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即死スイッチ(1)

  1


 突然大音量の声が響き、目が覚めた。

 薄っすらと暗い部屋の中で七色の光が点滅している。目覚ましとして設定したテレビが起動したのだ。

 ああ――……もう朝か。

 ほとんど寝た気がしない。僕は眠気に負けそうになったのだけれど、画面に映る時刻を見て諦めた。少しでも睡眠時間を確保するために朝の時間はシビアに計算している。今ここで二度寝してしまえば、会社に遅刻するのは確実だった。

 冷蔵庫から昨日雑貨店で買ったパンと牛乳を取り出すと、僕は重い体を引きずってソファに座った。

 そのまま機械的に味に飽きてきたパンをかじりつつ画面を見つめる。

 ニュースでは最近話題になっている連続殺人事件について報道していた。

 ――昨夜未明。品川区大崎駅前の路上にて、五十代の男性の遺体が発見されました。発見された場所は人が密集するような場所ではなく、怪しい男が付近の道を走り去っていったという目撃情報から、近頃話題の連続殺人鬼――通称『撫で男』の犯行である可能性が上がっております。警察は病歴や外傷の有無について調査したのち、正式な発表を行うとの――……

「うわ……また犠牲者が出たのか……」

 僕は酷く気分が悪くなった。まったく朝っぱらから何でこんな情報を目にしなければならない。

 撫で男。それは、一か月ほど前から度々テレビやネットを騒がせている通り魔の呼び名だった。すれ違うふりをして、相手に悟られることなくひと撫でで他人を殺していくことからそう呼ばれるようになったらしい。今回の事件がこの撫で男の仕業であれば、無くなった男性は四人目の犠牲者ということになる。

 この手の手合いは何が嬉しくてこんなことをするのだろうか。全くもって理解ができない。ただでさえいつどこで人が死んでもおかしくはない世の中なのに。

 大崎駅は僕も最寄りの駅として利用している場所だ。近くに犯人が潜んでいるかもしれないと考えると何だか背中がざわついた。


 

 アパートの鍵を閉め、外に出る。

 今日は天気が良い。温かい陽射しは暗くなった気分を少しだけ盛り上げてくれた。

「あ、前島さん。おはようございます」

 不意に声が聞こえたので振り返ると、お隣に住んでいる田中さんが立っていた。ゴミ出しのために外に出ていたらしい。

「おはようございます」

 彼女の素敵な笑顔を見て、僕は顔を赤くしながらそう返した。去年就職を機会にこのアパートへ引っ越してきてから、彼女とは何故か顔を鉢合わせる機会が多々あり、いつの間にか僕は、彼女に好意を持つまでになっていた。

「相変わらず朝早いんですね。ご苦労様です」

 礼儀正しくお辞儀する田中さん。僕は照れながらも何とか言葉を絞り出した。

「乗車制限の所為で、乗れる電車が限られていますからね。この時間じゃないと遅れてしまうんですよ」

「そっか。前島さんは電車通勤なんでしたっけ。大変ですね」

「慣れればそんなに苦じゃないですよ。みなお互いに接触しないように気を付けていますし、普通にしていれば危険なことはありません」

「でも、毎日ニュースで死亡事故について報道されているじゃないですか。私そういうの見てると怖くて乗れなくて……車出勤とか駄目なんですか」

「あいにくと、うちの会社は駐車場が無いんですよ。どこかで借りるとしても高くつきますからね」

「……極力気を付けて下さいよ。前島さんに何かあったら私も悲しいですから」

 それはどういう意味なのだろうか。

 僕はどきりとして田中さんの顔を見つめ返した。長く黒い髪が風に揺れ、少しだけほんのりと赤くなった彼女の頬が目に付く。

 もしかして脈ありなのか。そう考えると一気に鼓動が早くなる。

「姉ちゃん。朝飯まだー?」

 どたどたと足音がしたかと思うと、彼女の部屋から少年が飛び出してきた。鼻水をたらしたその坊主頭を見て、僕はピンクの空気をぶち壊された気分になった。

「隆司、裸足で外でないでっていつも言ってるでしょ」

「えーだって面倒じゃん。ちょっと外出るだけなのに」

 この隆司とう少年は田中さんと二人暮らしをしている小学校二年生の弟だった。片親である彼女の父は漁師であり、年中家を留守にすることが多く、基本的に彼女は一人でこの隆司の面倒を見ながら大学に通うという生活を続けていた。

「おっちゃんまだ仕事いかないの?」

 あからさまに迷惑そうな表情を浮かべる隆司。僕は僅かに顔をしかめたが、相手は子供だと自分に言い聞かせ、笑顔を作った。

「もう行くよ。ごめんね隆司くん。……じゃあ、田中さん」

「はい。いってらっしゃい」

 笑顔で送り出してくれる田中さんに心をときめかせつつ、時間も時間であるため慌てて階段を降りる。さて今日もいつものつまらない日常が始まると、この時の僕はそう思っていた。


 

 駅が見えてくると、改札から伸びる人の列が見えた。

 他者とは一定間隔を開けるようにと法律で決められているため、並んでいる人々の間には一メートルほどの隙間が空いている。まるでドミノ倒しのドミノのようだ。

 僕はため息を吐きながら彼らの最後尾へ並んだ。煩わしいが仕方がない。これも国民の命を守るための処置なのだから。


 僕たち人類の身体には、一定の強さで押されることで、命を奪い取る即死点と呼ばれる箇所がある。その箇所は頭にあったり腕にあったり股間にあったりと、人によってばらばらだ。

 そのため僕たちは他人との接触や何かに触れる際、常に細心の注意を行う必要があった。コップを持ち上げる時。服を着る時。髪を切る時。日常生活のどこでも死の危険が付きまとうのだ。人々はおっかなびっくり物に触れ、徐々に安全な部位を認識していくことで自身の即死スイッチの箇所を予測していく。

 反射的に自身の身体を弄ってしまう幼少期の死亡率はかなり高く、これほど科学や法律が整備された現代においても、大人になるまで生きていられるのは出生数の二割ほどでしかない。そのため三十を超えるまで生存している者は魔法使いと呼ばれ、五十まで生きているものはもはや賢者ともてはやされる有様だ。

 極力触れたことのない場所を刺激しない、他者との接触を控えることが生き延びるための大前提であり、こうした乗車規制もその一環だった。

 ネットニュースを見つつゆっくり歩を進めていると、ようやく改札が目の前に近づいてきた。

 僕は手早く定期の認証を終わらせ改札を通り抜けると、端末をポケットにしまった。太ももの周囲は依然転んだ時に打ち身をしたことで、安全な場所だと分かっていたから、特に気を付ける必要もない。これまでの経験から、僕は自分の即死点は背中か脇、鳩尾のどこかだと推測していた。

「あっ……!」

 ホーム内のいつもの場所へ向かおうとした瞬間、背後から男性の野太い悲鳴が響いた。

 反射的に振り返ると、四十代ほどのサラリーマンが顔を真っ青にして自分の足先を見つめている。手が滑ったのか、定期として使用していた端末を落としてしまったようだった。

「足首に……足首にあたった……!」

 後ろの列がつっかえているというのにも関わらず、改札のど真ん中で仁王立ちしそんな言葉を吐き出す。彼の形相を見て、僕は何が起きたのかを瞬時に悟った。

 サラリーマンは数秒ほど茫然としたかと思うと、突然雷に打たれたかのように体をびくつかせ、目を大きく見開いた。視線は宙の一点を見つめ、唇が小刻みに痙攣している。

 ああ……。可哀そうに。

 彼の様子を見て、僕は思わず同情した。

 うめき声を上げ倒れるサラリーマン。彼はしばらく改札の間で痙攣した後、すぐに動かなくなった。

「きゃあっ!?」

 まだ人の死に慣れていないのか、後ろに並んでいた女子中学生が大きな悲鳴を上げた。

「ああ、結構年配だったのにねえ。ついていない」

 横に立っていた見知らぬ夫人が悲しそうに呟くのが聞こえた。

 がらがらと金属が跳ねる音が響き、駅員が搬送台を押して駆け寄ってくる。サラリーマンの遺体は乱雑にその上に乗せられると、あっという間に改札の間から運び出された。

 事態が解決したことを悟った人々は、すぐに何事も無かったかのように移動を再開する。僕もため息を吐きながらホームの定位置へと移動した。

 こどれだけ長生きしても、どれだけ気を付けていても、いつどこで誰が死んでもおかしくはない世の中。あまりに死が短すぎるせいで、目の前で誰かが亡くなっても、誰も気にもしない。それが、僕たちの生きるこの世界の日常だった。



 窓から覗く景色を眺めつつ、僕は重々しい車内の揺れに身を任せた。

 並ぶ時と同様、隣の人間とは一定間隔をあける決まりがあるが、狭い車内のために屋外に居る時よりもその距離は近く、座っている者、立っている者含め、まるで戦場の中に居るかのような緊張感があった。

 それも当然だろう。なんせ電車内の死亡事故は、年間死亡者の五割を占める。現代社会において最も殺される危険が高く、また誰かを殺してしまう危険のある場所。それが走る棺桶こと電車なのだから。

 少し大きな揺れがあり、背後に立っていた若い男がよろける。僕はひやりとして瞬時に前に一歩移動し事故に備えたが、若い男は歯を食いしばりその場に踏みとどまった。

 ほっとしたのもつかの間、今度は前に座ていた女子高生が凄い勢いで腰を浮かせ、敵意と恐怖の入り混じった目でこちらを見上げる。僕が前に踏み込んだから、ぎょっとしたのだろう。

 電車内での死亡事故は、何も揺れによる偶発的な接触だけではない。こういった些細なことが切っ掛けで争いとなり、短気だったり臆病な人間が相手を突き飛ばすことで発生することも多いのだ。

 僕は彼女を刺激しないように右の掌を前に上げつつ、ゆっくりと足を後退させた。それで、女子高生は恐る恐るといった調子で浮かせていた腰を下ろした。

 田中さんにはああ言ったものの、やはり車内は危険だ。常に何が起きるかわからない怖さがある。

 僕だって可能であれば車通勤や徒歩圏内での出勤がしたいけれど、ごく単純な理由でそれは実現不可能なのだ。

 背中がまだ安全圏になっていない僕は、座席に背を押し付ける車の乗車が叶わない。徒歩出勤を行おうにも、会社があるオフィス街近辺は同じような目的で家を借りようとする者が多いため、その家賃は非常に高価だ。僕の給料ではとてもじゃないが借り続けることは出来ない。

 だから嫌だと思いつつも、僕は生きるために電車に乗るしかないのだ。生きるために毎日この戦場の中へ身を置き、命の危険を犯して出勤を繰り返している。いつかこの地獄を抜け出し、金持ちになって田舎の広い一等地で悠々自適な生活を送れることを夢見ながら。

 これまで二十四年間生きてこれたのだ。ここまで頑張ってきた。ここまで生きてきたのに、車内事故なんてありきたりな死に方は絶対にしたくはない。せっかく田中さんという素敵な女性にも出会えたのだ。彼女に思いを伝え結婚するまで、何としても死ぬわけにはいかなかった。



 僕の即死点は、これまでの経験則から恐らく背中か鳩尾、脇の下のどこかにある。そのため仕事で使用する椅子に背もたれは無く、どれだけ疲労していても腰を落ち着かせることはできなかった。

 まあ、休みたいときは鳩尾を守りながら仰向けに机に突っ伏すことはできるから、まったく体が休まらないというわけでもないし、何より即死点の候補が少ない分、僕はまだ自由に動ける方だ。世の中にはもっと不便な生活を強いられている者がたくさんいる。

 パソコンの電源を入れメールや連絡事項の確認をしていると、ちょうどその最たる例である同僚の山田が姿を見せた。

 山田は僕の隣にある自身の席に着くと、鞄を置きそこで仁王立ちを始めた。彼は尻肉と鼻先、首の後ろが即死点だと予想されていたため、座ることができず椅子は用意されていなかった。

 山田の事情を考慮し、パソコンは彼の目線と同じ高さになるように台に置かれており、常に周囲の人間を見渡す格好で一人だけオフィスの中でその姿を目立たせている。位置の関係上、良くペンやら書類が僕の机に落ちてくるから個人的には迷惑しているのだが、事情が事情であるため仕方がない。ただ机に突っ伏して休憩するときだけは、自分の席を離れることにしていた。

「おはよう」

 乳首周辺に即死点があるかもしれないからと、胸部をまるでブラジャーのような鋼鉄製のプロテクトで覆っている男性の先輩社員が通り過ぎていく。毎度のことだが教養のない幼児が彼を見れば、ただの変態以外の何者でもないだろう。

 朝礼まで時間があるので業務の準備を行っていると、左隣の山田が妙にそわそわしていることに気が付いた。立ったまま体重を右左に移動させたり、頻繁にアキレス腱を伸ばしたりしている。確かに彼は一日中座ることができないから、日々辛そうにしているのは知っていたけれど、今日は何だかいつも以上に挙動が不審だ。少ししゃくれている顎がいつも以上に鋭さを増し、目にクマが浮かんでいた。

 僕の視線に気が付いたのだろう。山田はいぶかし気にこちらを見た。何か言わなければと思い、僕は思ったままを口に出した。

「どうした? なんか顔色が悪いけど」

 僕の声を聞いた山田は、机に両手をつき少しでも体を楽にしようとしつつ、大きなため息を吐いた。

「いや……最近寝れなくてさ。俺まだケツが安全圏じゃないだろ。今までは特注のベッドで仰向けに寝てたんだけど、先週末にそのベッドが壊れちまってさ。新しいのがくるまで仕方ないから市販の万能ベッドで寝てるんだけど、寝づらくて寝づらくて。下手に動いて即死点を突いても怖いしさぁ」

「そっか。それは大変だな」

 この年齢になってもまだケツが安全圏でないとなると、業務中以外での山田の苦労は計り知れないものだろう。かといって無理にケツを弄って死んでしまっても本末転倒だから、偶然ケツが何かに触れて安全圏だと分かるまでは、今の生活を続けるしかない。

 僕は本心から彼に同情した。

「前島は睡眠の苦労とかないの? 背中と鳩尾だったけ? それなりに辛そうだけど」

「楽ではないけれど、僕は横向きに寝れば何とかなるからね。まあ寝ている間に背中を打ち付けないようにロープで体をぐるぐるに固定してはいるけれど」

「普通は幼少期にある程度の安全圏は確保できるからな。早いうちに座れるようになった奴らが本当に羨ましいよ。俺はちっさい頃、水膜ベッドを使ってたせいで、こうなっちゃったからなぁ」

 水膜ベッドとは、特殊な液体を満たしたゴム質のベッドのことで、体全体を均等な力で支えるという即死点を考慮した昔からある製品だ。即死点を突かれれば人は死ぬが、死に到達する力の強さは人それぞれだから、満遍なく均等に体を支えることで、睡眠中の死亡事故を最低限に減らすというコンセプトで作られた。およそ五十年前に販売が開始されたのだが、その構造上非常に高価な代物であり、ある程度の収入を得ている富裕層でなければ使用することはできない。僕は一般的な家庭だから普通に命を懸けて睡眠を繰り返してきたけれど、金持ちの家で育った山田は、幼い頃からそれを使用することができたらしい。もっともそのおかげで、未だケツが安全圏かどうかわからない状態になってしまったとも言えるが。

「まあ安全圏と言っても、実際はただの推測だろ。実際に死ぬときまでは本当にそこが安全かどうかなんてわからない。実はそこが安全圏じゃなかったって事例はいくらでもある。お前も座れるからってあんまりケツに負荷を強いるなよ。実はケツのある一点が即死点だったなんて可能性も無いことは無いんだからな」

 その心配はもっともな意見だ。僕の父も上腕部は即死点じゃないと思い込んでキャバ嬢に筋肉を見せびらかした結果亡くなった。山田のその言葉は言われなくとも身に染みてわかっていた。

「さっきからケツケツうるせえぞ。そんなにケツが好きなのかお前らは。朝なんだからもう少し静かに会話しろ」

 乳首にプロテクトをした先輩社員が向いの席から注意する。山田はばつが悪そうにプロテクトで巨乳に見える先輩社員の胸を一瞥すると、曲げていた腰を戻し、自身のパソコンに向き直った。

 体調の悪そうな山田の横顔を見ているととても不安になる。頼むから背中に倒れ込んでくれるなよと、僕は内心祈った。




「それでは、月一の全体朝礼を始めます」

 課長の一人が声を上げ、皆が席から立ち上がる。山田は常時立っているから問題はないが、その号令に合わせ僕も腰を上げた。

 一般的な連絡事項、最近起きた情報漏えい事故に対する注意喚起など、お決まりの説明が進められる。

 一通りの説明が終わると、課長が手招きし、五十台ほどのいかつい顔の男が前に出た。

「え、続きまして人事異動の件ですが、本日付けて第二開発グループの花岡さんが、当部の部長に就任致します。花岡さん、一言、ご挨拶をお願い致します」

 花岡――……いや、部長と呼んだほうがいいのだろうか。部長は色黒の肌の中に白い歯を光らせ、満足げに皆を見渡した。

「本日付で部長に就任致しました花岡源次郎と申します。他部署からの移動であり、皆さまの業界知識はまだ疎い部分もございますが、管理職としてすぐに皆さまの信頼を勝ち取れるよう、励んで参りたいと思います。それでは、皆さま。以後宜しくお願い致します」

 パチパチパチと、まばらな拍手が沸き起こる。

 ばんばん人が死んでいくこの世の中では、年が上に行くほどその人口は少なくなっていくが、代わりに生き残っている人間は即死点の候補をある程度絞り込めているため、簡単に死ぬことはなくなっていく。五十代ともなれば、社内で数えるほどもいない立派な‶賢者〟だ。これでしばらくは安定した業務体制が続けられるかなと、そう思った矢先だった。

 深々とお辞儀をする花岡部長。意気込みが強いのか、勢いよく頭が下がる。かなり熱意の強い人に違いないと思ったところで、黒いものが床に落下した。ビタンと、まるで生魚が船の上に上がったときのよう物音が鳴る。

 きらめく頭部。皆の視線が集まるカツラ。

 雑草一つない見事なハゲが、そこに広がっていた。

「はっ!?」

 それは課長の口から洩れた声だった。

 頭を伏せている部長と床に分離した黒いものを目にした課長は、凄まじい速度でそれを拾い上げ、部長の頭に叩きつけるように乗せなおした。見事、としか言いようのないほど素早い反応だった。まるで部長のカツラが落ちたのは、幻覚だと言わんばかりの無表情で前を見据えている。

 僕は課長のその手腕に感動さえ覚えた。まさに上司を思う部下の鏡と言える姿がそこにあった。

 これで部長が何事も無かったかのように顔を上げれば、全てが丸く収まる。皆が目にした出来事を無かったことにすればいいだけだ。しかしどういうわけか、部長は頭を下げたまま、微塵もそこから首を動かそうとはしなかった。

 カツラを被っていることがばれた恥ずかしさで顔を上げられないのか?

 最初はきっと誰もがそう思った。だが事実は違った。

 妙に小さく高い声を上げ、ぶるぶると動き始める部長の肩。その体はぐらりと倒れ、目を見開いて血の気を失った部長の顔があらわになった。

「部長ー!?」

 課長が驚愕の表情で痙攣している部長を見下ろす。

 この反応は間違いない。これまでの人生で何度も目にしてきた光景だ。どうやら素早くカツラを叩きつけたせいで、頭頂部にあった部長の即死点が押されてしまったようだった。

「まさか、ハゲ隠しではなくそのためのカツラだったのか」

 巨乳のように見えるプロテクターを触りながら先輩社員が呟いた。

 こうなってしまってはもはやどうしようもない。泡を吹き徐々に動きを緩やかにしていく部長を眺め、絶望したように課長が座り込んだ。

 善意だったにも関わらず、人を殺してしまったのだ。課長の心は地獄の炎に焼かれているかのような有様だろう。

 新任の部長と課長両方の退場。

 その予期せぬ不幸を目のあたりにしていると、ぼそりと、山田が呟くのが聞こえた。

「これで……上のポストがまた開いたぜ」





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