第4章ー2
どのくらい時間が経っただろう?
時間が経つごとに琴吹を抱き締めているという状況に戸惑う。
絹のようにさらさらの髪。生きているという温かさ。
女性特有の柔らかな身体。
心臓の鼓動さえ感じられる程近くに琴吹がいるという現実にどうしていいのかわからなくなる。
そんなつもりで抱きしめた訳ではない。
だけどどうしても腕の中にいる琴吹が女の子なんだと意識してしまう。
戸惑いながら待つ事さらに数分。
これまで溜まっていたものをすべて吐き出すかのような長い長い泣き声もついに止む。
静寂が戻って来て数秒。深い呼吸の音だけが聞こえる。
「……もう大丈夫。……ありがとう」
腕の中から離れていく琴吹。反射的にそれを求めようとする手を必死で止める。
「みっともないところを見せちゃったわね」
「みっともなくなんかないって。たまには泣くのも青春っぽくていいだろ?」
「なによそれ」
ふふっと笑う琴吹。その顔はどこか憑きモノが落ちたようにさっぱり
としていた。
「でも、うんっ。すっきりはしたかな」
何かつかえていたものが取れたかのように胸に手を当てた後、俺の顔をしっかりと見て一呼吸してから真摯な声で言う。
「ありがとう」
真っすぐに飛びこんで来たその言葉に、気恥かしくなってそっぽを向いてしまう。
「いいよ。俺、お前のライブのファンだし」
そんな俺に顔を覗きこむようにしてからかうような笑顔で笑う。
「ふふっストーカーだもんね」
「わるいかよ」
「犯罪って意味では悪いわよねー。だーかーら、付き合ってもらうわよ」
「うっ、つっ付き合うって何にだよ?」
指を突き付けながらいつもの不敵スマイルで言い放つ。
「練習によ。言ったわよね?私が舞台に立つのが見たいって。私はそれに励まされたんだから。責任とってもらうわよ?」
そういうことなら。
「望むところだ」
胸を張って答えてやった。
*
5月4日、正午。
あれから午前中一杯琴吹の歌を聞いていた。
聞いている俺の感じ方の違いか、歌っている琴吹の心情の違いか。間近で聞く歌は、毎朝聞いている歌よりも、学校で聞く歌よりも心に響いて俺を魅了する。
今は観客は俺一人。贅沢だけど、寂しい客席。
これも良いけど、輝くステージの上で歌って欲しい。もう舞台の上で顔を恐怖に怯えさせたくなかった。
(そのためには……)
何度も通った懐かしい道の先。目指す先は少し大きめの一軒家。
「あれっ坂中君。君もかい?」
「こっこんにちは」
道の途中で声を掛けられて振り返る。そこには見慣れた二人の姿があった。
「二条さんに河中さん。二人とも何でここに?」
「何でって、坂中君とたぶん同じだと思うよ」
「あの、新庄君に琴吹さんの事について聞きに来たんです」
昨日俺が去った後、イベント参加者全員参加の会場片付けから舞台道具運びまで5人でやる筈だった事を全てしてくれた3人。それらが全て終わった時には日が傾いていたので、日を改めてザンハイの家に集まって話し合おうとしていたらしい。
「ごめんっ。俺の分までやって貰っちゃって」
迷惑を掛けた二人に頭を下げる。
「あっ頭を上げて下さい。気にしてないですから」
「そうだよ。あんな状態の彩音ちゃんを一人になんて出来ないしね」
気にするなと振る舞う二人。そんな二人に俺は甘える事にする。
「ああ。ありがとう」
「うん。どういたしまして。それより、どうだったの?彩音ちゃんの様子は?」
「それは……」
どう言ったものか迷う。まさか泣いている琴吹を抱きしめていたなんて言えないし、琴吹の内情もどこまで話していいか悩む。言葉に詰まった俺は、とりあえず――
ピンポーン
「待ってたのさ二人ともっ。おやっ、坂中君もいるのかい?呼び出す手間が省けたね」
「――中でゆっくり話すよ。おっす。邪魔するぞ、ザンハイ」
時間を稼ぎながら、何を話すかをじっくり整理する事にした。
*
「――という事らしいんだ」
6畳の少し大きめの部屋の中。ザンハイら3人に話した事は3つ。
舞台の上で歌う事にトラウマを持っている事。それの原因が晩餐時殺傷事件にある事。そして、宮島さんがトラウマ解決のカギになるかもしれない事。
「うーん。その宮島って人については調べるにしても、それとは別に彩音ちゃんが舞台に立てるように何か対策を練るべきだね」
「対策か……」
確かに重要だと思う。だけど、どうすればいいのか解らない。
「カラオケで歌いまくるとかはどうだ?」
カラオケか。歌に慣れるという意味では確かに効果がある。だけど、1年以上毎日歌っている歌に関しては余り意味がないだろう。
「効果がないとは言わないけど、『歌う事』じゃなくて『舞台の上で観客の前で歌う事』がトラウマになってるんだから、ちょっと違うんじゃないか?」
そうだ。琴吹が苦しんでいるのは、歌えない事にじゃない。舞台の上で歌えない事にだ。人前での発表の場でしかトラウマと向き合えない。だけど、コンサートやコンクールなど舞台の上で少しでもトラウマを感じて歌が止まれば、それは新たなトラウマを生むだけの結果に終わってしまう。
まるで蟻地獄のように、もがけばもがく程に抜け出せなくなるのだ。
「あの、歌えるようになるまで私たちが観客になるというのは駄目ですか?」
舞台発表と同じような環境を作って少しずつトラウマを解消していく。確かにそれは効果的だろう。だけど、
「……良い考えだけどそれだけじゃ無理だと思う。現代版シンデレラの練習で何回もやってきたけど治ってなかったから」
あと少し。あと少し何かが足りない。
俺達で舞台の場を作ることは考えてはいた。だけどシンデレラの練習で演技から歌に入る時、琴吹は何の問題もなく歌を歌えていた。つまり俺達を観客に見立ててもそれだけじゃ舞台発表の空間には足りなかったという事。本番の空気ではなかったという事だ。
ならば一体何が足りない?
俺達が琴吹にとって良く知る人間だからか?人数が少ないから?発表の場が狭いから?
おそらく全てが正解で、どれもがそれだけじゃ足りない。
だけど、それら全てを満たした状況をどう作ればいいのか解らない。クラスの皆を集めて公民館でも借りてみるか?だけどどうやって集めるんだ?琴吹の事情を説明する?バカな。あいつが必死で隠して来た事を何で広められるんだ。でも、だったらどうやって……
一向に浮かぶ事のない答えに頭を捻らせていると、全てを覆す言葉が聞こえてくる。
「だったらうちの道場を舞台に見立てるのはどう?門下生を集めれば30人くらい集められるからね。ステージみたいなのを運べば疑似的な舞台を作れると思うよ」
「そんな事出来るのか!?」
「稽古の妨げにならないようにしたら出来ると思う。隅っこの方に舞台を作って稽古が終わった後みんなに見てもらうとかなら」
「凄いっ。それなら」
自信あり気な二条の言葉に、希望が見えてくる。
道場という広い場所。見知らぬ30人の門下生。これだけ条件が揃っていれば舞台を再現する事が出来る。舞台に対する恐怖を消す事もきっと……
「……それで…………彼女は歌えるのかい?」
舞い上がった心を覚ますような冷静な声。その声に振り返れば、何時になく真面目な顔のザンハイがいた。
「なんだよそれ。そんなのわかんないけど、でもきっと」
ザンハイの言葉に困惑といら立ちを感じる。なんでそんな事を言うんだと。
「確かに良い方法だと思うさ。でも、それをするならかなりの時間が取られるだろ?全国高等学校総合文化祭まで後2カ月しかないんだ。歌のない役を演じいて貰って地区選考後の夏休みにゆっくりと治す事も出来る。もし歌えなくてちょっとでも止まったら、容赦なく落とされるだろうさ。それは新たなトラウマになりかねないんじゃないかい?」
ザンハイの言葉が頭を巡る。
俺はどうしたら琴吹が歌えるようになるかしか考えてなかった。琴吹が歌えるようになるかはわからない。歌えるし、歌いたいのは琴吹だけじゃない。
……これは俺の我がままなのかもしれない。
全国まで残る事を目標とするならザンハイの言うとおりにした方がいいのかもしれない。
でも、それでも――
「……我がまま言っていいか?」
「なんだい」
「俺さ……あいつの歌が好きなんだ。だから舞台の上で歌っているあいつを見たいし見せつけたい」
これが本音だった。結局のところあいつの歌を聞きたいだけ。
「琴吹は歌いたいと思っているのかい?」
当然の疑問。それに少し言葉を探してから口を開く。
「琴吹のやつさ、トラウマを治そうと必死でさ……だからミュージカルなんて舞台で歌うのが前提の部活なんて作って、練習でも恐怖押し隠して…………昨日はああなったけど、琴吹は歌いたいって、舞台に立って歌いたいって言ったんだ!!だから……だから「もういいさ」えっ?」
言葉を遮るのは新庄の冗談一つない真面目な顔だった。
「もういいさ。『我らが部長、琴吹彩音は舞台に立ちたがっていて、そのための努力をしている。僕達はそれを知っていて次の舞台では歌えるようになっていると知っている』そういう事だろう?」
ザンハイはにやりと笑いながら河中を見る。
「はっ、はい。あの、私琴吹さんをヒロインだってイメージして脚本を書いてました。歌も琴吹さんのソロのシーンを入れています。これを……このまま変えずに書きあげます」
「ザンハイ……お前試したのか?」
「何の事だい?僕はただ言うべき事を言っただけさ」
肩を竦めて白を切るザンハイ。
「ははっ」
4人で顔を合わせていると自然に笑みがこぼれてくる。
「はっはっは。では、方針も決まった事だし準備にかかるとするかい」
笑いながら締めるザンハイ。
「はははっ。じゃあ直ぐに家に帰って頼んでみるよ。門下生達にもお願いしなきゃだしね」
笑みを浮かべて立ち上がる二条さん。
「ふふっ。あのっ。私も家に帰って脚本を仕上げます。後少しですから休み開けには完成させてきます」
頬を緩めてやる気をみなぎらせる河中さん。
(ああっ、琴吹。俺達の部には最高の奴らしかいないみたいだぞ?)
笑い続ける俺達の心には炎のような熱が灯っていた。