを見た僕は負けじと彼の服を掴み動きを封じようとした。

 単純な技術では勝ち目がない。服を掴んで嫌がらせすることが勝利への唯一の道だった。

 激しく飛び交うお互いの腕。ここまで激しい争いは人生でも経験したことがなかった。

「うわーすげー。なにしてんの?」

 横から妙に高い声が聞こえる。ほんの少しだけ横目で確認すると、公園の広場で達磨さんが転んだをしていた小学生たちが集まってきていた。日が沈み帰ろうとしたところで、奥に居る僕たちの姿を目撃し、気になって見に来たといったところのようだった。

 まだ知識のうといこの子たちは、即死点を押されるという危険を完全には理解していない。ただ親から注意され気を付けているだけだ。だから僕と撫で男が必死の形相でお互いの腕を交じえているのも、何らかの遊びとしか思っていないようだった。

「他人に触っちゃだめってママが言ってたよ」

「大人ならいいんじゃないの?」

 子供たちが最初そのような疑問を口に出していたが、そのうち僕と撫で男の腕の応酬が面白くなったのか、きゃきゃー騒ぎながら応援を始める。

 複数人の小学生に見守られる中で、僕と撫で男はお互いの命を奪おうと撫で合いを続けた。

「ギャラリーですか。面白い。テンションが上がってきましたよ」

 こんな光景を目撃されているにも関わらず、撫で男は嬉しそうに舌なめずりした。まさか僕を始末した後に子供たちを殺す気なのではないか。僕はより一層緊張感を高めた。

 いい加減僕に服を掴まれることに嫌気がさしたのか、撫で男はぼろぼろになったスーツを脱ぎ捨てた。そのまま下に来ていたYシャツのボタンも外し、あっと言う間に真っ白なタンクトップ一枚姿となった。

 これでは服を掴む妨害ができない。思わぬ行動に僕は歯ぎしりした。

 撫で男の胸元からは大量のギャランドゥが覗いており、彼の身体を撫でる度にそのもさもさとした感触が掌に残った。僕は鳥肌が立ったが、攻め続けなければすぐに反撃に遭うため、仕方がなく腕を繰り出し続けた。

 この男どうなっているんだ。いくら撫でても全く怯む気配がない。それどころか、まるで即死点が押されることを恐れていないみたいだ。

 笑みを浮かべあごをしゃくらせた撫で男は、しなる鞭のように左右のうでをくねらせる。服を掴むことができなくなった僕は、ただ防戦一方になってしまった。

 防ごうとしても撫で男の腕は途中で軌道が変わり、難なく僕の背中へと到達する。瞬く間に背中の左側が連続的に撫でられてしまった。

 死を強く意識しながらも、動かなければ立て続けに撫で男の攻撃を受けてしまうため、仕方がなく彼の腕を必死に逸らす。しかしその努力も空しく、僕は背中下部を撫で上げられ、とうとう背中の全面をコンプリートされてしまった。

 ま、まだ死なない。背中は全て安全圏だったのか。

 自分の息が続いていることに自分で驚愕する。僕が青い顔でなおも生きているのを見て、撫で男も驚いたように目を見開いた。

「まだ死なないとは。私の撫で技をここまで凌いだのはあなたが初めてです。だが――」

 撫で男は僕の鳩尾めがけて素早く腕を動かした。そこが最後の即死点候補だと考えたのだろう。

 撫で男の猛攻を見て小学生たちが歓声をあげる。いつの間にかこの公園の端には異様な熱気が充満していた。

 残す僕の即死点候補は鳩尾と両脇。背中が安全圏とわかった今、そのどちらかが間違いなく即死点だろう。これ以上押されれば本当にいつ死んでもおかしくはない。僕はなんとしても死守しなければと思った。

 撫で男はあごをしゃくれさせたままさらに一歩踏み込んだ。距離を詰めることで僕の腕が出にくくするつもりのようだった。

 後ろに下がれない僕はそれでもただ必死に攻撃を防ぐことしかできない。このままではやられる。そう思ったときだった。

 撫で男の動きが突然ゆっくりになった。伸ばした僕の腕を掴むとそれを下に押しとどめる。

 どういうつもりなのだろうか。彼の顔をみると、疲れたように荒い呼吸を吐いていた。

 そうか。賢者は即死点の候補が絞られているから行動的になれるとはいえ、その体力は老人そのものだ。あそこまで激しい腕の応酬を繰り返せば体力の限界がくることはあたりまえだった。

 今しか反撃のチャンスはない。僕はすかさず撫で男の身体を撫でまわそうとしたのだが、伸ばしかけた腕は予想以上に遅く、空を切った。僕の体力も限界のようだった。

 無言でお互いの顔を見つめる。暗黙の了解で「ちょっと休憩しよう」という空気ができあがっていた。

 既に夕日は完全に沈んでいる。周囲の住宅やマンションの明かりがちらほらとつき始めていた。

 静かな公園の中に、撫で男と僕の息づかいだけがはぁはぁと響く。それまでじっと僕たちの様子を眺めていた子供たちは、飽きたように話しだした。

「……そろそろ帰ろうぜ。暗くなってきた」

「うん。お母さんに怒られるよ」

 ぞろぞろと公園の出口に向かって歩いて行く。僕は撫で男をちらりと見たが、どうやら追う気はないようだった。疲労で動けないのか、それとも子供は襲わない主義なのか。顔を見られた以上何があっても殺そうとするのかと思っていただけに、拍子抜けだった。

 公園の中央に据えられた時計を見ると午後十八時を超えていた。僕は荒い呼吸を吐きながら、撫で男に向かって呼びかけた。

「――いつまで、こんなことを続けるつもりなんですか。こんなことをして何の意味があるんです……?」

 撫で男はあごをしゃくれさせたまま鋭い視線だけをこちらに向けた。

「私は探しているのですよ」

「探している?」

「ええ。そうです。……少し昔話をしましょうか。私は数年前まで安楽医師をしておりましてね。重い病気で苦しむ人々の即死点を押し、見送って差し上げるという仕事をしておりました」

 何だ。いきなり語りだしたぞ……。

 僕は面倒に思った。

「交通事故で助からないと判明していた被害者。高齢でいつ訪れるかわからない死期に嫌気がさしていた老人。病魔の苦しさに耐えられなくなった若者。ありとあらゆる人間を相手にしてきました。

 実に様々な人生を送ってきた人々をこの手で終わらせてきました。人の心とは例え無意識でも自然と表層に出てしまうものです。何度も何度も彼らの即死点を押下していくうちに、私は次第にその人物の即死点候補がどこにあるのか、表情や動きでわかる様になっていきました。

 そんなある日、とある重病患者が施術の直前で「やはり死にたくない」と意見を翻した事件がありました。しかしその時すでに、私は彼女の即死点を押してしまっていたのです。彼女は絶望した表情で私を見上げ、「何で押したの? お願い止めて」とそう叫びました。一度でも即死点を押下してしまえば、何が起きようとその人物の死を止めることはできません。私はただ黙って彼女の死を見送ることしかできませんでした」

 撫で男は辛そうに下を向いた。

「その患者は――……私の妻でした。その日から、私は胸の中にぽっかりと穴が開いてしまったような気分になりました。もしあの時即死点を押していなければ、もし即死点を止められる方法があれば、例え病気で苦しんでいようとも、妻はまだ私の隣にいて笑っていたかもしれないのに。そう考えると、己の無力さを呪い殺したくなりました。

 その時から私は何とかして即死点を止める方法がないか研究を始めました。最初は正式な研究所に所属し、定められた規範にのとった研究を行っていたんです。ですが、それではいつまでたっても成果は出ないと気が付きました。押せばすぐに死ぬという即死点の研究は、相手を生かしたまま行うにはあまりにリスクの高い行為だったからです。

 私はこっそりと患者を使って実験を始めました。

 即死点のある部位を切断すれば死なないのではと考え試すと、部位を切り離すと同時に別の場所に即死点が現れました。どうやら即死点は体から離れると転移するという属性を持つようでした。

 強烈な催眠によって即死点の位置を誤認識させても無駄でした。被験者は自身が即死点を押されたことに気が付くことなくあっさりと死んでいきました。

 その他様々な実験を繰り返しましたが、どれだけ工夫を凝らそうとも、どれだけ努力しようとも、全て徒労に終わりました。

 私はどうにかして生物から即死点を無くしたかった。そのためにはあらゆる人種、あらゆる年齢の人間で実験を続ける必要がありました。しかし病院内と言う限られた場所ではどうしても対象が病人と限定されてしまいます。そこで私は町に出ることにしました。人目に付きにくい場所にいる人間を見つけては、即死点を押下し、死ぬまでの反応を観察しました。何度も犯行を繰り返していると、まれに即死点の反応が鈍い者もおりました。不思議なことに彼らは死までの時間がかなり長く、即死点もかなり強く押さなければ効果がありませんでした。

 彼らを目にし、私はふと思ったのです。即死点を押して死を迎える強さや場所は人それぞれ。もしかしたら人々は即死点を恐れるあまり、大事なことを見逃しているのではないかと。もしかしたらこの世には、即死点の無い人間も存在するのではないかと。

 だから私は、探すことにしました。即死点を押しても死なない人間が必ずどこかにいるはずだと。自身では気が付いていないだけで、この世に存在しているのだと。

 そのために私は、街を練り歩き、人々の身体を撫で回し続けました」

 撫で男は苦しそうに嗚咽を漏らした。

 話は終わったらしい。僕はほっとした。

 どうやら撫で男は生きたいと願った奥さんを殺してしまったことで、自分の仕事と即死点の存在に疑問を抱き、即死点の存在しない人間を探すことを人生の代償行為と定めたらしい。そのために通り魔的に通行人の即死点を押下していた。

「……何てはた迷惑な」

 大いなる目的がどうちゃらと言っていたからなんだと思ったが、ただ独善的な妄執を抱いただけじゃないか。被害者たちがこんな理由で殺されたのかと思うといたたまれなかった。

「自己中心的だということは認知しておりますよ。ただ自分を悪に落としてでも、人にはやらなければならないこともあるのです。トロッコ問題、カルネアデスの板しかりね」

 撫で男は手をわきわきと動かすと、再びあごをしゃくれさせた。それが彼の集中しているときの表情のようだった。

 空気がゆっくりと張り詰めていく。

 僕がこの男に勝つには先に即死点を押下するしかない。だが先ほどいくら全身を撫でようと、撫で男は防御する姿勢すら取らなかった。恐らく賢者としての経験から、絶対に自分の即死点が僕に押されないと確信しているのだろう。

 このまま撫で合いを続けても先ほどの焼き直しにしかならない。何か手を打たなければ死を迎えるのは目に見えていた。

 どうしよう。どうすればいい……?

 背中が安全圏だと分かったものの、ここまで壁際に追い詰められればもはや逃げることは不可能だ。やはり生き延びるには撫で男を実力で倒すしか方法がなかった。

 撫で男は麺類をすする時のような音で呼吸を繰り返し、手を上げる。妙案を思いつくことができなかった僕は、仕方がなく応戦することにした。

「無駄無駄無駄!」

 顔、腰、胸、腕、足、どこをどう触ろうとも撫で男は全く怯む気配がない。もはやノーガードで自分の肉体をさらし、僕の鳩尾を狙って腕を横なぎに伸ばした。

 僕はそれを右手で弾こうとしたのだが、力み過ぎたせいで空を切ってしまった。しまったと思った時には既に遅く、撫で男の掌が胸部に到達し、右胸から鳩尾めがけて駆け上ろうとしていた。

 くそ、また――……!

 今度こそ死ぬかもしれない。僕は体を硬直させたが、その直後、撫で男が間抜けな声を上げた。振りぬいた僕の手が勢い余って撫で男の肩に当たっていたのだ。

 ぎりぎりのところで撫で男の手が僕から遠ざかる。彼を突き飛ばすような格好となった僕は、それを見て、ある事実に気が付いた。

 ――これ、普通に殴ればいいんじゃないか? 

 相手は賢者。だが賢者と言えば五十を超えた老人だ。撫で男は別に筋肉質な体ではないし、身体的には若さで勝る僕に分がある。

 むしろ何故僕は今まで撫で男に付き合って汚い撫で合いを続けてしまったのだろうか。自分でも意味が解らなかった。 

 拳をまるめ試しに突き出してみる。

 ノーガードを決め込んでいた撫で男は頬を打ち抜かれ、唾液を飛ばしながら後ろに仰け反った。

 彼は殴られた頬を手で抑えると、「信じられないよ」という目で僕を見返した。


 




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