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女の子が目を開けると、天井が視界に入った。変わらない、家の、居間の天井である。うっすらと涙が目尻に溜まっていて、瞬きをすると、それは頬へと流れた。
時計の短い針は二つほど進んでいた。女の子は結構寝ていたようだ。それでも外の色は相変わらずで、雨音を背景に秒針の音がいやに大きく聞こえた。
「あ……。ゆ……め……。」
―本当に夢で終わっていいのかい?―
視界の端で何かが動いたような気がした。尻尾のような何か。女の子は動く何かを目で追った。
「やあ。」
後ろには、ネコがいた。電気がついていない薄暗いキッチンの、机の脚に寄り掛かるるように赤い長靴をはいたネコがいた。遠目だが、背丈は女の子の半分ほどだろう。
「え!?ネコさん。な、なんで?」
女の子は目を丸くしてネコを見た。ネコもまた、大きな目を細らせて女の子を見る。
「言ったでしょ、僕は君の友達だって。」
「まだ、夢なの?」
辺りを見回しても、そこはいつもと変わらない家の薄暗いリビング。違うのはネコがいる事だけ。女の子は両手で頬をつねった。しかし痛くてすぐに手を離す。
「夢じゃないさ。ここは現実。君の想像が本物になったんだよ。」
「でも、そんな事って。」
「あるから僕がここにいるんでしょ?」
「そっか……。」
「さあ、僕と遊ぼう。何して遊ぶ?」
キッチンにいたネコは近づいてくると、女の子の周りをチョロチョロ走りまわった。
「何って……。」
「あ、そうだ。君は僕をなんて呼びたい?」
「なんてって、ネコさん、お名前は?」
「ないよ。僕は君が生み出したものじゃないか。いつも描いていたこのキャラクター。君はなんて呼んでいたんだい?」
「き……。」
女の子は胸の辺りを押さえて言葉に詰まる。
「ん?き?」
ネコは丸く、大きな目で女の子の顔をじっと見た。
「キリト。」
女の子は小さな声で言った。その声をネコは耳を立ててちゃんと聞いていた。
「キリトか。いい名前だね。うん。今日から僕はキリトだ。君の友達のキリト。よろしく、七海ちゃん。」
「え!?どうして私の名前……。」
「僕は君からでてきたんだよ?知っていても不思議じゃないだろう。ほら、遊ぼうよ。」
キリトは少し強引に七海の手を引っ張った。
「なにして遊ぶの?」
「そうだなあ。七海ちゃんはなにして遊びたい?」
キリトの問いに七海は少し迷ってから答える。
「うーん。二人でお絵かき。」
「お絵かき!いいよ、やろう。」
七海はリビングに座り、テレビの前の机にスケッチブックとペンを置いた。キリトはその周りをチョロチョロ動く。七海が描いたらキリトの番。キリトが描いたら七海の番。スケッチブックは一つしか無いので変わりばんこに絵を描いた。互いにお題を出し合って描くこともあって、紙の上には犬や猫や像やキリン。車やケーキなど、総じて七海の好きなものが描かれていた。二人とも子供らしい絵を描いていたが、七海の方が少しだけ上手に見えた。
あっという間に時間が過ぎる。窓の外はもう暗いというのに七海の母親はいまだ帰宅しなかった。時計の針は、二十一時を指している。
ずっとキリトと遊んでいた七海だが、次第に彼女の動きは鈍くなっていて、瞼もうつらになっていた。それに気付いたキリトが声をかける。
「どうしたの七海ちゃん。」
「えっと、その。もう九時だから眠くなっちゃって。」
七海はキリトの頭が入りそうなほど大きなあくびをした。それを見てキリトも持っていたペンを置く。
「そっか……。じゃあ、僕ももう帰らなきゃいけないね。」
「帰るって、どこに?」
「どこかさ。」
そう言うと、キリトの身体はどんどん色が薄くなっていった。それが存在から消えてしまうようにも感じる。
「あ、待って!」
「なんだい?」
「あの、えっと、また……。また、会えるよね?」
不安そうに聞く七海の顔をキリトはじっと見る。目を見て優しく微笑むと、
「君が願えば僕はいつだって出て来るよ。僕は君の友達。いつだって君の一番近い所にいるよ。じゃあね。」
言い終わると、キリトの身体はまた薄くなっていく。
「じゃあ……。」
「あ、そうだ。」
「きゃっ!」
何か言い残したことがあったようで、消える間際にもう一度七海の方を振り向き手を掴んだ。
「僕の事、誰にも話しちゃだめだよ。話すと、僕らのような存在は消えちゃうからね。」
ウインクをしてそれだけ言うと、キリトは家の闇に溶けて行った。
それから毎日と言っていいほど、キリトは七海の前に現れては二人で楽しいひと時を過ごした。学校にも家にも居場所を感じられなく、どちらもあまり好きではなかった七海も、家がほんの少しだけ好きになった。




