【2】長い長い言い訳
――(※文章は唐突に始まっている)――
――(※一部解読不能部有り)――
――(※意味不明だが原文のまま掲載)――
最愛の人を喪うことがこんなにも辛いだなんて、私は想像もしていませんでした。
いや、現実は想像を遥かに上回った(あるいは下回った)というほうが正しいでしょう。
最愛の人と死に別れる。それは私の大嫌いな映画やドラマの世界で今や定番のネタです。フィクションだろうがノンフィクションだろうが、どういう層に需要があるのか知りませんが一定の支持を受けていることだけは間違いありません。
そしてそれは往々にして「感動作」との評価を受けます。
ふざけるな。
死別を感動と結びつける人間は、真の意味で最愛の人を喪ったことがない人間です。
勿論、別れの数は人の数だけ存在します。なかには感動的な今生の別れをご経験された方々もいるかもしれません。
しかし――それは例えばご高齢の方を見送る際など、ある程度の「仕方なさ」を含んだ場合に限ります。最愛の人を喪えば、「仕方ない」「感動する」といったクソみたいな言葉で片づけられるはずがないのですから。
待つのはひたすら深い洞穴です。
虚無です喪失です絶望です。
世界の停止です。
――(※無数の書き直した痕跡・解読不可)――
――(※無数の書き直した痕跡・解読不可)――
――(※無数の書き直した痕跡・解読不可)――
ああ……言葉で伝えようとすればするほど、実際の感情から乖離していくように思えてなりません。
ただこれだけは分かってください。
私は産まれたその瞬間から、「殺人鬼」だったわけではないのです。
(空白)
あの人が火葬場の煙突から昇っていくのを見送った日、私は時間の感覚が狂うほど泣き続けました。
泣いたところでどうなるものでもない。そんなことは分かりきっていましたが、体内でのたうち回る真っ黒な衝動に突き動かされて、他のことを考える余裕などありませんでした。
そのときの私はほとんどケモノでした。涙と涎で噎せても、血を吐いても、泣くことを――意味も無く叫ぶことを――止めなかったのですから、到底人間業ではありません。
両親や友達(あの人のトモダチです)もじょじょに寄りつかなくなりました。しかし私にとっては好都合でした。私は人間以下のケモノですから、間違って慰めの言葉などかけられようものならその人物を滅多刺しにしていたに違いありません。
両親たちは、幸運にも命拾いしたのです。
声が出なくなってから、私は長いあいだ床に頬を擦りつけて呻いていました。真っ黒な衝動は比較的落ち着きましたが、完全には沈黙してくれませんでした。
いや……二度と完治はしないのです。それは未来永劫消えない焦げ跡となり、私の心の最深部にこびりついています。いわば腫瘍みたいなものです。
私はその日を境に、ビョーキになってしまいました。
何を食べても味がしません。何を観ても聴いても心が動きません。世界に色彩を感じません。ただ、のっぺりとした灰色が連なっているようにしか映らないのです。
病名は分かりません。
が、ともあれ私の世界は終わりました。
終わった、という感覚だけが手元に残りました。
この頃になると、私を慮った人々がにじり寄ってくるようになりました。外見上は沈静してみえるので、接触を試みる勇気がでたのでしょう。どこか腫れ物に触るような具合なのが鼻につきましたが、私を心配してのことなのでほんの少しだけ心が動きました。
ほんの少しです。
優しい言葉も、前向きな言葉も、同様の症状に苦しむ患者の体験談も、あの人の喪失を埋めるには微々たるものでした。というか――はっきりいってどうでもいいものでした。
私の胸の腫瘍を摘出できるのは他人の優しい言葉でも、前向きな言葉でも、体験談でもありません。
あの人の、たった一言……たった一言です。
内容はなんでもいい。どんなことでもいい。どんな調子外れなことでもいい。
それだけで、私はこの停止した世界から、私を救うことができました。
他人に頼らなくても自分で自分を助けることができました。
しかし――それは不可能なのです。
絶対に不可能だからこそ、私は助からない運命にありました。
あの人はもういません。
この広い世界のどこにもいません。
それが唯一無二の真実です。
それを誰よりも理解していながら執着を捨てきれない私は、それから未練がましく灰色の街をふらりふらりと彷徨いました。あの人の面影を辿ったのです。
ある日は喫茶店に行きました。……珈琲と甘いものに目がない人でした。好物を前にすると、子供っぽくにこにこと笑みを浮かべて、店内の誰よりも幸せそうに蕩けていました。
私はショーウィンドウ越しに店内を見渡して、追想に耽ります。そうやってあの人と、思い出のなかで一時の再会を果たすのです。仮初の再会とはいえ、その瞬間だけは私は私を騙すことができます。
しかし……やがて目が覚めると、私はいるはずのないあの人を縋るような心地で探してしまい、そして見つからずに落ち込みました。
もちろん見つからないのが当然なのですが、何かの間違いで――この世界が奇跡的な勘違いを起こして――その当然が覆されることを期待したのです。まったくもって愚かとしか言いようがありません。
ある日は海に行きました。あの人と海に来たことは数える程度しかありませんが、そのすべての出来事を鮮明に思い出すことができます。
私は、私より果てしなく広大な存在に臨むことで、何らかの新発見を得られるのではないかという淡い期待を抱いたのでした。
結果……得られたのは、「何もしなくても時間は流れる」という虚無的な法則だけでした。
私が何もしなくても(あの人が世界から喪失しても)波は淡々と満ち引きを繰り返し、人は銘々に自分たちの時間を過ごしていく。
つまり、この世界は私とあの人抜きでも、さしたる支障もなく回り続ける。
そんな至極当然のことを噛みしめるに終わったのです。
死が頭を過ぎりました。
が、死ぬまでには至りませんでした。
どうでもいいことなので省きますが、私はあらゆる手法を駆使して自殺を試みたのです。しかし(―――※無数の修正跡・解読不可――)私は臆病者であると同時に根っからの卑怯者であった為、そのことごとくを失敗してしまいました。
生きるにも死ぬにも中途半端な人間です。
私は死ぬことを諦めました。
このとき諦めていなければ……あるいは暴走することもなかったのでしょう。
遅くなりましたが、この文はすべて「言い訳」です。
長い長い言い訳です。
意識が朦朧としてきたので、私が人を殺めた経緯を、そろそろ記しておこうと思います。
想定外の抵抗に遭ったため出血量が酷いのです。駆け足になりますが、どうかご容赦ください。
私が人を殺めた日、つまりは今日。
私はいつものようにふらりふらりと街を彷徨い、通勤ラッシュの激しい朝の夜深山駅に流れ着きました。社会人としてのあの人を追体験しようと考えたのです。
そこで不思議な青年を見かけました。独りでぶつぶつと、「ヘルシング」だの「カミノツカイ」だの意味の分からいことを呟いている青年です。目の焦点が定まっておらず、少し危うい雰囲気でした。
私が何の気なしに近づくと、「イカレタサツジンキ!」……そう悲鳴をあげて青年は逃げていきました。
はて……見ず知らずの人にサツジンキ呼ばわりされる覚えはないのですが……。
私は心中疑問符でいっぱいでしたが、すぐにそんなことは忘れて夢想に耽りました。心の優しかったあの人を真似して、鞄のぬいぐるみを落とした高校生に落とし物を届けてあげたり、杖をついたご老人を優先席まで案内したりしました。
そうすることで身近にあの人の息吹を感じていたのです。
――よくやったな。さすがはおれの愛する人だ。
そんなあの人の言葉が、耳元に甦るようでした。
そのときです。
「よくやったな」
人々の喧騒や環境音の合間を縫って、確かに声が聞こえました。
私は咄嗟に声のほうを振り返ります。
スーツ姿の男性です。
隣に立つ後輩らしき男性を褒めている最中のようでした。
開いた口が塞がりませんでした。瞬きすら忘れてよくよく見つめました。
そんな馬鹿な。
嘘だ嘘だ嘘だ。
消えてしまったはずのあの人が目の前にいる!
世界が奇跡的な勘違いを起こした!
…………なんて。
瓜二つの別人であることは、私も夢見る少女ではないので理解していました。死人は何をしても死人です。「物」として扱われ、運ばれ、燃やされる。そして消失する。ただそれだけのことでしかありません。
しかし――それにしても似ている。柔和そうな目、少し低めの鼻、喋りかた、立ちかた、髪型。どれをとってもあの人と遜色ない。
別人なのだろうがまるきり別人とも思えない……。いや、思いたくない。
もしかしたら双子? あるいは、生まれ変わり?
真偽のほどは分かりませんが、とにかく私は数奇なめぐり合わせに驚愕しました。そして、ささやかな感謝の念めいた感情を覚えました。
ただ呼吸を止めないだけの無限の日々に、たった一滴ですが色らしい色が生まれたのです。
私は、その男性の後を追いました。
降りたことのない駅で私も降ります。
彼はとても楽しそうに後輩と話をしています。
その光景に、気がつけば私は涙していました。
疾うの昔に枯れたとばかり思いこんでいた人間らしい熱のこもった涙です。
ああ……あの人が歩めなかった分まで、彼が代わりに歩いてくれている。あの人が経験するはずだった喜びや楽しみを、彼が代わりに余すことなく経験してくれている。
あの人が生きられなかった分まで、彼がしっかりと生きてくれている。
そんなふうに思えてならなかったのです。
先週の飲み会の話。
共通の友人の話。
昨日の野球の試合結果。
職場の愚痴。
とるにたらない冗談の応酬。
その一言一句が、私の胸を締めつけました。
しかしそれは、あの人を喪ったときの締めつけと違い、本当に、本当に……心の底から救われていく感覚でした。
私の言葉なんかではそのときの情緒を適切に表現することはできません。
彼は、見知らぬ街の見知らぬビルに入っていきました。そこが彼の職場なのでしょう。
玄関ホールに警備員が立っているため、私は仕方なく外で待つことにしました。
太陽が頭上に昇り、そして沈みます。
私はそのあいだずっと彼を待ち続けました。
午後六時を回った頃、大勢のスーツ姿に交ざって彼もビルから出てきました。
私はその後を追いました。
いやな想像が巡りだしたのはこのあたりからです。
彼は、あの人と私が住んでいた家と真逆の方角を目指して歩いているようでした。
まさか……そんな……やめて……。
せっかく生まれた色が、見知らぬ角を曲がるたびにみるみると失われていくのを感じました。
いや……考えてみれば至極当然のことなのです。私が心底どうしようもないほど愚かな人間というだけで……。
果たして彼は、見知らぬ我が家へ帰り着き、玄関先で出迎えた見知らぬ女を抱きました。
無論彼からすれば、ただ真っすぐに我が家へ帰宅しただけのことです。
愛する妻の待つ正真正銘の我が家なのですから。
何もオカシイことはありません。
しかし私のなかのケモノは……そう解せませんでした。
彼と女が室内に消えます。
車道に面した門扉を開くと、なけなしの理性が、こう訴えました。
もしも玄関に鍵がかかっていたら大人しく帰ろう、と。
私の大部分を占めたケモノが尋ねます。
帰るって、どこへ?
ええっと……。
私の帰る最後の場所は、あの女に盗られたよ?
それもそうだね。
私はほとんど無感情に、玄関扉に手をかけました。
鍵はかかっていませんでした。
――イカレタサツジンキ!
奇しくも青年は私の本性を見抜いていたのです。
それから私は、ゆっくりと玄関扉を押し開いて……
「パパ! ママ!」
そんな幼子の声をどこか遠くのほうで聞きました。
――(※文章は唐突にここで途切れている)――
――(※血溜まりのなか犯人の姿は無し)――
――(※目下捜索中)――