鏡のエイプリルフール
4月1日
加賀美大輔は鏡とにらめっこをしていた。
加賀美はきまって毎朝厄介な寝癖とたたかうのであるが、その日はたまたま無かった。鏡の中の男“鏡”は笑っている。今日は幸運だ、と加賀美は思った。うっすらとたまる目やにをとりそれを洗面台にピッと弾くように飛ばす。
村田優子と仙台駅で待ち合わせしていた。加賀美は少し寝坊してしまったから焦っていたのだけど寝癖を直す時間が省かれることを考慮に入れると少し余裕ができた。短髪の寝癖は厄介だ、とはいうけれど、寝癖のない短髪は手の込んだセットをする必要がないし楽だ。
家を出る前にテレビをつければ星座占いなるものがやっている。うお座の加賀美はうお座がその日の「最も悪い運勢」だという事実を知り、当たってないな、とぼそっとつぶやいた。テレビを消し、もう一度洗面台の鏡の前に立ち、にーっと笑顔を作った。“鏡”は笑っている。
そういえばニキビも消えている。加賀美はふと昨日まで右の頬にあった大きな赤いボタンを思い出した。
村田と加賀美は仙台駅前の大通りから外れて小さい小道を少し奥に行ったところにあるこじんまりとしたイタリアンに居た。村田の友人がそこで働いていて、その紹介でだ。お互い頼んだメニューを食べ終わりちょっと落ち着いているときに村田は言ったのだ。
「寝癖、なおらなかったんだ」
加賀美は目を丸くして、何とも判別ができない発音の返事をした。
「私薬局に用事あるからそのときに寝癖なおし買えばいいじゃん」
村田は淡々と続ける。おかしいな、と加賀美は小さく口を動かした。
「朝確認したときは無かったんだよ」
「結構すごい寝癖だよ」
加賀美は髪の毛をしきりに触る。目立ったでっぱりというほどの寝癖の感触はない。それでも加賀美はかなり混乱した。その状態で街を歩いてきたと思うと顔から火が出る思いだし、なにより彼女に申し訳ない。
椅子に座ったまま上半身をひねり、急いでトイレの場所を探す。そのときに
「今日はエイプリルフールだよ」
村田の声が加賀美の耳に飛び込んできた。え、と漏らさずにはいられない。そのあと強張った顔面の皮膚の緊張がとけて、肩の力がすとんと落ちた。体中が脱力し、突然平穏が訪れた。
「嘘ね。それ」
吐息とともに加賀美は村田の方に指を指しながらそう言った。やめてくれ、と優子に言った。
「いや、そういうことじゃなくて。エイプリルフールだから鏡が嘘をついたんだよ。寝癖があるのに無いように大輔の像をうつしたんだよ」
まじかっ、と言って加賀美は流れるようにトイレへかけ込んでいく。
結果的に化粧室の鏡にも寝癖はうつっていなかった。自宅の鏡だけではなく優子の友達の鏡にも騙されていたのか、と考えるとぞっとしたが、ただ単に村田が嘘をついているだけだった。加賀美が席に戻るやいなや村田は、寝癖なんて最初から無いよ、と吹き出したのだ。今日はエイプリルフールだ。鏡に騙されたのではなくただ優子に騙されただけの大輔はあっけらかんとした。
「鏡は嘘をつきません」
くしゃっとしたその笑顔が加賀美の頭の中にまだ強く残っている。
駅前のドラッグストアで優子の買い物に付き合っていた大輔は、買い物が終わり店内から外に出たとき、優子に袋の中からなにかを渡された。これが一番効くんだってさ、とさりげなく大輔はそれを渡されてぽかんとした。別になにかほしいものがあったわけでもない。
それはニキビを治す塗り薬だった。
加賀美は右の頬を撫でた。大きく膨らんだ腫れ物を指先が感じた。
“鏡”が笑っている。