第2章ー2
風を切って走る感覚。それを楽しむ余裕もなく、ただ肺に空気を送り込む。
「うおおおおおおおおおお!ラスト1周!」
『何故こうなった?』と思うような事象は大抵の場合に置いて思考の過熱によりもたらされる。青春ドラマの1シーンのように爽やかに始まった俺達の練習は熱血ドラマの様相を見せ始めていた。
きっかけは些細な事。基礎練習の流れとして、今週は筋トレ→柔軟→発声→滑舌という順で練習する事に決まった。そして筋トレとして走った後に腹筋と背筋をして軽く汗を流そうという軽い流れで外に出た。季節は春。まだ冬の気配が残っており、体を動かしても汗の出にくい季節。爽やかな風を感じながら走り始める。走る場所は部活棟の外回り。グラウンドや校舎の外周じゃないのは単純に部室棟から遠いからだ。部室棟は基本的に文化系の部室しかなく、余り走り込みする部がないためにグラウンドや校門から遠くに立てられている。
男子3周女子1周。それが走る距離だった。
広めの棟なので1周500メートル程はある。最初は全員一緒に走っていて、ゆったりした持久走のペースだったのだが、ザンハイが「はっはっはー」と言いながら俺を抜かしてきたので、いらついて抜き返したのがきっかけとなり、徐々にペースが上がっていった。
これでも毎朝山までランニングしているから陸上部に誘われたほどには足に自信があった。ザンハイは残念だが、ハイスペックだ。体力測定では全ての測定で学内トップ5に入るほどにはスペックが高い。しかし、走りは、走りだけは俺はこいつには負けない、負けたくない!脳裏に蘇るのは体力測定の時のタイム。短距離0.7秒、長距離3秒。タイムを聞いた時に知った屈辱の数字だ。唯一自信のある足で味合わされた屈辱は足で払う。今度は、今度こそは勝って見せる!!
「うおおおおおおおおおおラスト1周!」
俺とザンハイが全力で走る。もはやペース配分という言葉は存在しなかった。『こいつには負けない』それだけが頭を支配している。
「負けるかああああああああ」
最後のコーナーを曲がる。既に全身を軋むような痛みが走っているが、無視する。息が苦しい。呼吸が乱れている。それでも足を前に踏み出す。この1歩が大地を削り、この1歩が風を生む。走れ、走れ、走れ!サカロス!弾丸のように真っすぐに走り抜けるんだ!一瞬……だけど閃光のように!!!まぶしく燃えて走り抜け!!!
「チェッカーは譲れない!!!」
叫びと共に走りぬく。ゴールまであと10歩、9歩、8歩―――2歩、最後に全身の力を右足にこめて蹴りぬく。跳躍する体。制止したかのように緩やかに流れる時間間隔の中で、新庄の体がゆっくりと視界から消えて行くのが見える。全力で踏み込んだその1歩は勝利の女神となって俺に栄光をもたらした。『勝利』俺の頭の中にはこの言葉だけが残っていた。全てを出しつくした俺は母なる大地へと倒れ伏す。優しい大地は全てを受け入れてくれるかのような抱擁を持って俺の体を受けとめる。もう指1本動かす力も残っていない。燃えた、燃え尽きたよ。真っ白にな…………倒れ伏しどこまでも澄んだ青空を見上げながら勝利の感動に浸っていると、視界の隅に人影が映る。勝利の栄光を捕まえた俺を祝福するかのように美女が近寄って来るのが見える。さあっ感動の一瞬だ。アカデミー賞ものの号涙必須の感動シーンに相応しい未来永劫残るであろう名セリフが――
「……この後筋トレだって解ってるわよね?」
――俺を見下ろす琴吹はどこまでも冷静に現実に戻してくれた。
*
燃え尽きた俺待っていたのは勝利の祝福でも極楽の休憩タイムでもなく、筋トレという名の地獄だった。上体起こしをしながら息を整えるという苦痛をこなし、疲労困憊のまま柔軟に移る。柔軟という痛みはあるが体力を使わない作業で靄のかかったような頭の霧が晴れわたり、まともな思考と視界を確保した時に重大な事に気が付く。
『もしかしてパンツ見えんじゃね?』
そう、そうなのだ!向かい合って柔軟をしている琴吹&二条さんという美女ペアが態々足を開いてこちらを誘っているのだ!これはもう覗く以外の選択肢がありえないだろうと新庄の背中を押すことにかこつけて視線を下げて行く。下で新庄が『グエッ、グエッ』っと死にかけのカエルのような哀愁漂う鳴き声を挙げている事なんて意識に登らせるほどの問題ではないだろう。
後少し、後少しで見えるという所で悲しみの選手交代の合図がかかる。絶対領域は不可侵であるから絶対領域なのかという世界の真理を悟り、涙を流しながら新庄に押されて柔軟をする。柔軟をしながら先ほどの事について考えていると、天啓が舞い降りる。
『女子と組めば自然に女体の神秘に触れるんじゃね?』という神の啓示にも似た天才的な発想に至ったのだ!同時にその真理に至ったのか、新庄も黒い笑みを浮かべ俺と契約を結ぶ。どちらかが女子と組めば必然的に残る片方も女子と組むことになる。裏切りの代価は自分にも同等に降りかかるために裏切りの心配はない。柔軟を終えた俺達は柔軟な思考の末に至った黒い契約を固い握手と共に交わす。『友よ』と言いながら友情を確認していると、琴吹が美しい俺達の友情を称えるかのように近付いてきて――
「……柔軟の時は男女で別れる事にしたわ」
――白い目を通り越して虚無の目にまで至ったその目は、俺の姿を映し出す鏡となって醜い俺の顔を映し出していた。
「はぁ。部活の時は体操服にならなくちゃいけないわね」
――覗こうとしていた事もばれていたらしい。
部活は体操服でという決まりが出来た瞬間だった。
*
柔軟を終えて発声の練習に移る頃にはだいぶ冷静さを取り戻し、失った評価を取り戻さんと練習に集中する。
発声の練習はいきなり声を出すんじゃなく、息だけで最初はやるとのことだ。なんでも劇をする時の声は普通に喋るんじゃなく、腹式呼吸と呼ばれる方法で喋るらしい。腹式呼吸……少しカッコイイ名前だと思うのは俺だけだろうか?
『この技を使うには特殊な呼吸法が必要だ』
『こっ呼吸法だって?』
『ああ、その名も覆死氣呼吸だ!』
みたいな。オーバードライブとか出来るようにならないかなとか考えながら呼吸に意識を集中する。腹式呼吸の練習をする場合、最初は感覚を掴みやすいようにあお向けに寝ながらやるらしい。天井以外見えるものがないから目を閉じて意識を呼吸に集中する。吸って吐く、吐いて吸う。当たり前のこの行為を繰り返しながら肩、腹、鼻、口に意識を集中する。スウッハアッスウッハアッ。ヒッ、フウー。素早く吸って長く出す。これがコツらしい。ヒッ、フウーヒッヒッフウーヒッヒッフウー……いかんこれじゃラマーズ法だ。いつから俺は妊娠してたんだ、想像妊娠か?真面目にやれ俺。暫く呼吸に集中した後、劇に詳しいザンハイが俺の腹に手を置き、レクチャーと確認をした後、全員で一斉に息の練習をする事になる。
「じゃあみんな壁際によって。さっきやった腹式呼吸を意識してね。最初は息を出し切ることから始めるわよ」
お腹に手をやり動いてるか確認をしながら息を吸って吐く。スッーっと息の漏れるが空間を支配する。意外にも一番長く息が持ったのは、二条さんや新庄ではなく琴吹だった。その事に少し驚きながらも息を素早く吸ったり、ゆっくり吐いたりとパターンを変えながら息の練習は続く。
「じゃあこれで息の練習はおしまいね。次は同じ事を、今度は声を出しながらやるわ。苦しくなったらいつでも水飲んで良いからね」
そう言って一息の休憩を入れる。水で少し喉をうるおしてから練習再開。息の時に意識した部分をもう一度意識して、息を吸う。
「いくわよ、せーの」
「「「「「あーーーーーーー」」」」」
琴吹の言葉に合わせて一斉に声を出す。自分の声以外は聞こえない程全力でだ。腹式で喋るといつもと違う声に変わるんだななんて思いながら叫び続けると、息切れしてきてだんだん声が小さくなっていく。他の人の声も聞こえ出した時、思わず発声をやめてしまう。
驚愕に目を見開き、その声の主を探す。
イタ
視線は釘付けになり、他の事は考えられなくなる。どうして初めて会った時に聞いた事がある声だと感じたのか?当たり前だ、毎朝聞いてるんだから。
なんでもっと早くに気が付かなかったんだと自分の馬鹿さ加減にうんざりしながらその声を聞く。何度でも、いつまでも聞いて居たくなる。麻薬のように強烈に俺を揺さぶるこの声を。
琴吹彩音。
本物の精霊のように綺麗な山の精霊の声の主がそこに居た。