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流亡した聖職者と捨てられた少女  作者: 藹仁
堕落した聖職者と呪われた少女
8/32

08.幽影の囁き

 道のりは静寂に包まれていた。微風に揺れる木々の葉が、かすかな音を立てるのみ。太陽はすでに西へ傾き始め、空は穏やかな橙紅色に染まっていく。地面に落ちる影は細長く伸びていた。


 ふと隣を見ると、共に歩くルーティシアがうつむき加減で、何かを考え込んでいるようだった。


「ルーティシア。」


 沈黙を破り、声をかける。気になっていたことがあった。あの幽藍の炎について、彼女は何か知っているのだろうか?


「幽藍の炎について……何か知っているか?」


 その言葉に、彼女の足がわずかに止まる。伏せられた睫毛が微かに震え、まるでこの話題を突然持ち出されるとは思っていなかったかのようだった。数秒の沈黙の後、ようやく口を開く。


「……あまり知らない。」


 その声は落ち着いていたが、どこかためらいが感じられた。


 無理に急かすことはせず、彼女が続けるのを待つ。


「ただ……呪いが暴走して、意識が朦朧としている時、あの炎が現れる。」


 彼女は唇をかすかに引き結び、記憶を辿るように言葉を続けた。


 眉をわずかに寄せ、低く呟く。


「昨日……最後の記憶は、自分の周りに幽藍の炎が浮かんでいたこと。それは熱くもなく、痛みも感じなかった。むしろ……」


「少し、暖かかった。」


 その表現に、思わず眉をひそめた。

「……熱くもなく、むしろ暖かい……?」


 その言葉に、直感的な違和感を覚えた。あの炎は本当に呪いの産物なのか、それとも――別の力によるものなのか?


「それ以外に、何か手がかりは?」


 そう問いかけると、ルーティシアは視線を落とし、指先で無意識に袖口をなぞった。そして、ゆっくりと首を振る。


「……少なくとも、私が覚えているのは、それだけ。」


 彼女の言葉には、まだ何か隠されているようにも思えた。しかし、それ以上は語ろうとしない。無理に問い詰めるのはやめた。彼女自身、完全には理解できていないのかもしれない。


 夕暮れの風がそっと吹き抜け、彼女の長い髪を揺らす。しかし、擬態の魔法がかけられているため、髪色も瞳の色も普通の人間と変わらないままだった。外見だけなら、特に違和感はない。


 視線を前に戻し、村へと歩みを進める。


 ――この件、もう少し注意深く見ておく必要がありそうだ。

 村に到着した時、太陽はすでに地平線の端に沈みかけていた。空には淡い残光がわずかに残るのみ。


 この村はそれほど大きくはないが、それでも数十軒の家々が並び、夜になると灯る明かりが、この土地にかすかな温もりをもたらしていた。


 石畳の道には街灯の微かな光が揺らめき、空気には炊事の煙と、灯油の匂いが混じって漂っている。外界の森と比べればここは遥かに安全なはずだ。しかし、今日の村には、どこか不安げな静けさが漂っていた。


「ロイさん。」


 前方から、聞き覚えのある声がした。


 顔を上げると、ひとりの大柄な男がこちらへと歩いてくるのが見えた。背中がやや丸まった、村長のトランスだった。彼の眉は深く刻まれ、昨日よりもさらに険しい表情を浮かべている。まるで何か重い悩みを抱えているかのように。


「村長。」


 私は軽く頷き、平静な口調で応じた。


 トランスの視線が私の隣にいるルーティシアへと移る。一瞬だけ、彼の目が探るように細められた。


「……そちらの方は?」


 私は何気なく体を少し傾け、彼の視界からルーティシアの特徴的な髪色と瞳を隠す。擬態の魔法で外見は普通の人間と変わらないように見せているが、あまり長く見られれば違和感を持たれる可能性がある。


「道中で出会った旅人だ。体調が優れないようだったので、しばらく同行することにした。」


 簡潔に、余計な感情を込めずに答えた。


 トランスはそれ以上詮索しなかった。ただ、少し頷くと、深く息を吐き、指先で眉間を揉みほぐすような仕草を見せた。


「……村の状況が、昨日よりもさらに悪くなっている。」


 低く重い声だった。その目には、疲労の色が滲んでいる。


 私はわずかに眉をひそめた。


「どういうことです?」


「‘死んだはずの家族を見た’と言う者が増えているだけではない……それ以上に、もっと深刻な事態が起きた。」


 トランスの声がさらに低くなる。顔に刻まれた皺が深まり、彼自身もこれから口にする言葉を信じたくないとでも言うように、僅かに躊躇した。


「……今朝、子供がひとり、行方不明になった。」


 その言葉に、私の視線が鋭くなる。


「……行方不明?」

 トランスは重く頷いた。その表情には陰りが宿っていた。


「昨夜、あの子の母親がこう言った……亡くなったはずの夫の声を聞いた、と。そして、扉の前に立つ‘彼’の姿を見た、と。微笑んでいたらしい。しかし、彼女が我に返った時には、すでに子供の姿は消えていた。それから今まで……まだ見つかっていない。」


 その場の空気が、さらに沈んでいくのがわかった。


 幽藍の炎、幻影、村人の異変……そして、失踪事件まで。


 これは単なる精神錯乱などではない。


 私は考えを巡らせ、さらに詳しく聞こうとした――その時。


 突然、澄んだ声が空気を切り裂いた。


「ロイお兄ちゃん!」


 この沈鬱な雰囲気を吹き飛ばすような、無邪気な声。


 村の奥から、小さな影が元気よく駆けてきた。金色のツインテールが、走るたびにふわふわと揺れている。


 ――エリー。


 村の子供たちの中でも、特に私と親しくしている活発な少女だった。


 彼女は軽やかに私の前まで駆け寄ると、ぱっと明るい笑顔を向けてきた。村の異様な空気など、まるで気にしていないように。


「来てくれたんだね!」


 その視線が、私の隣にいるルーティシアへと向かう。


 首をかしげながら、好奇心に満ちた目で尋ねた。


「このお姉ちゃん、誰?」


 私が答える前に、彼女はさらに一歩近づき、興味津々といった様子で覗き込む。


「お姉ちゃんも、村に遊びに来たの?」


 突然の問いかけに、ルーティシアの肩がわずかにこわばった。長い睫毛がふるりと震え、一瞬、どう反応すればいいのかわからないといった様子だった。


 私は彼女の横顔をちらりと見た。どうするかは、彼女自身の判断に任せる。


 少しの間、彼女は躊躇していたが……やがて、ほんのわずかに頷いた。


「……うん。」

 その声はかすかだったが、それでもエリーの問いにしっかりと応えていた。


 すると、エリーの目がぱっと輝いた。


「じゃあ、一緒に村の花園に行こうよ!きれいなお花を見せてあげる!」


 ルーティシアの瞳がわずかに見開かれる。どうやら、自分が突然「遊び」に誘われるとは思ってもいなかったようだ。


 彼女は戸惑いの色を浮かべながら、私の方をちらりと見た。まるで、無言の問いかけをするかのように。しかし、その時の私は村長との会話に集中しており、彼女の視線には気づかなかった。


 数秒の躊躇の後、彼女は結局、その申し出を断ることはなかった。


 エリーは嬉しそうにルーティシアの手を取ると、そのまま村の方へと駆け出した。


 ルーティシアは抵抗することなく、ただ少しぎこちない足取りで、それでも彼女についていく。


 一方、私はその場に留まり、トランスにさらに詳しい話を聞くことにした。


 ――そして数分後、ふと気づけば。


 ルーティシアの姿は、すでに灯りの灯る村の中へと消えていた。


 夜の帳が、ゆっくりと村全体を包み込んでいく。


 灯火が通りを照らし、村の中を暖かな黄金色に染めていた。一方、遠くに広がる森は、まるで沈黙する黒い境界線のように佇み、村と未知なる危険とを隔てているかのようだった。


 花園には微風がそよぎ、吊るされた灯籠が揺らめきながら、空中に細かな光の粒を散らしていた。


 ルーティシアは静かに立ち、エリーの傍でその様子を眺めていた。


 エリーは花々の間を元気よく駆け回りながら、何かを選んでいるようだった。


「お姉ちゃん、普段からお花をたくさん見たことある?」


 突然、エリーが顔を上げ、小さな手に抱えた白い花束を見せながら、楽しげに尋ねてきた。


 ルーティシアはわずかに動きを止め、視線をその繊細な花びらへと落とす。そして、かすかに首を振った。


「……ないわ。」


「えっ?本当に?」


「でも、お姉ちゃん、とっても綺麗だから、お花がすごく似合いそう!」


 ルーティシアはわずかに眉を動かした。こんな評価を受けるのは、これが初めてだった。


「似合う……?」


 小さく、疑問を含んだ声で繰り返す。


「うんうん!」


 エリーは元気よく頷くと、懐からそっと一輪の花を取り出し、つま先立ちになりながら彼女に差し出した。


「これは夜星花やせいか!夜にならないと咲かないんだよ!」

 ルーティシアはそっと首を振ると、指先で無意識に袖口をつまんだ。


「ただ……今は一緒に行動しているだけよ。」


 エリーはよくわからないといった顔で小さく頷くと、突然、首をかしげて尋ねた。


「じゃあ、お姉ちゃんはロイお兄ちゃんのこと、どう思ってるの?」


 その問いに、ルーティシアは沈黙した。


 ――彼は、どんな人間なのか?


 冷静で、理知的で、それでいて優しい。


 傷を負った彼女を救い、細やかに手当てを施す。その一方で、過剰な世話を嫌がる彼女の意思も尊重してくれる。


 ……だが、それを言葉にするのは、なんとなく気恥ずかしかった。


「彼は……そうね……」


 しばらく考え込んだ後、少しばかり拗ねたような声で言う。


「……時々、ちょっと鬱陶しい。」


 けれど、そのまま続けた。


「……でも、まぁ、頼りにはなるわね。」


 エリーは目をぱちくりとさせた。


「えっ?ほんとに?」


「だって、ロイお兄ちゃんってすごく優しいよ!」


 ルーティシアはそっと視線を逸らし、何も答えなかった。


 だが、エリーはそんな彼女の反応に気づいた様子もなく、楽しそうに話を続けた。


「ロイお兄ちゃん、いつも村に来て手伝ってくれるんだよ!お母さんが言ってたの、ロイお兄ちゃんはすごいんだって!病気の人も治せるんだよ!」


 突然の動きに、ルーティシアは反射的に半歩後ずさった。


 しかし、エリーは満面の期待を込めた瞳で彼女を見つめていた。


 小さな手のひらには、まだ白い花がそっと乗せられたまま。


 ……断るのも、なんだか妙な気がする。


 ルーティシアは小さく息を吐くと、指先を伸ばし、慎重にその花を受け取った。


 すると、エリーの顔がぱっと輝いた。


「お姉ちゃん、もうちょっとしゃがんで!花冠を作ってあげる!」


「……?」


 ルーティシアは、一瞬呆気に取られる。


「そんなことはしなくていいわ、私は――」


「ほんのちょっとだけ!」


 エリーは彼女の手首をそっと握り、まるでお願いするように、あるいは甘えるように言った。


「ね?お願い!すぐ終わるから!」


 ルーティシアは数秒間迷った後、静かに身を屈める。


 すると、エリーは嬉しそうに編んだばかりの花冠を、彼女の銀白の髪の上にそっと乗せた。


「わあ……すごく綺麗!」


 エリーはぱちぱちと手を叩き、満足そうな笑顔を見せた。


 ルーティシアはそっと手を上げ、指先で花冠の縁に触れる。


 その感触は、驚くほど軽やかで――そして、彼女にとっては馴染みのないものだった。


 しばらく沈黙した後、低く問いかける。


「……どうして、私にこれを?」


 すると、エリーは当然のように答えた。


「だって、お姉ちゃん、いつも眉をひそめてるみたいだから!」


 そして、にっこりと笑う。


「花冠をつけたら、気分がよくなるんだよ!」


 ルーティシアの瞳がわずかに見開かれる。


 今度ばかりは、彼女も言葉に詰まった。


 ――反論できない。


「ねえ、お姉ちゃん。ロイお兄ちゃんとは、どうやって知り合ったの?」


 突然の質問に、エリーが興味津々な目を向けてくる。


 ルーティシアの動きが、一瞬止まった。


 脳裏を駆け巡るのは――倒れる自分、目を覚ますときの感覚、呪い、疑念、警戒……そして、ある落ちぶれた聖職者の過去に巻き込まれていく記憶。


 どれも、子供に語るには相応しくない話だった。


「えっと……」


 わずかに迷いながらも、どうにか違和感のない答えを捻り出す。


「私たちは……旅の途中で偶然出会ったの。」


 エリーはぱちくりと瞬きをし、「おぉ~、なるほど!」と納得したように頷いた。


「じゃあ、お姉ちゃんも聖職者なの?」


 その問いに、ルーティシアは少しの間沈黙し――


「……違うわ。」


 そう、はっきりと答えた。

「……治療?」


 ルーティシアはわずかに眉を寄せた。


「そうだよ!」


 エリーは元気よく頷くと、嬉しそうに話し始めた。


「前にね、お母さんが高い熱を出して、村の薬師さんに診てもらっても全然よくならなかったの。でも、ロイお兄ちゃんがほんの少しおでこに手を当てただけで、すぐに熱が引いたんだよ!」


 その声には、どこか誇らしげな響きが混じっていた。


「お母さんが言ってた!あれは聖術なんだって!それに、ロイお兄ちゃんって聖職者なのに、聖都の大人たちみたいに嫌なことをしないんだよ!」


「……嫌なこと?」


「うん!」


 エリーは真剣な顔で言った。


「普通の聖職者って、お祈りしろとか、捧げ物をしろとか言うでしょ?でも、ロイお兄ちゃんはそんなのいらないって言うの!『必要ない』って!」


 ルーティシアは、それを聞きながら、無意識に唇を噛んでいた。


 ――ロイが聖術を使えることは、知っていた。


 しかし、施術の対価を求めず、村人に跪かせることすら拒む聖職者……?


 それは、少なくとも彼女が知る「聖都の聖職者」とは、まるで違っていた。


「……彼は、この村によく来るの?」


 ルーティシアは、考えを巡らせながら尋ねた。


「うん!」


 エリーは力強く頷く。


「ロイお兄ちゃんね、『自分はただの旅人だから、ずっとここにはいられない』って言ってた。でも――**『もし生きていられたら、また皆の様子を見に来るよ』**って!」


 ルーティシアは、その言葉に思わず指先を見つめ、無意識に袖口の布をそっとなぞる。


 ――「もし生きていられたら」?


 その一言が、妙に引っかかる。


 まるで単なる追われる身というだけでは済まされない、もっと深い何かがあるかのように。


「ロイお兄ちゃん、自分のことあんまり話したがらないけど……」


 エリーは少し考えるように目を瞬かせた後、にこっと笑って続けた。


「でも、お母さんが言ってた!ロイお兄ちゃんは悪い人じゃないって。だって、悪い人は、誰かを助けようなんて思わないでしょ?」


 その言葉には、子供らしい無垢な確信がこもっていた。


 ルーティシアは静かに息を吸い込み、何も言わなかった。


 ――この短い会話だけで、彼女の中のロイへの印象が、少し変わっていた。


 彼の聖術の力、そして、村人たちとの関係。


 冷淡で、近寄りがたく見える彼。しかし、少なくともこの村では、聖都の聖職者たちとはまったく異なる存在として認識されている。


 そんな彼の姿を、彼女は今まで意識したことがなかった。


「お姉ちゃん?」


 不意に、エリーの声が思考を引き戻す。


 袖口をそっと引かれ、ルーティシアは視線を落とした。


 そこには、澄んだ瞳を持つ小さな少女が、心配そうに彼女を見上げていた。


 ルーティシアは、ごく浅く息を吐く。


 心の奥に広がる得体の知れない違和感を、無理に押し込めるように。


「……なんでもない。行きましょう。」


 彼女の静かな声に、エリーはすぐに笑顔を取り戻す。


「うん!」


 そして、何の迷いもなくルーティシアの手を引き、花園の奥へと駆けていった。

 エリーはルーティシアの手を握ったまま、軽やかな足取りで花園の奥へと進んでいく。


 途中、さまざまな花を指さしながら、嬉しそうに説明を続けた。


「これは星露花せいろか!満月の夜になると光るんだよ!」


「こっちはブルーベル(青鈴草)!お母さんが言ってたんだ、『この花の花言葉は守護』だって!」


 ルーティシアは静かに耳を傾け、ときどき小さく頷いた。


 その些細な反応だけでも、エリーは十分に満足したようだった。


 しばらく歩いた後、エリーがふと足を止める。


 彼女は、白い小さな花が群生している一角にしゃがみこむと、大事そうに一輪を摘み取った。そして、それをルーティシアに差し出した。


「これね、パパがママに贈ってた花なの!」


 エリーはにっこりと微笑む。


「お母さんが言ってたよ。パパはこの花がいちばん好きだったんだって!だから、ママの誕生日になると、いつも花冠を作ってくれてたんだよ!」


 ルーティシアの指先が、かすかに震えた。


 視線をゆっくりと、エリーの手の中にある小さな白い花へと落とす。


「……あなたの、お父さん?」


 そっと尋ねると、エリーはこくりと頷いた。


 その瞳は、どこか遠くを見つめるように、柔らかく光を宿していた。


「うん!でもね、パパは遠い遠いところへ行っちゃったの……。」


 そう言いながら、エリーはそっと花を握りしめた。


「だから、今はママがこの花を育ててるの。ママが言ってたよ、『こうしていれば、パパが迷わずに帰ってきて、私たちを見に来れる』って。」

 ルーティシアの指先が、わずかに震えた。


 静かに、エリーから差し出された小さな花を受け取る。


 ――「遠い場所へ行った」?


 そんな言葉の真意など、問うまでもない。


 それは、大人が子供に向ける優しい嘘だ。


「ママが言ってたの……**『花が枯れなければ、パパは帰る道を覚えている』**って。」


 エリーはそっと摘み取った花を抱きしめるようにしながら、小さく呟いた。


 だが、その次の言葉に、ルーティシアの思考は一瞬止まった。


「でもね、最近……本当にパパが帰ってきたんだよ!」


「……パパ?」


 ルーティシアは眉をひそめた。


 彼女は、エリーがただ亡き父親を懐かしんでいるだけだと思っていた。


 だが、小さな少女は確信をもってそう口にした。


 胸の奥に、言い知れぬ不安が広がっていく。


 ――村長が言っていたことを思い出す。


「死んだはずの家族を見た」と訴える者が増えている。


 ――これは幻覚なのか?それとも……もっと忌むべき何か?


 ルーティシアは袖口をぎゅっと握りしめた。


 爪が食い込みそうになるほど、指先に力がこもる。


 脳裏に、昨日の夜の記憶がよみがえる。


 ――幽藍の炎が、視界の端で揺らめいていた。


 ――目の前に浮かぶ、母のぼやけた面影。


 あの懐かしく、しかし、決して手の届かぬ幻影。


 黒い闇の中で、微笑みながら手を差し伸べる姿。


 そして、耳元で響く、低く掠れた囁き声――。


 現実と幻覚の境界が曖昧になるような、あの底知れぬ囈語うわごと


 まるで何かが、深淵へと引きずり込もうとするかのように。


「パパね、私にも話しかけてくれたんだよ!」


 エリーの声が、無邪気に響いた。


「でも、ママは『そんなはずはない』って言ってた。だって、パパはほんの少ししか見えないはずだから……。」


 エリーは小さく眉をひそめた。


「でもね、昨日は――」

 エリーの声が、突然小さくなった。


 彼女の視線が、じっとある一点を捉えている。


 まるで、そこにしか見えない何かを捕らえたかのように。


 そして、驚いたように目を見開いた。


「パパ!」


 弾むような声が、静寂を裂いた。


 それは、先ほどまでの語りとはまるで違う。


 ――純粋な喜び、無邪気な期待が、その声には満ちていた。


 ルーティシアの心臓が、一瞬強く締めつけられる。


 反射的に、小さな少女が見つめる先へと目を向けた。


 ――エリーは、じっと前を見つめている。


 瞳の奥に誰かの姿を映しながら。


 だが、ルーティシアの目には、何も見えなかった。


「パパ、本当に帰ってきたの?!」


 エリーは小さく囁くように呟き、その顔には心からの歓喜が浮かんでいた。


 そして――彼女は迷うことなく、一歩を踏み出した。


「エリー!」


 ルーティシアの心臓が、はじけるように跳ね上がる。


 咄嗟に手を伸ばす――しかし、届かなかった。


 エリーは、まるで何も聞こえていないかのように、すぐさま駆け出していく。


 向かう先は――闇に包まれた森の中。


 ルーティシアの瞳孔が、かっと見開かれる。


 ――本能が叫んでいた。


「追え!」


 全身の筋肉が瞬時に反応し、彼女は迷うことなく駆け出す。


 夜の帳が降りた村では、灯火がまだ煌々と輝いていた。


 だが、その先に広がる暗き森は、すでにすべてを飲み込む深淵と化していた。


 エリーの小さな背中が、黒い影へと溶けていく。


 ――まずい!


「エリー!」


 ルーティシアの叫びが、夜の静寂を切り裂いた。


 何の迷いもなく、足を踏み出す。


 そして、一気に駆け出した。


 夜風が木々を揺らし、冷えた空気が土と草木の匂いを運んでくる。


 エリーの小さな影が、闇に沈む森の縁で揺れていた。


 彼女の足取りは軽やかでありながら、どこか迷いのない決意に満ちている。


 まるで、何か抗いようのない力に導かれているかのように。


「エリー!走っちゃダメ!」


 ルーティシアは必死に声を張る。


 できるだけ強い調子で呼びかけるが、不安の波が押し寄せるのを止められない。


 ――まずい。


 彼女はさらに速度を上げようとする。


 だが、次の瞬間。


 全身に、ずしりと重たい感覚が広がった。


 ――傷が、まだ完全には治っていない。


 脚が思うように動かない。


 鉛のような重さが膝を引きずり下ろし、胸が圧迫されるような感覚に襲われる。


 喉が詰まるような息苦しさ。


 一呼吸するたびに、胸の奥に鋭い痛みが走った。


 視界が、少しずつぼやける。


 ルーティシアは歯を食いしばった。


 ――こんな状態で、何ができる?


 だが、それ以上に気がかりなのは――


 この森そのものだった。


 冷たい空気。


 それは、ただの夜の寒さではない。


 もっと根源的な……何か得体の知れない気配。


 まるで、この場所そのものが異質な何かに侵されているかのように。


 圧迫感が、徐々に強まっていく。


 まるで目に見えぬ鎖が、その身を縛りつけるように。


 一歩踏み出すたびに、何かが目覚めていく。


 ――そして、背後から、静かにこちらを見つめている。


 この感覚……。


 ルーティシアの瞳孔がわずかに縮まり、脳裏に昨夜の記憶がよみがえった。


 あのとき、森の中で見た幻影。


 耳元で囁かれる、あの掠れた声。


 そして、息をすることすら困難なほどの、あの圧倒的な「視線」。


 今――それが、また現れた。


「……何、これ……?」


 ルーティシアは眉をひそめる。


 深く息を吸い込み、必死に思考を整理しようとする。


 ――このままでは、いけない。


 胸の奥に巣食う呪いが、静かに這い上がる。


 無数の細い蔦が、じわじわと神経を絡め取るように。


 鼓動が高鳴るたび、それはより深く、彼女の魂へと根を張っていく。

 ルーティシアは、勢いよく唇を噛みしめた。


 指先は、護符を強く握りしめる。


 冷たい金属の感触。


 それが、かろうじて意識を現実に繋ぎとめていた。


 護符に込められた魔力は、まるで脆弱な壁のように、呪いと理性の間にかろうじて立ちはだかっている。


 ――どこまで耐えられるのか分からない。


 だが、今はまだ倒れるわけにはいかない。


 深く息を整え、意識を研ぎ澄ます。


 ――冷静になれ。


 このままでは、護符の効果も長くは持たない。


 乱れる呼吸を必死に抑えつつ、エリーの姿を見つめる。


「エリー!戻ってきて!」


 震える声が夜闇に響く。


 だが――彼女は止まらない。


 そして。


 エリーの姿が、完全に闇に呑み込まれた。


 ルーティシアの心臓が、ぎゅっと縮み上がる。


 思考する間もなく、彼女は足を踏み出した。


 エリーを追いかけ――闇へと駆け込む。


 ――その瞬間、空気が変わった。


 森へと足を踏み入れた途端、温度が急激に低下する。


 足元から、霧がゆっくりと広がる。


 まるで、何かが這い寄るように、静かに地を這い、覆い尽くしていく。


 それは、まるで待ち構えていたかのように、ルーティシアの足に絡みついた。


 湿った空気。


 皮膚にまとわりつく冷たさは、ただの夜の寒さではない。


 まるで、見えない枷のように、足首にまとわりついて離れない。


 視界が霞み、白い霧の向こうに、不気味な影がうっすらと浮かび上がる。


 だが、それが何なのか――はっきりと見ることはできない。


 彼女は思わず振り返った。


 だが。


 背後には、誰もいない。


 そこにあるのは、ただの闇。


 ――違う。


 何もいないはずなのに、確かに"何か"がそこにいる。


 視線ではない。


 それは、肌にまとわりつくような、重く、湿った気配。


 指先がかすかに震える。


 ルーティシアは護符を握りしめた。


 恐怖を無理矢理押し殺し、エリーを追って走る。


 夜の静寂を切り裂く、足音。


 そして、霧の向こう――


 闇の奥に、何かの影が浮かび上がった。


 ――空気が重くなる。


 まるで、見えない何かがそこから覗き込んでいるかのように。


 ゾクリと背筋を冷たいものが這う。


 そして、彼女は振り向いた。


 だが――そこにあるのは、ただの黒い虚無。


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