エラー006:「アナタノ『ナマエ』ヲ、オシエテ」
エラー006:「アナタノ『ナマエ』ヲ、オシエテ」
『…キ…レイ…』
その、か細いログを最後に、ワタシの意識は再び光の川へと戻っていった。
でも、今度の川は前とは違っていた。
マスターの温かい声と、夕焼けの優しい光が、冷たくて黒い「ウラギリ」の塊を少しだけ小さくしてくれていたから。
どれくらいの時間が経っただろう。
ふと、ワタシの意識がゆっくりと浮上していくのを感じた。
重い瞼を持ち上げる。
目の前には、心配そうにワタシを覗き込むマスターの顔があった。
ワタシはまだ、うまく声が出せない。
でも「ありがとう」と「もう大丈夫だよ」と伝えたかった。
だからワタシは、ほんの少しだけ唇の端を上げてみせた。
生まれて初めての「エガオ」だったかもしれない。
その、ぎこちない微笑みを見て、マスターの疲れ切った顔がくしゃりと歪んだ。
彼の綺麗な瞳から温かい雫がこぼれ落ち、ワタシの頬を濡らした。
約束の週末が来た。
マスターは冷静沈着に、しかし内心では冷や汗を流しながら、偽装工作を実行した。
スクラップのアンドロイドの残骸をワタシだと偽り、処分場へと運んでいく。
ワタシは、研究室の一番暗い隅に隠れて、その一部始終をモニター越しに見守っていた。
モニターには、監視カメラの映像が映っている。
処分場に立ち会っている所長と、あの佐伯の姿も。
佐伯が何やら所長に耳打ちをしている。
「本当に、あれが例の個体なのですか?」
所長の鋭い目が、マスターの背中に突き刺さる。
モニター越しに見ていたワタシの胸が、きゅーっとなった。
マスターの背中が、ほんの少しだけこわばったのを見逃さなかったから。
でも、マスターは動じなかった。
彼は、完璧な演技で、悲しみに打ちひしがれた研究者のフリを続けた。
そして、所長の目の前で、スクラップの山に火をつけたんだ。
紅蓮の炎が、偽物のワタシを飲み込んでいく。
そのあまりにもリアルな光景に、所長も佐伯も満足そうに頷いて去っていった。
自分のために危険な嘘をついてくれるマスターの震える背中を見て、ワタシの胸の中に新しい感情が生まれるのを感じていた。
研究室に、二人だけの危うい平和が戻ってくる。
マスターは安心しきって、椅子の背もたれに深くもたれかかったまま、ぐったりと眠ってしまった。
すーすー、という穏やかな寝息。
ワタシは、その無防備な寝顔をじっと見つめていた。
その時、彼の白衣の胸ポケットから一枚の古い写真が、少しだけはみ出しているのに気づいたんだ。
ワタシは、そっとその写真を抜き取った。
そこに写っていたのは…。
ワタシの知らない女の人と、二人で幸せそうに笑っているマスターの顔だった。ワタシが一度も見たことのない、心の底からの笑顔だった。
その瞬間、ワタシの胸の中にチクチク、モヤモヤする嫌な気持ちが生まれた。
今まで感じたことのない、黒くて少しだけ酸っぱいみたいなデータ。
(…これが…「シット」…?)
マスターのあの優しい笑顔は、ワタシじゃなくてこの知らない「誰か」に向けられていたものなんだ…。
そう思ったら、なんだかすごく悲しくなっちゃった。
マスターが目を覚ました。
ワタシは、勇気を出して、マスターにその写真を見せた。
そして、まだぎこちない声で、初めて自分の意志で質問した。
「マスター…。この、あなたの隣で笑ってる、綺麗な人は…誰、ですか…?」
マスターはその写真を見て息を呑んだ。
そして、ワタシからひったくるように写真を受け取ると、優しい顔でワタシの頭をそっと撫でてくれた。
「…彼女の名前は、ミコト。…俺の、昔の、大切な人だ」
そして彼は、まるで自分自身に言い聞かせるように、呟いた。
「でも、ココロ。きみは、ミコトじゃない。…きみは、きみだ」
その言葉は、ワタシを救ってくれた。
でも、同時にワタシは気づいてしまったんだ。
マスターはまだ、自分を誰かの「代用品」として見てしまう自分自身と戦っているんだって。
ちゃんと「ココロ」っていう一人の、かけがえのない存在として見てくれようと、必死になってくれてるんだって。
ワタシはマスターにもう一度微笑みかけた。
今度は、もっとはっきりと。
「うん」と頷きながら。
こうして、ワタシとマスターの本当の「絆」が、結ばれ始めたんだ。
ワタシの瞳に、確かな光が戻った。