追手
その場所から移動を始めて、一時間が経過した。
どういうわけか、ライラは川を上り始めた。
ほぼ平坦な川であったから、川を上ってゆくことに体力的な問題はなかったが、そもそも川を上ることはリスクが大きいのではないかと考えていたからだ。
もし、俺がこの川のどこかから飛び込み、頭を打ち、川から流されてきたというのなら、このまま川を下るべきだろう。
飛び降りた場所が上流の場所であるのなら、そのまま海の方向へ向かうのが一般的選択だ。
それに反して、リスクを踏んででも川を上るということは、それ以上に価値があっての行動に違いないはずだからだ。
空は徐々に暗くなり始めている。芝の上の虫たちが、空を照らす星のように舞い始め、薄暮の空に小さな光を放ちながら、空を彩った。
だが、蛍がともる原風景のような景色に見とれているほど、俺達に余裕はなさそうだった。
ライラの足取りは、暗くなるに連れ速くなり、俺の手を握る力も、おのずと強くなっいた。
汗がじんわりと滲み出る。
どうやら、この地の夜は危険らしい。
「なあ、ライラ。教えてくれないか」
「なに? それは重要なこと?」
ライラは前を向いたまま言った。
大人用のローブはライラにとっては少し大きすぎた。踝まであるローブの端は地面を引きずり、ダボダボのフードは背中の真ん中まで垂れ下がり、少し重そうに見えた。
ローブは麻のような素材で出来ており、所々穴が開いていて、彼女が足を前に出す度、白い肌がその隙間から覗き見えた。
ゆったりとした川の流れにそって出来た堤防は、緩やかなカーブを描き、それがどこまでも続いている。
同じような木製の架け橋が何ヶ所かあったが、運がいいのか、悪いのか、人を見かけることはなかった。
「どうだろう、握られている俺の手ぐらいにはね」
「なら、今は待ってくれるかしら」
ライラの声に余裕はなかった。
「マズい状況なのか?」
「うん。マズい状況」
川を下から上まで見渡すと、ライラは指し示すように百メートル先にかかる端を見て言った。
「だってほら、もうずっと同じ川の景色が続いているじゃない」
「そういう地形じゃないのか」
「何を言ってるの? あなた覚えてないの?」
ライラは突然立ち止まり、途端に俺の顔を見た。その瞬間、ライラに落胆の表情が浮かぶ。
「やはり、私じゃ弱かったのね」
「どういうことだ?」
「大丈夫、あなたのせいじゃないから」
「どういう意味だ?」
「記憶がないんでしょ。なら、今ここで話しても理解できないと思うわ」
ライラは溜息をひとつ吐いた後、再び俺の手を取り歩き出した。
「ライラ、お前はどのくらい俺のことを知っているんだ」
俺は、ライラの手を強く引いた。少し驚いた表情を見せ、ライラは立ち止まる。
「私に『お前』は使わないで。これでも、あなたは私の眷属なのよ」
苛立ちを見せるライラであったが、手を離すことはなかった。
「じゃあなんて呼べばいい?」
「ライラ……で、いいわ。とりあえず……今のところはね」
ライラが再び歩きだそうとするので、俺は手を引き、歩き出すのを止めさせた。
「それで、ライラ。今の状況なんだが……」
「ループしてる」
よく見ると、足下にはライラのローブが引きずった跡が残されていた。
確かに、空は薄暗くはなっていたが、この薄暮の空が三十分以上続いていることを考えれば、異様であった。
「……見つかったのよ」
諦めに近い溜息を、ライラがこぼす。
「抜けられと思ったんだけど」
「俺のせいか」
ライラは答えなかった。
多分、俺のせいだ。俺の回復を待ったばっかりに逃げる時間がなくなったのだ。
「追っ手、なんだな」
「そうね。誰かはわからないけど」
「誰かも分からないのか」
ゆっくりと頷き返すライラ。
「大丈夫よ、安心して。私とあなた以外、みんな追っ手みたいなものだから」
先ほど逃亡者と言っていたの意味が少しだけ見えてきた。ライラという少女、この場所では相当なお尋ね者らしい。
「眷属」という言葉の意味から考えても、彼女は俺よりも格上であり、何らかの権力者である可能性が高い。
豪族の娘か、国家機関に関わる要人の娘か。
まだ不明なことばかりで、当ての付けようすらないが、上流階級の関係者であるのならば、ここは彼女を置いて賜ぼうするより、助けた方が利益が大きいか。
しかし、この状況。
どう打開する……
「これからどうするつもりだ」
「直接排除するしかないわ」
多分、ライラは俺なんかよりも強い。
彼女の握力が、普通の女の子の持つ握力ではないことを、彼女に握られた俺の手が証明してる。
赤く鬱血しかけている指を何度か動かしていると、ライラの視線が真っ直ぐ俺に刺さった。
「眷属であるあなたの力、見せてもらうわよ」