其の弐 海坊主と守銭奴
船は、船員四十名余りを乗せて波に揺られていた。無駄な装飾が凝られた柱に支えられてその巨大で悪趣味な船は北、蝦夷に向かって漕いでいた。その船主である男、糸水嘉之衛は体中に金銀ちらつかせたこれもまた悪趣味な着物を身にまとい、ねずみが鳴くような下品な声で船員を叱り付けていた。
その船員の一人である与吉は運悪く、嘉之衛に目をつけられて
さほど大した粗相でもないのに冷水を顔に叩きつけられるなど、嫌がらせを受けていた。
その日は波が高く、空は唸っている。嵐前触れを感じさせるその雲行きは船員達は勿論、長旅で衰弱していた嘉之衛の神経をすり減らすことに他ならない。
嘉之衛は食事の支度をしていた与吉を引き止めてこんなことを言った。
「やい与吉よ。お前のような愚図で鈍間のいい使い方を考えた」
「どのようなことでございましょうか?」
「なに、お前を甲板に括り付けて、海の神様に生け贄としてささげるのよ」
与吉は青ざめた。どうかご慈悲をと下げたくもない頭を懸命に下げて、命乞いをした与吉を満足そうに眺めた嘉之衛は踵を返す。
「くく、それも楽しかろうが、今日はお前に船の掃除を命ずる」
「は、はい」
「今から夕刻までにこの船の全て清掃できなければ…嵐の中括り付けてやるから覚悟をしておくことだ」
今はその夕刻のほんの少し前。与吉は絶望してその場に立ち尽くした。
嘉之衛は高らかに下卑た笑いを響かせ、与吉の前を後にした。
与吉は何故自分がこのような境遇でなければならないのかと悔やんで膝をつき、泣く。
外の空気は一層悪くなっていくようで、与吉の運命を救うものは何一つとして現れなかった。
嘉之衛は自室の畳で寝転がり、帳簿を見つめて大きくため息をついた。
持っていても持っていても金が足りない。嘉之衛はそう感じていた。
船に使う金が膨大すぎて、蝦夷で収穫する奴隷や作物ではとても足りないとさえ思った。
嘉之衛は帳簿を投げ捨て、外の黒々と広がった海を眺めた。
「もしこの無意味なほど膨大に広がった塩水が…全て金だったらワシは溺れてやるというのに」
そして少しまどろんだ視界を閉じてもう一度ため息を吐いた。
嘉之衛はハッとして目を覚ました。
そうだ、甲板に与吉を縛りつけなくてはそう思って起き上がると、そこは見慣れたどぎつい室内ではなく、落ち着いた西洋風建築の静かな一室であった。
嘉之衛は夢をみているのかと辺りを見渡す。すると目に付いた振り子時計が、嘉之衛はとても魅力的に感じて、そっと体を起こした。
カチカチと正確に刻んでいるであろう時計版を見つめて胸を高鳴らせた嘉之衛は、両手でその時計を包み込んだ。
「いらっしゃいませ」
嘉之衛は突然声を掛けられて、すばやく時計から手を離した。
深く頭を下げていた男はすっと顔を上げる。とても端正な顔をした青年で
嘉之衛と時計を交互に見つめてくすりと笑った。
「それはわたくしの体の一部のような家具でございますから…たとえお客様が懐で温めて下さってもお持ちかえりにはなれませんよ?」
「むぐぐ…何を言うか…ワシはこの時計が美しいから近くで見ていただけよ」
「ええ、存じておりますよ…たとえ話ですから」
男の側にいつの間にか居た少女二人が頭を下げる。
男はその二人に両手を乗せてにたりと嘉之衛へ笑ってみせた。
「わたくしは戒樹。こちらの二人は右が堰、左が海と申します」
「ここはなんだ?ワシは自分の船で寝ていただけなんだが…」
「ここは夢亭と申しまして…あなたの心の奥底から本当に望むことを叶えて差し上げる店…ただし金銭類、その他財産等は一切頂きません」
嘉之衛は心の奥の願いという言葉でごくりと唾を飲んだ。
それが本当なら夢でもいい、金が欲しいとつい言葉で出そうなほど強く思った。
だが同時に金銭を要求しない戒樹を胡散臭げにじろりと睨む。
「まあ…細かい話は後に致しましょう、玄関口でお話するのも…失礼でございましょう?」