二
金正の足はそのまま、応接室へと赴き上質な皮が張られたソファーに腰をおろす。それまでの一連の動きは皆、脳を操られていたかのように、金正の意思とは全く関係ないものだった。
金正はすっとお辞儀をして離れていった女中の少女を不気味に思って見つめた。
その細くて真っ白な首には猫のように鈴がくくりつけられていて、彼女たちが歩くたびりぃん、と鳴るのだった。
男は金正の正面に腰を下ろして、懐から取り出したキセルに煙草を詰めた。
「女郎がね…勧めるんですよ。とても気持ちが落ち着くから呑んでごらんなさいと。くく、」
金正は嫌そうな顔をして、男を見つめた。
部屋は薄暗い。金正と男が居る場所だけがこうこうと照らされ、その奥は仄暗い深淵の闇が広がっているように思えた。男はキセルに火を灯らせると、吸い込み、ふうと煙を金正にたきつけた。
金正が咳き込むと男は失敬と詫びてもう一度煙を吸い込んだ。
「まあ薬と同じだとお思いになりませんか?とても不浄でございます」
「…だったら…アンタは何故吸うんだい」
「くく、気持ちが落ち着くからですよ」
話がぐるりと一周する。呆れた金正はこれが夢だと思い始めた。とてもこんなこと、現実だとは思えない。そして覚めるようにとなるべくまばたきは長くして目を閉じたが勿論なんの意味もなく、鼻からは煙草の煙が進入していた。
男はやがて思い出したように改まった声で告げた。
「我が夢亭へようこそおいでくださいました、平条金正様…わたくしはこの夢亭の亭主で名を戒樹と申します、そしてこの子たちは堰と海と申します」
「夢亭…?」
「左様にございます」
戒樹はにたりと笑い、キセルの灰を落とした。カンと目の覚めるような大きな音を鳴らして戒樹は顔を上げた。両側に控えていた青い着物の少女―海のことである―が戒樹が落とした灰を回収して
また何事もなかったようにしずしずと戒樹の側に戻った。金正は海の様子に目を奪われていたが、ハッとして戒樹を見つめた。
「何故…名前を」
「それは貴方様がわたくしのお客様ですので、わたくしが知っているのは当然なこと…」
「その…客ってには何だ?俺は一体どうすれば」
戒樹はひらりと手の平を返して赤い着物の少女―堰のことである―に合図すると、堰はそっと袖口から手鏡を取り出した。美しい装飾が施されたその手鏡を戒樹に渡して、堰もまた側で動かなくなった。その様はまるでカラクリ人形のようでもあった。
「ごらんなさいませ」
映し出された様は、見慣れた自分の長屋の家だった。そして子供が泣きじゃくる中、ぼんやりと畳に横たわって何をするでもない芳の姿が映った。
金正は突如、芳のような女が妻であることが恐ろしく思えて、そして恥ずかしく感じた。
目を逸らした金正がきちんと鏡を見たことを確認すると、鏡は元の役目を果たして天井あたりを反映させた。
戒樹はにたにたといやらしい笑みを浮かべて、そっと身を乗り出した。
「貴方様の奥様でいらっしゃいますね」
「芳は…」
「ええ、存じております、存じております。彼女は病に侵されておるのでございます」
「病?」
「ええ、とても悪いそう…」
戒樹は声を潜めた。しかし金正の脳にしっかりやきつく一言で。
「鬼が…巣食っておるのでございましょう?」
金正は最近、自分が倒れたとき、何一つしなかった怠惰な妻の姿を思い出し、唇をかみ締めた。
ゾッと背中が冷たく感じられて、金正は唸り声の一つだって出なかった。
戒樹はそんな金正の前に人差し指を突き出して、こう言った。
「貴方様の心の奥底からの願い、叶えてさしあげましょう。ただしその対価を頂きます」
「対価?」
「そう、わたくしに下さるのは貴方様のなけなしの財産ではございません、ただ…一本の」
そして、側にあった空っぽのランプを金正に差出した。
「ろうそくをここへ…刺すだけで結構でございます」
「ろうそく?一体なんの為?」
「御代でございます、もし貴方様が本気でお望みとあらばわたくしが駆けつけましょう」
「つ、妻の怠惰が…治るだろうか?」
「ええ、勿論」
戒樹は静かに微笑んだ。堰、海が両手を広げてさよならの合図をする。金正はその様子を見ているうちにまどろんで、あらがいようのない眠気がまぶたを少しずつ下ろしていった。
「鬼は退治されますよ…くく」
そして金正は目を閉じた…。