日常を奪った災害
忘れてかけていた上鷹鳴での記憶が蘇った。思い返せば私の母は機嫌が良くなると鼻歌をよく歌っていた。しかし、その曲の名はずっと分からなかった。この日、母の謎が一つ解けた気がする。
和尚はその後も話を続けた。私が生まれた後、母は私を音楽に興味を持たせようとしていたらしいのだが全く興味が持てなかった。母親は父親に嫉妬していたという。その為、父は和尚に「梢子さんの機嫌が悪い」と言って良く話し相手になっていたことも知った。
私は父に良くなついていた。父親と虫取りや山菜取りに行ったのをよく覚えていて、昆虫を捕まえた時の快感は今でも忘れられない思い出となっている。
そんな日常もあの災害によって全て失われてしまった。家族も友達も故郷の景色も
「上鷹鳴の土砂崩れ」と呼ばれた災害で上鷹鳴地区の6世帯22人が生き埋めになったとされる痛ましい出来事である。当時の常城市長エレベントは迅速な対応を行った。二次災害が発生する恐れがあるとして災害が起きた箇所及び上鷹鳴地区の一帯を特別災害防止区域に指定し、立ち入りを制限した。鷹鳴地区・下鷹鳴地区に被害が及ばないように設定した。鷹鳴地区・下鷹鳴地区の住民には治山施設の完成まで別の地域に避難させた。治山施設の完成までの間捜索活動を行ったとされたが、発生から1週間後全員の死亡が確定された。遺体の損傷が激しい為、身元の特定に時間がかかると発表され私の家族たちの姿を見るのは実に半年後の事であった。3日後、土質調査の結果が公表された。その内容は崩落箇所の土質は深い部分に軟弱な層があり、そこから崩落した可能性があると公表された。
その後、市は防災施設を作る工事を行うため完成までの2年間鷹鳴地区・下鷹鳴地区の住民に避難指示を出した。その後、エレベントは通常業務に加えての災害対応の激務で体調を崩し、市長の職を辞任した。
緊急で副市長の伊新が市長代理を務めた。伊新は「市長選挙が行われるまでは、エレベントの方針に従う」と声明を発表した。伊新は特別災害防止区域を国有化して政有林「政府が所有しており、森林庁が管理する森林」にする。「緑の力による防災計画」を制定した。
叔父を含む多くの人がこの制定にも反発したが、伊新は鷹鳴地区・下鷹鳴地区の方たちが無事に帰還できるようにそして帰還後も安全に暮らせるようにするため遺族の方たちにはご協力をお願いします。高額な補償金を提示して協力を求めた。
当初、祖父母は署名たものの、叔父は誓約書に署名しなかった。しかし、多数の方が署名したので「緑の力による防災計画」は施行することになった。
長らく、私たちはこの出来事について語ることは無かった。和尚は別れ際にこう話した。
「上鷹鳴の災害について一つだけ言えることがある。浩太君の両親は人災の被害者であると...」