仮面舞踏の夜 ― 甘美なる代償
ろうそくの火が揺れるたび、壁紙の金模様は剥がれかけた漆喰の影へ沈み、貧しさをひと筆で塗り広げて見せた。
かつては社交界の華と呼ばれた我が家も、父の代の浪費と無謀な投資で屋敷の半分を手放し、残ったのは借金と病に伏す妹だけだ。冬は窓枠の隙間風が胸郭の奥まで刺し、夏は湿気が古い木の匂いを膨らませ、床板は足音ごとに艶を失っていく。
机の上には、一通の手紙。
赤黒い蝋封に刻まれた紋章は、百合と蛇が絡み合い、最後に垂れる雫だけが血の色を帯びていた。指先で封の縁に触れた刹那、氷を流し込まれたような冷たさが皮膚の下を駆け上がり、耳の最奥に柔らかな声が落ちた。
「——願いを叶えてやろう。代償を払えるなら」
寝台の上で妹が咳をすると、手巾に滲む赤が夜の色と同化した。
額に触れれば、白磁のように冷たい。頬の骨が浮き、まぶたは重く、唇は乾いた薔薇の花弁のように色を失っている。
「……行かないで、兄さま」
細い声は糸のようで、途切れるたびに胸のどこかが擦り切れる気がした。
「必ず、お前を助けて戻る」
それが虚勢であれ祈りであれ、私はそう言うよりほかに術を知らなかった。
封を切ると、羊皮紙の招待状にはこうあった。
百年に一度の夜、ヴェルミリオ宮殿にて、仮面舞踏の会を催す。
願いを携えし者はその身を飾り、仮面を戴いて参じよ。
願いは叶えられる。ただし代償は、我らが選ぶ。
差出人の名はない。ただ、蝋封の紋章がそれに代わる血判のように見えた。
妹の寝息は浅く、その合間に咳が混ざる。私は彼女の細い手を包み込み、子どものころのやり取りを思い出していた。
「兄さま、見て、白い花が星に似てる」
夏の庭で、指に土をつけながら彼女は笑っていた。白花を摘んでは髪に差し、笑うたびに光がこぼれた。
冬の夜には、ひざ掛けを分け合いながら、暖炉の火に手をかざし、父の話をした。父の破綻、欠落、そしてそれでも残る温もりの断片。
あの光景の端々が、今は薄紙の向こうに退いていく。
「行かないで」
「行って戻る」
そう告げると、不思議なことに妹はそれ以上は言わなかった。言葉の代わりに、祈るように瞼を閉じた。私は彼女の枕元に残る白花の押し花をそっと懐に入れ、玄関の扉を開けた。
霧が街路を覆い、馬車の車輪も蹄鉄の音も吸い込んでいく。扉の外に、黒塗りの馬車が音もなく立っていた。御者はフードを目深にかぶり、顔は闇に溶けて見えない。
扉が開くと同時に、扉の向こうの空気が変わった。甘く、それでいて薬臭い香が肺の奥へ滑り込む。生花と薬草を一袋に詰め、さらに蜂蜜を一匙垂らしたような匂いだ。
「ヴェルミリオ宮殿へ」
御者は振り向かず、濁りのない声だけを置いた。私は頷きもせず乗り込む。内装は黒いビロードで覆われ、座席はわずかに冷たい。窓には薄い紗がかけられ、外の景色は影絵のように曖昧だ。
馬車が動き出した。石畳の上を滑るように、しかし音はしない。
窓の隙間から覗く街は、いつの間にか知らない森に変わっていた。梢は背を伸ばして月をすくい上げ、幹は塔のように黒くそびえる。ところどころに、白いものが立ってこちらを向いている。
はじめは石像かと思った。近づくにつれ、それらが人影であり、顔半分を覆う仮面をつけてこちらを見送っているのだと気づく。左半分が笑っている仮面、右半分が泣いている仮面。紙でできているのか、骨でできているのか判じがたい薄さだ。
影は道の両脇にびっしりと並び、馬車の進むたびに顔をわずかに傾ける。ある影は祝福の仕草で手を上げ、ある影は二本の指で喉を切るまねをした。
眠りと覚醒の境目に足場を取られたまま、私は揺れる。
ときおり、車輪が何か柔らかいものを踏み越える感触がした。怒りも悲しみもない、ただ形のないものを跨いでいくような感触。
やがて、馬車の速度がわずかに落ちる。紗越しに眩い光が滲み、低い金属音が耳の奥を撫でた。門が開く音——鉄と星明かりが擦れ合って生む音色。
馬車は止まった。扉が開き、冷たい空気が頬に触れる。
目の前に、ヴェルミリオ宮殿があった。
金箔を敷き詰めた天井は夜空の代わりに輝き、瑠璃の柱は海の底のような青さで奥行きを作る。大広間の中央には、水晶のシャンデリアが幾十も降り下がり、宝石の滴をこぼすように光を零した。無数のろうそくの炎が揺れ、影を柔らかく切り分ける。
香水の波が押し寄せるが、その底に鉄錆の匂いが確かに沈んでいる。鼻の内側にひっかかり、舌の奥に渋みを置いていく。
招かれた客は皆、仮面をつけている。獣の顔を模したもの、翼の残骸のように広がるもの、片側だけを覆う半面、眼孔だけをくり抜いた薄布。
衣装は毒花のように艶やかで、緋や紫、孔雀石のような緑が視界の端で爆ぜた。笑い声は甲高く、唇の端は引きつり、瞳だけが飢えた獣のように爛々としている。
楽人たちが弓を引き、管を吹く。旋律は甘い。甘すぎて、舌に乗せれば痺れてしまいそうな甘露だ。音は壁面の金に跳ね返り、天井の絵画に吸い込まれ、また降りてくる。
人波が左右に割れた。
現れたのは、漆黒の燕尾服を纏い、白磁の仮面を被った長身の人物。仮面は無表情だが、眼孔の奥には形を定めない影が揺れている。
肩幅は広すぎも狭すぎもせず、歩みは軽すぎも重すぎもせず、見ているとこちらの歩調が乱れる。声はその人物の口から来ているはずなのに、耳朶ではなく骨に当たって響く。
「ようこそ、百年に一度の舞踏会へ」
「……」
「願いは叶う。ただし代償は——私が選ぶ」
その言葉が空間の温度を一度だけ下げた。誰かの息が止まり、誰かの指が手袋の縫い目をきつく掴む気配がした。
あらためて周囲を見渡す。私の左手側、孔雀の羽根を襟に縫い付けた女がいる。年齢は判断が難しい。仮面の下で頬の張りは若いが、首筋の筋は年を刻む。金糸の髪を高く結い、耳の横に大きな宝石を垂らしている。
右手側、義足の老将軍。木製の義足には黒漆が塗られ、銀の釘で補強されていた。背筋は伸び、仮面の下の顎は硬い。
その向こう、黒衣の商人。いわゆるこの国の「勝者」の顔だ。いや、仮面をつけているから顔ではない。ただ、身につけている布や金具の質が語るものはある。
最初の舞踏は、仮面の主と老将軍だった。
将軍は義足でありながら、驚くほど滑らかに踊る。仮面の主は相手の重心を先回りし、まるで血の流れを読むようにリードした。
楽が盛り上がると、将軍の肩越しに影が浮かぶ。五人。六人。十人。痩せた顔、鼻の曲がった顔、笑っている口元、口角の下がった唇。
若き日の仲間たちだ。
彼らは将軍の周囲を円形に取り囲み、踊るたびに一人ずつ手を伸ばして肩に触れる。触れられた部位から、将軍の輪郭がほんの少し薄くなる。
「これで——共に戦える」
将軍の声は涙に濡れて、子どものように頼りない。仮面の主は一言も発さず、ただ音のうねりに身をゆだねていた。
次は孔雀の夫人。
彼女は仮面の主の掌に指先を置くと、首を傾けて囁いた。
「若さを」
舞い終えるや否や、彼女の肌はぴんと張り、目元の皺は消え、唇は果実の色を取り戻す。
会場は感嘆の吐息で満たされた。だが次の瞬間、彼女の足元に「何か」が横たわった。
干からびた皮膚。骨ばった手。空洞の眼窩。
彼女自身の骸である、と理解が追いつく前に、仮面の主の指が一度だけ空を切った。骸は軽い埃のように散り、どこかへ消えた。
若返った夫人は笑う。笑いながら、その笑顔を自分の舌で確かめるように、下唇を噛んだ。瞳孔はわずかに焦点を失っていた。
黒衣の商人は、舞踏の前に指を一本立てた。
「富を」
仮面の主は首を傾け、踵で床を叩いた。
黄金の雨が彼の周囲に降る。硬貨、指輪、鎖、歯車まで。目を見張る間もなく床は黄金で埋まり、商人の足首は雪に埋もれるように沈んだ。
歓声。拍手。
しかし彼の手は次の瞬間、引きつった。金属の光が皮膚の下に差し込む。
彼の服の縫い目から金が芽吹き、肌に根を張り、筋に沿って硬化が進む。
商人は叫びかけ、声は金の内部で鈍く反響した。やがて彼はひとつの像となった。輝く富。動かない富。
仮面の主は軽く首を振り、次の相手を探す視線を走らせる。
他にも、ささやかな願いと重すぎる代償がいくつも交わされた。
失明した男に視力が戻る。だが彼が見えるのは、人の肉の下の血潮だけ。
娘を望む女に子が授かる。だが腹の中で育つのは、女自身の鏡像。
母の赦しを乞う青年の前に母の影が現れ、彼の掌を握る。そのたびに青年の掌から色が抜け、やがて彼の両手は白紙のように透明になった。
私の番は、やがて来た。
仮面の主がこちらへ伸ばした手は、氷のように冷たい。私は手袋越しにその冷えを感じた。
「何を望む」
「妹を助けてくれ」
「代償は?」
「俺の命だ」
仮面の主は、首をほんの少しだけ傾けた。
仮面の口元は動かない。だが、笑みの気配は確かに生まれた。
「踊ろう」
音楽が変わる。先ほどよりも甘く、少し低い音が増えた。心拍と同期する。
私は一歩踏み出す。仮面の主の掌は軽く、捕まえたと思えば逃げ、逃げたと思えば絡み付く。
耳元に、誰かの息。
「兄さま」
妹の声だ。振り向けば、きらきらと光の粉を含んだ空気の向こうに、幼い彼女が立っている。白花の冠を頭に載せ、あの時の夏を纏っている。
彼女は走る。庭の奥から、塀の向こうから、時間の裂け目から。私の指先に触れた瞬間、指の腹に温かい感触が宿る。
回想がひとつずつ開く。
父の葬儀の日、黒い布の海の真ん中で、妹は私の袖を強く握りしめていた。
「ねえ、兄さま。人は死んでも、まだどこかで踊ってる?」
「踊っているさ。音さえあれば、誰でも踊れる」
「じゃあ、音が止まったら?」
「私が鳴らす」
言って、私は胸を張った。あの頃の私は、何でもできると思っていた。妹が泣けば笑わせられると信じていた。
今、私は踊っている。仮面の主と。
「命を差し出すと言ったな」
囁き。舌の先で甘味を弄ぶような声。
「だが、誰の命かは私が選ぶ」
踏み替えに合わせて言葉が落ちる。足元の床がわずかに柔らかくなった気がする。
見下ろすと、白い大理石の溝に赤が満ちていく。足首に絡み、布の裾を重たくする。
音楽はねじれ、弦が悲鳴を上げる寸前の高音で空気を張る。フルートの音は胃の裏側に刺さり、打楽は脈の速さを真似て腹を叩く。
「兄さま」
妹の声はもう幼いものではない。今の彼女の年の声音。寝台の上で私の手を握る、あの夜の声。
「行かないで」
「行って戻る」
「戻って」
「戻る」
そのたびに仮面の主の掌の力が強くなる。私は目を閉じ、握り返す。
踊りの輪の外で、別の契約が結ばれ、破られ、結び直されているのが見える。
道化の服を着た少年が「笑いを」と願い、仮面の主は彼の口角を針で吊り上げた。少年は笑い続け、その笑いはやがて嗚咽と同じ音になった。
司祭風の男が「信仰を」と願い、仮面の主は彼の胸に小さな聖骨箱を埋め込んだ。男は熱にうなされ、額に汗をにじませながら地に額をつける。起き上がったとき、彼の目は空洞になっていた。
背中を曲げた女が「忘却を」と願い、仮面の主は女の背から一本ずつ骨を抜いた。彼女は軽くなり、踊り、踊り、最後にどこにも帰れない顔で笑った。
仮面の主の肩越しに、妹の影がまた動く。
「兄さま、私は——」
声が消える。影が濃くなる。
「支払うのは、お前の命か。妹の命か。どちらがより甘美か」
甘味はいつだって毒の前触れだ。私は踵を止め、仮面の眼孔を見た。そこには何もない。いや、何もないということが形を持って輪郭を帯びていた。
「俺の命だ」
言った瞬間、足元の赤が一段深くなる。腰まで浸かる錯覚。
「俺の命だ。俺の、だ」
仮面の主は、私の耳朶のすぐ後ろで笑った。
「いい返事だ」
その指が私の背骨を一枚ずつなぞる。
「覚悟は甘いほど美味い」
刹那、床が割れ、血の湖が私を飲み込んだ。
落下は長くも短くもなく、ただ、ひと息のあいだ続いた。
暗闇のなかで、誰かが私の名前を呼ぶ。
妹の声。
幼い声。
老いた声。
まだ言葉を覚える前の、泣き声。
全てが私を呼ぶ。私は手を伸ばす。手はどこかへ届き、しかし触れたものは冷たく、乾いていた。
最後に、柔らかいものが私の唇に触れた。白花の花弁。
そこから先は、音がすべて水になった。
目を開けた。
天井があった。ひびの入った漆喰の、あの天井。
窓から朝の光が差し、薄いカーテンが風に揺れる。
喉が痛い。舌が乾いている。指先は痺れて、足の感覚が遅れて戻ってくる。
寝台の脇で、誰かが立ち上がった気配がした。
「兄さま?」
妹がそこにいた。
頬は紅潮し、額にうっすら汗が浮かぶ。だがそれは熱の汗ではない。生きている者の汗だ。
私は半身を起こし、絞り出すように笑った。
「……よかった……!」
伸ばした腕に、妹は一歩だけ後ずさった。
気づいた。
瞳の色が、違う。
深い琥珀色。粘度を持つ光。
それは確かに美しい。が、私の知る妹の瞳ではない。
「きみは」
言いかけると、妹は首を傾けた。
「お兄さま。どうしました?」
声は澄んでいる。だが、そこにあるべきわずかな掠れ、眠りから覚めたばかりの途切れ、呼吸と呼応する不規則な揺れが、ない。
音は均一で、完璧で、作り物めいている。
私は笑おうとし、笑い方を忘れた顔になった。
「気分は?」
「とてもよいです。体が軽い」
妹——彼女は窓のそばへ行き、カーテンを開けた。陽光が彼女の髪に刺さり、琥珀色の瞳がひときわ明るくなる。
彼女は屋根瓦の向こうに揺れる梢を見た。
「きれい」
言い方が違う。妹はいつも「きれい」より先に、「ねえ、兄さま」と振る人だった。
私の胸は、静かに沈み始める。
枕元の鏡に、朝の光が跳ねた。
鏡面の中に、私と、彼女と、部屋の隅々、ひび、埃の軌跡、そのすべてが収まる。
そして、その奥に。
白磁の仮面が、立っていた。
仮面は無表情で、ただ、わずかに首を傾けた。
聞こえるはずのない声が、骨を舐めて通る。
「——また百年後に」
笑ったのは誰だ。鏡の中の仮面か、私か、あるいは部屋のどこかに残った古い木目か。
さほど重要ではない。
重要なのは、妹が振り返ったとき、私の顔を見て、ほんの少しだけ首を傾け、それから何の感情も載せずに微笑んだことだ。
「お兄さま。朝食は?」
「ああ……」
「私が作りましょう」
彼女は台所へ向かった。床板がきしむと、彼女はその音を面白がるように視線を落とした。
彼女の歩き方は、妹のそれだ。歩幅、癖、壁の角を避けるために一度だけ体を細くする仕草。
だのに、そこに宿る重心は別物だった。
人は器と中身の摩擦で歩く。器が妹で、中身が何か別のものならば、摩擦は別の歌を奏でる。
その歌が、私の耳には聞こえた。
台所から包丁の音がする。
規則的。正確。誤差がない。
妹は料理が得意ではなかった。皮は厚く剥きすぎ、塩は多く、火加減は少し強過ぎた。
その不器用さが愛おしく、私は焦げた端をいつも自分の皿へ寄せた。
いま、包丁は職人の手だ。
肉は切断面の光沢を残したまま均一な薄さになり、パンは一枚も欠けず、果物は皮の厚みが全て等しい。
「すごいな」
私の声は乾いていた。
「お兄さま」
彼女は笑い、皿を並べる。
味はどうだ。
私はその日、何も味を覚えていない。
日々が過ぎた。
妹は健康だ。朝は早く起き、庭の草を抜き、洗濯物を干し、台所を磨いた。
微笑みは常に同じ角度で、怒ることはなく、泣くこともなく、笑うときだけ笑う。
夜、窓辺に与えられた白花に水をやる。
「きれい」
彼女は言い、花に顔を近づける。
白花の香りはかすかで、土と水の匂いが勝つ。妹はそれを好きだった。
彼女も、白花を見ている。
だが、好きという温度がない。
眺め、分類し、適切に維持し、枯れれば取替える。
心がないのか。
あるのだろう。
ただ、それは私の知る心とは性質が異なる。
ある晩、私は勇気を振り絞って聞いた。
「お前は、私の妹なのか」
彼女は笑った。
「私は私です。お兄さま」
「……名前を、呼んでみてくれ」
彼女は私の名前を呼んだ。
完璧な発音。
そこには、妹がいつも飲み込みがちな子音の癖がなかった。
「覚えているか。夏の庭で、白い花を摘んだ日を」
「覚えています。白花を髪に挿した。兄さまが笑いました」
語る内容は正しい。写真の説明のように正確だ。
だが、あの日の湿度、土の冷たさ、指の爪の隙間に残った黒い粒、笑った時に胸に走った痛みが——言葉の裏側に、ない。
私はそれきり口を噤んだ。
夜。
眠れぬまま、鏡の前に立つ。
鏡面には私が映り、背後に寝台、窓、白花の束、そして部屋の角の影。
影が揺れた。
白磁の仮面がまたそこにいた。
仮面は語らない。
語らずに、甘い音で骨を叩く。
私は鏡に手を伸ばし、冷たい硝子に触れた。
彫像のように硬い冷たさ。
仮面は、ゆっくりと首を横に振った。
「願いは叶えられた」
声はない。だが、意味は届く。
私は笑ってみせた。
「代償は?」
仮面は何も答えず、ただ、微笑む代わりに微笑みの形を置いた。
私は理解している。
代償は、私の命になりえた。
しかし、彼は選んだ。
妹の命か、私の命か。どちらがより甘美か。
彼は、より甘美な方を選んだ。
それが何であるか、彼だけが知っている。
私が知らされる必要は、ない。
翌朝、妹は白花を抱えて台所に立っていた。
「お兄さま、今日は市場へ行きましょう」
「ああ」
市場はいつも通りざわめき、魚は目を輝かせ、野菜は土の匂いを放ち、人々は価格をめぐって小さな戦いを繰り広げる。
妹は適切に選び、適切に支払い、適切に礼を言った。
帰り道、橋の上で彼女は立ち止まった。
「水……」
川面は光を砕き、波紋は規則正しく広がる。彼女は手すりに手を置き、しばらく眺めた。
「きれい」
私は頷く。
彼女は振り向き、私に微笑む。
その笑みは、ひどく正しい。
正しすぎる。
正しさが人を殺すことがある。
この正しさは、私を殺している最中だ。
家に戻り、私は懐から古い押し花を取り出した。
紙に挟まれた白花は、黄ばみ、脆く、触れれば崩れる。
「これを、覚えているか」
彼女は顔を近づけ、香りを探そうとした。だが、香りはもうない。
「白花」
彼女は言った。
「夏の庭」
さらに言った。
「兄さま」
最後に言った。
そして、押し花に指を伸ばした。
私は慌てて止める。
「壊れる」
彼女は指を引っ込めた。
「壊れるものは、置いておきましょう」
私は押し花を元の紙に戻し、机の引き出しへしまった。
彼女は窓辺へ行き、白花に水をやった。
夜。
再び、鏡。
仮面はもういない。
しかし、いないことが、いることより重く感じられる。
私は鏡に向かって呟いた。
「お前は、誰だ」
返事はない。
鏡の中の私は、疲れ、目の下に疲労の影を垂らしている。
背後で、妹が寝返りを打つ音がした。
彼女の寝息は、均一だ。
完璧な安眠。
私は目を閉じ、額を鏡に押し当てる。硝子が冷たい。
冷たさだけが確かなもののように思える。
やがて、その冷たさも体温に溶け、境が曖昧になる。
日々は、規則正しく積み重なった。
妹は健康で、美しく、正確だ。
私は働き、借金を少しずつ返した。
食卓の会話は穏やかで、温度の触れ幅は小さい。
ある朝、彼女が言った。
「兄さま。社交の場へ戻りませんか?」
「どうしてだ」
「屋敷を保つには、繋がりが要ります」
的確だ。
父が失ったのは、金だけではない。繋がり、信用、名。
彼女はそれを補う行動を提案している。
私は頷き、古い燕尾服を磨いた。
鏡に映る自分は、以前より老けて見えた。
妹は私の襟を整え、布についた糸屑を取った。
指先の動きは繊細で、職人のそれだ。
舞踏会に出れば、人々は私たちを見た。
落ちぶれた家の息子が、美しい妹を連れて戻ってきた、と。
視線は好奇と侮蔑と羨望の混色で、私の皮膚に貼り付いた。
妹は微笑み、踊り、礼を尽くした。
彼女の足運びは完璧で、仮面をつけていないのに仮面をつけているように、感情の影を観客に見せなかった。
ダンスは音楽のためであり、相手のためであり、場のためであり、彼女自身のためではない。
私の胸は、ますます静かに沈んだ。
家へ戻ると、私は暖炉の前で立ち尽くした。
火は弱く、灰は多く、灰の山に突き刺さった火箸が黒い指のように見える。
妹が背中から毛布をかけた。
「寒いのですか」
「いや」
「なら、喉?」
「いや」
私は毛布を返し、笑った。
「ただ、思い出していた」
「何をです?」
「父のこと」
彼女は頷いた。
「父は、愚かでした」
「そうだな」
「でも、優しかった」
私は沈黙した。
彼女の言葉は正しいが、温度がない。
正しさだけが残ると、言葉は刃物になる。
それが今、私の胸の内側を切っている。
その夜、夢を見た。
ヴェルミリオ宮殿。
金の天井。
血の湖。
仮面の主。
彼は私に手を差し伸べる。
私は取る。
「百年に一度」
彼は言う。
「お前は、生きる。彼女も、生きる。魂は、踊る」
「踊る音は誰が鳴らす」
「それを問うのは、踊り子の役目ではない」
夢から覚めると、朝だった。
妹は台所で包丁を鳴らしている。
均一な音。
完璧な朝。
私は、ゆっくりと、笑ってしまった。
笑いは乾いていたが、確かに笑いだった。
日記をつけ始めた。
一行だけ書く。
「今日も彼女は美しい」
次の日も同じ。
その次の日も同じ。
やがて、書くこと自体が儀式になり、意味は薄皮になり、薄皮だけが重なる。
それで良かった。
意味が厚くなると、人は潰される。
薄皮は、風で飛ぶ。
ある夕暮れ、妹が言った。
「踊りませんか、兄さま」
居間の真ん中で、彼女は両手を広げた。
私は立ち上がり、手を取った。
音楽はない。
だが、人は心拍と呼吸があれば踊れる。
彼女の手は温かく、指は細い。
私は一歩、二歩。
彼女がついてくる。
完璧に。
私は、ほんの少しだけ、わざと狂った。
彼女は狂いを正し、私の腰の位置を直した。
私は笑った。
笑いながら、泣きそうになった。
彼女は微笑み、私の涙腺の動きを見た。
何も言わなかった。
それでよかった。
言葉があれば、私は崩れた。
春が来て、白花がまた咲いた。
妹は庭で花を摘み、花瓶に挿した。
私は彼女の後ろ姿を見て、誰にも聞こえない音で言った。
「ありがとう」
誰も応えない。
それでよかった。
応えがあれば、私は誤解したかもしれない。
ある雨の午後、私は市場帰りの橋の上で立ち尽くした。
川面は灰色で、波紋は潰れ合い、光は鈍い銀片になって漂っていた。
私はポケットの中の押し花を取り出し、指の腹でそっと触れた。
崩れた。
紙の粉のように。
風が吹き、粉は川に落ちた。
水はそれを受け取り、何事もなかったかのように流し去った。
私は笑って、泣いた。
涙は雨に紛れ、誰にも見えない。
それでよかった。
見られれば、慰められてしまう。
慰めは、ときに毒より遅く人を殺す。
家に戻ると、台所から香りがした。
スープ。
野菜の甘みと、骨の出汁の深み。
私は椅子に座り、両手で器を包んだ。
熱が掌の皮に染み込み、骨に伝わる。
妹が向かいに座り、少しだけ首を傾けた。
「おいしい?」
「ああ」
嘘ではない。
おいしい。
だからこそ、遠い。
完璧に整った味には、偶然の余白がない。
余白は、記憶のための座布団だ。
座る場所がないと、記憶は通り過ぎる。
夜。
私は最後にもう一度だけ、鏡の前に立った。
仮面の主は、いない。
いないが、どこかにいる。
私は鏡面を拭い、己の顔をまっすぐに見た。
目の下の影、頬の痩け、唇のひび。
生きている。
私も、妹も。
願いは叶った。
そのこと自体は、否定しようがない。
皮肉は、祝辞に紛れてやってくる。
おめでとう。お前は望みを手に入れた。
ただし、それはお前の欲しかったものの形をしているだけだ。
本当に欲しかったのは、たぶん、形ではない。音だった。
私は胸に手を置き、自分の心拍の速度を数えた。
遅い。
静かで、正確で、音楽に向かない鼓動。
それでも、私は踊ることができる。
音がなくても。
踊りは、形があれば成立する。
中身が別の歌を奏でていても。
窓の外で、白花が風に揺れた。
妹が眠りの中で寝返りを打つ。
私はろうそくの火を細くし、部屋を半分だけ暗くした。
暗さは、ものを優しくする。
優しさは、ときに刃を鈍らせる。
私は椅子に座り、目を閉じた。
骨の奥で、遠い楽の音がした気がした。
私は立ち上がりもしないで、一度だけ小さく礼をした。
舞踏会は終わった。
終わって、まだ続いている。
やがて眠りが降りてきた。
夢の中で、仮面の主が私の肩へ手を置いた。
「また百年後に」
私は笑った。
「そのころには、私はもういない」
「踊りは、器を選ばない」
仮面の下の影が、私の額へ口づけをした。冷たく、そして甘い。
遠くで、白花が静かに開いた。
私は目を開けずに、心の中でひとつだけ言葉を飾った。
ありがとう。
——返事は、いらなかった。