29歳の不安11月4日の物語
29歳の嘘 11月4日(木)
“連絡をください”
これは、どういう意味ですか?
俺は、iPhoneを片手に休憩室で固まっていた。時刻12時半。あ、お昼のね。
もう片方の手には一枚の名刺。昨日、結衣ちゃんを駅まで迎えに行ったとき結衣ちゃんの先輩である藤崎さんがあいさつしつつ俺にくれたものだ。仕事相手でもない俺になぜ名刺をくれるのか、その謎は、家に帰って名刺を裏返したときにわかった。
“連絡をください”
白紙であるはずの名刺の裏に、走り書きのメッセージ。名刺を渡したかったんじゃない。藤崎さんは何らかの理由で結衣ちゃんを通さず俺と連絡を取りたがっている。藤崎さんの昼休みは結衣ちゃんと同じで12時から13時。
「・・・・・・」
『はい、藤崎ですが』
見ず知らずの番号だというのに相手はすぐに出てくれた。
「藤堂ですが・・・昨日は、どうも」
『よかった・・・実は、山・・・奥様のことでお話があって』
「どのようなことでしょうか?」
俺は身構える。結衣ちゃんは美人だ。しっかり者でちょっと気が強いけど優しくて、正直言って、だらしない俺なんかにはもったいないと思っている。でも、手放す気はさらさらないんだけど。
『できれば、会えませんか?』
電話ではだめらしい。
「いいですけど、俺、土日休みじゃなくて・・・」
『今日の夜は?』
「遅くなりますよ・・・仕事終わるの21時なんで」
『待ちます。できるだけ早く話したいんで』
今夜会う約束を取り付けて、電話は切れた。
「こんばんは」
「こんばんは。急かしてすみません」
「こちらこそ、お待たせしまして」
ホテルにほど近い居酒屋での待ち合わせ。半個室のここのほうが話がしやすいと思って俺が選んだ。
「いえ、俺が急に呼び出したんで。ビールでいいですか?」
「俺、飲めないんで烏龍茶で」
ビールと烏龍茶で小さく乾杯をして、なんとなくぎこちないふたり。
「実は、奥さんのことなんですが」
「あの、山口でいいですよ。その方が呼びやすそうだし」
藤崎さんはいったいいくつなんだろう。見た目的には俺とそう変わらないと思う。
「じゃあ、山口で。こんなこと俺が聞くのも悪いと思うんですけど、気、悪くしないでくださいね」
前置きして藤崎さんは言いづらそうに切り出した。
「藤堂さんと山口は、いつから付き合ってたんですか?」
軽い話をする感じではなくて、眉を寄せて俺を窺うような、真剣な目に俺は戸惑った。
「・・・大学時代に付き合ってました。でも、俺の卒業前に別れて・・・あ、俺、結衣ちゃんの2こ上なんですけど、それで、去年の12月に偶然再会して、で、それから何度か会って、今年のバレンタインの日にまた付き合い始めました」
藤崎さんの真剣さから、きっとこれは重要なことなのだと思い、なるべく詳しく話してみた。
「二度目とはいえ、割とスピード婚だよな?」
俺の歳を聞いて、藤崎さんの口調が砕けた。多分、俺よりいくつか年上だ。
「ええ、まあ・・・でも、俺は大学時代からずっと結衣ちゃんのことが好きで、彼女と結婚しようと思ってたんで」
「山口は、どう?」
「結衣ちゃんは・・・再会した日にはまだ前の彼氏と付き合ってたらしいです。でも、その日浮気現場目撃したらしくて、それっきり・・・あんまり詳しく話さないから、俺も詳しく知らないんですけど・・・多分、結衣ちゃんのことだから、別れるって決めたら早くて、年末にはもうフリーになってました」
去年を思い出す。よく考えたら今頃は、まだ結衣ちゃんと再会してもいなかった。
「・・・相手の男がどんな奴だかは?」
「知りません」
俺が答えると、藤崎さんはぐいっとビールを飲み乾した。
「実は、ここ1ヵ月くらいだけど、会社のそばで何度か、見覚えのある男を見かけてて、誰だろうって、考えてたら、なんか、前に山口と歩いてた男だなって、思い出して・・・でも、藤堂さんじゃないから、もしかしたら、山口の前の男かなって・・・」
俺が心配していたことだ。結衣ちゃんの様子からして、絶対にいい別れ方じゃなかった。俺のときよりは結衣ちゃんだって大人になったからあそこまでひどいとは思わないけど、相手の男は納得してないんじゃないか・・・なんとなく、俺はそんな気がしていた。
「俺が言うのもなんだけど、山口のこと、気を付けてやってほしくて・・・俺も帰りが一緒になったらなるべく駅まで送るから、来れるときはなるべく迎えに来たほうがいい」
「ストーカーされてるって、事ですか?」
俺の言葉に、藤崎さんは首を振った。
「いや、そこまでじゃないと思う。山口は気づいてないと思うし、実害は今んとこ・・・でも、俺の今の彼女が、付き合い始めたころ前の男から嫌がらせ受けてて、なんか、山口のことも気になって・・・」
藤崎さんに関する俺の心配は完全に杞憂だ。この人からしたら結衣ちゃんは可愛い妹。
「とにかく、気をつけてほしいってことが伝えたかっただけ」
「ありがとうございます・・・でも、こんなに結衣ちゃんのこと気にかけてる男が俺以外にいるなんて、ちょっと妬けますね」
ちょっとだけ本音をのぞかせれば、藤崎さんは豪快に笑った。
「まあ、山口が新入社員で来た時からずっと面倒見てきてるからな。ある意味藤堂さんより山口のこと知ってるかもな」
「それは困りますね。俺はいつだって結衣ちゃんの1番でいたいのに」
そのあとは会社での結衣ちゃんの様子を聞いたり、俺が惚気たりして小一時間ほどで店を出た。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。じゃあ、山口をよろしく。なんかあったら、連絡して。できる限りのことはするから」
「わかりました。ありがとうございます」
藤崎さん、俺はあなたに心から感謝します。