06.魔素安定の護符
扉を押し開けると、風鈴が澄んだ音を奏で、かすかに薬草と白檀の香りが漂ってきた。
「おや?今日はずいぶん早いじゃない。」
カウンターの奥で、赤髪の女性が椅子に寄りかかりながら、だるそうにしていた。
長い指先で、淡い紫の輝きを放つ魔晶石を弄んでいる。
琥珀色の瞳は興味を帯び、まるで気だるげな猫のようだった。
セラン・カミラ。
この町で数少ない高位の魔道具を扱う商人であり、神秘的な雰囲気を纏う女。
「聖職者のくせに、魔道具に興味があるなんて珍しいわね。」
彼女は微笑みながら、私を値踏みするように見つめた。
「それともまた、厄介ごとに巻き込まれた?」
「……少し聞きたいことがある。」
私はカウンターへと歩み寄り、店内に並ぶ品々へ目を走らせた。
店にはさまざまな魔道具が揃っている。
魔力灯や保温石のような一般的なものから、高価な魔力護符、エレメント刻印石まで——どれも珍しい品ばかりだった。
セランは小さく鼻を鳴らし、探るような口調で言った。
「その顔……ただの買い物じゃなさそうね。……ふん?」
彼女の視線が、私が懐から取り出した羊皮紙に向かう。
私はそれを差し出し、セランは手に取ると、紙の端を指でトントンと叩いた。
今朝、酒場で手に入れた情報——森の奥で目撃された蒼い炎についての記録だ。
彼女の微笑みが少し薄れ、指先が紙の上をゆっくり滑る。
先ほどまでの戯れた雰囲気は薄れ、真剣な表情になった。
「……なるほどね。面白いわ。」
琥珀色の瞳が鋭くなる。
「で?何が知りたいの?」
私は静かに頷き、目を合わせると低く問いかけた。
「この炎……見たことがあるか?」
セランは一瞬沈黙し、思案するように目を細めた。
そして、ふっと口元に笑みを浮かべる。
「興味深い質問ね。でも、あなたもまずは教えてくれない?」
「その情報……どこで手に入れたの?」
「今朝の酒場だ。」
「最近、森で異常な火が見られるって話がある。」
彼女は指先で魔晶石を撫でながら、低く呟いた。
「……聖都の連中が、最近このあたりを嗅ぎ回っているのは知ってる?」
私は黙って、彼女の言葉を待つ。
「数日前、私のところに変わった注文があったのよ。」
「聖都の聖職者たちが、高位の探査符を求めてきたの。」
「探査符?」
「そう。魔素の波動を感知するための符文よ。」
セランは机の上に置かれた小さな符文石を、軽く指で回した。
「このあたりで異常な魔法現象が起きれば、これで残留する魔素の痕跡を捉えられるわ。」
「つまり、聖都はこの近くの"何か"を探している?」
「まぁ、そんなところね。」
セランはゆっくり瞬きをしながら言った。
「それで……」
彼女は私をじっと見つめる。
「今度は、あなたの番よ。」
「あなたの"厄介ごと"と、これは関係あるの?」
私は眉を寄せ、考えを巡らせる。
——聖都はすでにこの森に目をつけているのか?
そうなると、ルティシアの呪いの異変も……
すでに誰かの目に留まっているかもしれない。
「……可能性はある。」
私は否定しなかった。
セランはそれ以上追及せず、軽く肩をすくめると、棚から小さな水晶のペンダントを取り出した。
「これは、魔素安定の護符よ。」
「魔素の異常な暴走を抑えることはできるけど、呪い自体を解くことはできないわ。」
「……値段は?」
「銀貨二枚。」
少し高いな。
私は考え込みながら、平静を装って口を開いた。
「少し安くならないか?」
セランはその言葉に、楽しげに微笑んだ。
指をカウンターに軽く乗せながら、挑発するような口調で言う。
「知ってるでしょ?私、ただの金じゃ満足しないのよ。」
「……なら、何が欲しい?」
彼女は小さく首を傾げ、琥珀色の瞳を細める。
「簡単なことよ。」
「次に来たとき……あなたの本当の話を聞かせてくれる?」
私はわずかに間を置いた。
これは、公平な取引とは言えない。
だが、セランにとっては金より情報の方が価値があるのだろう。
「……考えておく。」
最終的に、そう答えるに留めた。
セランは微笑みながら、それ以上は何も言わずに、私が銀貨を差し出すのを見守る。
そして私は護符を手に取った。
「じゃあ、次を楽しみにしてるわ。」
軽やかな声とは裏腹に、彼女の瞳には探るような光が宿っていた。
私は答えず、護符を懐に収め、店の扉を開ける。
朝の陽光が視界に差し込んだ。
ロイが魔道具店を後にする頃、陽は少し高く昇り、町の通りも活気を帯びていた。
手にした護符の冷たい水晶を指でなぞりながら、彼は次の行動を考える。
——聖都の聖職者たちは、この異変を調べている。
つまり、すでに"何者か"の目に留まっているということだ。
ロイは護符を握りしめ、目を細めた。
この呪いの異変を、これ以上広めるわけにはいかない。
私は路地を抜け、町の外へと向かう。
護符の冷たい感触がまだ手のひらに残り、指先でその繊細な紋様をなぞる。
セランは言っていた。
「これは呪いの発作を遅らせるだけで、完全に解除することはできない」と。
——その程度のことは、最初から分かっていた。
呪いというものは、外部の力だけで消えるような生易しいものではない。
だが、たとえ一時しのぎでも、時間を稼げるのならそれでいい。
ロイは通りを歩きながら、無意識に周囲を見渡し、異変の兆しがないか探る。
聖都の聖職者たちがこの付近で動いていると聞いてから、警戒を強めていた。
しかし、町の門を出る前に、聞き覚えのある声が路地の向こうから響いた。
「——おやおや、これはこれは。我らが‘神父様’じゃないか?」
どこか気怠げで、からかうような口調。
ロイはわずかに眉をひそめ、声の主へと目を向けた。
そこにいたのは、淡い茶色の長衣をまとった男だった。
無造作な髪、精悍とは言い難い顔立ち。だが、どこか狡猾な笑みを浮かべている。
背には長弓を背負い、腰にはいくつかの小さな符文石がぶら下がっている。
見たところ、狩人か、あるいは傭兵といった風貌だ。
「……カーン。」
ロイは淡々と名を呼び、わずかにため息をつく。
「そんなに冷たい反応しなくてもいいだろう? 俺はお前が魔道具屋に入るのを見かけて、わざわざ声をかけに来てやったんだぜ?」
カーンは軽く腕を組み、からかうように目を細める。
「どうした? 聖術が使えなくなったか? それとも魔法使いに転職でもするつもりか?」
「ただの買い物だ。」
ロイは淡々と返し、カーンの視線を真っ向から受け止めた。
「お前こそ、こんなところで何をしている?」
「何って、依頼を受けて、賞金魔獣を狩るさ。それで飯を食うのが俺の仕事だろ?」
カーンは肩をすくめると、ふと興味深げに問いかけた。
「それより、お前こそ最近やけに町にいるよな? まさか……誰かから逃げてるんじゃないか?」
ロイは沈黙し、表情を崩さずに彼を見つめる。
カーンは数秒間その視線を受け止め、そして、ふっと笑みを深めた。
「……ほう? どうやら図星か。」
「……言いたいことがあるなら、はっきり言え。」
「なら、言わせてもらうぜ。」
カーンは表情を引き締め、声を潜めた。
「昨夜、森で‘異変’が起こったらしい。」
ロイの瞳がわずかに細まる。
「異変?」
「ある狩人が、森の奥で奇妙な蒼い炎を見たって話だ。」
「魔法の暴走……あるいは、何か別の現象かもしれない。」
カーンはこめかみを指でトントンと叩きながら続ける。
「詳細は分からんが、この噂はもう広まってる。聖都の連中も、この件に興味を持ち始めている。」
——蒼い炎。
その言葉が脳裏をよぎり、ロイの思考が一瞬で深く沈んだ。
この炎は、ただの魔法現象ではない。
もし噂が本当なら、おそらくルティシアの呪いと関係している。
だが、あの呪いが発現したのは森の奥深くだ。
あの時、そこにいたのは二人だけ——誰にも目撃されるはずがなかった。
……なら、一体誰が見た?
ロイは視線を上げると、カーンがまだ気楽そうな態度を装いながらも、わずかに探るような眼差しを向けているのに気づいた。
「聖都の動きは?」
「今のところ、はっきりした行動はないが……すでに何人かの聖職者が森の調査を始めている。」
「もしこの件がさらに騒がれれば、いずれ上層部の耳にも届くだろう。」
「……」
事態は、思っていたよりも厄介になりつつある。
「なあ、お前……何か知ってるんじゃないか?」
カーンがふと問いかける。
その目がわずかに細められ、笑みの奥に探るような光が宿る。
「何しろ、お前は——‘謎めいた元聖職者’だからな。」
あくまで冗談めかした口調。だが、その裏にある意図は明白だった。
ロイは無表情のまま、静かにカーンを見つめる。
「俺も、今初めて聞いた話だ。」
「……そうか?」
「そいつは偶然だな。」
カーンは片眉を上げ、意味ありげに笑った。
だが、それ以上は追及せず、ひらひらと手を振りながら歩き出す。
「ま、どうでもいいさ。もし何か新しい情報が入ったら教えてくれよ。」
「俺だって、少しくらいは力になれるかもしれないぜ?」
ロイは答えず、その背中が人混みに消えていくのを黙って見送った。
——この男は軽薄そうに見えて、意外と情報通だ。
もし彼の耳にまでこの噂が入っているなら……すでに予想以上に拡散しているということ。
……急がなければ。
聖都が本格的に動き出せば、時間はもう残されていない。
ロイはマントを引き寄せ、足早に町の門へと向かう。
その歩調は、来た時よりも確実に速くなっていた。
——どうやら、この嵐は思ったよりも早く訪れそうだ。
西フォートスの街はすでに活気づいていた。
通りの両側にはさまざまな露店が立ち並び、焼きたてのパンの香ばしい匂いと金属を打つ音が入り混じる。
行き交う人々の喧騒が、この小さな町に生命を吹き込んでいた。
時折、冒険者らしき者たちが人混みの中を歩き、森の異変や未完の依頼について語り合っている。
そんな喧騒の中、一人の男が静かに歩を進めていた。
純白の聖衣をまとった男。
その歩調は落ち着いており、目立たないように振る舞っているが、この町の活気とはどこか不釣り合いだった。
短く整えられた金髪が微かに揺れ、眼鏡の奥の瞳は冷静に周囲を見渡している。
まるで、何かを確かめているように。
この町は、彼にとって一時的な滞在地にすぎない。
だが、ここで起こっている異変は、彼の想像以上に顕著だった。
魔素の残滓が、まだ空気の中に漂っている。
まるで不気味な残り火のように。
昨夜、森の端で感知した呪いの痕跡と、まったく同じものだ。
これは単なる偶然か? それとも……誰かが意図的に異変を引き起こしたのか?
彼は微かに眉をひそめ、魔素の波動を感じ取るように視線を走らせた。
——そして、視界の隅に、黒が映る。
黒い聖衣。
紋章や象徴となる装飾はなく、質素で実用性を重視した作り。
儀礼服ではなく、ただの布のようにシンプルなデザイン。
このような服を身につけた者は、聖都の外では滅多に見かけない。
彼の視線が、その姿に一瞬だけ留まる。
そして、頭の中で情報を整理し、関連する人物を探し出す。
——教会に追われる「異端者」。
——聖都の命令を拒み、流浪する「亡命者」。
おそらく、この男はその両方を兼ね備えている。
彼は帽子をわずかに引き下げ、鏡越しに相手の動きを観察した。
すると、ほぼ同時に——
黒衣の男の足が、わずかに止まる。
金色の瞳が、こちらをかすかに捉える。
——一瞬。
ふたりの視線が交差する。
白と黒の対比。
聖職者の気配が、空気の中で静かに絡み合う。
この一瞥は、ほんの一瞬だった。
だが、そこには無言の探り合いがあった。
黒衣の男の表情には、動揺も警戒もない。
意外でもなく、驚きもせず。
まるで、最初からその存在を知っていたかのように。
彼は視線をゆっくり逸らし、何事もなかったかのように足を進める。
——この冷静さ、ただの聖職者とは思えない。
白衣の男は、わずかに目を細める。
そして、彼に追いつくように数歩前に進み、すれ違いざまに低く呟いた。
「……この町で、その服装は目立つ。」
それは敵意ではなく、探るような問いかけでもなく。
ただの何気ない忠告のように、あるいは、相手の反応を試すための一言。
黒衣の男——ロイは、わずかに歩を緩めた。
銀灰色の瞳がかすかに横へ動き、白衣の男を一瞥する。
この目——
敵意はない。
しかし、細かく観察するような視線。
ロイは眉を寄せ、すぐには答えず、淡々とした口調で返す。
「……ここも、聖職者がいるには不似合いな場所だろう?」
言葉は曖昧だった。
反論とも、試すような問いかけとも取れる。
白衣の男は、それを聞くと微かに唇を持ち上げた。
「……確かに。」
穏やかな声色でそう返し、わずかに身を引いて道を譲る。
それ以上、追及はしなかった。
ロイは軽く頷き、そのまま歩を進め、人混みへと消えていった。
白衣の男は、その背中をしばらく見送っていたが、すぐに眼鏡を押し上げ、遠くを眺める。
そして、誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いた。
「……面白い男だ。」
視線を戻し、そのまま町の別の通りへと姿を消した。
この偶然のすれ違いは、何の意味もないただの邂逅かもしれない。
だが、彼には確信があった。
——これは、一度きりの出会いでは終わらない。
この黒衣の聖職者と、自分はまたどこかで出会うことになる。
なぜなら——彼の目的と、この町で起こっている異変は、無関係ではないはずだから。
ロイは町を離れながら、微風に吹かれた。
市場の喧騒は遠ざかり、代わりに静かな草原と低い森林が広がる。
そして、ふと先ほどの男のことを思い出す。
白衣の聖職者——
ただの偶然かもしれないが、妙な違和感があった。
彼は、普通の聖職者とは違う。
狂信的な信者でもなく、教会の高位聖職者のような権威もない。
むしろ、何かを探しているようだった。
そんな男が、この辺境の町にいること自体、不自然だ。
だが——
今は、それを考えている暇はない。
ロイは視線を手元へと移す。
魔道具店で購入した補給品、そして——
「魔素安定の護符」。
セランによれば、この護符は魔素の乱れを抑え、体内の魔力の流れを安定させる効果があるという。
ルティシアの呪いの発作にどこまで影響を与えられるかは分からない。
だが——少なくとも、試してみる価値はある。
何もしないよりは、ずっといい。
ロイが小屋に戻った時、空はすでに夕暮れに染まりつつあった。
森の端へと沈みかけた太陽の光が、枝葉の隙間からこぼれ、木の扉に金紅の影を落としている。
扉を開くと、懐かしい草木の香りが微かに漂い、
室内に残る温もりと、外気の冷たさとが対比を成していた。
ルティシアはまだベッドに座っていた。
枕にもたれかかり、銀白の髪が肩に無造作に落ちている。
どこか乱れたその姿は、普段よりも少しだけ柔らかく見えた。
扉の音に気づき、彼女が静かに視線を向ける。
「……戻ったの?」
声は微かに掠れており、まるで夢の中から覚めたばかりのようだった。
「……ああ。」
ロイは軽く扉を閉めると、持ち帰った物資を机に置き、袋から小さな護符を取り出して彼女のそばへと歩み寄った。
「……それは?」
ルティシアは護符を見つめ、わずかに眉を寄せる。
その視線には、何か疑念が滲んでいた。
「魔素安定の護符だ。」
ロイは淡々と答えた。
「試してみろ。もしかしたら、お前の呪いの発作を抑えられるかもしれない。」
彼女は一瞬黙り、やがて小さく鼻を鳴らす。
「……本当にしつこいわね。」
そう呟きながらも、ルティシアは護符へと手を伸ばし、指先でその冷たい水晶の表面をなぞる。
——この魔力の波動。
微かに聖術の余韻を感じさせる、不思議な感覚。
「……ありがとう。」
その声は限りなく小さく、まるで風に紛れて消えてしまいそうだった。
ロイは僅かに手を止め、それから静かに返す。
「気にするな。」
護符の光が一瞬だけ淡く揺らめき、そして静かに沈んでいく。
ルティシアはその輝きを見つめ、ゆっくりと指を握り込んだ。
指腹が護符の縁を優しく押し、冷えた水晶に体温が染み込んでいく。
「……効果があるかどうかは分からないけど、確かに、少し楽になった気がする。」
彼女の声は淡々としていたが、決して適当に言っているわけではなかった。
その変化を慎重に受け止めようとしている。
ロイは護符を彼女の掌の上にそっと乗せた。
「しばらく持っていろ。効果が続くか様子を見てみろ。」
彼の声音は相変わらず淡泊だったが、その裏にはわずかな気遣いが滲んでいた。
ルティシアはそれ以上何も言わず、視線を落としながら護符をそっと握る。
掌の熱が水晶へと伝わり、かすかに魔力が揺らめく。
彼女は、いまだにこの男を信用しきれてはいなかった。
だが、少なくとも——
この静寂のひとときだけは、胸を締めつけるような圧迫感が和らいでいた。
炉の中では、消えかけた残り火がかすかに赤く光る。
窓の外では、夜風が梢を揺らし、微かな囁きを響かせていた。
だが、この静けさは——
嵐が来る前の、束の間の安息にすぎないのかもしれない。