第1章-1
寝る前に本を読む、風呂の後にストレッチをする、朝起きたらシャワーを浴びる。
様々な形で日課というものはあると思う。
朝5時30分
寝ぼけ眼を擦りながら鏡の前に立つ。
目覚ましに顔を洗うついでにくせ毛で強制オカッパ状態の黒髪を真っすぐに整える。
鏡に映る中肉中背の見慣れた身体をゆっくりと動かして外に向かう。
まだ冬の名残を残した季節。『鳥の声が気持ちいいさわやかな朝だ』なんて感想より、『寒くてだるい』などという感想が浮んでしまうあたり、さわやか星人にはまだ遠いらしい。
徐々に身体を起こしながら近くにある山奥へと20分ほど走って、町を見渡せる崖の前に着くと、寝ころび耳をすませる。
空を眺めながら待っていると聞こえてくる鳥の鳴き声。
毎朝6時、風の中。
鳥の唄をイントロとするかのように、どこまでも透明な歌声が響き渡る。
精霊の唄。
恥ずかしげもなくそう名付けたこの歌を聴き初めてからもう1年近くになる。
この声を聞いた時から、毎朝聞きに来るのが日課になっていた。
きっかけは些細なことだった。
中学1年の帰宅途中。映画のポスターにあった青春時代の文字を見た友達が言った言葉。
「青春時代って言うけど、青春って何したら青春になるんだ?」
その言葉にドキッとした。青春時代って言っても、テレビやマンガにあるような青春なんて送ってこなかった。
何か大きな事件があるわけでもなく、何事もなく過ぎていく毎日。
部活に力を注ぐわけでもなく、学校と家を往復するだけで一日が終わる。もうすぐ夏になるというのにそんな毎日だったから焦ったのかもしれない。
『何か青春っぽい事をしたい』そんなあやふやな感情だけで色々と動いてみた。
夜の学校に忍び込んでプールで泳ぐ。
目的地を決めずに自転車で放浪する。
衝動でギターを買って弾きまくる
探検と称して路地裏を歩き回る。
好きな子に告白して振られる。
最高に楽しい出来事もあれば、辛く苦しいだけの出来事もあった。
だけど、それは記憶として、経験として確かに俺の中に消化されていった。
そしてそれはただ楽しいだけの思い出となってまた次の青春活動へと俺を動かした。
そうやって俺は、バカみたいに青春活動を繰り返していた。
行動している間は虚しさを忘れられる。
目指すべきものが見つからないもどかしさを何かをやっているという感覚で消し去りたかっただけかもしれない。
受験を意識しだす2年の2月。その日も青春活動の一環で朝から走っていた。
やけに朝早くに目が覚めて眠れなかったから、一度やってみたかった早朝ランニングに挑んだわけだ。
俺の家は山の中腹を切り開いて出来た住宅街にある。そこから少し登れば景色はあっという間に登山家が居そうな人工天然系の山へと変わる。
一度だけ頂上に登った事はあったが、山の向こうには同じくらいの大きさの山が見えるだけで、他には何もなく、つまらなくなって帰った記憶がある。
だけど、その日は『朝からランニングで山に登る……おいおい青春臭がビンビンしやがるぜ!』なんてバカなことを考えて山道を走った。山といえど住宅地の近くの山。廃れた登山道くらいはある。暫く登山道を走っているとだんだんとテンションが上がっていく。
気付けば『道なき道を行くのが青春だ!』などというわけのわからない衝動のままに登山道を外れて山の奥へと入っていっていた。朝早くに起きて外に出かけているなんてシチュエーションに酔っていたのかもしれない。異様なハイテンションのまま突き進んだ。
まあ単なるバカだ。
でも、そんなバカが思わぬものを見つけるときもある。歩けそうなところを探りながら登っていくと、町を見渡せる崖のように急勾配な場所を発見した。
遮るモノがなく、山のふもとまで一望出来る場所。そこから見える風景は綺麗だとしか言いようがなく、そこまで来た疲れを吹き飛ばしてくれる程のものだった。
朝の澄んだ空気と小鳥の声、そして見つけた綺麗な景色。
思わず『これは事件だ、これが青春だ!』などと呟きながら景色を眺めていると、どこからともなく歌が聞こえてきた。
『――』
山の中に響き渡りながら聞こえる透き通った綺麗な歌声。
まるで山の精霊が歌っているかのような現実感のない透明な、それでいて激しくも優しい感情が心に直接響き渡るようなそんな歌声。
その歌声に景色を見つけた時以上の衝撃を感じて思わず『大事件だ』なんてつぶやきながら聞き入っていた。
これまで聞いたどんな歌手よりも心を揺らされるその声に、ただただ聞き惚れる。
きっと俺はこの歌声に一目ぼれしたのだろう。
歌が終わった後も、また同じ声が聞きたいという強い感情が湧きあがったのをよく覚えている。実際俺は、初デートで気合を入れ過ぎた人のように次の日の朝5時から山で歌が 聞こえて来るのを待った。早く来すぎて『虫達と僕の70分戦争』を繰り広げた事も。
……歌が終わった後にかゆみ止めの『虫と皮膚と時々血管』と人気虫よけスプレーの『虫無視無死』を買いに走ったと言う事まで覚えてるな。うん、なんでこんなくだらない事まで鮮明に覚えてるんだろう。まあそんな小さな出来事まで覚えているという程には衝撃的だったという事だろう。
あの日以来、毎朝歌声を求めて早朝ランニングをしている。
声の主にはまだ会っていない。
何か神聖なものに思えて探す気になれなかったからだ。歌い手の顔を見てゲンナリなんてしたくなかったので、あれは山の精霊の歌声だと考えて歌声に浸っている。
だから毎朝崖という特等席で一人ライブを聞いている。
これが、俺の日課だ。
「今日のライブはこれで終わりか」
歌声が聞こえなくなって5分。余韻をかみしめた後、家まで走る。
「星平学園か……どんなとこなんだろうな」
今日から通う高校に思いを馳せながら。