三
「お客さん、お客さん!」
金正は肩を揺さ振られてふっと意識を戻した。心配そうに金正の顔を覗き見た茶屋の店主は、金正がぼんやり振り向いたのでその手を離した。
金正はやはり夢だったかと、安堵の息をついて店主に詫び、茶代を払って立ち上がった。
店主はふと、そんな金正を呼び止める。
「ああ、忘れ物ですぜ、お客さん」
「忘れ物?」
金正が振り返ると、その店主の右手には見覚えのある
装飾がきれいなランプが握られていた。
半信半疑、妻の芳が寝静まった頃、金正はろうそくを探して箪笥の中を探った。
家のことは芳しか知らず、どこに何があるかなんて知りもしなかったが、以前傘を売った客から彼岸にあまったろうそくと線香をもらったのを思い出した。
箪笥の二番目からそれは現れたが、いざろうそくを持ってみると、やはり不気味さが拭いきれずに躊躇ってしまう。ふと芳を見つめる。
大きな口を開いて昼から寝ていたというのに寝てばかりいる芳を見ていると、
金正の心には再び怒りがこみ上げた。
そうだ、これは鬼なのだ。かつて愛して一緒になった女ではもはやないのだ。
そう胸のうちで唱えた金正はそっとろうそくをランプに立てるのだった。
ろうそくは火をつけてもいないのに突然光を発して燃え始めた。
金正は驚いてあうやうくランプを落としそうになったが、それをじっと見つめて芳が何か変化がなかったか見遣った。すると今度こそ、金正はランプを手から落としてしまうこととなる。
「よ…芳!」
芳が寝ていた布団に横たわっていたのは、鬼であった。
それは喩えではなく、実際体から布団がはみ出していたし、その頭には二本の角が生えている。とても人間とは思えない恐ろしい形相をしていた。
金正はランプからこぼれた火が燃え広がることなど気にせず、長屋を飛び出した。
子供たちが気がかりだったため、その両手には泣く子供を抱えて金正は懸命に走り出した。
すると先ほどまで寝ていた芳はむくりと起きだし、長屋の戸を突き破って金正を追った。
声は地からもれるようなとても低い声で、金正を呼んでいた。
金正は振り返らず走った。とにかく走った。
周りの者が悲鳴をあげていようが火事が騒ぎになろうが走る。
やがて大路地に出た頃、一人の侍が金正と芳の前を阻んだ。
思わず足を止めてしまった金正はすがりつくように侍に頼み込む。
「鬼が俺を追ってくるのです。どうか助けてくだせぇ」
「あれを鬼と、申すか」
「左様、子供を守ってここまで走ってきました。助けてくだせぇ」
侍は刀を構えた。すらりと伸びた銀の刀身は月明かりを受けて鈍く、そして鋭く光っていた。
鬼はかかってくるでもなく、片手を伸ばして何かを訴えている。
侍はそっと足を後ろに引いて体を屈め、走り出した。
一太刀が鬼の腹を抉る。
とてつもない悲鳴を上げた鬼の声に、金正は耳を閉じた。
そして抵抗を全く見せない鬼は、とどめに一撃を受けて血しぶきをあげた。
侍がその血を払って背を向けた時、礼を述べようかと顔を上げた金正の視界に映ったのは、人間の姿をした芳がぱたりと倒れる様であった。
「ひやあああ!」
金正は悲鳴を上げた。
喉から、腹から。あらゆる場所から血を流して絶命した芳を抱えて金正は慟哭する。
そして首を振ってその胸元に顔を埋めた。
「こんな事、望んじゃいなねえ…よし、芳…っ!」
「ですから、お尋ねしましたよ、あれを鬼と言うのであるかと」
侍はにたりと笑って、その片手にいつの間にか携えたランプを揺らした。
中には確かに金正が入れたろうそくが燃えており、そのろそうくの側面には平条金正と刻まれていた。
侍は静かに告げた。
「わたくしめは悪の…味方でございますから」
ふっと炎が消えた。
その途端泣きじゃくっていた金正はぴたりと騒ぐのを止め、芳の死体へと自身も重なって倒れた。
くつくつと笑った侍、もといその姿をした戒樹は恭しく礼をして
「ご利用、ありがとうございました」
と告げ、ふっと消えるのだった。