其の壱 鬼の嫁
男、平条金正は心の寛大な男であった。十二年連れ添った妻との仲は悪かったが、仕事は傘を作る仕事をして家計を助け、一男一女の子供に恵まれてそれなりに幸せに暮らしていた。
しかし男は働いても働いても楽にならず、夜遅くまで傘を作っては早朝に傘を売りさばきに歩いてまわる。しかし晴天の日に傘など売れるはずもなく、男とその家族の暮らしは困窮するばかりだった。
あるとき、男は病に伏せり、妻の芳に傘を頼んで療養した。
彼女は大変横着な女であった為、横になりながらも不安を抱いていた金正であったが、文句の一つとして言えるはずもなく。
その病がすっかりよくなる後日売りにいこうと金正はそのまま寝てすごすこととした。
しかし後日、出来上がっているはずの傘の姿はなく。横にはだらしなく寝転がった芳の姿があった。
さすがの金正も堪忍袋の緒を切らし、芳にこれを問い詰める。
すると芳は顔色一つ変えずにこういった。
「愚図のアンタの仕事だろうにあたしゃこんなこと了承するいわれないね」
金正は思った。
鬼だ、鬼嫁ぞ。
ばけにん
金正は傘を売りに江戸の町を歩いていた。
しかしこの日はやはり晴天。うれるはずもない。茶屋でどっかりと座り込んだ金正は鳥が行き交う空を見上げた。せめてもう少しこの憎らしい晴天がぐずっていたなら、あるいは南蛮人に売れてもいい。
今は鎖国中のため、輸入や輸出が限られたとて売れることがあるかもしれない。金正はそう思いながら茶屋の薄い茶をすする。
夕方までに一本だって売れなければ、今夜は家に入れてもらえすらしないかもしれない。そう思うと帰ることすら気が引けた。
はあ、と自然に口からあふれ出る鬱憤の象徴が金正の気持ちをさらに重たくさせる。ああどこか、私の安息がないものか。
そう思って目を閉じた金正は、再び立ち上がり傘を売ろうと目を開いた途端、自分がいる場所を見つめて腰を抜かした。
「なんだ…ここは…?」
西洋の屋敷など見たことがない金正は驚いて辺りを見渡した。
先ほどまで茶屋の露店でくつろいでいたはずなのにこれはどうしたことか。木で作られた屋敷には欄間とはまた一味違った異国情緒溢れる細工が施された壁に囲まれて、天井には見たこともない煌びやかな照明が輝いている。
さらに振り子時計がカタカタと鳴り響き、突如ボーンと正午を告げる鐘を鳴らして金正はおおいに驚いた。
「いらっしゃいませ」
高い声だった。女性のものとは違うが、言葉の響きには甘みがあり男娼がよくつかうようななまめかしい響きを持っていた。
金正はおそるおそる振り返った。
そこに佇んだ男は金正と視線が合うなり優しく微笑み返し、美しい漆黒の髪を揺らして腰を折った。
「貴方様で三千二百五人めのお客さま…さあさ、どうぞ中へ」
金正はぶんぶんと首を振った。目鼻がすらりとしていて異人かと思われた。だが言葉は流暢で髪は黒々している。そしてその赤い瞳は異形さを感じられ、不思議な魅力がある男であった。
側を女中のような少女が二人ついており、元々来たくて来たわけではないのに突然客扱いされ、あまりの不気味さに金正は言葉がでなかった。
男はわかっていますと何度か頷くと、傍らの少女の肩を押しやる。
少女もならって深くおじぎをすると、ひたと金正を見つめた。
「当店ではお金、その他財産を含むものを一切頂きません。ご安心ください」
「俺は…俺は傘を売っていただけだ…どうか帰してくだせえ…俺は狐なんぞに悪さした覚えはねえし…どうか許していただけませんか」
「何をおっしゃいます。あなたが望まなければ、わたくしは見えませぬ」
少女が金正の両腕の袖を握った。金正は思わず悲鳴を上げたが、自然と足は店の奥へと向かって歩き出した。
「ひい」
「さあさ、どうぞ」
玄関口のろうそくに蛾が戯れて飛び回る。
ジッと羽根を焦がして尚火に体を寄せる蛾を見つめて男はそっと口角を上げた。
「中へといらっしゃいませ…」