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流亡した聖職者と捨てられた少女  作者: 藹仁
堕落した聖職者と呪われた少女
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04. 呪いの本質

 朝の光が窓の隙間から差し込み、木の床に淡い光の輪郭を落とす。


 昨夜の暖炉の残り火と混じり合いながら、部屋に残っていた最後の冷気を静かに追い払っていく。


 私は窓辺に立ち、吹き込む冷たい風を感じながら、無意識に指先で袖口をなぞった。


 視線は、銀白の影へと向かう。


 ——ルティシアが目を覚ましていた。


 枕に寄りかかるように上体を起こし、乱れた銀白の髪が光を受けて揺れる。


 その瞳は、朝の光の中で複雑な感情を反射していた。


 彼女の体はまだ完全には回復していない。


 だが、昨夜よりは確実に動けるようになっていた。


 ——少なくとも、こうして座ることができる。


 彼女の視線がゆっくりと部屋の中を一巡する。


 そして最後に、私へと向けられた。


 銀白の睫毛が微かに揺れる。


 何かを考えているような表情。


「……まだ聞いてなかったわよね?」


 かすれた声。


 目覚めたばかりの喉の渇きが、その言葉にわずかな掠れを含ませる。


 私は顔を傾け、静かに視線を向けた。


「何をだ?」


「——あんたが、私をどうするつもりなのか。」

 彼女はそっと指先を動かし、包帯の巻かれた腕に視線を落とす。


 そして、どこか淡い皮肉を含んだ声音で言った。


「……あんた、私を助けて、ここに置いて、挙げ句の果てに傷の手当までして……でも、まさか『たまたま通りかかった』だけってわけじゃないでしょう?」


 その口調は、試すようでもあり、今の状況を受け入れるための整理をしているようでもあった。


「傷はもう包帯を巻いた。動けるようになったら、あとは好きにすればいい。」


 私は、静かにそう答える。


 彼女の眉がかすかに寄る。


 まるで、その言葉が意外だったかのように。


「……それだけ?」


「それだけだ。」


「お前には、ここに留まる理由はないし、俺にもお前を引き留める義務はない。」


 私は淡々と告げながら、机へと向かい、昨夜のままになっていた薬碗を手に取る。


 ルティシアはしばらく黙ったまま、静かにこちらを見つめる。


 銀白の瞳に、一瞬だけ読めない感情が揺れた。


 彼女は私の言葉の真意を測るように、あるいは、俺という存在を測るように。


 そして、数秒の沈黙の後——


 彼女は、微かに嗤った。


「……ふっ。てっきり、引き止めるかと思った。」


 わずかに首を傾げ、どこか妙な響きを含んだ口調で続ける。


「ここから一番近い町まで、そう簡単に行ける距離じゃない。……それに、私の状態を見れば分かるでしょ?」


「お前がどこへ行こうが、俺には関係ない。」


 私は薬碗を机に戻しながら、淡々と答えた。


「今の状態で、次にどうするか考えられるなら、もう俺の知ったことじゃない。」


 彼女は数秒、まばたきをして、私の言葉の真偽を確かめるように視線を向けた。


 そして、少しだけ首を傾げ、口元に微かな笑みを浮かべる。


「……冷たいね。」


 私は何も言わず、再び短い沈黙が落ちた。


 しかし、その静寂を破ったのは、彼女の言葉だった。


「もし今、私がここを出るって言ったら?」


「止めない。」


「でも、おすすめはしない。」


「もし無理に立ち上がって、扉を出た瞬間に倒れたら?」


「その時は、自分で這い戻ってくれ。」

 ルティシアはわずかに目を見開いた。


 私の言葉に驚いたようだったが、すぐに微かに笑みを浮かべた。


「……あんたって、ほんと面白い人ね。」


 彼女は軽く首を振る。


 その声が本心からの評価なのか、それとも皮肉なのかは分からない。


「聖職者って……いや、元・聖職者か。」


 彼女はわずかに言い直し、続ける。


「どいつもこいつも、口では慈悲を語りながら、その手は血まみれってイメージだったけど?」


「もう少し違う表現にしてくれ。」


「ふふ……でもさ、本当に『余計なことには関わりたくない』って思ってるなら——」


 彼女は少し眉を上げ、どこか楽しげな口調で言った。


「森に放っておくか、とっとと殺していたはずよね?」


 私は何も答えず、ただ静かに彼女を見つめた。


 彼女もそれ以上は追及しなかった。


 目を伏せ、包帯を巻かれた指先を見つめながら、布の端をゆっくりと撫でる。


「……本当に、私のことを知りたくないの?」


 彼女の声は低く、試すような響きもなく、ただ純粋な疑問のように聞こえた。


「話したいなら聞こう。」


「話したくないなら、無理に聞くつもりはない。」


 私が淡々とそう返すと、彼女は一瞬だけ沈黙した。


 そして、ゆっくりと腕を持ち上げる。


 袖を少し引き上げると、そこには黒く這う紋様が浮かんでいた。


「この呪い……私が生まれた時から、ずっとあった。」


 彼女はそう低く告げた。


 銀白の瞳は冷静に見えたが、どこか不自然なほど感情が削ぎ落とされていた。


 まるで、それが当たり前であるかのように。


「誰かにかけられたものじゃない。最初から、私の一部だった。」


 ——これは、普通の呪いではない。


 私はすでに気づいていた。


 昨夜、聖術を試みたとき、その光は呪いを払うどころか、むしろ呑み込まれた。


「つまり、その呪いは……お前の血に刻まれたものか?」


 私が静かに問いかけると、彼女は微かに眉をひそめる。


 考えるように、自分の腕の黒紋をじっと見つめ——


 そして、ゆっくりと口を開いた。


「……『暗裔族』って知ってる?」


 それは、まるで何気ない問いかけのように聞こえた。


 だが、その声には、確かに試すような色が混ざっていた。


 私はわずかに眉を寄せる。


 言葉にはしなかったが、それ自体が答えだった。


 彼女は、それを見逃さなかった。


 口元にわずかに笑みを浮かべるが、声は漏らさない。


 その目には、どこか冷たい諦観と、微かな皮肉が混じっていた。


「……やっぱり、知ってるのね。」

「この呪い……生まれた時から、すでにあったの。」


 彼女の声は淡々としていた。


 まるで、どうでもいい事実を語るかのように。


「誰かにかけられたものじゃない。……最初から、私の一部だった。」


「暗裔族は、生まれながらにこの呪いを背負うのよ。」


 微かに口角を上げるが、そこに笑みの色はなかった。


「生まれたばかりの子どもも、墓に足を踏み入れようとしている老人も——」


「この呪いは、決して消えない。」


「払うことも、浄化することも、できない。」


 私は彼女の腕に目を向けた。


 そこに刻まれた黒い紋様。


 ——これは、ただの侵蝕ではない。


 それは、束縛だった。


 私は、かつて黒魔法に蝕まれた者を見たことがある。


 その者たちは、生気を奪われ、魂を喰われるようにして死へと堕ちていった。


 しかし、彼女は違う。


 この呪いは広がることもなければ、消えもしない。


 まるで、彼女を**「生と死の狭間」**に閉じ込めるかのように。


 それは、「奪う」呪いではない。


 それは、「囚える」呪いだった。


「……そして、夜になると、目を覚ます。」


 彼女は静かに付け加えた。


「夜に……?」


 私は彼女の瞳を見つめる。


「つまり、これは単なる黒魔法ではなく……何かを縛る契約のようなものか?」


 そう問いかけると、彼女はわずかに瞳を揺らした。


「……契約、ね。」


 ルティシアは、呟くようにその言葉を繰り返した。


 銀白の瞳が、光の揺らぎを映しながら細かく揺れる。


 まるで、その意味を噛みしめるかのように。


「……そうかもしれない。」


 その声は、どこか遠い。


 まるで、過去の何かを思い出すように。


 だが——


 彼女の声の奥には、別の感情が隠されていた。


 夜が来れば、この呪いは目を覚ます。


 これは、ただの枷ではない。


 それはまるで、魂を囚え続ける鎖。

「時間が経つにつれて、この紋様は次第に濃くなっていく。範囲も広がる……」


 彼女は、まるで他人事のように静かに語る。


「でも、不思議なのは——それがすぐに命を奪うわけじゃないってこと。」


「私はずっと、この……縛られたような状態のまま、ただ生かされてる。」


 彼女の声には、死への恐れも、生への執着も感じられなかった。


 ただ、淡々と事実を述べているだけ。


「……教会もどうにもできなかったのか?」


 私がそう尋ねると、ルティシアは小さく嗤った。


「教会?」


 乾いた声音。


「あいつらは『神の呪いだ』って言って、私を焼こうとしただけよ。」


 その言葉に、私は短い沈黙を落とす。


 ——確かに、あり得る話だ。


 教会にとって、「呪い」の本質は関係ない。


 彼らにとって重要なのは、それが「教義に反しているかどうか」だ。


 詛われた存在は「異端」として裁かれ、問答無用で処分される。


 そこに真実はない。ただ、決められた罰があるだけだ。


 もし、彼女の話が事実ならば——


 この呪いは、誰かの悪意によるものではなく、彼女の血に刻まれた運命そのものだということになる。


 生まれた瞬間から、逃れることのできない枷。


 どこへ行こうと、何をしようと、それは決して消えない。


 ——それは、教会の裁きよりも遥かに残酷だった。


「……お前は?」


 ルティシアが不意に私を見上げる。


 銀白の瞳が、微かな光を映しながら、まっすぐに私を見つめていた。


「お前は聖職者——いや、元・聖職者だろ?」


「お前の聖術でも、この呪いは祓えないの?」


 私は視線を落とす。


 掌をゆっくりとこすりながら、昨夜のことを思い返す。


 ——聖術は、この呪いに通じなかった。


 光の力は、「闇を祓う」もののはずだった。


 だが、それは祓われるどころか、呑み込まれた。


 それは、ただの黒魔法ではない。


 それは、もっと深い「何か」。


「……試したが、駄目だった。」


 私は静かにそう答える。

 ルティシアは、特に驚いた様子もなく、ただゆっくりと首を傾げた。


 まるで、何かを確認するように。


「……そう。」


 彼女は小さく呟く。


 その表情は、**「やっぱりね」**と言わんばかりに淡々としていた。


 最初から期待などしていなかったのだろう。


 まるで、**「知っていた答えを再確認しただけ」**のように——


 私は彼女を見つめながら、ある確信を深める。


 ——この呪いは、単なる「枷」ではない。


 それは、もっと深く根付いた「何か」。


 そして、彼女は、そのことを知っている。


 ただ、口に出そうとしないだけ。

 沈黙が部屋を包み込む。


 暖炉の残り火が、時折**パチ……**と微かな音を立てる。


 静寂の隙間を埋めるように、ゆっくりと燃え尽きていく音。


 ルティシアはうつむいたまま、指先で黒い紋様をなぞる。


 無意識の仕草なのだろう。


 まるで、それがあまりにも「当たり前」になってしまったかのように。


 彼女の瞳は銀白の光を宿しながらも、どこか翳りを帯びていた。


「……何を考えている?」


 私は、静かに問いかける。


 彼女の本音を引き出そうとするように。


 ルティシアは、すぐには答えなかった。


 長い睫毛がゆっくりと瞬く。


 やがて、微かに首を傾げ、何気ない口調で言った。


「……あんた、どうしてそんなにこの呪いにこだわるの?」


 私は眉を寄せるが、すぐには答えない。


 彼女は、小さく笑った。


「もう、結論は出てるでしょう?」


「この呪いは祓えない。ただの黒魔法じゃない。生まれつき私の中にあって、夜になると活性化する……」


「——それが『答え』じゃない?」


 彼女の声は淡々としていた。


 まるで、どうでもいいことを話しているかのように。


 だが、その瞳は、そうは言っていなかった。


 そこにあるのは、諦念。


「……もし、この呪いが解けないとしたら?」


 彼女は、呟くように続ける。


 それは、問いかけではなく、運命の確認のような言葉だった。


「もし、これが『運命』なら……私は、何を選べばいいの?」


「選択肢なんて、最初からなかったのかもしれない。」


 私は視線を落とす。


 彼女の腕に刻まれた黒紋を見つめながら、思考を巡らせる。


 これは、ただの呪いじゃない。


 これは、もっと根深い**「契約」**のようなものだ。


 いや、それよりも——


 これは、まるで「牢獄」だ。


 彼女の存在そのものを、閉じ込めるための檻。


 肉体だけではなく、魂までも縛る鎖。


 夜が来るたびに目覚めるその呪いは、ただの侵蝕ではなく、


「暗裔族」という存在そのものを封じるための何か——


 そう考えるのが、最も理に適っているように思えた。

「……本当に、これは変えられない運命だと思っているのか?」


 私は静かに問いかける。


 視線は、彼女の腕に刻まれた黒い紋様から離さなかった。


「それとも……また失望するのが怖いだけか?」


 ルティシアの動きが、僅かに止まる。


 まるで、意表を突かれたかのように。


 長い睫毛が微かに震えた後、彼女は小さく笑った。


「……あんた、ずいぶんと言葉が巧いのね。」


「ただの事実を言っただけだ。」


 彼女は返事をしなかった。


 だが、彼女の銀白の瞳は、どこか沈むように揺れた。


 ——彼女は、本当に「諦めている」のか?


 いいや、違う。


 彼女はただ、期待することに疲れ果てたのだ。


 何度も、何度も、「変えられない」という現実を突きつけられ、


 希望を抱くことさえ、意味のないことだと思うようになった。


 彼女の言葉には、悟った者の達観はない。


 あるのは、「麻痺」だ。


 その呪いのように、ゆっくりと、確実に、彼女の心を蝕んできたもの。


 だからこそ——


「……もし、変える方法があるとしたら?」


 私は、あえてそう言葉を投げかける。


 ルティシアの目が、僅かに揺れた。


「……?」


 明らかに、予想していなかった言葉だった。


「そんなこと、どうして思うの?」


 彼女の声には、戸惑いが混じる。


「この呪いの本質すら分かっていないのに。」


「だが、知っている。」


「この世に、完全に不可逆なものなど存在しない。」


「誰も解けない呪い? それは『誰も解こうとしなかった』か、まだ『解き方を見つけられていない』だけの話だ。」


 ルティシアは一瞬、言葉を失った。


 そして——


「……あんた、本当に頑固で呆れるわね。」

 彼女は軽くため息をついた。その声には、言葉にしがたい感情が滲んでいた。

「でも、まあいいわ。これは私のものよ。この呪いが解けるかどうかなんて、あんたには関係ないでしょう。」


「いや、もう俺に関係のある話になった。」


「俺が助けたんだ。お前は生きている。なら、ただ死を待つべきじゃない。」


 ルティシアは何も言わなかった。


 ただ、静かにこちらを見つめていた。


 視線が交わる。


 銀白の瞳の奥に、複雑な感情が揺れていた。


 ——何か、言葉にできない思考が渦巻いている。


「……好きに考えなさい。」


 しばらくの沈黙の後、彼女は低く呟いた。


 そして、ゆっくりと視線を逸らす。


 もう、こちらを見ようとはしなかった。


 彼女は否定もしなかったが、肯定するわけでもなかった。


 ただ、じっと座ったまま、何かを考え込んでいるようだった。


 何かを天秤にかけているように。


 だが、最終的には、何も言わないままだった。


 短い静寂が落ちる。


 やがて、彼女は再びこちらを見る。


 銀白の瞳がわずかに光を映しながら、どこか測りかねるような感情を湛えていた。


 私は特に言葉を返さず、ただ視線を外すと、静かに立ち上がった。


 机の上に残されていた昨夜の薬碗を手に取り、外へと向かう準備をする。


 一歩踏み出した瞬間、彼女の視線がまだこちらに注がれていることに気づいた。


 微動だにせず、じっとこちらを見つめている。


 何かを考えているのかもしれない。


 だが、彼女は何も言わなかった。


 そして、私も足を止めなかった。


 ——この呪いの真実を、突き止めなければならない。


 それが、彼女のためなのか。


 それとも、自分自身のためなのか。


 屋外の朝霧はまだ完全には晴れず、微かな冷気が、わずかに開いた窓の隙間から室内へと流れ込んでいた。


 暖炉の残り火はとうに消え、陽光だけが淡い温もりを落としている。


 木製の椅子と机が静かに光を受け、部屋は静寂と孤独に包まれていた。


 ロイは薬碗を静かに木桶へ沈めた。


 指先が冷たい水に触れるが、その冷たさは彼の思考を止めることはなかった。


 ルティシアの言葉が、まだ頭の中にこだましている。


 暗裔族の血。


 生まれつき刻まれた呪い。


 ——それは、単なる黒魔法ではない。


 それは魂に刻み込まれた枷。


 もし彼女の言葉が真実なら、この呪いは術士が仕掛けたものではない。


 もっと根源的な、逃れようのない運命なのかもしれない。


 ——だが、運命は本当に抗えないものなのか?


 ロイはゆっくりと手を握る。


 昨夜の聖術の異変を思い出す。


 光の力は、闇を祓うはずだった。


 だが——


 彼女の呪いには、何の影響も与えなかった。


 それどころか、まるで「光と闇」が相反するものですらないかのように、光はただ呑み込まれた。


 この呪いは、一体何なのか?


 水面が静かに揺れる。


 ロイの指先が微かに震えた、そのとき——


 ギィ……


 室内に微かな音が響いた。


 椅子の脚が床を擦る、かすかな摩擦音。


 ロイが振り返ると、ルティシアが身を起こそうとしていた。


 銀白の髪が微かに乱れ、蒼白な指が額を押さえている。


 完全には回復していないものの、


 朝よりも確かに、動きがスムーズになっていた。


 今は、まだ分からない。


「……妳はもう少し休んだほうがいい。」


 ロイは淡々と告げた。


 その声には、強制する響きもなければ、優しさもなかった。


 ただ、事実としての言葉。


 ルティシアは何も言わず、ゆっくりと手首を回す。


 まるで、体の状態を確かめるように。


 彼女の視線が、自身の腕へと落ちる。


 黒い紋様は依然として肌に刻まれているが、少なくとも昨夜よりも広がってはいなかった。


 しばらくの沈黙のあと——


 ルティシアはゆっくりと視線を上げた。


 ロイを見つめる。


 その瞳は深く、何かを測るような色を帯びていた。


 だが、言葉を急ぐことはしなかった。


 そして——


「……あんた、本当にこの呪いをそんなに気にしてるの?」


 静かに、問いかける。


 その口調は淡々としていた。


 だが、先ほどまでの冷たさとは違う。


 そこには、確かな疑問が含まれていた。


 ロイはすぐには答えなかった。


 ただ、彼女の瞳をまっすぐに見つめる。


 そして、数秒の沈黙の後——


「これは、お前だけの問題じゃない。」


 低く、静かな声が落ちた。


 ルティシアの瞳が、わずかに揺れる。


「……?」


「この呪いは、誰の身にもあってはならない。」


 彼の声には、妙な確信があった。


「もし、本当に解けないものだとしても——」


「ならば、それには理由があるはずだ。」


 彼の目は揺らがない。


 ロイは、「運命」という言葉を簡単に受け入れる男ではなかった。


 かつて、聖職者として信仰を背負った時も。


 そして、今、教会を離れた身となった今も。


 彼が知る限り——


 世界のすべては、何かしらの「意志」によって動かされている。


 ただ無意味な苦しみなど、存在するはずがない。


 ルティシアは視線を落とした。


 指先が、微かに布をなぞる。


 思考を巡らせるように。


「……理由がある、ね……」


 彼女はぽつりと呟く。


 その声には、どこか戸惑いが滲んでいた。


 まるで、これまで一度も考えたことのない問いを突きつけられたように。


 ——生まれた時から、この呪いはあった。


 それは彼女に「すぐさま死を与えるもの」ではなかった。


 しかし、逃れることも許さない枷だった。


 緩やかに、じわじわと魂を縛り続ける鎖。


 彼女は、かつて抗おうとした。


 方法を探し、答えを求めた。


 しかし、それは叶わなかった。


 そして、諦めた。


 ——そうするしかなかったから。


 だが、ロイの言葉が彼女の心に微かな波紋を落とす。


 もし、この呪いが単なる「苦痛」ではなく、何かしらの「結果」なのだとしたら——


 その「始まり」は、一体どこにあったのか?


 彼女は目を閉じる。


 深く、静かに息を吸い込んだ。


「……疲れた。」


 それだけを言い、再び枕に身を預ける。


 これ以上、この話を続けるつもりはないという意思を込めて。


 ロイは黙って彼女を見つめた。


 だが、それ以上何も言わなかった。


 彼は静かに振り返り、足を進めた。


 扉に手をかけ、ゆっくりと押し開く。


 外の空気は、ひんやりと澄んでいた。


 遠くに広がる森は、朝霧に包まれ、どこか幻想的な佇まいを見せている。


 この土地には、まだ知られざる秘密が数多く眠っている。


 そして、その一端が、この小さな家の中に横たわっていた。


 ロイは最後に、静かに部屋の中へと視線を向ける。


 ルティシアの姿は、朝の淡い光に溶け込むように、静かに横たわっていた。


 呼吸は穏やかで、今にも眠りに落ちそうに見える。


 ——だが、彼は知っていた。


 彼女の心は、決して安らいではいない。


 眠っているはずの彼女の眉間は、かすかに寄せられたままだった。


 まるで、無意識のうちに、何かを拒み続けているかのように。


 ロイは、それ以上目を向けることなく、静かに踵を返す。


 そして、家を後にした。


 部屋は再び静寂に包まれる。


 窓から差し込む朝の光が、ゆっくりと床を照らしていく。


 それは、淡く儚い静寂。


 ——だが、この静けさが、長く続くことはないだろう。

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