消えゆく言葉
『消えゆく言葉』
老齢をとうの昔に向かえた私は、今年の冬にとある奇病を患った。
端的に言ってしまえば、痴呆、アルツハイマーと言った、いわゆる記憶を失うといった類の病である。
しかし私の病というものには、それらとは決定的な違いがある。
それは、私が失うものは『記憶ではなく単語である』ということだ。
たとえば私が今、手にしているこのリンゴ。
今の私はまだ『リンゴ』という単語を忘れていないため、平然とこのリンゴについて語ることができている。しかしやがて、この単語を記憶から失ってしまう可能性を、私は常に抱えているのである。
そうなってしまうと、私はもうこの赤い球状の物体を認知こそはするが、しかし単語を忘却してしまうという状態になってしまうのだ。
――――眩暈。
私は片手を壁につき、よろめいた身体を支える。もう片方の手を額にあてながら呼吸を落ち着かせる。
……これだ。
この眩暈が起きると、私は何かを忘れてしまう。
おそらく今この瞬間にも、私は何か単語を失ったのであろう。
しかし何を忘れたのか、それは私自身知ることができない。なぜなら、その存在に単語があったという事実そのものを失うためだ。
忘却とは、それを知覚していないからこそ忘却なのだ。これはど忘れとは違うのである。
たとえば外を歩いているときに人とすれ違ったとしよう。その人のことを知っていれば、「彼は○○さんだ」と気づくが、知らない人ならば何も感じることはない。それはただの「人間」という集合体のうちの一単位でしかなく、「○○さん個人」としての認識はできない。それは、私がその人の名前を知らないからである。その人がいることはわかるが、誰かということまではわからないし、かといってそのことについて何の疑問も感じることはない。
それともうひとつ、この病には病状の進行が極端に速いという特徴が挙げられる。
私がこの病を発症したのは今年の であるが、今、季節は春である。
発症から数か月しか過ぎていないにも関わらず、既に私が忘れてしまった単語というのは幾つもある。
――――眩暈。
再び、酷い眩暈に苛まれる。私は頭に手を添え、ぐっと痛みを堪える。
私は手にしていた赤い を机に置いた。
そして立ち上がる。
私は決心していた。
数年前に、長年連れ添った を失って以来、私はひとりで暮らしてきた。
無論、介護のために人が来てくれてはいるのだが、それは私にとって――失礼な言い方ではあるが――他人にすぎない。
私の心は孤独であった。
そして私は単語を忘れていく。
やがては全てを忘れてしまうのであろう。
その前に、私にはどうしても会いたい人がいた。どうしても伝えたい言葉があった。
それを伝えるため、私は今日、この家を出て、その人へ会いに行こうと決心したのだ。
――――眩暈。
頻繁に襲ってくる眩暈に耐え、私は座っていた から腰を上げた。
そしてドアの に手をかけ、扉を開く。
私は杖をつきながら重い歩を進め家を出た。
◆◆◆
電車に揺られて数時間。
たどり着いたのは東京である。
田舎の中でも辺境と言って差し支えない程に寂れた村に住んでいた私にとっては、都会というのは少々さわがしい。
私がわざわざここへ来たのは、誰よりも愛する孫に会うためだ。
人として尽きる前に、誰よりも愛しい、何よりも大切な存在である孫に会いたいと願うのは決して罪ではあるまい。
――――眩暈。
一瞬、身体がよろける。
周囲の人間が私のことをちらりと見るが、声をかけることはない。
倒れでもすれば、さすがに手を差し出すのだろうが、そうでない限り関わらない方が無難ということであろう。
私は、重い身体を で支えながら、孫の住む家へと向かう。
◆◆◆
やけに眩暈が酷い。
ここへたどり着くまでに、何度となく眩暈に襲われた。
ここまで頻繁に眩暈が起きたのは、いままでに無い例である。
もしかすれば、もう私の そのものが近いのかもしれない。
ドアの前に立った私は、 を鳴らした。
今日は、 曜日。 園も休みのはずだ。
どこかへ遊びに行っていなければ、きっと、孫はいるだろう。
――――眩暈。
心なしか、眩暈による痛みそのものも強くなってきた気がする。
とそのとき。
「あら、おじいちゃん! どうしたの、突然」
が開いた。顔を見せたのは、息子の の涼子さんであった。
「いやね、孫の健太と美歩に会いたくなってしまってね」
正直に告げる。どうしても今、誰よりも 、何よりも な存在である孫に私は会いたかったのだ。
「とにかく上がってください」
涼子さんはそう言って私を快く の中へ招き入れてくれた。
私の息子は本当にいい をもらったようだ。
――――眩暈。
もう今日で何度目になるかもわからない眩暈。
よろけてしまったが、涼子さんが支えてくれたので怪我をするようなことはなかった。
涼子さんに を引かれ、廊下の奥へと進む。
早く会いたい。早く に会いたい。 な二人の に会いたい。
一刻も、早く。
――――眩暈。
頻度が異常に早くなっている。さすがにここまであからさまだと、苦笑せざるを得ない。 さん、早く連れていっておくれ。 に会わせておくれ。
――――眩暈。
を引かれて、 の突き当りの部屋の を さんに開けてもらう。
――――眩暈。
突きあたりの の中には、 を見ている二人の の姿があった。
「あ、おじいちゃんだ!」
「おじいちゃん、こんにちはー!」
元気な の声が聞こえる。ああ、なんと心地のよい元気な声だろうか。
―――― 。
また、ひどい が起きる。しかし、痛みなど気にならない。なぜなら、 に会うことができたからだ。
「健太。美歩、おじいちゃんはね、どうしても今日、お前たちに会いたかったんだよ」
―――― 。
「なになに、おじいちゃん!」
男の子らしい元気な声で、 が尋ねる。
―――― 。
「なあにー?」
かわいらしく、 が聞く。
―――― 。
早く、伝えなければならない。
「 はね、 と にね」
うまく言葉がでない。
「なにおじいちゃん、どうしたの、よく聞こえないよ」
―――― 。
私の様子を見て、 さんが慌てて を出ていった。そして をかける。救急車を呼んでいるのだ、と直感した。
―――― 。
構うことはない。
もう、あまりに に残された は短い。
きっと、自分の身体のことは自分がよく知っている、というやつだ。
―――― 。
不安そうな顔で、 と が見ている。
―――― 。
はね。
―――― 。
が何よりも なんだ。
―――― 。
だから誰よりも 。
―――― 。
「 はね」
「おじいちゃん?」
「 と が」
「どうしたの?」
「 なんだ」
―――― 。
「なあに、よく聞こえないよ?」
心配そうに見上げてくる二人に、なんとか紡ぐ。
「どうしたのおじいちゃん?」
「よく……聞いておくれ」
「うん、聞くよ」
何を忘却しているのかさえ把握できない中で、まだ、自分に残されているであろう言葉を必死に模索し、つなぎ合わせる。
なんとか……完成させることができた。
そして、最後のその言葉を、贈る。
その言葉
―――――――― 。
「 」
―――― 。―――― 。―――― 。
―――― 。―――― 。
―――― 。
。
――――消えゆく言葉(了)