夜警
喧騒の海、池袋。その片隅の、看板すら目立たぬ地下クラブ。階段を降りるごとに、闇が深くなる。扉を開けた途端、鼓動のような重低音が体を包み込む。
客は少ないが、騒々しさは人数以上だ。一組のカップルが退席し、フロアに残されたのはたった5人。それでも音楽は轟き、ストロボが無人の空間を乱舞する。
空気は汗と香水の匂いが混ざり合い、甘く生暖かい。バーカウンターの奥では、カクテルを作る音と氷の軋む音が、ビートを奏でている。頭上では、色とりどりの光が無秩序に舞い、現実感を歪めていく。
DJブースの前、露出の多い女がカウンターに寄りかかっている。
スコッチを、口に運んでは離す。紅い舌が、グラスの中をはい回る。アルコールの味どころか、ガラスの冷たさも感じなくなって、ようやくグラスを置く。何かの儀式のように、付着した口紅を指先で拭う。
女の本当の名前は誰も知らない。ここでは物語の都合上、Kとしておこう。
Kの手元には、電池の切れかかったスマートフォン。薄暗い照明の中で、いつもよりまぶしく感じる。Kの子供の頃にはなかったし、今でも全ての機能を使いこなしているとは言い難い。店の宣伝でSNSをしたり、客と連絡を取るのに使うくらいだ。
なにかを調べようというより、手持無沙汰だったためタップしたブラウザ。トップには「あなたへのおすすめ」として、見たくもないニュース記事が並ぶ。
芸能人の不倫。飲食店の火事。そして……連続殺人犯。
女性が次々に四人も殺された。直近の被害者は、腸をえぐりだされた上に蝶々結びにされていたという。マスコミは大喜びで、「令和のジャックザリッパー」などと持て囃している。被害者の襲われたのは、渋谷、代々木、新宿、大久保……。
「次は池袋だ」
不意に隣から囁かれた言葉。低い低い声だった。静かに、それでいて力強く、男の喉が震える。
「この辺で人が殺されるっていうの?」
「このまま、いけばな」
飢えた肉食動物のような眼が、帽子の下から光る。隈なのか痣なのか、片側だけ周りの皮膚が変色している。
「そう。でも、あたしは関係ないわ」
男は低く笑う。その声は音楽に溶け込み、Kの肌を這うように感じられた。
「関係ない? 君みたいな人が狙われるんだぜ」
Kは無視しようとしたが、好奇心が勝った。携帯をロックし、男へと向き直る。
「あたしみたいな?」
「ああ」
男は口元を歪めた。しばらく剃っていないらしい髭も動く。
「夜の街で、一人で。誰も気にかけない女たち」
Kは眉をひそめる。
「失礼ね。あたしには客だっているし、友達だっている」
「でも、今ここにいるのは一人だろ?」
Kは思わず周りを見る。化粧の濃い女を、髪の長い男が必死で口説いている。トイレの前で、気持ち悪そうに顔を伏せている金髪の女。
この場で私が殺されても、この人たちは気にも留めないだろう。流れている音楽のタイトルを、気にも留めないように。
「大久保で、子宮を奪われ、大腸を結ばれた女もそうだった」
その瞬間、クラブの照明が明滅し、男の顔が一瞬闇に沈んだ。再び光が戻ると、彼の変色した目は暗く悲しそうに見えた。
「店が終わった後、クラブに来ていた。一人でな」
「ねえ」
Kは声のトーンを変え、挑発的に尋ねる。
「あなた、どうしてそんなに詳しいの? まるで……」
言葉を途中で止めたKに、男が身を乗り出す。
「まるで?」
Kは男の息遣いを感じられるほどの距離で、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「まるで、犯人みたい」
沈黙が二人の間に落ちる。音楽だけが狂ったように鳴り続ける中、男の表情が固まった。
そして、突然の笑い声。男は頭を後ろに倒し、ゆっくりと笑い始めた。
「面白い女だ」
笑いが収まると、男は帽子を深く被り直し、立ち上がった。
「気をつけな。夜はまだ長い」
男の消えていったトイレの方を見る。つぶれていた女が、苦しそうに伸びをする。その頭上では壁の電光時計が、午前3時を示している。街がもっとも危険な時間帯だ。それでも、Kは帰らなければならない。
Kは息を切らして、出口へ向かった。重低音が体から離れていくにつれ、心臓の鼓動が耳に響く。扉を開け、階段を駆け上がる。彼女の足音が狭い空間に反響する。
現実が一気に押し寄せてくる。クラブから出るといつもそうだが、今日は特に強い。車のクラクション、雑踏の声、ネオンの光。
Kは深く息を吐き出し、周囲を素早く見回した。
男の姿はない。それでも、背中に視線を感じるような錯覚に襲われる。
ネオンの届かない夜の闇に紛れ込むように歩き始めた。携帯を取り出し、タクシーアプリを開こうとしたが、電池切れ。
こんな時に限って!
Kは仕方なく、足早に歩を進める。終電はとっくに過ぎている。
この街で10年以上も夜の仕事をしてきた。かつては輝いていた自分を思い出す。今では、化粧の下に隠れた小じわが気になる年齢だ。それでも、この仕事を辞められない。昼の世界に戻る勇気も、スキルもない。そんな自分が、今夜は妙に弱々しく感じられた。
背中がむず痒く、何人もが自分を見ているかのようだ。若かったころから、しばらく忘れていた感覚。まさかこんな形で思い出すとは。
角を曲がり、人通りの少ない路地に入る。
Kは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。路地の入り口には誰もいない。ほっと胸をなで下ろす。
その時、背後から突然、手が伸びてきた。
振り返ると、そこにいたのは、酔いつぶれていた金髪の女だった。気の抜けた顔で笑っている。
「悪いけど、急いでるの」
彼女は何も言わない。ただ笑っている。
「ちょっと、どいてよ」
Kは冷静を装いながら言った。
しかし、女は一歩も動かない。むしろ、ゆっくりとKに近づいてきた。街灯の光が顔を照らす。その目は、もはや酔った人間のものではなかった。冷たく、残酷な光を湛えている。
Kは後ずさりしながら、周囲を見回した。人気のない路地。助けを呼べる人はいない。
突然、女が動いた。その動きは、酔っ払いのそれではなく、捕食者のように素早かった。Kの腕を掴む。
Kが叫び声をあげる。爪を立てて振り払おうとするが、彼女の握力は想像以上に強い。再び笑みを浮かべたその顔には、歪んだ昂揚感が浮かんでいる。
「おい」
低い低い声が響く。帽子を被った男だった。バーでKを脅してきたあの男。
女が一瞬気を取られた隙に、Kは全力で脛を蹴とばした。彼女が怯んだすきに、Kは男の元へ走る。
「警察を呼んで!」
帽子の男はクラブでそうしたように、ゆっくりと笑う。上着から慣れた手つきで手錠を取り出す。
「おれが警察だ」
Kの驚きを見透かすように、帽子の影の奥から、もう一度低く笑い声が響いた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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次作も、もしよければお付き合いください!