05.幽玄の青い炎
朝の微かな光が窓から差し込み、机の上で揺れるスープの碗を照らしていた。室内にはまだ淡い薬草の香りが漂い、暖炉に残る微かな炭の匂いと混ざり合い、静かで温かい雰囲気を作り出していた。
ロイは机のそばに立ち、手際よく簡単な朝食を準備していた。乾いたパン、煮込んだ野菜のスープ、そして小さな干し肉の一片。豪華とは言えないが、彼女の体力を少しでも回復させるには十分だった。
ベッドの上の少女がわずかに身じろぎし、銀白色のまつ毛が微かに震えた後、ゆっくりと瞳を開いた。
彼女の視線はまだぼんやりとしており、完全には覚醒していないようだった。自分が枕に寄りかかり、きちんと整えられた毛布をかけられていることに気づくと、その表情はわずかに強張った。昨夜の疲労はまだ体に残っていたが、少なくとも今は荒野に独り倒れているわけではなかった。
ロイは何も言わず、食事をベッドの傍らの小さな机に置いた。その動作は慣れたもので、まるでこうした世話が日常であるかのようだった。彼はわずかに身を翻し、彼女が手を動かせるかを確認すると、淡々とした口調で言った。
「食べろ。」
彼女の視線が朝食に留まり、何かを考えているようだった。「食事を与えられる」という事実について、どう反応すべきかを天秤にかけているのかもしれない。やがて、彼女は軽く首を傾げ、淡々とした口調で問いかけた。
「……まさか、あなたが作ったの?」
「どうした?」
「毒でも入ってるかと?」
「そこまではしない。」
彼女の唇がわずかに動いたが、その瞳は淡々としていた。
「ただ、あなたが料理できるとは思わなかっただけ。」
ロイは答えなかった。ただ、スプーンですくったスープの温度を確かめ、熱すぎないと判断すると、それを彼女の手の届く位置に差し出した。声の調子は変わらず冷静だった。
「時間を無駄にするな。さっさと食え。」
ルティシアは一瞬、動きを止めた。彼女はこの行動があまりにも自然すぎたことに戸惑ったのか、それともロイがこうした細やかな気遣いを見せたことに驚いたのか、自分でもわからなかった。
彼女は何も言わず、手を伸ばしてスプーンを受け取ろうとした。しかし、その指先がスプーンに触れた瞬間、微かに震え、力が入らず、スプーンが指の間から滑り落ちそうになった。
だが、次の瞬間——
ロイの手が伸び、しっかりと彼女の手首を支えた。
「……まだ手に力が戻ってない。無理をするな。」
彼の声は淡々としており、慰めるわけでも、急かすわけでもなかった。その手の力は軽く、しかし確かに支えていた。そして、彼女がしっかりスプーンを握れるのを確認すると、ゆっくりと手を離した。
ルティシアの指先がわずかに縮こまり、まるでこの関心に慣れていないかのようだった。
彼女は視線を落とし、自分の手を見つめた。しかし、何も言わず、ただ唇を噛みしめた。
彼女はスプーンですくったスープをそっと吹き、口に運んだ。
静寂が訪れる。
「……まあ、食べられなくはないわね。」
彼女はぼそりと言った。その声は、まるで何かの評価を下すように平坦だった。
ロイは彼女を一瞥した。
「それを強調する必要はない。」
ルティシアの眉がわずかに動いたが、返事はしなかった。ただ、ゆっくりとスープの中の野菜を口に運び続けた。彼女の動作にはまだぎこちなさがあったが、昨夜の虚弱な状態に比べれば、確実に回復していた。
ロイは何も言わず、ただ静かにベッドの横の椅子に腰掛けた。余計な音を立てることなく、ただ彼女が食べ終わるのを待つ。
この沈黙に、ルティシアは少し戸惑った。
彼女は時折視線を上げ、そっとロイの横顔を盗み見た。彼はいつものように冷静で、焦る様子も、面倒そうな素振りもなかった。まるで当然のことのように、ただここにいて、彼女が食事を終えるのを待っていた。
彼女は少し考え込んだ——。
本来ならば、彼の行動はただの「責任感」からくるもののはずだ。だが、彼の態度はそれよりも……どこか、温かいものを含んでいるように感じられた。
静かな時間がゆっくりと流れる。
やがて、ルティシアはスプーンを置き、窓の外に昇る朝日を眺めながら、ぼんやりと呟いた。
「……妙な感じ。」
「何が?」
「……なんでもない。」
彼女は小さく首を振り、それ以上の言葉を口にしなかった。
ロイは深く追及しなかった。ただ、静かに彼女の横顔を見つめていた。
ルティシアは伏し目がちに、指先でスープ碗の縁をなぞった。まるで何かを考え込んでいるようだった。その仕草は些細なものだったが、ロイの目には違和感として映った。
彼女の口調は淡々としていた。まるで、何かを誤魔化すように——あるいは、自分でも言葉にする方法がわからないかのように。
ロイは何も言わず、それを深く追及することもしなかった。ただ、彼女が再び食事を進めるのを待っていた。
しかし、彼の心には一つの考えが浮かんでいた。
——彼女は、このような「気遣い」に慣れていないのだ。
この沈黙は、単なる会話の途切れではなく、彼女にとってあまりにも「異質」なものだったのかもしれない。
それは、彼女の過去がそうさせたのか——それとも、彼女自身が世界と距離を置いてきたからなのか。
ルティシアは静かに朝食を口に運んでいた。
手の動きはまだぎこちなかったが、少なくとも先ほどのような震えはなくなっていた。
俺はそれ以上何も言わず、ただベッドの傍らの椅子に腰を下ろし、彼女の一挙一動を黙って観察していた。
彼女の顔色は昨夜より幾分か良くなっていたが、それでもまだ病的なほどに蒼白かった。
食事の仕方もどこか慎重で、まるで音を立てないようにしているかのようだった。
スプーンを置くときさえも、力加減を調整し、大きな音が出ないようにしている。
それは、本能的な行動——俺は、こういう仕草をする人間を以前にも見たことがある。
闇の中で生き延びる者たちは、常に自分の存在をできる限り薄めようとする。
誰の目にも留まらなければ、危険も厄介ごとも避けられると信じているかのように。
こうした習慣は、長く不安定な環境で生きてきた者だけが身につけるものだ。
そして——ルティシアもまた、そういう人間なのだろう。
「……彼女は一体、どんな過去を生きてきたのか?」
そんな疑問が頭をよぎるが、俺は問いかけることはしなかった。
彼女にはそれを話す義務はないし、俺にもそれを知る権利はない。
「……そんなにじっと見て、毒でも仕込まれてないか確かめたいわけ?」
ふいに彼女が口を開いた。
淡々とした口調だったが、俺の視線に気づいていたことは明らかだった。
俺はわずかに眉をひそめ、淡々と答える。
「もし本当に毒が入っていたなら、それは俺の腕が悪かったということだな。」
彼女は笑わなかった。
ただ、わずかに唇を引き結び、じっと俺を見つめたまま、俺の言葉の真意を測るように視線を向ける。
「つまり、本気で毒を盛るなら、決して失敗しない……そういう意味?」
「少なくとも、こんな稚拙な方法は使わない。」
その言葉に、彼女は少し眉を上げた。
予想外の返答だったのかもしれない。
しばらく俺を見つめた後、彼女はゆっくりと視線を戻し、再び食事を続けた。
それ以上の言葉はなかった。
室内には、短い沈黙が訪れた。
——この沈黙が心地よいものであるなら、それは互いに存在を受け入れている証拠だ。
だが、ルティシアの沈黙は、そうではなかった。
彼女は考えている。
俺のことを——それとも、自分自身のことを?
あるいは……俺たちの間にある、この奇妙な距離を?
しばらくして、彼女は食器を置き、静かにため息をついた。
そしてゆっくりと俺のほうを向き、問いかける。
「あなたがこうして私を世話するのは……何かの信仰によるもの?」
「信仰?」
俺は小さく笑った。
その声には、何の温度もなかった。
「言ったはずだ。俺はもう聖職者じゃない。」
「……でも、あなたの行動はそうは見えない。」
彼女は静かに言った。
銀白の瞳が、窓から差し込む光を映し込んでいる。
「あなたは私を助け、傷の手当てをして、この場所に留まらせてくれた……そんなこと、冷たい人間なら絶対にしないはず。」
「それで?」俺は淡々とした口調で返す。「何が言いたい?」
彼女は答えず、机の上の聖典に視線を落とした。
まるで何かを確かめるように。
「あなたは……本当に、その神を信じているの?」
その声は軽やかだった。
まるで何気ない質問のように。
だが、そこにはかすかに隠された感情があった。
彼女の言葉に、俺の指がわずかに止まる。
——信じているのか?
数年前ならば、俺は迷いなく「はい」と答えただろう。
だが今は——
「……分からない。」
ルティシアが軽く眉を上げる。
俺がそんな答えを返すとは思っていなかったのだろう。
「もし、お前が“聖光”の存在を信じているのかと聞いているのなら……答えは変わらない。」
「だが、教会の神を信じているのかと問うなら——」
俺は一瞬言葉を切り、静かに続けた。
「……“神”は、俺の問いに一度も答えたことはない。」
彼女は静かに俺を見つめていた。
銀色の瞳が、かすかに揺れたように見えた。
その言葉の意味を、噛みしめるように。
再び沈黙が訪れた。
だが先ほどのそれよりも、ずっと重たい沈黙だった。
しばらくして、ルティシアが再び口を開く。
その声は、ひどく冷静だった。
「……じゃあ、あなたが私を助けた理由は?」
「お前はどう思う?」
俺は淡々と返した。
彼女は即答せず、じっと俺を見つめる。
まるで俺の表情の中に、自分の考えを裏付ける証拠を探すかのように。
「……私はただ、あなたが私をどう見ているのか知りたいだけ。」
彼女の声には、先ほどのような皮肉めいた響きはなかった。
警戒も薄れていた。
ただ、純粋な探求心だけが滲んでいた。
俺は彼女を見つめ、しばらく黙った後、ようやく口を開いた。
「お前の過去も、呪いが何を意味するのかも……俺には分からない。」
「だが——」
「お前は、まだ生きている。」
彼女は目を見開いた。
まるで、その言葉に驚かされたかのように。
「俺は信仰や道徳で人の価値を測るつもりはない。
お前が誰であろうと、どこから来ようと……それは関係ない。」
「だが、生きている限り、何ができるかを考えるべきだ。
ただ……その呪いに囚われ続けるのではなく。」
ルティシアは何も言わなかった。
ただ、静かに俺を見つめていた。
その瞳の奥には、何かを探るような光があった。
理解しようとする気持ちと、迷い——そして、ほんの少しの動揺が混ざった視線。
彼女の指先がわずかに動く。
無意識の反応のように。
やがて、彼女は小さく息をついた。
「……変わった聖職者ね。」
俺は何も言わず、ただ食器を片付けた。
ルティシアはまだ俺を見ていた。
何かを考え込むように。
だが、それ以上言葉を発することはなかった。
自分が本当に知りたい答えが何なのか——
彼女自身、まだ分かっていないのかもしれない。
窓の外では陽光が強くなり、霧が静かに晴れていく。
この短い会話が、彼女の考えを変えることはないかもしれない。
だが、少なくとも——彼女の心には、一つの揺らぎが生まれた。
部屋の奥に落ちる影が徐々に後退し、机の上の聖典が淡い陽光を浴びていた。
空気には、暖炉の残り火と薬草が混ざった微かな香りがまだ漂っている。
ルティシアはすでに目を覚ましていたが、静かにベッドに留まっていた。
完全に体力が戻っていないのか、それとも単に動く気がしないのか——彼女の表情からは、そのどちらなのかは読み取れなかった。
ロイは昨夜使った道具を片付けると、彼女のほうへと視線を向けた。
「今日は町へ行く。」
ルティシアはわずかに顔を上げ、ちらりとこちらを見たあと、首を軽く傾げた。
淡々とした口調で問いかける。
「……物資の調達?」
「一部はな。」
ロイは落ち着いた声で答えながら、机の上に置いていた革の小袋を腰に結びつける。
「ついでに、少し情報を集める。」
「呪いについて?」
ルティシアはゆっくりと瞬きをした。
その声には、特に感情の起伏は感じられない。
「呪いだけじゃない。」
ロイは淡々と答えた。
この小さな町でどれほど有益な手がかりを見つけられるかは分からない。
だが、何もしなければ何も得られない。
ルティシアは一瞬沈黙した後、小さく息を吐き、くすりと笑う。
「……やっぱり、あなたって変な人。」
ロイは何も言わず、壁に掛けられた外套を手に取った。
扉を開けると、冷えた朝の風が吹き込み、木々の葉が揺れる微かなざわめきを運んできた。
「ここで休んでいろ。勝手に出歩くな。」
そう言い残し、ロイは静かに屋敷を後にした。
西フォートスは森の端に位置する小さな町だ。
大都市ほど賑わってはいないが、いくつかの交易路が交差する要所にあるため、市場はそれなりに活気がある。
石畳の道が続き、両脇には木造の建物が立ち並ぶ。
赤褐色の屋根瓦は朝陽を浴び、柔らかな光を反射している。
町を包む朝霧はまだ完全には晴れず、通りを薄く覆っていて、幻想的な静けさを醸し出していた。
通りには徐々に商人たちの掛け声が響き始める。
荷馬車を広場の端に停め、新鮮な果物や野菜、保存食、布地などを荷箱から取り出す者。
酒場の前には、届けられたばかりの木樽が積まれており、麦酒の芳醇な香りが漂う。
それに混じって、焼きたてのパンと燻製肉の香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
ロイは町の一角にある小さな酒場へと足を踏み入れた。
情報を集めるには、こうした場所が手っ取り早い。
朝とはいえ、中にはすでに旅人や傭兵たちが数人座っていた。
彼らは簡単なスープや麦酒を手にしながら、静かに朝の時間を過ごしている。
木製の床は長年の使用で古びていたが、それでも一定の清潔さは保たれていた。
壁には色褪せた狩猟の戦利品がいくつか掛けられており、店の主人がかつて狩人だったことを物語っている。
ロイは奥の席に腰を下ろし、淡い湯気の立つ薄い茶を一杯注文した。
そして、静かに周囲を観察する。
「へえ、新顔か。」
無精ひげを生やした中年の男が近づいてきた。
視線をロイの長衣と腰に吊るした革袋に留め、興味深そうに言う。
「見たところ……ただの旅人って感じじゃねえな。」
ロイは無言のまま、男を一瞥するだけだった。
そして、茶を手に取り、黙って口に運ぶ。
「見た感じ、聖職者か?」
男は気にする様子もなく、続けた。
その言葉には、どこか探るような色が混じっている。
「巡礼か? それとも聖都の騎士団関係か? ……だが、聖都の神父たちはもっと豪華な法衣を着てるもんだ。お前の服は、ずいぶんと質素だな。」
ロイの装いは、確かに神職者のものではある。
しかし、聖都の神父たちのような華美な装飾はなく、むしろ実用的で、巡礼の聖徒や辺境の修道士が身につけるものに近かった。
それが男の疑念を引き起こしたのかもしれない。
「ただの通りすがりだ。」
ロイは淡々と答え、茶の杯を置いた。
それ以上、自分のことを語るつもりはない。
男はしばらくロイを眺め、やがて肩をすくめると、にやりと笑った。
「こんなご時世に『たまたま通りがかった』なんて言い訳、信じる奴は少ねえさ。」
言葉を切ると、懐から取り出した酒壺を傾け、自分の杯へと酒を注ぐ。
そして、声を低くし、静かに続けた。
「だが、俺も詮索はしねえ。こんな場所じゃ、知りすぎるのは命取りになることもある。」
男は一口、酒を喉に流し込んでから、ふとロイを見やる。
「……お前、何か探してるんじゃないか?」
ロイはその言葉に、ゆっくりと視線を上げた。
「何を指してる?」
「この町は観光地じゃねえ。ここに来る奴は、大抵——何かから逃げるか、何かを探しに来るかのどっちかだ。」
男は酒をひと口含み、声をさらに低めた。
「もし、人を探してるとか、妙な話を嗅ぎ回ってるんなら——ちょうどいい話がある。」
ロイは無言のまま、男の言葉を待った。
「最近、森の奥で妙なことが起こってる。」
「妙なこと?」
男は、ふうっと息をつきながら続ける。
「数日前、何人かの奴が森の奥で『青い炎』を見たって話してた。
それも、消えたり灯ったり……まるで何かが呼吸しているような、不気味な光だったらしい。」
ロイは、わずかに指先を動かす。
「……それだけか?」
男は苦笑し、酒をもう一口飲んだ。
「それだけなら、ただの怪談話で済んだろうさ。」
言葉を区切り、男の表情がわずかに険しくなる。
「だがな、そいつらが言うには……
あの場所では『音がする』らしい。」
「音?」
「低い囁き声、だとか?」
男はゆっくりと首を振った。
「……いや。違うんだ。」
一瞬、彼は肩をすくめ、酒を口に運んだが、そこで動きを止めた。
表情が少し強張っている。
「……あれはな、囁きじゃない。」
男は、小さく息を飲んだ。
「まるで……何かがじっとこっちを『見ている』ような感覚だ。
それが、頭の奥に直接響いてくるんだとさ。」
ロイはしばし黙考し、やがて静かに頷いた。
「……なるほど。」
男は一息つくと、ロイの肩を軽く叩いた。
「もし森に行くつもりなら、気をつけな。
何があろうと、知らないほうがいいことってのもある。」
ロイはそれには答えず、ただ再び茶に口をつけた。
同じ頃——昨夜、ルティシアが意識を失い倒れていた場所に、一人の男が静かに佇んでいた。
彼は純白の聖衣を纏い、静かに地面を見下ろす。
指先が枯れ草と土をそっとなぞり、そこに残る魔素の波動を感じ取る。
昨夜の気配はまだ完全には消えていない。
空気の中に微かに残り、異質な呪いの痕跡となって漂っていた。
彼はわずかに眉をひそめる。
銀白の髪が微風に揺れ、細長い肩にふわりと落ちた。
「……これはただの黒魔法ではない。」
低く、落ち着いた声が静寂の中に溶け込む。
そこには、一抹の疑念が滲んでいた。
「むしろ……血に刻まれた呪いの類か。」
彼の掌がゆっくりと地に触れる。
残留する魔力の波動を感じ取りながら、さらに深く眉を寄せた。
この呪いを、彼は知らないわけではなかった。
むしろ——かつて、ある禁忌の記録の中で、酷似した痕跡を目にしたことがある。
「暗裔族……。」
かすかに呟く。
その声音には、思索を巡らせる気配があった。
「だが……今も生き残っているはずはない。」
白き聖衣を纏った男は、静かに呪いの痕跡を見つめる。
再び手を地に当て、残された魔素の名残を探る。
これは単なる黒魔法ではない——
それどころか、「血脈」に深く刻まれた呪い。
そして、それは彼が読んだ"封じられた禁忌の記録"と符合していた。
彼は再び視線を上げ、森の向こうを見つめる。
そこには——人間の集落。
もしこの異変が、「生き残った暗裔族」と関係しているのなら——
もはや、答えはこの森の中にはない。
何者かが、この呪いを宿したまま、すでに人の町へと流れ込んでいる。
彼は立ち上がり、微かに翻る白い外套。
金色の短髪が、風に揺れた。
「……町へ行ってみるべきか。」
微風が草葉を揺らし、朝の陽光が木々の隙間から差し込む。
——次の瞬間、白き姿は風のように消え去った。
まるで、最初からそこに存在していなかったかのように。