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即死スイッチ(2)


  2


 午後十八時を過ぎた。

 今の時期はそれほど仕事がないから、これ以上無理に残業する必要もない。僕はそっと身支度を済ませ、パソコンの電源を落とした。

「帰るよ。山田もほどほどにね」

 隣で苦しそうに立ち続けている山田にそう声をかけると、彼は足をがくがくさせながら笑みを浮かべた。

「おう。俺もこのメールを送ったら帰るよ。睡魔で倒れそうだからな。昼間に彼女から連絡があってさ。何とか叔父の水膜ベッドを貸してもらえるようになった」

「それは、良かったじゃないか」

 やはりこういう時頼りになるのは家族や恋人か。

 山田の安全に安堵すると共に、どこか寂しい気持ちも抱く。

 僕には家で待ってくれる人は誰も居ない。もし事故が起きても、人知れず死ぬことになるしかない。

 こっそりと田中さんの顔を思い浮かべる。彼女が恋人になってくれたらなぁと一瞬妄想した。

 山田に別れを告げ外に出ると、まだ空は明るかった。夏が近づいてきているからだろうか。徐々に昼が長くなっている気がする。

 ぼうっと立っていると、向かいから来たサラリーマンが不機嫌そうに舌打ちし、僕の横を通り過ぎた。この時間は帰宅する会社員で込み合っている。意味もなく道を塞いでいれば、敵意を向けられるのは至極当然だ。

 僕は通行途中の人に接触しないように気を付けながら、歩きだした。

 サイレンが鳴り響き、救急車が道路を走っていく。救急車が出動したと言うことは、怪我か病気かは知らないが、運ばれる対象にはまだ息があるということだ。即死点を突かれた場合、まっさきに出動するのは霊柩車になるから。

 遠ざかる救急車を眺めながらふと思う。

 もしこのまま医療が発展すれば、生物に即死点なんてものがある理由を解明できる日が来るのだろうか。手術や治療によって即死点を排除できるような、そんなフィクションの世界でしかお目にかかったことのない世界が。

 専門家の中には、もし即死点が無くなれば犯罪率が増し、治安は最悪となり、国家間の戦争も絶えず起こる様になる危険があるという者もいる。少しでも国民の数を増やさなければならない今の世の中ではそんな余裕などないが、即死点が無い世界では人の数が飽和し、命の価値が逆に下がってしまうとのことだった。

 僕たちの生活は、常に即死点を守ることを最優先に行われている。寝るときも、物を食べる時も、働く時も、運動をするときも。即死点があるこの世界では、ある意味他人の身体も自分自身のように気を遣う必要があったが、即死点がなければそれらの意識が完全に開放されるということだ。誰とでも気軽に触れ合うことができ、死の危険を考えずにスポーツや趣味の世界に没頭できる。それは同時に、自分の意識を死というものから遠ざけることに繋がり、人の死をより強固に他人事だと認識するようになる。もし即死点が存在しない世界なんてものが訪れるのならぜひ見てみたいけれど、そんな争いごとの絶えない世の中は嫌だなと思った。

 駅に向かって歩いていると、ズボンのポケットにしまっていた端末がぶるぶると震えた。取り出してみると、画面には田中さんの名前が表示されていた。

 田中さん!

 その名前に思わずテンションが上がる。

 前に彼女の弟の隆司が鍵を無くし、家の中に入れなかったことがある。その時に彼を自宅に招き、田中さんへ連絡するために番号を聞いたことがあった。

 何度か食事に誘おうかと思ったことはあるが、中々勇気が出ず特にやり取りはしていなかったのだが、まさか彼女の方から着信が掛かってくるとは。

 一体何の用だろうか。

 僕はどきまきしながら通話モードを起動した。

「はい。もしもし」

「あ、前島さん。田中です。隣に住んでいる」

「ああ、田中さん。どうしたんですか」

 僕は平静を装いながらそう返した。

「実は、今夕食の買い物に出ていたんですけど、そのちょっと気になることがあって」

「気になること?」

 何だか様子がおかしい。どこか声を落として話しているようだった。

「その、スーパーを出てからずっと同じ人が後を付けているみたいなんです。気の所為かもしれないですけど、私怖くなって……前島さんって、今家に居ますか」

「いや、これから帰るところですけど」

 後を付けられている? まさかストーカーと言うやつなのだろうか。

 僕は田中さんの美しさを思い返し、ありえない話ではないと思った。

「ごめんなさい。近所に頼れる人がいなくて。もし前島さんが帰宅してれいばと思って連絡したんですけど……」

「今どこですか。交番とかは近くにあります?」

「魚谷公園の前あたりです。さっきから早足で歩いているんですけど、どんどん近づいているみたいで」

 魚谷公園と言えば、ちょうど住宅街のど真ん中だ。あのあたりに交番はないし、ひと気の多い場所も無い。

 何だか嫌な予感がして僕は焦り始めた。

「とりあえず誰か他の人を探して声を掛けて下さい。一人じゃないなら襲われずらいはずです。すぐに僕も迎えに行きます」

 どうやら事態はかなり深刻なようだ。田中さんの恐怖が端末ごしにひしひしと伝わってくる。気が付けば、僕は小走りになっていた。

「ありがとう、ございます。すみません、前島さ――あっ――」

 いきなり通話が切れた。

 田中さんの鈴の音のような声がぷっつんと途切れる。

「田中さん? 田中さん? もしもし?」

 何度呼びかけても答えたは無い。回線が切れているようだったので、再度こちらから掛けなおしてみたが、彼女が通話に出ることはもう無かった。

 まずい。これは洒落にならないかもしれない。

 どっと冷汗が出てくる。突然電話を切るなんて真似、あの真面目な田中さんがするはずがない。何かあったのだ。通話を途切らせざる負えない何かが。

 はっと今朝目にしたニュースを思い出す。‶撫で男〟。通りすがり際に無差別に人の即死点を押し殺していく殺人鬼。僕は自分の血の気が引いてくのがわかった。

 ふざけるなよ。田中さんが死ぬはずがない。あの田中さんが。

 小走りだった足は、いつの間にか全速力での失踪へとシフトしていた。通行人にかすることもいとわず、一心不乱に駅へと向かう。

 今の時間帯は車の数が多い。タクシーに乗っても渋滞にハマるのが関の山だ。そもそも電車と同様に乗るまでには相当な時間がかかる。なら、多少無理をしてでも電車に乗るしかない。

 駅前のロータリーに差し掛かると、信号が赤になっていたため、人垣ができていた。僕は苛立ちを覚えつつも、地団駄を踏むようにその場に留まる。

 早く青になれ。早く……!

 信号が青に変わり、人々が動き始める。

 僕は大急ぎで電車に向かおうとしたが、改札へと続く階段の前には朝と同様に長蛇の列ができていた。そのあまりの長さに愕然とする。

 そうか。今日は国の定時退勤推奨日か。何でこんな時に。

 列は階段の下からバス乗り場の手前まで続いている。こんなものに真面目に並べば、いつ田中さんの元に辿り着けるかわからなかった。

 どうしようか迷ったところで、駅前の交番が目に入った。すぐに事情を説明して協力してもらうことを思いつく。

 家の近所の警官を派遣してもらえば、僕が長々列に並ぶよりもずっと早く現地に辿り着くかもしれない。何より警官はこういった事態のプロだ。きっと親身になって動いてくれることだろう。

 僕は時計を確認し、大急ぎで交番へと突撃した。急に飛び込んできた僕を目にし、警官が驚いた表情を見せる。

「すみません。緊急事態なんです、僕の隣の住民が不審者に狙われてるみたいで」

「ちょっと、ちょっと落ち着いて。何? どうしたんですか」

 その警官は両手を前に伸ばして僕から距離を取った。

「落ち着いて。冷静に話してください」

 僕は必死に事情を説明した。隣に住む田中さんが不審者につけられていること。助けを求める電話が途切れたことなど。ありのままに事態の深刻さを伝えたはずだった。

 話を聞き終えた警官は微妙な表情を浮かべると、ゆっくりと椅子に座りなおした。

「なるほど。事情はわかりました。あなたがその彼女を心配する気持ちはよくわかります。……ただ、現状の状況から考えて実際に被害に遭われたどうかはまだわからないのですよね。大変申し訳ないのですが、現状警察は数時間おきに出る即死点被害者の対応で常に手が回らない状況です。具体的な被害がない限りは対応できない決まりになっているんです」

 僕は思わず我が耳を疑った。

「隣人が助けを求めているんですよ。怪しい男に後をつけられて。それでも動けないんですか。何かあったらどうする気なんです?」

「何度も言いますが、隣人は実際に被害に遭われたわけではないんです。ただ付けられているかもしれないという憶測に過ぎません。そういった報告は毎日山のようにあります。警察官の人数にも限りがありますから、どうしても対応できる案件には限りができてしまうんです」

 言っていることはわかる。わかるが、実際に田中さんの恐怖の声を聴いた僕には、その言葉はまったく納得できるものではなかった。

「何かのついででもいいんです。ただ彼女の様子を一目確認してもられば――」

「申し訳ございませんが……」

 その警官は唇を横一文字に結び、かたくなに僕の提案を拒否した。どうあっても動いてくれる気はなさそうだった。

 ここでこうしている間にも、改札に並ぶ列は増えていく。 

 畜生!

「わかりました。お手数をおかけしました」

 僕は席を立つと、不機嫌さを隠すことなくその場を後にした。

 列は既にロータリーを通り過ぎ、先ほどの信号のところまで到達しようとしている。このまま待っていては、ホームにたどり着くまでに一時間は掛かってしまうことだろう。

 田中さん……。

 彼女の笑顔を思い出す。

 確かに警察の言う通り、何も事件性はないかもしれない。ただの彼女の勘違いと言う可能性だってありえる。でも、百パーセントでない以上、無事でいる保証がないのも事実だ。

 時計を確認する。次の電車は確か七分後。直前で改札を走り抜ければ、駅員や列に並んでいる人々に止められることなく乗車できるかもしれない。

 何事もなければ、それでいい。ただ僕が責められるだけだ。でも何かあれば、一生後悔するだろう。

 僕は覚悟を決めた。

 改札の前には、飲食店や服屋、おしゃれなカフェなどが店舗を出している。

 それらを行きかう通行人に紛れ、誰かと待ち合わせをしている人間を演じる。端末で時間を確認しつつ、背中を汗でびっしょりに濡らして待っていると、ようやく電車が到着する時刻となった。僅かに建物が振動し、重々しい車輪の音が上から響く。

 よし、行くぞ。

 不自然に見えないように改札に近づきつつ、列に並んでいる人々の動向を伺う。学校帰りだろうか。ちょうど男子高校生の集団が改札の前までついたところだった。

 改札まで残り数メートルといったところで、違和感を抱いたのか駅員室にいた駅員が怪訝そうな目をこちらに向ける。それを目にした瞬間、僕は足の駆動を全速力へと変化させた。

 経路の電子承認を行おうとしていた男子高校生たちの前に滑り込み、かなり強引に改札を通り抜ける。

「おい、お前!」

駅員が窓口から身を乗り出し叫んだが、構わず駆け抜けた。

 電車が到着し、複数人の人々が入れ替わる音が聞こえる。僕がホームに向かって必死に階段を駆け上がっていると、電車から降車した大量の乗客が上からやってきた。

 彼らは僕の必死な形相と即死点を恐れぬ勢いに驚いたのか、皆が僕を避けるように左右に分かれてくれた。まるで旧約聖書に出てくるモーゼのような気分だった。

 ――ドアが閉まります。

 機械音声が流れ、停車していた車両の扉が狭まっていく。ぎりぎりのところで飛び込むと、間一髪のところで乗車することができた。首の後ろで空気を抱きしめるような扉の音が聞こえる。

 僕を追ってきた駅員が階段から現れるも、連絡が行き届いてはいなかったのか、電車は動き出した。通り過ぎていく彼の顔を眺め、僕は心底ほっと息を吐いた。


 半ば常識外れな勢いで車両に飛び込んできた僕を見て、車内にいた人々が不審なものを見るような視線を向けてくる。

 僕は注目を集めていることに恥ずかしさを覚え、下を向き皆の興味が薄れるのを必死にまった。一昔前は車両移動などと言うものも許可されていたのだが、法規が厳しくなった今のご時世では、暗黙のルールとしてそれを実施する人間はほとんどいない。移動すれば逆に注目を集めるから、こうして何もせずじっとしていれば人も入れ替りそのうち興味はなくなるだろうと考えた。

 荒い呼吸を吐きじっとしていると、自分の行った行為に対する実感がわいてきた。法律違反すれすれの真似。明らかに常識はずれな行動。もし会社の人に見られていたら、もし駅員に訴えられたらと思うと、気が気じゃなくなりそうになる。だがすぐに田中さんのことを思い起こし、自分を正当化させた。

 いいさ。誰に見られようが、何を言われようが別に構わない。田中さんの無事さえわかればそれで……。

 五分ほどそのままでいると、予想通り車内の人々は僕に興味を無くしたのか、集まっていた視線が遠ざかったのを感じる。僕は少しだけ気が楽になり、冷静さを取り戻してきた。

 目的の駅はここから二駅目。降車時は電車を待つ必要がないから、今度は普通に列に並んでいても数分で外に出ることはできる。先ほどまで田中さんが居たのは魚谷公園とのことだから、急いで走れば十分ほどでたどり着けるだろう。

 窓の外では数羽の鳥が群れを成して飛び回っている。生物である以上鳥にも当然即死点は存在するが、密集する機会は人間より圧倒的に少なくなるはずだ。僕もあんな羽があれば、こんな苦労をせずに田中さんの元までひとっ飛びで行けるのになと、妙に黄昏てしまった。

 

 隣の人との距離に気を付けながら振動に揺らされること数分。電車は次の駅に到着した。

 僕は扉の目の前に立っていたため、降車客の邪魔になっていた。慌てて横に移動すると、迷惑そうにこちらを一瞥し、数人の乗客が降りて行く。

 あと一駅。あと一駅で、田中さんの無事を確認できる。

 そう思うと、何だか落ち着かなくなった。足をそわそわと組み替えながら、早く扉が閉まることを願う。

 乗客が入れ替り、少しだけ車両内の密集度が上がる。奥に詰めながら隣を見ると、赤いカーディガンを来た女性が立っていた。

 長い茶髪にぱっちりとした瞳。中々の美人である。もちろん、田中さんには負けるが。

 再び揺れ出す電車。

 田中さんのことが気になって仕方がない僕は、端末を取り出し、彼女にコメントを送ってみることにした。電話が通じなくても、文字であればもしかしたら返信がくるかもしれないと思ったからだ。

 ――大丈夫? 今どこですか。

 なめらかに指を動かしコメントを送信する。

 いつもならネットサーフィンをしてニュースやら趣味の新作小説やらを検索して時間を潰すのだが、とてもそんな気分にはならなかったため、僕は定期的にコメント機能を開き、田中さんから返信がないか確認した。妙にそわそわして落ち着きのない僕は、他人から見れば、きっと挙動不審に見えているかもしれない。

 駄目だ。いくら焦ったところで、乗っている間は何もできない。少し落ち着かないと。

 深く息を吸い込み吐き出す。何度か繰り返すと、少しだけ緊張感が解けた気がした。

 肩が痛い。ずっと同じ場所に鞄の帯を掛けていたせいで筋肉にダメージが生まれてしまったようだ。僕は位置をずらそうと思い、帯を左手で持ち上げたのだが、そこで妙な引っ掛かりを覚えた。見ると、鞄の側面が隣の女性のお尻にぶつかっていた。

 きっと何度もぶつかっていたのだろう。女性は唇をきゅっと結び、迷惑そうに下を睨みつけている。

 他者との接触は即死点を押下することにつながる。

 僕は大変申し訳ないと思いつつ、すぐに鞄をどかそうと手を伸ばしたのだが、その瞬間、女性が意を決したようにこちらを振り返り、大きな声を出した。

「痴漢!」

 静まり返る車内。皆が一瞬でこちらを振り返った。

 え? 痴漢? 誰が? もしかして僕のことを言っているのか?

 一瞬で頭が真っ白になる。

「ち、違います。鞄が当たってしまってて。それで……――」

「この人痴漢です!」

 僕の言葉など全く耳に入らないかのように再度同じ台詞を繰り返す女性。

 周りの空気が急に鋭さを増し、僕はやばいと思った。

 痴漢は重罪中の重罪だ。

 女性に強い恐怖を与えるというだけでなく、一歩間違えば即死点を押してしまい殺害する危険すらある行為だ。法律的な言い回しをすれば、殺人未遂と表現することもできる。

 ちょっとまってくれ。僕は本当に何もやってないんだ。冗談じゃないぞ。

 何とか誤解を解こうと言い訳するも、女性や周囲の乗客たちは完全に犯罪者を見るような視線をこちらに向けてくる。空気の重さに僕は何を言っても無駄だということを理解させられた。

「次の駅で降りましょう。すみません。誰か一緒に来てくれませんか」

 完全に僕が痴漢をした前提で話を進める女性。がらの悪そうな若い男が、にやにやと笑みを浮かべながら彼女の横で頷いた。

 まずい。これはまずいぞ。

 これが普段の通勤途中で起きた事件であれば、僕は冤罪を証明するまで根気よく無実を訴えていただろう。だが今は状況が悪い。僕はなんとしても田中さんの元に駆けつけなければならないのだ。

 例え冤罪であることが証明されたとしても、無実の罪に問われたとしても、駅員や警察のやっかいになれば、長い時間を奪われることになる。そうなれば、いつ田中さんの無事を確かめることができるかもわからない。

 ここまで来たのだ。改札に並ぶ列を無視し、強引に電車に乗り込んだ。あと一駅で田中さんの元まで駆けつけられるところまで来ているのに。

 じわじわとこの状況に対する反逆心が湧いてくる。今さらこんなことで立ち止まるわけにはいかなかった。

 次の駅に到着した瞬間、走って逃げるか? いや、女性とこのガラのわるい若者が逃がしてくれるとは思えない。位置的には彼らのほうが出口に近い。道を塞がれてしまえば、お互いの即死点を守るために僕は立ち止まざる負えないだろう。

 こうなると、手段は一つしかないと思った。

 即死点の接触を恐れ、通常車両間の移動は暗黙の了解で行われることはない。この車両から遠ざかってさえしまえば、わざわざ身の危険を犯して追ってくるとも考えにくい。そして移動さえしてしまえば、彼女たちは僕がどの駅でどこから降りるのか見当もつかなくなるはずだ。

 僕は自分の背中と鳩尾を意識した。

 リスクは高い。だがやらなければ田中さんの無事を確かめることはできない。やるしかないんだ。今ここで。

 ちらりと背後に目を向ける。隣の車両との連結部までには数人の乗客がいたが、全く隙間がないわけではなかった。かなり危険な行為だが上手くいけば通り抜けることはできそうだ。

 手すりを掴む手がぬるりと滑る。手汗が滝のように湧き出していた。

 ちらちらと窓のそとを眺めさらに挙動不審になった僕を、女性は気味の悪いものでも見るように目を細めた。

 電車がカーブに差し掛かった。僅かに体が傾く。

 今だ! 今しかない。

 カーブは電車での移動に置いてもっとも気を付けなくてはならない瞬間のひとつだ。もし姿勢を崩して誰かにぶつかれば、それだけで相手を殺してしまう可能性がある。

 誰もが全身に力を込め身を固くする中、僕は意を決して連結部に向かって足を延ばした。

「あっ!」

 柄の悪い若者が僕の動きに気づき、声を上げる。僕は構わずに次の一歩を踏み出した。

 触れるか触れないかのぎりぎりのところまで迫った僕を見て、道を塞いでいた男子高校生がどきもを抜かしたように体を仰け反らせる。

 素晴らしい反射神経。いいセンスだ。

 僕は高校生の目と鼻の先を通過し、感謝の眼差しを向ける。少年は恐怖に引きつった顔でこちらを見返した。

 あと二人。

 高校生を抜いたその一歩を大きく次の床に押し付ける。同時に目に映った手すりを強く掴み取った。

 再び揺れる車両。一歩遅ければ、僕の身体は高校生の身体に向かって全身でダイブしていたことだろう。何とかその揺れを耐えしのぎ、スライドさせるように逆の足も前に進める。

「逃げるな!」

 女性のいきどおった声が首の後ろに直撃する。彼女は移動中の車内だというのにも関わらず、僕を追おうと動き出した。

 高校生の横をぎりぎりですり抜けた僕を見て、接近されることに恐怖したのか、立ち塞がっていたはずの男性が自ら事前に道を空ける。おかげで僕は難なくその男性の横を抜けることに成功した。

 あと一人。

 その青年は、連結部を挟む扉に肩を寄りかからせていた。イヤフォンをしているせいで、騒ぎに気が付いていないらしく、ノリノリで小刻みに顎を振っている。

 無理に近づけば大抵の人間は恐怖し、距離をとってくれるはずだった。だが相手がこちらに気が付いていないとなれば、それは難しい。

 もはや死に物狂いだった僕は、無我夢中で青年に自分の存在を気づかせようとした。青年の顔の真横に手を伸ばし、扉に叩きつける。

 突如視界に僕の腕と顔が出現したのを目にした青年は、「うわっ!?」と悲鳴を上げ飛び跳ねる。

 僕はその隙に扉を開けて逃げ伸びようとしたのだが、あろうことか青年は反射的に両手を突き出した。

「な、何だお前!?」

 胸部に走る衝撃。それは肋骨を駆け抜け、一気に背中まで到達した。

 息が止まる。

 鳩尾は僕の即死点があるかもしれない領域の一つだ。思わず思考が消し飛び、全身の血が引いた。

 死――……――

 脳裏に嫌な単語が浮かび上がる。だが思考はすぐに現実に立ち返った。扉に反射してこちらに向かってくる女性の顔が見えたからだ。

 青年の手は僕の鳩尾を突いてはいない。ただ胸に当たっただけだ。

 ――いくら何でも突き飛ばすなんて、何て分別の無い真似を……!

 自分の行為は棚に上げ、そんなことを心の中で毒づく。

 僕を突き飛ばしたことで態勢を崩したのだろう。少年は前方に座っていた女子中学生に接触しそうになり、今度はその中学生から甲高い悲鳴が上がった。

 慌ててこちらに飛びのく青年。追ってくる赤いカーディガンの女性。

 再度カーブに差し掛かり、車両が傾く。

 突き飛ばされ手すりを掴んでいなかった僕は、バランスを崩し、上半身を大きく後方へ逸らされてしまった。

 今度は僕の方が後方に立っていた乗客と座席に座っていた乗客に手をぶつけそうになる。

 声にならない声が口から這い出る。極限の恐怖と緊張の中、僕は時間の流れがゆっくりになったかのような錯覚を覚えた。

 体を後ろに仰け反らせたまま、揺れに合わせて乗客に降れそうになる手を上下左右にぐるぐると動かす。そのまま何とか態勢を整え上半身を前に持ち直した。

 中学生と言い争っている青年の背中すれすれを無表情で滑り抜け、連結路の扉に手を掛ける。僕の息が首に当たったのか、青年は気味の悪い声を漏らした。

 辿り着いた。逃げれるぞ!

 腕に力を込めて連結路の扉を開け放つ。進路にはもはや何の障害も無くなっていた。

 荒い呼吸を繰り返しながら、僕は急いで連結路を移動し、隣の車両へと移る。突然扉を開けた僕を見て立っていた乗客たちがぎょっとした視線を向けてきたが、構わず突き進んだ。

 その車両は先ほどよりも多少はすいており、赤いカーディガンの女性の姿が後方に見えないことも相まって、先ほどよりも慎重に進むことができた。

 乗客たちの小さな悲鳴と敵意の籠った視線を掻い潜り、さらに次の車両へと移ったところで、僕は大きく、肺の中に溜まっていた空気を吐き出した。


 心臓が別の生物のように胸の中で脈打っている。

 やり遂げたという達成感と同時に、自分は何て恐ろしいことをしているんだという実感が湧き上がってきた。

 車両内での移動は法律で禁止されているわけではない。だがもし通報されれば強引に何らかの刑罰にあてはめられて、懲役を受ける可能性もある。こんな恐れ多い真似ができるなんてと、自分で自分の暴挙に驚いた。

 ちらりと通過してきた車両を覗き込むも、女性の姿は見えない。どうやら諦めてくれたようだ。

 ゆっくりと深呼吸を繰り返し、心を落ち着かせる。

 今気が付いたが、大量の汗でシャツがびっしょりと肌に張り付いていた。

 今度は同じへまを踏まないぞと心に誓い、鞄を胸の前でしっかりと抱きしめる。そして端末を取り出し田中さんからの返信がないか確認した。

 履歴には僕の打ったコメントしか残ってはいない。相手がコメントを見たかどうかわかる既読の印もついていないことから、無視をしているというわけでもないようだ。

 田中さん……。

 先ほどの騒動を潜り抜けた動悸の激しさと相まって、僕は胸が苦しくなった。

 外はほんのりと暗くなり始めている。

 太陽の輝きに濁りが現れ、その領域は徐々に範囲を増やしているようだった。

 しばらくぼうっと街並みに目を向けていると、肩に妙な圧迫感が生まれた。最初は疲労のせいかとも思ったのだが、窓に反射して写っている光景を目にし、僕は血相を変えた。

 見知らぬおじさんの頭が僕の肩に乗っていたのだ。

 なん、だと……!?

 酔っているのだろうか。妙に酒臭い臭いが鼻の奥に突撃してくる。そのおじさんは意識がもうろうとしているらしく、うとうととした様子で体を左右に揺らしていた。

 こ、この人、何て不注意な。僕の即死点が肩だったらどうするんだ。

 離れようにも僕のすぐ左は連結路の扉がある。仕方がなく僕はわざと肩をすこし動かし、おじさん自身にその愚行を気づかせようと試みた。

 しかしその行為にまったく感覚が追いつかないのか、おじさんは微塵も僕の肩から頭をどかそうとはしない。それどころか、倒れないように無意識で踏ん張ろうと、足の位置を変え何度も僕の足を踏みつけた。

 だから、僕の足が即死点だったらどうするんだ!

 僕は激しい憤りを覚えながらも、無理にこのスペースへ入り込んできたのは自分の方であったため、我慢し無言でおじさんから遠ざかろうと体をひねる。しかしその位置が心地よいのか、おじさんは僕が離れようとするたびに、名残惜しそうに逆に頭をすりつけてきた。

 もはや恐怖である。

 なるほど痴漢される女性の気持ちとはこうだったのか。

 誤解とはいえ、先ほどの女性の心境を今になって理解する。

 まったく何て日だ。僕はただ田中さんの無事を確かめたかっただけなのに、何故こんな目ばかりに遭わなければならないのだろうか。誰かが僕に呪いを掛けたのではないかと、本気で疑いそうになる。

 時計の針を確認する。まもなく目的の駅に着く時刻だった。

 仕方がない。どうせ肩や足は即死点ではない。非常に屈辱的だが、今は田中さんを助けるほうが優先だ。我慢さえしていれば、あと少しでこのおじさんと離れることはできる。

 僕は歯を噛みしめ、必死におじさんの頬が乗っている右肩の位置を低くしつつ、少しでも早く駅に到着することを祈りながら外の景色に逃避した。

 見慣れた光景だ。もう少し。もうほんの少しで――……。

「うっ……」

 その時、僕の肩の上でおじさんが異様な唸り声を上げた。

 眉間に皺を寄せ、息がつまったかのように顎を引いている。

 まさか――。

 一瞬で嫌な想像が脳裏を駆け抜ける。

 見えているわけではないのに、何かがおじさんの喉をせり上がっていく光景が見えた。

 冗談じゃない。この状況で吐しゃ物を吐き出されれば、間違いなく僕の顔に直撃する。いくら何でもそんなことは耐えられない。

 仕方がない。一旦連結路に避難を――……。

 そう思い隣の車両へ目を向けたところで、視界の中に赤いカーディガンが映り込んだ。

「え?」

 反射的に声に出してしまう。

 女性は諦めていなかった。死なないようにゆっくりと、だが着実に僕を捕らえるために追跡を続けていたのだ。

 右には今にも吐しゃ物を砲撃しようとするおじさん。左には僕を何が何でも捕縛しようと意気込む女性。まさに前門の虎に後門の狼だった。

 連結路に逃げても女性に捕まる。だがこのまま無理に肩を動かせばいつ砲撃が放たれるかもわからない。どうすれば、どうすればいい!?

 刻一刻と包囲が狭まる中、僕は必死に脳を回転させた。

 女性に捕まれば冤罪を証明するまで田中さんを探すことはできない。だが砲撃を受けても僕の尊厳と清潔さが失われるだけで田中さんの元へ向かうことはできる。どうするべきかは明白だ。

 だが、おじさんの臭い息と、肩を動かそうとするたびに荒くなる呼吸を受けどうしても動き出すことができなかった。本能がそれを許容させてはくれなかった。

 おじさんの口から洩れる熱気で、僕の眼鏡がふわっと曇る。これでは周りの光景をしっかりと把握することができない。僕は首をゆっくりとおじさんとは逆側に傾け、何とかその吐息から逃れようとした。連結路の方へ再度視線を向けると、そこで赤いカーディガンの女性と目があった。すでに向こうの車両を突破し、連結路の内部まで到達していたようだ。

 僕に気が付いたように、女性が「あっ」という表情を浮かべる。

 ま、まずい……!

 電車の速度が低下し、徐々に景色の流れがゆっくりになっていく。ちょうど目的の駅に停車しようとしているようだった。

 ずんずんと鬼の形相で迫ってくる女性。彼女は勝利を確信した表情で手すりに腕を伸ばした。

 優先度を考えればここは身を汚して逃げるべきだ。だがどうしても動くことができなかった。それほどまでにおじさんの吐しゃ物が恐ろしかった。

 田中さん。すみません。僕はここで終わりかもしれません。

 恐怖と悔しさと憤りで頭がいっぱいになる。がらりと連結路の扉が開き、意気揚々と女性がこちらの車両に足を踏み込む。どうじに肩に乗っていたおじさんが勢いよく胸をせり上げた。

 人は死ぬ直前に走馬灯を見るというが、これがそれなのだろうか。

 僕は突然、幼少期のころから今に至るまでの記憶が脳裏に駆け巡った。

 お祖母ちゃんに連れて行ってもらった遊園地のヒーローショー。

 クリスマスの日にふと目が覚めたとき、プレゼントを置こうとしていた母が放った「私はサンタの変装よ」という言葉。

 中学の修学旅行、温泉の湯船から上がった直後に発見した、底にあった何者かの大便。

 ありとあらゆる記憶が浮かび上がっては弾けるように消えていく。

 その中で、とある台詞が脳裏を貫いた。

 ――前島や。ピンチこそ、最高の武器になるんやでぇ。

 大学受験の少し前。僕は階段から足を滑らせ、利き手を骨折するというミスを犯した。その時に担任の教師から言われた言葉だ。

 授業中、僕はメモを取ることだけで精いっぱいで、あまり教師の話を理解することができないことが多かったのだが、腕を骨折し、授業後に友人のノートを見せてもらうというスタイルに変更したことで、教師の話に集中できるようになり逆に成績が上がってしまったということがあった。

 どんなピンチもやり方次第で好機へと変貌する。それはそれ以後ずっと僕が持ち続けているポリシーであり、人生の教訓だった。

 女性とおじさんの位置関係をさっと見る。僕は反射的に膝を屈め、おじさんの頭の下から肩を離すと、彼の頬に左手を添え目の前の足元へと砲身を向けた。

 おじさんの膨らむ頬をみてぎょっとした表情を浮かべる女性。直後、おじさんの口から放たれたマグマのような物体が僕と女性の間に落下する。

 目の前の光景の衝撃と立ち上る臭気に恐れをなし、思わず後ずさる女性。嫌悪に満ちた目で吐しゃ物の防壁を見下ろしている。

 その隙に、僕はおじさんの背後を滑り抜け、この端から二個目にある扉へと向かった。

 駅に着き解放される扉。

 僕はさっそうと電車から踊り出ると、そのまま一目散に改札を目指した。

 背後では列を無視して駆け抜ける僕に怒号を浴びせる者もいたが、構わず走り続ける。何とか改札を抜けひと気の少ない路上までくると、僕は疲れを吐き出すようにどっと膝に両手をついた。






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