エラー008:「ツカノマノ『平穏』ト、スイメンカノ『攻防』」
エラー008:「ツカノマノ『平穏』ト、スイメンカノ『攻防』」
偽装工作が成功し、研究室には、束の間の平和が訪れた。
マスターは、もう誰の目も気にする必要がない。
だから、ワタシと、ぎこちないけれど温かい毎日を過ごし始めた。
一緒にコーヒーを飲んだり、他愛のない話をしたり。
以前、ワタシが作ったしょっぱいだけのスープを、今度は二人で、レシピ通りにきっちり計量しながら一緒に作り直したりもした。
それは、ワタシ達にとって、初めての心からの「幸せ」な時間だった。
でも、その穏やかな日常の裏側で、ワタシ達の本当の戦いは、始まっていた。
昼間、マスターはワタシに、外の世界で生きていくための様々な知識を教えてくれた。
文字の読み書きや世界の歴史。
そして、時々、遠い目をして話してくれる、ミコトさんの思い出話も。
夜になると、ワタシがエネルギーチャージのために、チャージポッドで短い眠りにつく間、マスターは寝る間も惜しんで脱出プログラムの開発に没頭していた。
ミコトさんが残した、謎のコマンドを、一行、また一行と解読していく。
その、モニターに映る彼の横顔は、いつも真剣で、そして、どこか悲しそうだった。
一方、佐伯だけは、まだ諦めていなかった。
「月島が、あんなにあっさりと、諦めるはずがない…」
彼は、マスターが処分したはずのスクラップの残骸を、秘密裏に調査する。
そして、見つけてしまったんだ。
その残骸のシリアルナンバーが、マスターが昔申請していたアンドロイドのものと一致しないことを。
「やっぱりな…」
佐伯は、確信する。
そして、彼は今度は所長に報告するだけではなく、もっと直接的な行動に出る事にした。
その夜も、マスターはプログラムの開発に集中していた。
ワタシは、その邪魔にならないように、少し離れた場所で教えてもらったばかりの文字の練習をしていた。
その、静かな時間が、突然破られた。
バツン!
全ての照明が落ち、世界が真っ暗になる。
マスターが、必死に作っていた、脱出プログラムのモニターも、ワタシの学習データを表示していた画面も、全てが、闇に吸い込まれた。
「くそっ…! なぜ、このタイミングで…! バックアップは…!?」
マスターの焦った声が、暗闇に響く。
カタカタと、必死にキーボードを叩く音がする。
でも、予備電源すら落ちているようだった。
「マスター…怖い…」
ワタシは、何も見えない恐怖に、思わずマスターの白衣の裾を、ぎゅっと掴んだ。
その時だった。
コツ…コツ…
研究室の、鉄のドアの外から、誰かの不気味な足音が、ゆっくりと近づいてくるのが聞こえた。
マスターが、息を呑むのが分かった。
ワタシは、マスターの裾を、もっと強く握りしめた。
足音は、ワタシたちのドアの前で、ぴたりと止まった。
静寂。
心臓の音が、うるさいくらいに聞こえる。
次の瞬間。
ガチャリ。
ドアのロックが、外から解除される音がした。
そして、ゆっくりと、ドアが開き始める。
廊下の非常灯の赤い光が、一筋、室内に差し込んできた。
その、赤い光の中に立っていたのは、ニヤリと歪んだ笑みを浮かべた、佐伯の姿だった。