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狩りの夜

 月明かりがぼんやりと地面を照らす静謐な夜。一つの足音がその暗闇に響いていた。

「っ!クソッ!!」

 悪態をつきながらも、必死に足を動かす人影が一つ。だらだらと額から汗を流しながら、時折後ろを振り返ってはまた走り出す。

 それは何かから逃げているようであった。

「一体なんなんだ!あいつは!」

 いや事実その人影、少年は今まさに逃避の真っ最中であった。

 再び後ろを振り返る。

 視界の先には薄明かりに照らされた道が続いており、追跡者の姿はない。けれど、彼はそれだけではまったく安心できなかった。

「はぁ、はぁ、はぁっ!」

 とはいえ、いつまでも走り続けるわけにもいかない。彼は立ち止まって、肩で大きく息をした。

 その拍子ひょうしに、身に着けている金属製のアクセサリーがじゃらじゃらと音を立てる。羽織っているのは穴の開いたようなデザインの黒いジャケットで下はジーパン。金色に染めた髪と合わさって、いかにも不良といった感じの外見だった。少なくともこの追いかけっこに向いている格好には見えない。

 けれど、彼の今までの逃走はそんな不利な条件のものとは思えないものだった。

 あまりに速く、それが持続しすぎている。50メートルをおよそ4秒という、世界記録すら軽く塗り変えるだけの走りを、かれこれ20分近く続けている。

 端的に言って今の彼は人間離れしていた。常人なら息が切れる、では済まない。足が壊れるのが先か、心臓が破裂するのが先か。

 そんな状況で20分も走り続けられたのは、彼がすでに人間とは素直に呼ぶことが出来ない存在へと変貌してしまったからに他ならない。

 サタノファニー・シンドローム。通称SS。日本語に直すなら悪魔化症候群、あるいは単に悪魔憑き。いずれにしても単なる噂だと、少年も以前は思っていた。

 彼自身の前に“悪魔”が現れるまでは。

「やっと、撒いたか・・・?」

 これまた人間離れした速度で、急速に整いつつある呼吸をよそに、彼は耳を澄ませて周囲の気配探った。

 最初に追跡者と遭遇した、繁華街の裏路地からは遠く離れて、周囲は閑静な住宅街だった。

 現在時刻は夜の2時過ぎ。多くの人々が寝静まっていて、彼の呼吸以外には物音一つしない。

 あたりを見回しても、彼以外に人影は一つもなかった。路上で立ち尽くす彼を、月明かりと街灯の明かりだけが薄く照らしている。

「ふぅーっ・・・」

 彼は近くの壁に寄りかかると、大きく息を吐いた。呼吸はすでに整い、心臓は普段どおりに鼓動を刻んでいる。

「なんで、俺がこんな目に・・・」

 思い当たることが無いわけでは無い。それどころかいくつもあって、どれだか分からないほどだ。自分でも素行がいいとは思っていないし、人から怨まれるようなこともいっぱいしてきた。悪魔化症候群になってからは特に。

 今の自分は人から逸脱していると、彼は自覚していた。そしてだからこそ、人の理からはずれ超越した存在として、幅を利かせてきた。

 たとえば、誰かを傷つけたいと思った時、あるいはそこから進んで殺したいと思ったとき。以前の自分ではせいぜい怒りに任せて殴る事ぐらいしか出来なかっただろう。そして警察の厄介にでもなるか、同じ不良相手なら仲間を呼ばれて報復されるのがオチだ。

 けれど、今の自分は違う。今のこの国の法律で、“悪魔”を使った犯罪を裁けるとは思えない。そもそも、そんなものを一体誰が本当だと信じるのか。悪魔と契約して、人から逸脱した身体能力と、何より魔法のような物理法則を無視した力を使えるようになるなどと。

 自分の身に降りかかっていなければ、彼は今でもただの都市伝説だと一笑に付していただろう。

 そんな力。誰も彼を咎める事などできず、自由に、好きなだけ、壊し犯し殺すことが出来る力。

 舞い上がらないわけが無い。だから、その力を使っていろいろと無茶もやった。

 その結果、彼のことを怨んでいるものも大勢いるはずだ。

「つっても、命狙われるほどのことはしてねぇはずなんだが・・・」

 何でも出来る力とはいっても、彼がしたのはせいぜい普通の不良がする悪事程度のこと。多少はそこから外れていたこともあったが、殺人まではしたことはない。

 もっとも、自分はそう思っていても、相手も同じように思っているかは分からないということを見落としている辺りは、悪魔が憑く前から変わっていない部分だった。

「しかも、同じ“悪魔憑き”に狙われるなんてな・・・」

 愚痴るように呟く。

 そう、並みの相手ならそもそも彼が逃げる必要などない。今の彼は、集中していれば銃弾すら回避することが出来るほどの体で、その上悪魔の力もある。

 だから、今彼を追い回している者の正体もまた、悪魔憑きだった。

「悪魔憑き同士の戦いなんて、やってられっかよ。バトル漫画じゃあるまいし」

 強がってそう言ってみせるが、彼は実のところ同属との戦いを恐れていた。

 人間であった頃も、彼が相手にするのは自身の外見で怯えるような弱いものばかりだったから、彼は自分と同等、あるいは格上の存在と戦った経験がなかった。

 こうして一人なのに、自分の考えを口に出しているのも、そうした自分のおびえを何とか誤魔化そうとしているからに他ならない。

「それはよかった。戦わずに殺されてくれるのなら、余計な手間が省けてこっちも助かる」

「っ!?ぎゃぁ!?」

 だから、コツコツと近づいてくる足音とともに聞こえた声にも、即座に反応することが出来なかった。

 一体どうやったのか、彼と追跡者の距離は数十メートルは離れているのに、彼の足首から脹脛ふくらはぎに掛けてがズタズタに引き裂かれていた。

「ぐぁ、クソッ、やりやがったなぁ、てめぇぇぇ!!」

 痛みを上回る怒りに声を上げる少年。以前の彼だったら、痛みに泣き喚くだけだったかも知れないが、今の、人を超えた存在になったという矜持が、それを踏みにじろうとした相手への殺意となった。

 そんな彼の様子を知ってか知らずか、追跡者はあくまでもゆっくりと、彼に近づいていく。

「獲物に気づかれないように接近して、真っ先に機動力を奪う。狩りの基本だよ。一度追跡を緩めて相手を油断させるのもね」

 淡々と呟きながら近づいてきた追跡者の姿が、月光と街灯によって少年の眼前に晒された。

「・・・え?」

 その姿を少年は意外そうに見つめた。てっきり、悪魔が憑いた彼にボコられた不良か“ヤから始まる組織”辺りだと思っていたのだが、そのどちらでも無いようだった。

 年頃は彼より下で、高校生ぐらいだろうか。彼と違って染めていない黒髪は襟の辺りで切られ、黒いフレームの眼鏡と合わさって大人しそうな少年だった。というよりも、教室の隅で本を読んでるのが似合うような、いかにも無害そうな外見で、とてもではないがこんな場面にふさわしい少年とは思えなかった。

「てめぇか、やりやがったのはッ!!」

 そして、そんな少年は人間だった頃に何度もカツアゲの対象にした、いわば彼にとっての獲物だった。自然と恐怖心は薄れ、自分より下のはずの者にやられているという事への怒りと屈辱がさらに大きくなる。

「いいぜぇ、俺がぶっ殺してやるよッ!」

 威勢よく言い放ったのはいいが、今の彼は足を満足に動かせない状態だ。当然蹴ることも殴ることも出来ない。身体能力格段に上昇しているが、完全に人間ではなくなったわけではない。構造上無理なことは今の彼にも不可能だった。

 ではどうするか?

 “悪魔の力”を借りればいい。

 そもそも、身体能力云々はあくまでそのおまけだ。

 目をつぶりじっと意識を集中させる。

「さあ、力を貸せ!『火炎魔ゾル』っ!」

 口から発したのは忌まわしき名。彼が契約した悪魔を呼び出すための魔名だった。

 その瞬間、周囲の温度が一気に上昇する。そして、煉獄の炎が吹き荒れた。彼の周りを焼き尽くすかのように、炎が地面を嘗め、飲み込んでいく。

 それは、彼の近くにいた追跡者も例外ではなかった。

「おっと、別に殺すつもりはなかったんだが。やりすぎちまったか?」

 勝ち誇ったようにそう告げる彼の顔は、しかし次の瞬間に曇ることになる。

「『火炎魔ゾル』。大層な名前だけど、実際は大したことの無い“火の小悪魔”だったっけ。めんどくさくない相手なのは僥倖ぎょうこうだけど、これじゃあ君には何の腹の足しにもならないだろうね」

 独り言なのか、何も無い空間に話しかけながら火の中から現れた少年は、ほとんど無傷に近い状態だった。着ていた黒い服の一部が焦げているのが強化された視覚に映るがそんなものは損傷のうちにも入らないだろう。

「てめぇ、どうやって生きてやがった!」

 その怒号に、追跡者は首を傾げた。

「どうやっても何も、それでほんとに僕を殺すつもりだったのか?」 

 煽っているわけではなく、純粋な疑問としてそれをたずねる追跡者。そのことが少年にも理解できて、彼はさらに怒気を強めた。

「てめぇごと一面火の海に変えてやるよッ!」

 そうして放たれた炎はさきほどより強く、少年を飲み込んだ。そこにさらに集中的に放たれる火炎。

 消し炭すら残さないとでも言うかのように、炎が追跡者を蹂躙する。

 人間だろうと悪魔憑きだろうと、これで生きていられるはずが無い、そう彼は思った。

 だが、

「だから、無駄だよ」

 炎の中から聞こえる声がそんな彼の願望を打ち砕いた。

 またしてもほぼ無傷のまま、炎を突破した追跡者は、なにごともなかったかのように再びゆっくりと彼の元へ歩み始めた。

「くそッ!ふざけんな、ふざけんなッ、ふざけんなぁぁぁッ!!」

 狂乱したかのように炎を乱射する少年。彼も次第に理解しつつあった。彼と追跡者の間に横たわる圧倒的な力量の差に。

 そもそも、最初に遭遇したときに撤退という選択肢をとったのは何故だったのか。

 彼の性格を考えれば、戦うという選択をしていてもなんらおかしくは無い。 

 それは彼自身も最初の遭遇の時点で本能的に理解していたからだ。その時点で姿ははっきりとは確認できずとも、敵のほうが自分より遥かに強大な存在であるということを。

「クソッ!!・・・・っ!!」

 もはや敵を倒すためではなく追い払うために炎を放っていた少年は、そのとき自身の体に起こっている異変に気がついた。

「ぐ、ごはッ!!」

 突然襲った嘔吐感に顔を下げると、大量の血が彼の口から吐き出された。

「てめぇ、一体何を・・・」

 そう言って追跡者をにらみつけると、そこには見下した様な表情があるだけだった。

「もしかして、と思ったけどやっぱりか。君は何の代償もなしにこんな力を使えると思っていたのか?悪魔と契約するのだから、当然そこには代償が伴うに決まっているだろう?」

 今まさにその代償を支払っている少年を前に、追跡者は表情一つ変えずに彼に近づいてきた。

「大して説明も聞かないで、力が手に入ると聞いて契約したんだろうけど。この場合、上手いことこいつを騙した小悪魔を褒めるべきなのか、それとも小悪魔程度に騙されるこいつの馬鹿さを嘲笑あざわらうべきなのか」

 けれど少年に追跡者の言葉を聞いている余裕はなかった。自分の体の中で何かがうごめいている感覚とともに、全身から痛みが襲ってくる。

 その激痛に耐え切れずのたうち回る少年を、冷徹な双眸が見下ろしていた。

「その手の小悪魔の要求する代償っていうのは大抵が“人間の肉”だ。今まさに内側から食い破られているところじゃ無いか?」

 少年の顔が絶望に染まる。先ほどまで自分の命を狙っていた追跡者に、懇願の視線を向けるが、それは当然のように無視された。

 それどころか追跡者はその右腕を持ち上げると、何かの名前を呟いていた。

 それは、その追跡者が契約した悪魔の名。

 そこから起きた変化は、彼の目にも明らかだった。

 追跡者の右腕が蠢き、あぎとのように変形する。目も鼻もないその巨大な顔は、少年の方を向いていた。

「で、“君の肉体”という代償を得て、悪魔が“あっち”に帰る前に、僕はその悪魔をいただかなくちゃならない。安心していいよ、一瞬で終わるから」

「や、め」

 もはや満足に動かない口を動す少年の一切を無視して、その顎は彼に食らいついた。

 ぐちゃりぐちゃりと、不快な咀嚼音とともに、地面に血が広がる。

 骨もまとめて一瞬で人一人を食い尽くした自分の腕を無表情に見つめながら、追跡者は一人呟いた。


「ご馳走様。とりあえず今夜はこれでおしまい」


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