第3章ー2
「さようなら」
悲しみの余り走り去る理恵。その瞳には透明な滴が光っていた。
「まっ、待って下さい!理恵さん!」
「お前こそ待たんか。あれは家柄と呼べるものさえない奴だぞ」
「そんなの関係ない!父さんはいつもそうだ。家柄、家柄って……そんなもので僕は好きな人を選びたくない!」
理恵を追いかけて走る信也。その瞳はただ、理恵だけに向いていた。
「待てっ!待たんか、信也!……家柄か。お前が気にしなくても周りが、相手が気にする。それで苦労するのはお前達なんじゃぞ。わしと同じ思いをして欲しくないんじゃ」
残された男はただ、空を見上げる。その瞳はどこを向いているのだろうか?静寂が空間を埋める。ただただ、立ちつくす男。その耳に、世界を変える音が飛び込んでくる。
パチン
「はっはっは中々良い演技だったのさ。上手く演じられるようになって来たじゃないか」
手を鳴らしたのはザンハイだ。その音と共に張り詰めた緊張が解けるように空気が緩む。
基礎練習に劇の練習と歌の練習が加わって1週間。
演技はともかくセリフと動きはだいたい覚えて来た。後は演技力を向上させていくだけだから演技に関しては余り問題なく進んでいる。
ちなみに、シンデレラの名前は恵那、ヒロイン役の名家の男の名前は信也に決定した。
「ありがとね。それじゃあ次は――」
次に演じるシーンを言おうとする琴吹。だが、次のシーンを言うのを遮るように机でパソコンを弄っていた河中さんが立ち上がる。
「あ、あの。劇に合う曲を見つけました」
「本当っ!?見せて見せて!」
飛び付くように河中さんの元へ向かう琴吹の後を追うように駆ける。
短編とはいえ、ミュージカルを作るにあたって問題になったのが歌だった。一から音楽を作るというのも考えたが、そう簡単に作れるものでもないし、第一時間がない。そうなると既存の曲から劇にあった曲を見つける必要が出てくるが、探すのにも時間がかかる。
皆で手分けして探すかと考えていた時に、河中さんが『わっ、私にやらせてもらえませんか?あっ、あのみんなさん練習で忙しいし、脚本は家でも作れます。私だけ見ているだけというのはその……』と言って曲探しを買って出たことにより歌の問題は解決された。
もとより話しを作る役として入部した河中さんなら一番良いモノを探してくれるだろうと、みんな大歓迎で賛成した。
「どんな曲を選んだの?私も知っている曲だと嬉しいな」
「あっはい。知っているかはわかりませんが。有名な曲です。今流します」
楽しみだと笑う二条さんにせかされるように再生ボタンを押す河中さん。
『深く暗い闇の中を 一人彷徨い歩いていた 先の見えない闇を恐れながら――』
少し古びたパソコンから流れてきたのはエリザベラの『道しるべ』。
(あっこれ――)
有名なミュージカルで使われた事のあるこの曲に俺は聞きおぼえがあった。
(琴吹が毎朝歌っている曲だ)
毎朝聞いている山でのライブ。その締めに歌われるのはいつもこの曲だった。
偶然にも大好きであろう曲が選ばれた琴吹の顔はどんなものかと覗きこんで見る。
「ッ――――」
(えっ?)
想像もしていなかった顔。怯えているような負の表情。だが、
「……いいじゃない。劇の雰囲気に良く合っているわ」
次の瞬間にはそんな表情は無かったとでも言うかのように満面の笑みを浮かべていた。
「あっありがとう琴吹さん。あの、私シンデレラ役の恵那の気持ちを考えてみたの」
嬉しそうにこの曲を選んだ理由を語る河中さん。この歌は信也が親を説得して院長の悪事の証拠と共に孤児院に乗り込み、信也と恵那が再開した時に物語の締めとして歌う歌だ。
『道しるべ』の歌詞は物語と恵那の気持ちを見事に表現していて、この劇のために作られたかと思う程だ。この歌を選んだ河中さんは間違ってないと言えるだろう。なのに、順調に進んでいる劇づくりを純粋に喜べない俺が居る。
さっき一瞬だけ見せた琴吹の顔が俺の頭の中を駆け巡っていた。
*
「まーだ片付けが終わってないのかい、この愚図が。図体ばかり大きくなっても中身は愚図のままだね。とっとと終わらせて飯のタネ稼いできな」
出し物大会まで1週間。
セリフも役作りも、歌もダンスもようやく形になって来た。
今行っているのは初めての『通し』だ。全て本番と同じように行うこの通し練習に緊張で喉が渇いて仕方がない。
『次の日の朝』
ナレーションは録音して撮られた新庄の声だ。出し物大会には他の人達も参加するので照明を弄る事が出来ない。だから舞台からはける事とナレーションによって場面転換を表している。
「らんーらーららーーー」
「綺麗な声……この歌は一体?」
どこからともなく聞こえてくる歌声に一人、舞台の上で反応する俺。
時間の関係で歌は1つまでしか入れられなかった。だから最初の恵那の歌に惚れるシーンで入れるか、最後に歌で締めるかで迷ったが、最後に入れた方が盛り上がるだろうという事で、歌は最後のシーンだけにして、歌声に惚れるシーンは舞台裏から『らー』とだけ歌い、何かの曲の最後のように見せかけるという方法を取った。
「今の歌は君が?」
「あっごっごめんなさい。つい歌ってしまって」
「あっ、いや。歌うのは別にいいんだ。ただ」
「ただ?」
「綺麗な声だったから」
「えっ」
「こんなに衝撃を受けたのは初めてだった」
このセリフは最初からあったセリフとは少し異なっている。
脚本のセリフはニュアンスが異なっていなければ少々違っていても良いと言われている。まだセリフを完全に覚えていなかった頃に出た本音が交ったセリフが採用されたのがこのセリフだった。
「そんな……私の歌なんかそんなに良いものじゃ」
物語は進んで行く。
俺の演じる少年『信也』は俺と違って歌声の主に会いに行き、そのまま恵那と結ばれる。
俺はどうなんだろう。
信也と違って会いに行く事は無かったし、付き合うなんて考えられない。
ただ、信也と俺には共通点が1つある。それは――
「いや、僕はそう感じた。それほど綺麗だったから。君の歌声に惚れたんだ!もう一度きかせて欲しい!」
最後のセリフを言い終わると、音楽が流れてくる。突然の事に思わず逃げてしまう恵那を追って駆ける信也。舞台裏へと駆ける中、琴吹の歌声を思い出す。
――俺も信也も琴吹の歌声に惚れているという事だった。
*
家まで続く長い長い坂道を、自転車を押しながら帰る。それは俺が今後3年間付き合い続けなければならない無給の労働だ。ただ、その道のりは――
「後1週間ね」
1人じゃないというのが救いなのだろう。
琴吹の家は俺の家に近い位置にあるらしく、山の途中まで一緒の道だった。
「1週間後には人前で演技なんてしてるんだよな」
人前。
人前に出る事が苦手で目立つ事を避けてきた俺が、舞台に立って見知らぬ誰かに演技を見せる。……言葉にすると簡単だが、現実となると想像が付きにくい。クラスの前に出る事さえ緊張で一杯になる俺が、いざとなった時にちゃんと出来るかはわからない。
「何よ、緊張してるの?」
「……してるよ。悪いか?」
正直今から緊張してるくらいだ。
「……悪くないわよ。だって、私も緊張してるし」
「えっ?」
思わず琴吹の顔を見つめてしまう。
意外だった。自己紹介の時も、部活動の時も、常に堂々とみんなの前に立っていた琴吹。だからだろうか、人前に立つことの緊張などとは無縁の存在なんだって思いこんでいた。
「琴吹でも緊張するんだな」
「……するわよ…………だって私………………」
軽く振っただけのつもりだったのに、まるで何かを堪えるかのような顔をして、
「わっ私はいくら緊張しててもあんたよりはマシなんだから大丈夫なのよ!緊張なんて殴り飛ばして膝まづかせてやるわ!」
一瞬だけ見せた顔を隠すように、いつもと同じように毒を吐く。
見えないように、見せないように。毒のベールで覆ってく。
だから俺は―――
「緊張すらしもべに変えるとはなんという女王様!」
「誰が女王よ、誰が!」
「いやだって部長だし、俺配下だし」
「導くのと支配は違うって体に刻んであげましょうか?」
「おやめ下さい女王様!ここにはムチはございません!」
「ムチがなければ警棒を握ればいいじゃない」
「ぬおっ!なんでそんなもん持ってやがる!?」
「かよわい少女の必須品よ」
「暴力女のどこがかよわいってんだ?」
「殺すわ」
「あぶっ!ちょっ、シャレになんねーぞ!?ひっ!ごめんなさーいー!」
「逃がすか!」
いつものようにバカな話をして、気が付かなかったかのように振る舞う。
踏み込まないように。
変わらないように。