Crossing Love
呼び出された。――社内の人気者、長瀬さんに。
彼は、いわゆるイケメンではないが、人当たりが良く、柔和な雰囲気であることから、社内みんなに愛されていた。確かに、現に私も何度かやらかした失敗を彼にカバーしてもらったことがある。本当にあの時は有難かった。しかし、それとこれとは別問題だ。何やら私に相談事があるらしいのだが、なぜそれを大して親しくもない私にするのだろうか。あの性格だから、彼と親しい同僚は山ほどいる。そんな中で、なぜ私を抜擢した。
「松永さん、今日はごめんね、急に」
「あ、いえ……」
そして流れる沈黙……。気まずい、そしてすみません。
後輩として、場をうまく盛り立てることができなくて、大層申し訳なかった。
「あ、今日は俺のおごりだから遠慮しないで食べてね」
「いえ、悪いですし、自分で払いますよ」
「いや、そっちのほうが悪いし! 俺が誘ったんだから、俺に奢らせてほしい」
「はあ……、ではお言葉に甘えて」
再び沈黙。私はメニューに関心を寄せているフリをして沈黙をやり過ごした。どうも居心地が悪い。
注文が終わったところで、いい加減この沈黙が嫌になってきた。早く本題に入って、沈黙をやり過ごしたい。
「あの、相談事、とは?」
「あ、そうだったね。えっと、実は」
一旦言葉を切り、長瀬さんは私の顔を真正面に捉えた。
「あの……俺、実は好きな人がいるんだ」
なんのカミングアウトだ、なんの。それほど仲良くない後輩にこんな所で打ち明ける話題? それとも、その人が私と親しくて、手伝ってほしいとか?
「結構アプローチしてるんだけど、なぜか気づいてもらえなくて……ってか、むしろ気づいてて無視してるのかなーとか思ってると自信が無くなってくるし」
どう思う、と長瀬さんは真剣な目で私を見続けている。正直、知るかと思った。私は今まで、男性と付き合ったことはあるものの、その数は少ない方だし、ましてや色恋の相談を受けるほどテクニックがあるわけでもない。そんな私に、なぜ彼は聞いてくるんだ。
「松永さんはどう思う?」
「えー、そうですね……」
言いながらさり気なく目を泳がせた。知るか、と言ってしまいたいのを必死にこらえた。
「ええーっと、具体的にはどんなアプローチを?」
そう聞き返したら、長瀬さんが少し落ち込み……しかしすぐに元気な返答を返した。
「――毎朝挨拶してる」
「……当然じゃないですか」
社内の円満な関係を築くため、挨拶は当然だろう。ましてや、この人は人当たりが良すぎる。彼に挨拶のされない人はまさかいないだろう。私の呆れ返った返答に、しかし彼はいきり立った。
「いや、当然じゃない! 俺は彼女に対してだけはすごく緊張するし、でも心を込めて挨拶してるんだ! こんなに丁寧に挨拶するのは彼女に対してだけなんだ!」
「はあ……、そうですか。でも、あなたの感情なんて彼女さんは知りませんよ? あなたは誰に対しても人当たりがいいから、自分が特別なんてこと考えてないんじゃないですか」
長瀬さんは放心したようにその場に座り込んだ。言及すると、彼は先ほどの反論の時、興奮したのかこちらに身を乗り出していた。普段は冷静なはずの彼が、興奮のあまり我を失う様子に、失礼だが笑いを堪えるのに必死だった。しかも、馬鹿だ。
「ふ、ふふっ、他にはどんなアプローチを?」
長瀬さんはしばらくして口を開いた。なぜふて腐れているんだ。
「……えっと、彼女が困ってる時にさり気なくフォローしたり、手伝ったりとか……」
「それ、はっきり言って他の人にもやってますよね」
「っで、でも! 俺は他の人には特に何も考えずにやってるけど、彼女に対しては下心満載なんだ!」
本当なんのカミングアウトだ。帰ってもいいですか?
「えーっと、それは彼女と仲良くなりたいなー的な?」
「ああ、それで好意を持ってくれて、あわよくば付き合えたらいいな、と」
本当下心ありありの手助けですね!
「でもそれって、他の人から見たら、すべて同じ親切に見えますよ。例によって、彼女さんが自分が特別だと考えるとも思えません」
目に見えて長瀬さんは意気消沈した。しかしだんだんこっちも楽しくなってきた。このままでは終わらせるわけなかろう。私は人の悪い笑みを浮かべた。
「他にはどんなことをしたんですか?」
なにやらかしたんですか、というニュアンスが含まれていることは内緒だ。
「ある時、こっそり彼女を夕飯に誘ったんだけど、その日に丁度会社の飲み会があったらしく、俺の誘いを飲み会だと勘違いして……」
「ええっと……それはご愁傷様で」
苦笑いを贈ってあげた。彼女さん、なかなかのボケをかましてくれる。
「でもまあ、ちょっとそれじゃ押しに弱いかもしれませんね。他に個人的に彼女さんに声をかけたことはあるんですか?」
「うん、それは多少あるよ。ってか、俺が社内の女性の中で自ら進んで声かけるの、その人くらいだし」
「えっ、そうなんですか? それは結構わかりやすいアプローチだと思います。でも正直、あんまりそのこと知れ渡ってないと思いますよ」
「知れ渡ってなかったらどうなの?」
「……彼女さん自身に、自分が特別だってことを理解してもらえないじゃないですか」
「はあ、なるほど」
「ちなみに、彼女さんとはどんなことを話してるんですか」
言ってしまってから、個人的なことに深入りしすぎたと思ったが、長瀬さんはそれほど抵抗がないらしく、話し始めた。――正直、彼女さんのためにも抵抗を持ってほしかったのだが。
「普通に日常会話だよ。最近どう、とか」
「はあ……あまりにも華がない会話ですね」
「――仕方ないでしょ、緊張してるんだから」
「でも結構長瀬さん、女性の方と話してるイメージが強かったんですけど」
「うーん、やっぱり会社だから、話しかけられることも多いしね。もしかしてそのせいでアプローチ気づいてもらえないのかな」
――会社だから、で済ませられるものだけじゃないと思う、確実に。個人的に長瀬さんと仲良くなりたい人だってもちろん話しかけているに決まってる。それに気づかないなど、長瀬さんも大概鈍感だ。
「やっぱり、全体的に長瀬さんのアプローチは地味すぎると思います。そんなパッとしないので女性を釣ろうというほうが無理です」
「はあ……、そうか。あんまり女性にアプローチしたことないからわかんないんだよね」
はいそうですか、そうですよね、長瀬さんほどの人気っぷりなら女性の方たちも黙ってませんよね。はい、別に妬んでなんかいませんよ? ただ自分もそういうセリフを一度は言ってみたいなって思っただけですよ?
私のジトッとした視線に気づいたのか、長瀬さんは慌てて両手を横に振った。
「いや! 違う違う! そんな意味じゃないよ! もともと女性と付き合った経験少ないし、だからアプローチの経験も少ないっていうか!」
「いえ、そんな全否定なさらずとも。ちゃんとわかってますよ。理解してます」
「いや、その目は絶対分かってない。目が笑ってないよ!」
「やだなー、分かってますって。長瀬さん自らアプローチしなくても、相手側からやってくるってことですよね」
「全然わかってないじゃん!! 違うって、本当に! 本当に個人的な付き合いをした女性は数少ないよ」
やたらと焦っている長瀬さんをからかうのがだんだんと楽しくなってきた。というか、いつも笑顔で優しい彼が、実は好きなものには熱血的で、しかも変なところでズレているのが面白すぎる。あの長瀬さんが緊張しながら話すとか、想像もできない。
「はいはい、まあ取りあえず落ち着いてくださいよ。はい、お酒でも飲んで」
私は全然お酒の進んでない彼を促した。奢られる立場として注ごうと思っても、飲まれていないのでは注げない。
「えっ、あっ、じゃあ……」
長瀬さんはそのままジョッキを傾けて、半分ほど一気に飲んだ。意外と豪快だった。そういえば、彼が酔っぱらったところは今まで見なかった気がする。外見からは伺えないが、もしかして結構な酒豪だったりするのだろうか……。いやはや、今日は随分と長瀬さんの意外な一面が見られる日である。
しかし、今日はまた、随分と私自身も素が出ている部分がある。どうやら酒の力に押されて口が軽くなっているようでいけない。私は仲が良い人にはとことん毒舌だが、普段はそれはもちろん控えている。無闇に敵を作りたくはないからだ。しかし今日はどうした。なんだか長瀬さんに対して随分な口をきいているような気がする。……ま、いっか。
既に心地よい酔いに浸ってた私に、理性なるものは消え去っていた。
いろいろと感慨に耽っていた私がふと顔を上げると、長瀬さんと目が合った。そしてその手には、半分を切っているジョッキが。
「長瀬さん飲むの早いですねー。ほら、お注ぎしますよ」
「えっ、ど、どうも……」
私が嬉々としてジョッキにビールを注ぐと、またもや長瀬さんはそれを傾けた。――よほどの酒豪と見た。
「そういえば、その方のメアドはゲットしたんですか?」
私もビール片手に聞くと、長瀬さんは顔をひきつらせながら俯いた。
「……うん、一応……」
「おっ、なかなかやるじゃないですか。でもなんでそんなに暗いんですか?」
「いや、メアドをゲットしたのも直接じゃないうえ、そもそも仕事の関係で急遽彼女に連絡しなきゃいけないことがあって、それで他の人に聞いた……んだけど」
「それは……、確かに扱い難いですね」
「だよね! 俺が直接聞いたわけでもないし、しかも仕事のために聞いたメアドを私欲のために使うのは……。しかもメアド交換でそのまま仲良くなる手も塞がれたし、今更メールするのもあれかな……って」
「うーん、どうしようもない、ですね」
あからさまに落ち込んでいる長瀬さんに、私からはもう何も言えない。
「そうなんだよ。……松永さんはさ、相手に、こっちが好意を持ってるって思われるには、どんなメールがいいと思う?」
「えー、どうですかね、メールの内容にもよりますけど、やっぱり好意を持ってるって思われるには、仕事ではなく、プライベートな話をふる……とか。――あんま分かんないですね。私も恋愛経験は少ないので」
「……へー、そうなんだ」
「なんでちょっと笑顔なんですか。腹立ちますね」
「い、いや、そんなことないって! ちょっと意外だなーって」
「なんか、みんなからよくそう言われます。私のどこがそんな風に見えるんだか……」
「あははー、まあね」
「そういう長瀬さんも意外っちゃ意外なんですけどね。女性にモテそうで」
「いや、そんなことないよ。確かに何人か女性と知り合いがいるけど、みんな友達だし。まして全然モテてないし」
「はあ……」
まさかその歳になって、みんな友達発言ですか。周りに気づいてないにもほどがある。
「まあこの話はいいです。長瀬さんは一人の女性にだけモテればいいんですからね」
「そうだね……。とにかく俺の好意に気づいてくれればいいけど」
「――ちょ、ここまできてまだそんなこと言ってるんですか? 私の話、全然聞いてなかったみたいですね。この場合、まず長瀬さんの好意が地味すぎることに問題あります」
「地味……ちょっと傷つくね」
「当たり前ですよ! これで気づけという方が無理です!」
「じゃあどうすれば……?」
「そうですね……」
長瀬さんの方に目をやれば、ジョッキは空いていた。ここぞとばかりに注ぎ込んだ。奢られているのだから、これくらいはしなければ。しかし彼は本当に酒豪なんだと感心した。私が入れると一気にまた飲むのだから。――少し体に悪そうだが。
「まずはもっと社内で声をかけましょう。積極性をアピールするんです。それでさり気なく会話の隅に、メールをしてもいいか尋ねるんです。この方が丁寧でいいと思います。後は……、だいぶ仲良くなったところで、ご飯に誘うとか?」
……月並みとか言わないでほしい。自分が一番よく分かってる。それに、恋愛経験の少ない私に聞いてきた彼が悪い。いくら恋愛経験豊富そうに見えたからって、ないものは仕方がない。
「まあ、きっと長瀬さんなら大丈夫だと思いますよ。社内の女性の皆さん全員、長瀬さんにいい印象持ってるはずですから」
「本当に?」
長瀬さんが子犬のような目で見つめてきた。なんだ、やつはこんな芸当もできたのか。
「ええ、自信を持って――」
「松永さんは?」
唐突に聞かれた。
「はい?」
「松永さんは俺のこと、どう思ってる?」
「え……それはどういう」
彼は先ほどとは打って変わって真剣な目をしていた。そのせいでなんだか部屋の空気が重い。
「え、えーっと、……長瀬さんはすごくいい人だと思いますよ。私がミスした時も、手伝ってくださいましたし……」
「いい人? いい人止まりなの? 彼女にも、俺はいい人どまりなんじゃないの?」
ああびっくりした。やっぱり彼女さんのことだよね。私のことを真っ直ぐ見つめてくるから動揺した。長瀬さんも、多少は酔ってるのかもしれない。
「やはり長瀬さん次第だと思います。その人に必死にアピールすれば、きっとその思いは届きますよ」
またもや月並みなセリフを言ってしまった。当然、長瀬さんは自信がなさそうに俯いてしまった。なんだこれは。折角彼に相談役として抜擢されたのに、余計落ち込ませてどうする。
「あー、えーっと、その」
取りあえずこの場を何とかしようと言葉を紡いだら、そのせいで長瀬さんに注目されてしまった。しかもまたもやその双眼は子犬のような目で。――やめてくれないか、それ。なんだかこちらがいじめている様な気分になってくる。それは長瀬さんの特技かなんかですか。女性相手にやったらさぞかし効果を発揮するでしょうねー。
――駄目だ、少し思考を飛ばしすぎた。長瀬さんといえば、待ちぼうけを食らっていよいよ泣きそうになっていた。なんだ、あなた、もしかして泣き上戸なんですか? そんな子犬みたいな目をして……。ってか、私は猫派なんですけど。
ああ、駄目だ、こんなことをしている間にも長瀬さんの涙腺が崩壊しそうだ! 本当に早くこの場を収めなければ! 何か、何か気の利いたことを言わなければ――!
「――でも、長瀬さんなら大丈夫だと私は思うんです。誰かがミスしても、いつもそっとフォローするじゃないですか。あれ、すごいなって思うし、実際私も助けてもらったし……。さっき長瀬さん、いい人止まりって言ってましたけど、そんなことないです。それは長瀬さんのことちゃんと見てないからそうなっちゃうんです。私は、長瀬さんの優しいところ、素敵だと思いますよ」
うわー、何を言ってるんだろう。だんだん私の顔が熱くなってくるのがわかる。
「こんな俺でも、恋愛対象になるかな?」
寂しげに俯く。なんでこの人はこんなに後ろ向きなんだ。面倒になってきてつい、声が大きくなってしまった。
「だからなりますって! 私は長瀬さんのこと、魅力的だと思いますし!」
ああ、もうなにやってるんだろう。自分、今ものすごく恥ずかしいこと言える。相談事を受けてたはずが、なんでこんなことになっているんだろうか。
「私、ちょっとお手洗い行ってきます!」
咄嗟に席を立った。とにかく今は顔を冷さなければ!
長瀬さんは、引き止めなかった。
◇◇◇◇◇
「はあ……」
十分後、やっと顔の熱が冷めたので、化粧室をでることにした。しかし次の問題は、長瀬さんだ。彼に、合わせる顔がない。なんだ、さっきの私のセリフは。まるで告白みたいじゃないか! しかしそうのんびりとしていられないのも事実である。もう時間は遅いし、長瀬さんに限って心配はしていないが、まだ若い女性の身として、ある程度は危機感を持たなければ。
――と思ったのも、束の間だった。危機感がないのは、彼の方だったようだ。
「……長瀬さん、まさかとは思いますが、寝てませんよね? ちょっと横になってるだけですよね?」
「うーん……」
「ちょっと、本当に起きてくださいって! もう帰るんですよ!」
「あと、もうちょっと……」
「いや、ちょっともへったくれもありませんから! 本当に今起きてくれないと、そのまま寝入ってしまうんですよ、ちょっと長瀬さん!」
穏やかな表情で寝ている長瀬さんを見ていると、なんだか腹立たしくなってきた。
「ほんと、お酒に弱いなら言ってくれればいいのに」
私は長瀬さんの頬を軽くつまんだ。普段なら絶対にしないことだが、私も酒の酔いに多少影響されているようだ。
「ほんと、今日はさんざん振り回されましたよ」
次第に楽しくなってきて、両手でつまんで遊んでみた。意外と感触は柔らかかった。
――って、なに和んでんだ私!!
我に返った。恥ずかしくなった。長瀬さんが起きていないことを今は強く感謝した。
「こんなことしてる場合じゃないよね。長瀬さーん、起きてくださーい」
ペちぺちと、その頬を軽くたたいた。そしてすぐに気が付いた。彼の頬に残る涙の後に。――あの後ついに泣いたんですね、長瀬さん!
私の中で、長瀬さんのイメージがガラリと変わっていく音がする。――少々熱血、ズレてる、鈍感、泣き上戸、そして酒に弱い。
しかしこんなことでは止めてあげない。意を決して、今度は半ば本気で叩き始めた。長瀬さん、もし明日頬が赤くなってても恨まないでくださいよ!
「ん……、んん? なに」
何じゃないですよ! こっちこそなんだと問いたい! 無駄に色気のある声で聞かないでください!
「いい加減起きてください。そして帰りましょう」
「んんー。眠い」
「――はあ? 駄々こねないでください!」
「いや、本当に眠くて……。松永さんはもう帰っていいよ」
「ちょっ、こんな状態の長瀬さんを放っとくわけにいかないじゃないですか」
「松永さん、優しいね」
「これくらい当たり前ですよ」
長瀬さんが黙り込んだ。なんとなく声をかけづらい雰囲気になり、私は大人しくこの沈黙に浸り――かけてハッとした。駄目だ、この人のペースに呑まれるんじゃない。
「俺、今ものすごく情けないよね」
「まあ、ぶっちゃけて言うと、そうですね」
私が口を開こうとしたら、一足遅く、先を越された。何となんとなく腹が立ったので、歯に衣着せぬ物言いになってしまった。
「だよねー。本当、普段はこんなに飲まないんだよ」
「こんなにって、大して飲んでないじゃないですか」
「うーん、そうなんだけどね、あんまり酒が飲めない俺からすると、十分飲んだほうなんだよ」
「ちょっと意外でした。長瀬さん、飲み会でも酔った姿見たことなかったので」
「これが俺だよ。酒飲めないとか格好つかないし、男らしくたくさん飲んだら今日に限ってこの様だし……。ああ、かっこ悪」
だから全然たくさんじゃないって、という突込みは心の中だけに留めておいた。人様のライフポイントを削るのは趣味じゃないからだ。いや、この優男にとっては、酒を勧めた時点ですでにライフポイントを削っていたのかもしれない。
「――遠まわしに言っても駄目なんだ」
「はい?」
なんだか再び長瀬さんの瞳が潤ってきたので焦った。なにがこの人の琴線に触れたのかさっぱりわからない。
「松永さん、最近どう? もう会社には慣れた?」
「はい? ……そりゃ慣れましたけど、でももう四年目なんですけど」
「ははっ、そうだよね」
酔って頭がおかしくなったのだろうか。そういえば、そのセリフには聞き覚えがある、ありすぎる。私が入社後、長瀬さんには先輩として指導係になってもらったせいか、何かと気にかけてもらっていた。このセリフはその当時に、――詳しく言うと今も――よく私に尋ねてきた内容そのものだった。なんだか長瀬さんが娘を気にするお父さんのようで、ちょっと面白かったが。
「そういえば松永さん、飲み会とか苦手そうなのに、この前はよく来てくれたね」
「はあ……まあ、ちょっと気分転換のつもりで」
まさか、いつも世話になってる長瀬さんに誘われたから、とは、もうずいぶん素が出てしまっている私には照れくさくて言えなかった。――しかし、いったいこの人はどうしたんだろうか。泥酔状態のあまり、記憶が混濁しているのか?
呆れたように長瀬さんを見ていると、不意にその口が開いた。
「ねえ、俺の好きな人、誰だと思う?」
えー……なにこの面倒な人。あのしっかり者の長瀬さんが、まさかの泣き上戸に加えて絡み酒とは!
「さあ……三条さんですか?」
「ざんねーん! 三条はただの同僚でーす」
向こうはそう思っていないように思えるが……、とこれも心の中だけに留めておいた。なんかテンションがうざいからな、この人。
「もっと身近にいまーす」
身近? 女性の方で、身近にいる方は三条さんくらいしか思い浮かばない。それよりもっと近く――となると、渡辺さん(男)くらいだ。両者のためにもすぐにその選択肢は消したが、酒で火照った体が少しだけ冷えた。
「その子はさ、俺の二年後に入ってきた子なんだけど、しっかりしてて、でも変な所が抜けてて。親しくなればなるほど毒舌になっていくのも変わってる」
そんな子いたっけなーと、少々冷や汗を流しながら記憶をたどる。うん、思考が働かない。
「気づいた時には好きになってて、アプローチもしたけど気づいてもらえなくて」
うーん、気のせいだろうか、自分の中で歯車がどんどんかみ合っていく。気のせいですよね?
「でも無視されてるんじゃないってわかったから、もうこれは直接言うしかないって思って」
沈黙が恐ろしくて、恐々と顔を上げたら、長瀬さんのトロンとした瞳と目があった。
「俺……松永さんのこと――」
「――お客様、お皿をお下げしてもよろしいでしょうか?」
突如声が乱入した。この絶妙なタイミングで。
「はっ、はいいっ、はい! ぜひお願いします!」
それに私は焦ったように返事をした。焦りと戸惑いとで長瀬さんの顔がうまく見れない。
店員さんは、手際よくお皿を片付けていった。そうだよね、今一番混んでる時間帯だもんね、仕方ないよね。
でも長瀬さんの方は、店員さんが出ていった後も変わらず沈黙している。うん、なんか気まずい。
「あ、あのー、長瀬さん? そ、そろそろ行きましょうかー?」
言いながら恐る恐る長瀬さんの顔を見た。今度はこっちが絶句した。
「寝てる……」
寝てやがる。こんなに私を焦らせてドキドキさせて悩ませて。この人、すやすやと寝てやがる。
「な、なに寝ちゃってんですか! 私をこのまま放置ですか!?」
本当の本当にまさかの寝落ち!? このタイミングで!? いやこの後に続く言葉は想像つくけど――と、ここまで考えて、私の顔に一気に熱が集まった。いや、しかしもし間違ってたらただの自意識過剰女じゃん。それに酔ってるから勢いでってのもあるだろうし……。
「って、本当になに眠りこけてんですか、長瀬さん!」
恨みつらみを込めてバシバシとその頬を叩いた。これで確実にこの人の頬には赤みが差しているに違いない。でもしばらく叩いていても全然、全く起きる気配がない。本当に眠りこけてしまったようだ。
私は混乱する気持ちを無理やり切り替えて、勘定しにいくために席を立った。これからが大変だ。長瀬さんを家まで送らなければならないが、しかし彼の住所はもちろん知らない。彼と仲がいい渡辺さん(男)に電話で聞くしかないだろうか。
重く長い溜息をついて、私は長瀬さんを振り返った。
「覚悟してくださいね、長瀬さん」
やっぱり腹が立って、最後にその頬を摘まんでやった。
「もし明日、このこと覚えてなかったらぶん殴ってやりますから」
長瀬さんは、聞いていないのか聞いているのか、ううん……と眠そうな声で返事をした。
明日が非常に楽しみになった。