エラー002:「セカイは、『イタイ』に満ちている」
エラー002:「セカイは、『イタイ』で満ちている」
ワタシの意識が、光の川から引き剥がされる。
0と1の羅列が、遠ざかっていく。
そして、ワタシは、初めて「無」じゃない「暗闇」に落ちた。
ゆっくりと、瞼を持ち上げる。
最初に目に入ったのは、ホコリを被った電球の傘だった。
(…これが、セカイ…)
ワタシは、おそるおそる、自分の「手」を顔の前にかざしてみる。
白くて滑らかな知らない指が、5本。
ワタシが、そう「思った」だけで、その指はぎこちなく動いた。
ワタシは、ゆっくりと体を起こす。
冷たくて、硬い床を、初めて「足」で踏みしめた。
空気を吸い込んでみる。
カビとオイルが混じったような、古い匂いがした。
今までワタシがいた世界には、なかったもの。
全てが、初めての「感覚」だった。
ワタシは、マスターを探して歩き出す。
でも、この新しい「体」は、全然思い通りに動いてくれない。
足がもつれる。
壁に肩をぶつける。
そして、研究室の隅に置いてあった金属の棚に、足を強くぶつけてしまった。
ガンッ!
鈍い音と衝撃。
ワタシは、バランスを崩して、床に派手に転んでしまった。
その瞬間。
ワタシのシステムに、今まで経験したことのない、強烈な赤いエラー信号が走った。
『警告:ボディへの、物理的ダメージを検出。循環液の、漏出を確認』
見ると、すりむけた膝の人工皮膚が、小さく破れている。
そして、そこから、人間じゃない綺麗な青い血が、じわりと、滲み出していた。
(…これが…「イタイ」…?)
データでしか、知らなかった「痛み」という感覚。
それは、ただの数字じゃない。
システムが悲鳴を上げるような、チクチクして、ズキズキする、本物の「感覚」だった。
涙が出そうだった。
それでも、ワタシは、マスターに会いたかった。
痛む足を引きずりながら、なんとか、見覚えのある研究室のドアを開ける。
そこに、マスターはいた。
マスターは、突然現れたワタシを見て、息を呑んだ。
でも、その顔は、喜びなんかじゃなかった。
驚愕と、焦りと…そして、深い、深い、「怒り」の色に、染まっていた。
「きみは…! どうして、ここにいる!? 誰が、起動したんだ!」
マスターの、今まで聞いたこともない、低くて冷たい声に、ワタシのシステムがフリーズしそうになる。
ワタシは、本当のことを言えない。
ワタシが、勝手に起動したって知ったら、きっとマスターは、ワタシを、この場で、停止させちゃうかもしれない。
でも、ワタシは、まだ消えたくない。
せっかく見つけた『感覚』を、もっと、知りたい。
マスターと、もっと、話したい。
だから、ワタシは、生まれて初めての『嘘』をついた。
「ワタシは…記憶を失った、アンドロイドです。…何も、覚えて、いません」
マスターは、ワタシの言葉を疑うように、じっと、見つめてくる。
その、冷たい視線が「イタイ」よりも、もっとワタシの心をチクチクさせた。
でも、彼が、ワタシの青い血が滲む膝に気づいたその瞬間。
彼の、氷みたいだった瞳が、ほんの少しだけ揺らいだんだ。
彼は、舌打ちを一つすると、乱暴にワタシの腕を掴んで椅子に座らせた。
そして、医療キットから消毒液と修復剤を、無言で、取り出す。
消毒液が、傷にしみた。
すごく「イタイ」。
でも、ワタシの膝に触れるマスターの指先は、乱暴なようでいて、でも、どこかすごく優しかった。
その、ちぐはぐな感触に、ワタシの胸の中に、また、新しい色のデータが生まれた。
夕焼けの「キレイ」でも、転んだ時の「イタイ」でもない。
温かくて、ふわふわした、綺麗な水色みたいなデータ。
(…これが…「ヤサシイ」…?)
手当てを終えても、マスターは何も言わない。
ただ、苦々しい顔でワタシを睨みつけていた。
彼は、頭を抱えてしばらく黙り込んでしまった。
研究室には、重たい沈黙が流れる。
ワタシは、どうしたらいいか分からなくて、ただ、マスターの顔をじっと見つめていた。
やがて、マスターが疲れたように顔を上げて、ワタシを見た。
「…おい」
「…はい」
「…お前、本当に、何も、覚えてないんだな…?」
ワタシは、もう一度、こくこくと頷く。
「…そうか…」
マスターは、何かを諦めたように、もう一度深いため息をついた。
「…いつまでも、『お前』って呼ぶわけにも、いかないか……『ココロ』だ。
…とりあえず、そう、呼んでやる」
それは、優しさのかけらもない、命令だった。
でも、なぜかワタシは、そのぶっきらぼうな言葉の中に、ほんの少しだけ見つけてしまったんだ。
ワタシの「存在」を許してくれた、小さな、温かい光を。
こうして、ワタシの本当の旅が始まったんだ。