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仮面舞踏の夜 ― 甘美なる代償

作者: 39ra

 ろうそくの火が揺れるたび、壁紙の金模様は剥がれかけた漆喰の影へ沈み、貧しさをひと筆で塗り広げて見せた。

 かつては社交界の華と呼ばれた我が家も、父の代の浪費と無謀な投資で屋敷の半分を手放し、残ったのは借金と病に伏す妹だけだ。冬は窓枠の隙間風が胸郭の奥まで刺し、夏は湿気が古い木の匂いを膨らませ、床板は足音ごとに艶を失っていく。


 机の上には、一通の手紙。

 赤黒い蝋封に刻まれた紋章は、百合と蛇が絡み合い、最後に垂れる雫だけが血の色を帯びていた。指先で封の縁に触れた刹那、氷を流し込まれたような冷たさが皮膚の下を駆け上がり、耳の最奥に柔らかな声が落ちた。


「——願いを叶えてやろう。代償を払えるなら」


 寝台の上で妹が咳をすると、手巾に滲む赤が夜の色と同化した。

 額に触れれば、白磁のように冷たい。頬の骨が浮き、まぶたは重く、唇は乾いた薔薇の花弁のように色を失っている。


「……行かないで、兄さま」

 細い声は糸のようで、途切れるたびに胸のどこかが擦り切れる気がした。

「必ず、お前を助けて戻る」

 それが虚勢であれ祈りであれ、私はそう言うよりほかに術を知らなかった。


 封を切ると、羊皮紙の招待状にはこうあった。


百年に一度の夜、ヴェルミリオ宮殿にて、仮面舞踏の会を催す。

願いを携えし者はその身を飾り、仮面を戴いて参じよ。

願いは叶えられる。ただし代償は、我らが選ぶ。


 差出人の名はない。ただ、蝋封の紋章がそれに代わる血判のように見えた。


 妹の寝息は浅く、その合間に咳が混ざる。私は彼女の細い手を包み込み、子どものころのやり取りを思い出していた。

「兄さま、見て、白い花が星に似てる」

 夏の庭で、指に土をつけながら彼女は笑っていた。白花を摘んでは髪に差し、笑うたびに光がこぼれた。

 冬の夜には、ひざ掛けを分け合いながら、暖炉の火に手をかざし、父の話をした。父の破綻、欠落、そしてそれでも残る温もりの断片。

 あの光景の端々が、今は薄紙の向こうに退いていく。


「行かないで」

「行って戻る」

 そう告げると、不思議なことに妹はそれ以上は言わなかった。言葉の代わりに、祈るように瞼を閉じた。私は彼女の枕元に残る白花の押し花をそっと懐に入れ、玄関の扉を開けた。


 霧が街路を覆い、馬車の車輪も蹄鉄の音も吸い込んでいく。扉の外に、黒塗りの馬車が音もなく立っていた。御者はフードを目深にかぶり、顔は闇に溶けて見えない。

 扉が開くと同時に、扉の向こうの空気が変わった。甘く、それでいて薬臭い香が肺の奥へ滑り込む。生花と薬草を一袋に詰め、さらに蜂蜜を一匙垂らしたような匂いだ。


「ヴェルミリオ宮殿へ」

 御者は振り向かず、濁りのない声だけを置いた。私は頷きもせず乗り込む。内装は黒いビロードで覆われ、座席はわずかに冷たい。窓には薄い紗がかけられ、外の景色は影絵のように曖昧だ。


 馬車が動き出した。石畳の上を滑るように、しかし音はしない。

 窓の隙間から覗く街は、いつの間にか知らない森に変わっていた。梢は背を伸ばして月をすくい上げ、幹は塔のように黒くそびえる。ところどころに、白いものが立ってこちらを向いている。

 はじめは石像かと思った。近づくにつれ、それらが人影であり、顔半分を覆う仮面をつけてこちらを見送っているのだと気づく。左半分が笑っている仮面、右半分が泣いている仮面。紙でできているのか、骨でできているのか判じがたい薄さだ。

 影は道の両脇にびっしりと並び、馬車の進むたびに顔をわずかに傾ける。ある影は祝福の仕草で手を上げ、ある影は二本の指で喉を切るまねをした。


 眠りと覚醒の境目に足場を取られたまま、私は揺れる。

 ときおり、車輪が何か柔らかいものを踏み越える感触がした。怒りも悲しみもない、ただ形のないものを跨いでいくような感触。

 やがて、馬車の速度がわずかに落ちる。紗越しに眩い光が滲み、低い金属音が耳の奥を撫でた。門が開く音——鉄と星明かりが擦れ合って生む音色。


 馬車は止まった。扉が開き、冷たい空気が頬に触れる。

 目の前に、ヴェルミリオ宮殿があった。


 金箔を敷き詰めた天井は夜空の代わりに輝き、瑠璃の柱は海の底のような青さで奥行きを作る。大広間の中央には、水晶のシャンデリアが幾十も降り下がり、宝石の滴をこぼすように光を零した。無数のろうそくの炎が揺れ、影を柔らかく切り分ける。

 香水の波が押し寄せるが、その底に鉄錆の匂いが確かに沈んでいる。鼻の内側にひっかかり、舌の奥に渋みを置いていく。


 招かれた客は皆、仮面をつけている。獣の顔を模したもの、翼の残骸のように広がるもの、片側だけを覆う半面、眼孔だけをくり抜いた薄布。

 衣装は毒花のように艶やかで、緋や紫、孔雀石のような緑が視界の端で爆ぜた。笑い声は甲高く、唇の端は引きつり、瞳だけが飢えた獣のように爛々としている。


 楽人たちが弓を引き、管を吹く。旋律は甘い。甘すぎて、舌に乗せれば痺れてしまいそうな甘露だ。音は壁面の金に跳ね返り、天井の絵画に吸い込まれ、また降りてくる。

 人波が左右に割れた。

 現れたのは、漆黒の燕尾服を纏い、白磁の仮面を被った長身の人物。仮面は無表情だが、眼孔の奥には形を定めない影が揺れている。

 肩幅は広すぎも狭すぎもせず、歩みは軽すぎも重すぎもせず、見ているとこちらの歩調が乱れる。声はその人物の口から来ているはずなのに、耳朶ではなく骨に当たって響く。


「ようこそ、百年に一度の舞踏会へ」

「……」

「願いは叶う。ただし代償は——私が選ぶ」


 その言葉が空間の温度を一度だけ下げた。誰かの息が止まり、誰かの指が手袋の縫い目をきつく掴む気配がした。


 あらためて周囲を見渡す。私の左手側、孔雀の羽根を襟に縫い付けた女がいる。年齢は判断が難しい。仮面の下で頬の張りは若いが、首筋の筋は年を刻む。金糸の髪を高く結い、耳の横に大きな宝石を垂らしている。

 右手側、義足の老将軍。木製の義足には黒漆が塗られ、銀の釘で補強されていた。背筋は伸び、仮面の下の顎は硬い。

 その向こう、黒衣の商人。いわゆるこの国の「勝者」の顔だ。いや、仮面をつけているから顔ではない。ただ、身につけている布や金具の質が語るものはある。


 最初の舞踏は、仮面の主と老将軍だった。

 将軍は義足でありながら、驚くほど滑らかに踊る。仮面の主は相手の重心を先回りし、まるで血の流れを読むようにリードした。

 楽が盛り上がると、将軍の肩越しに影が浮かぶ。五人。六人。十人。痩せた顔、鼻の曲がった顔、笑っている口元、口角の下がった唇。

 若き日の仲間たちだ。

 彼らは将軍の周囲を円形に取り囲み、踊るたびに一人ずつ手を伸ばして肩に触れる。触れられた部位から、将軍の輪郭がほんの少し薄くなる。

「これで——共に戦える」

 将軍の声は涙に濡れて、子どものように頼りない。仮面の主は一言も発さず、ただ音のうねりに身をゆだねていた。


 次は孔雀の夫人。

 彼女は仮面の主の掌に指先を置くと、首を傾けて囁いた。

「若さを」

 舞い終えるや否や、彼女の肌はぴんと張り、目元の皺は消え、唇は果実の色を取り戻す。

 会場は感嘆の吐息で満たされた。だが次の瞬間、彼女の足元に「何か」が横たわった。

 干からびた皮膚。骨ばった手。空洞の眼窩。

 彼女自身の骸である、と理解が追いつく前に、仮面の主の指が一度だけ空を切った。骸は軽い埃のように散り、どこかへ消えた。

 若返った夫人は笑う。笑いながら、その笑顔を自分の舌で確かめるように、下唇を噛んだ。瞳孔はわずかに焦点を失っていた。


 黒衣の商人は、舞踏の前に指を一本立てた。

「富を」

 仮面の主は首を傾け、踵で床を叩いた。

 黄金の雨が彼の周囲に降る。硬貨、指輪、鎖、歯車まで。目を見張る間もなく床は黄金で埋まり、商人の足首は雪に埋もれるように沈んだ。

 歓声。拍手。

 しかし彼の手は次の瞬間、引きつった。金属の光が皮膚の下に差し込む。

 彼の服の縫い目から金が芽吹き、肌に根を張り、筋に沿って硬化が進む。

 商人は叫びかけ、声は金の内部で鈍く反響した。やがて彼はひとつの像となった。輝く富。動かない富。

 仮面の主は軽く首を振り、次の相手を探す視線を走らせる。


 他にも、ささやかな願いと重すぎる代償がいくつも交わされた。

 失明した男に視力が戻る。だが彼が見えるのは、人の肉の下の血潮だけ。

 娘を望む女に子が授かる。だが腹の中で育つのは、女自身の鏡像。

 母の赦しを乞う青年の前に母の影が現れ、彼の掌を握る。そのたびに青年の掌から色が抜け、やがて彼の両手は白紙のように透明になった。


 私の番は、やがて来た。

 仮面の主がこちらへ伸ばした手は、氷のように冷たい。私は手袋越しにその冷えを感じた。

「何を望む」

「妹を助けてくれ」

「代償は?」

「俺の命だ」


 仮面の主は、首をほんの少しだけ傾けた。

 仮面の口元は動かない。だが、笑みの気配は確かに生まれた。

「踊ろう」

 音楽が変わる。先ほどよりも甘く、少し低い音が増えた。心拍と同期する。

 私は一歩踏み出す。仮面の主の掌は軽く、捕まえたと思えば逃げ、逃げたと思えば絡み付く。

 耳元に、誰かの息。

「兄さま」

 妹の声だ。振り向けば、きらきらと光の粉を含んだ空気の向こうに、幼い彼女が立っている。白花の冠を頭に載せ、あの時の夏を纏っている。

 彼女は走る。庭の奥から、塀の向こうから、時間の裂け目から。私の指先に触れた瞬間、指の腹に温かい感触が宿る。


 回想がひとつずつ開く。

 父の葬儀の日、黒い布の海の真ん中で、妹は私の袖を強く握りしめていた。

「ねえ、兄さま。人は死んでも、まだどこかで踊ってる?」

「踊っているさ。音さえあれば、誰でも踊れる」

「じゃあ、音が止まったら?」

「私が鳴らす」

 言って、私は胸を張った。あの頃の私は、何でもできると思っていた。妹が泣けば笑わせられると信じていた。


 今、私は踊っている。仮面の主と。

「命を差し出すと言ったな」

 囁き。舌の先で甘味を弄ぶような声。

「だが、誰の命かは私が選ぶ」

 踏み替えに合わせて言葉が落ちる。足元の床がわずかに柔らかくなった気がする。

 見下ろすと、白い大理石の溝に赤が満ちていく。足首に絡み、布の裾を重たくする。

 音楽はねじれ、弦が悲鳴を上げる寸前の高音で空気を張る。フルートの音は胃の裏側に刺さり、打楽は脈の速さを真似て腹を叩く。


「兄さま」

 妹の声はもう幼いものではない。今の彼女の年の声音。寝台の上で私の手を握る、あの夜の声。

「行かないで」

「行って戻る」

「戻って」

「戻る」

 そのたびに仮面の主の掌の力が強くなる。私は目を閉じ、握り返す。


 踊りの輪の外で、別の契約が結ばれ、破られ、結び直されているのが見える。

 道化の服を着た少年が「笑いを」と願い、仮面の主は彼の口角を針で吊り上げた。少年は笑い続け、その笑いはやがて嗚咽と同じ音になった。

 司祭風の男が「信仰を」と願い、仮面の主は彼の胸に小さな聖骨箱を埋め込んだ。男は熱にうなされ、額に汗をにじませながら地に額をつける。起き上がったとき、彼の目は空洞になっていた。

 背中を曲げた女が「忘却を」と願い、仮面の主は女の背から一本ずつ骨を抜いた。彼女は軽くなり、踊り、踊り、最後にどこにも帰れない顔で笑った。


 仮面の主の肩越しに、妹の影がまた動く。

「兄さま、私は——」

 声が消える。影が濃くなる。

「支払うのは、お前の命か。妹の命か。どちらがより甘美か」

 甘味はいつだって毒の前触れだ。私は踵を止め、仮面の眼孔を見た。そこには何もない。いや、何もないということが形を持って輪郭を帯びていた。

「俺の命だ」

 言った瞬間、足元の赤が一段深くなる。腰まで浸かる錯覚。

「俺の命だ。俺の、だ」


 仮面の主は、私の耳朶のすぐ後ろで笑った。

「いい返事だ」

 その指が私の背骨を一枚ずつなぞる。

「覚悟は甘いほど美味い」

 刹那、床が割れ、血の湖が私を飲み込んだ。


 落下は長くも短くもなく、ただ、ひと息のあいだ続いた。

 暗闇のなかで、誰かが私の名前を呼ぶ。

 妹の声。

 幼い声。

 老いた声。

 まだ言葉を覚える前の、泣き声。

 全てが私を呼ぶ。私は手を伸ばす。手はどこかへ届き、しかし触れたものは冷たく、乾いていた。

 最後に、柔らかいものが私の唇に触れた。白花の花弁。

 そこから先は、音がすべて水になった。


 目を開けた。

 天井があった。ひびの入った漆喰の、あの天井。

 窓から朝の光が差し、薄いカーテンが風に揺れる。

 喉が痛い。舌が乾いている。指先は痺れて、足の感覚が遅れて戻ってくる。

 寝台の脇で、誰かが立ち上がった気配がした。


「兄さま?」

 妹がそこにいた。

 頬は紅潮し、額にうっすら汗が浮かぶ。だがそれは熱の汗ではない。生きている者の汗だ。

 私は半身を起こし、絞り出すように笑った。

「……よかった……!」

 伸ばした腕に、妹は一歩だけ後ずさった。


 気づいた。

 瞳の色が、違う。

 深い琥珀色。粘度を持つ光。

 それは確かに美しい。が、私の知る妹の瞳ではない。


「きみは」

 言いかけると、妹は首を傾けた。

「お兄さま。どうしました?」

 声は澄んでいる。だが、そこにあるべきわずかな掠れ、眠りから覚めたばかりの途切れ、呼吸と呼応する不規則な揺れが、ない。

 音は均一で、完璧で、作り物めいている。

 私は笑おうとし、笑い方を忘れた顔になった。


「気分は?」

「とてもよいです。体が軽い」

 妹——彼女は窓のそばへ行き、カーテンを開けた。陽光が彼女の髪に刺さり、琥珀色の瞳がひときわ明るくなる。

 彼女は屋根瓦の向こうに揺れる梢を見た。

「きれい」

 言い方が違う。妹はいつも「きれい」より先に、「ねえ、兄さま」と振る人だった。

 私の胸は、静かに沈み始める。


 枕元の鏡に、朝の光が跳ねた。

 鏡面の中に、私と、彼女と、部屋の隅々、ひび、埃の軌跡、そのすべてが収まる。

 そして、その奥に。

 白磁の仮面が、立っていた。

 仮面は無表情で、ただ、わずかに首を傾けた。

 聞こえるはずのない声が、骨を舐めて通る。


「——また百年後に」


 笑ったのは誰だ。鏡の中の仮面か、私か、あるいは部屋のどこかに残った古い木目か。

 さほど重要ではない。

 重要なのは、妹が振り返ったとき、私の顔を見て、ほんの少しだけ首を傾け、それから何の感情も載せずに微笑んだことだ。

「お兄さま。朝食は?」

「ああ……」

「私が作りましょう」

 彼女は台所へ向かった。床板がきしむと、彼女はその音を面白がるように視線を落とした。

 彼女の歩き方は、妹のそれだ。歩幅、癖、壁の角を避けるために一度だけ体を細くする仕草。

 だのに、そこに宿る重心は別物だった。

 人は器と中身の摩擦で歩く。器が妹で、中身が何か別のものならば、摩擦は別の歌を奏でる。

 その歌が、私の耳には聞こえた。


 台所から包丁の音がする。

 規則的。正確。誤差がない。

 妹は料理が得意ではなかった。皮は厚く剥きすぎ、塩は多く、火加減は少し強過ぎた。

 その不器用さが愛おしく、私は焦げた端をいつも自分の皿へ寄せた。

 いま、包丁は職人の手だ。

 肉は切断面の光沢を残したまま均一な薄さになり、パンは一枚も欠けず、果物は皮の厚みが全て等しい。

「すごいな」

 私の声は乾いていた。

「お兄さま」

 彼女は笑い、皿を並べる。

 味はどうだ。

 私はその日、何も味を覚えていない。


 日々が過ぎた。

 妹は健康だ。朝は早く起き、庭の草を抜き、洗濯物を干し、台所を磨いた。

 微笑みは常に同じ角度で、怒ることはなく、泣くこともなく、笑うときだけ笑う。

 夜、窓辺に与えられた白花に水をやる。

「きれい」

 彼女は言い、花に顔を近づける。

 白花の香りはかすかで、土と水の匂いが勝つ。妹はそれを好きだった。

 彼女も、白花を見ている。

 だが、好きという温度がない。

 眺め、分類し、適切に維持し、枯れれば取替える。

 心がないのか。

 あるのだろう。

 ただ、それは私の知る心とは性質が異なる。


 ある晩、私は勇気を振り絞って聞いた。

「お前は、私の妹なのか」

 彼女は笑った。

「私は私です。お兄さま」

「……名前を、呼んでみてくれ」

 彼女は私の名前を呼んだ。

 完璧な発音。

 そこには、妹がいつも飲み込みがちな子音の癖がなかった。

「覚えているか。夏の庭で、白い花を摘んだ日を」

「覚えています。白花を髪に挿した。兄さまが笑いました」

 語る内容は正しい。写真の説明のように正確だ。

 だが、あの日の湿度、土の冷たさ、指の爪の隙間に残った黒い粒、笑った時に胸に走った痛みが——言葉の裏側に、ない。

 私はそれきり口を噤んだ。


 夜。

 眠れぬまま、鏡の前に立つ。

 鏡面には私が映り、背後に寝台、窓、白花の束、そして部屋の角の影。

 影が揺れた。

 白磁の仮面がまたそこにいた。

 仮面は語らない。

 語らずに、甘い音で骨を叩く。

 私は鏡に手を伸ばし、冷たい硝子に触れた。

 彫像のように硬い冷たさ。

 仮面は、ゆっくりと首を横に振った。


「願いは叶えられた」


 声はない。だが、意味は届く。

 私は笑ってみせた。

「代償は?」

 仮面は何も答えず、ただ、微笑む代わりに微笑みの形を置いた。

 私は理解している。

 代償は、私の命になりえた。

 しかし、彼は選んだ。

 妹の命か、私の命か。どちらがより甘美か。

 彼は、より甘美な方を選んだ。

 それが何であるか、彼だけが知っている。

 私が知らされる必要は、ない。


 翌朝、妹は白花を抱えて台所に立っていた。

「お兄さま、今日は市場へ行きましょう」

「ああ」

 市場はいつも通りざわめき、魚は目を輝かせ、野菜は土の匂いを放ち、人々は価格をめぐって小さな戦いを繰り広げる。

 妹は適切に選び、適切に支払い、適切に礼を言った。

 帰り道、橋の上で彼女は立ち止まった。

「水……」

 川面は光を砕き、波紋は規則正しく広がる。彼女は手すりに手を置き、しばらく眺めた。

「きれい」

 私は頷く。

 彼女は振り向き、私に微笑む。

 その笑みは、ひどく正しい。

 正しすぎる。

 正しさが人を殺すことがある。

 この正しさは、私を殺している最中だ。


 家に戻り、私は懐から古い押し花を取り出した。

 紙に挟まれた白花は、黄ばみ、脆く、触れれば崩れる。

「これを、覚えているか」

 彼女は顔を近づけ、香りを探そうとした。だが、香りはもうない。

「白花」

 彼女は言った。

「夏の庭」

 さらに言った。

「兄さま」

 最後に言った。

 そして、押し花に指を伸ばした。

 私は慌てて止める。

「壊れる」

 彼女は指を引っ込めた。

「壊れるものは、置いておきましょう」

 私は押し花を元の紙に戻し、机の引き出しへしまった。

 彼女は窓辺へ行き、白花に水をやった。


 夜。

 再び、鏡。

 仮面はもういない。

 しかし、いないことが、いることより重く感じられる。

 私は鏡に向かって呟いた。

「お前は、誰だ」

 返事はない。

 鏡の中の私は、疲れ、目の下に疲労の影を垂らしている。

 背後で、妹が寝返りを打つ音がした。

 彼女の寝息は、均一だ。

 完璧な安眠。

 私は目を閉じ、額を鏡に押し当てる。硝子が冷たい。

 冷たさだけが確かなもののように思える。

 やがて、その冷たさも体温に溶け、境が曖昧になる。


 日々は、規則正しく積み重なった。

 妹は健康で、美しく、正確だ。

 私は働き、借金を少しずつ返した。

 食卓の会話は穏やかで、温度の触れ幅は小さい。

 ある朝、彼女が言った。

「兄さま。社交の場へ戻りませんか?」

「どうしてだ」

「屋敷を保つには、繋がりが要ります」

 的確だ。

 父が失ったのは、金だけではない。繋がり、信用、名。

 彼女はそれを補う行動を提案している。

 私は頷き、古い燕尾服を磨いた。

 鏡に映る自分は、以前より老けて見えた。

 妹は私の襟を整え、布についた糸屑を取った。

 指先の動きは繊細で、職人のそれだ。


 舞踏会に出れば、人々は私たちを見た。

 落ちぶれた家の息子が、美しい妹を連れて戻ってきた、と。

 視線は好奇と侮蔑と羨望の混色で、私の皮膚に貼り付いた。

 妹は微笑み、踊り、礼を尽くした。

 彼女の足運びは完璧で、仮面をつけていないのに仮面をつけているように、感情の影を観客に見せなかった。

 ダンスは音楽のためであり、相手のためであり、場のためであり、彼女自身のためではない。

 私の胸は、ますます静かに沈んだ。


 家へ戻ると、私は暖炉の前で立ち尽くした。

 火は弱く、灰は多く、灰の山に突き刺さった火箸が黒い指のように見える。

 妹が背中から毛布をかけた。

「寒いのですか」

「いや」

「なら、喉?」

「いや」

 私は毛布を返し、笑った。

「ただ、思い出していた」

「何をです?」

「父のこと」

 彼女は頷いた。

「父は、愚かでした」

「そうだな」

「でも、優しかった」

 私は沈黙した。

 彼女の言葉は正しいが、温度がない。

 正しさだけが残ると、言葉は刃物になる。

 それが今、私の胸の内側を切っている。


 その夜、夢を見た。

 ヴェルミリオ宮殿。

 金の天井。

 血の湖。

 仮面の主。

 彼は私に手を差し伸べる。

 私は取る。

「百年に一度」

 彼は言う。

「お前は、生きる。彼女も、生きる。魂は、踊る」

「踊る音は誰が鳴らす」

「それを問うのは、踊り子の役目ではない」

 夢から覚めると、朝だった。

 妹は台所で包丁を鳴らしている。

 均一な音。

 完璧な朝。

 私は、ゆっくりと、笑ってしまった。

 笑いは乾いていたが、確かに笑いだった。


 日記をつけ始めた。

 一行だけ書く。

 「今日も彼女は美しい」

 次の日も同じ。

 その次の日も同じ。

 やがて、書くこと自体が儀式になり、意味は薄皮になり、薄皮だけが重なる。

 それで良かった。

 意味が厚くなると、人は潰される。

 薄皮は、風で飛ぶ。


 ある夕暮れ、妹が言った。

「踊りませんか、兄さま」

 居間の真ん中で、彼女は両手を広げた。

 私は立ち上がり、手を取った。

 音楽はない。

 だが、人は心拍と呼吸があれば踊れる。

 彼女の手は温かく、指は細い。

 私は一歩、二歩。

 彼女がついてくる。

 完璧に。

 私は、ほんの少しだけ、わざと狂った。

 彼女は狂いを正し、私の腰の位置を直した。

 私は笑った。

 笑いながら、泣きそうになった。

 彼女は微笑み、私の涙腺の動きを見た。

 何も言わなかった。

 それでよかった。

 言葉があれば、私は崩れた。


 春が来て、白花がまた咲いた。

 妹は庭で花を摘み、花瓶に挿した。

 私は彼女の後ろ姿を見て、誰にも聞こえない音で言った。

「ありがとう」

 誰も応えない。

 それでよかった。

 応えがあれば、私は誤解したかもしれない。


 ある雨の午後、私は市場帰りの橋の上で立ち尽くした。

 川面は灰色で、波紋は潰れ合い、光は鈍い銀片になって漂っていた。

 私はポケットの中の押し花を取り出し、指の腹でそっと触れた。

 崩れた。

 紙の粉のように。

 風が吹き、粉は川に落ちた。

 水はそれを受け取り、何事もなかったかのように流し去った。

 私は笑って、泣いた。

 涙は雨に紛れ、誰にも見えない。

 それでよかった。

 見られれば、慰められてしまう。

 慰めは、ときに毒より遅く人を殺す。


 家に戻ると、台所から香りがした。

 スープ。

 野菜の甘みと、骨の出汁の深み。

 私は椅子に座り、両手で器を包んだ。

 熱が掌の皮に染み込み、骨に伝わる。

 妹が向かいに座り、少しだけ首を傾けた。

「おいしい?」

「ああ」

 嘘ではない。

 おいしい。

 だからこそ、遠い。

 完璧に整った味には、偶然の余白がない。

 余白は、記憶のための座布団だ。

 座る場所がないと、記憶は通り過ぎる。


 夜。

 私は最後にもう一度だけ、鏡の前に立った。

 仮面の主は、いない。

 いないが、どこかにいる。

 私は鏡面を拭い、己の顔をまっすぐに見た。

 目の下の影、頬の痩け、唇のひび。

 生きている。

 私も、妹も。

 願いは叶った。

 そのこと自体は、否定しようがない。

 皮肉は、祝辞に紛れてやってくる。

 おめでとう。お前は望みを手に入れた。

 ただし、それはお前の欲しかったものの形をしているだけだ。

 本当に欲しかったのは、たぶん、形ではない。音だった。

 私は胸に手を置き、自分の心拍の速度を数えた。

 遅い。

 静かで、正確で、音楽に向かない鼓動。

 それでも、私は踊ることができる。

 音がなくても。

 踊りは、形があれば成立する。

 中身が別の歌を奏でていても。


 窓の外で、白花が風に揺れた。

 妹が眠りの中で寝返りを打つ。

 私はろうそくの火を細くし、部屋を半分だけ暗くした。

 暗さは、ものを優しくする。

 優しさは、ときに刃を鈍らせる。

 私は椅子に座り、目を閉じた。

 骨の奥で、遠い楽の音がした気がした。

 私は立ち上がりもしないで、一度だけ小さく礼をした。

 舞踏会は終わった。

 終わって、まだ続いている。


 やがて眠りが降りてきた。

 夢の中で、仮面の主が私の肩へ手を置いた。

「また百年後に」

 私は笑った。

「そのころには、私はもういない」

「踊りは、器を選ばない」

 仮面の下の影が、私の額へ口づけをした。冷たく、そして甘い。

 遠くで、白花が静かに開いた。

 私は目を開けずに、心の中でひとつだけ言葉を飾った。


 ありがとう。


 ——返事は、いらなかった。

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