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流亡した聖職者と捨てられた少女  作者: 藹仁
堕落した聖職者と呪われた少女
32/32

32.鉱洞の異変

 朝の光が窓から差し込み、部屋の木製の床に柔らかな影を落としていた。夜の冷気がまだほんのりと残る空気の中、静かな朝が訪れる。


 俺はゆっくりと目を開けた。


 まだ完全に焦点の合わない視界の中で、昨夜の混乱が脳内をリピートし始める。


 ——ミレイアの酔っ払い騒動、リヴィアンの羞恥に震える姿、そして、露緹希アの真っ赤になった顔と、あの突然の逃走劇……。


「……はぁ。」


 額を押さえ、深いため息が漏れる。


 どこで、何を間違えた?


 ふと隣を見ると、すでに露緹希アは静かに眠っていた。


 別々のベッドに分かれていた彼女は、毛布の中で小さく丸まり、銀白の髪が枕の上にさらりと広がっている。


 安らかな寝息に合わせて胸がゆっくりと上下し、昨夜の混乱など微塵も感じさせないほど穏やかな寝顔だった。


 ……いや、この「何事もなかったような顔」こそが逆に怪しい。


 露緹希アは普段から、自分の感情をあまり表に出さない。仮に何か思うことがあったとしても、簡単には見せようとしないはずだ。


 そんなことを考えながら伸びをし、ベッドから降りようとした、その時——


 もぞり。


 隣の布団がわずかに動いた。


「……ロイ?」


 寝起き特有の掠れた声に、わずかな鼻音が混じる。


 銀色のまつ毛がわずかに震え、露緹希アがゆっくりと目を開いた。


 朝の光を受けた銀瞳が、霧の中から現れた宝石のように微かに光る。


「おはよう。」


 俺は簡単に挨拶を返しながら、上着に手を伸ばす。


 このまま支度を済ませ、さっさと下へ降りるつもりだった。


 ——しかし、背後から再び彼女の声が響く。


 さっきよりも覚醒した声色だったが、その中には微かな躊躇いが混ざっていた。


「……昨日のこと、ごめんなさい。」


 視線を少し落としながら、膝の上に手をそっと重ねる。


 言葉を慎重に選んでいるのか、その指先がわずかに揺れていた。


「その……あの時の雰囲気に、あまり慣れてなくて。だから……気づいたら、急に部屋へ戻ってしまった。」

 俺の動きが、一瞬だけ止まる。


 昨夜の出来事が脳裏に鮮明に蘇る。


 ——顔を真っ赤にして、明らかに混乱しきった様子で、自分の胸を抱えながら必死に逃げていく彼女の姿。


「……」


 俺は短く息を吐き、努めて平静を装って口を開く。


「別に気にしてない。」


 さらりと答えながらも、頭の中ではある重大な疑問が浮かんでいた。


 ——もしかして、俺のことを“不純な何か”だと誤解しているのか?


 昨夜の彼女の過剰すぎる反応を考えると、その可能性が全くないとは言い切れない。


 もちろん、単純に恥ずかしくて逃げ出したのだろうとは思う。


 だが、それにしてもあの防御姿勢はどう考えても尋常ではなかった。


 もし彼女のことをよく知らなかったら、俺は確実に「悪役ムーブを決めた男」みたいな扱いを受けるところだった。


 ……いや、待て。もしかすると、もうすでにそんな風に見られている可能性も?


 考え始めると、余計に頭が痛くなってきた。


 ——もういい。


 これをまともに説明しようとすればするほど、余計にややこしくなる気がする。


 俺は静かに息を整え、何も考えないことにした。


「じゃあ、先に降りる。」


 そう告げて、俺は上着を羽織ると、何事もなかったかのように部屋を出ることにした。


 この話題は……なかったことにしよう。

 扉をノックすると、いつもならリヴィアンが応じるはずだった。


 しかし——


「……ん?」


 扉が開き、そこに立っていたのはカスタだった。


 目が合った瞬間、空気が不自然に固まる。


「……」


「……」


 ……いや、おかしいだろ。


 この部屋に泊まっているのはリヴィアンとミレイアのはずだ。


 なのに、なぜカスタが開ける?


 疑問は尽きないが、まずは冷静に対処することが先決だ。


 俺は努めて平静を装い、普段通りの口調で声をかける。


「おはよう。少し話したいことがある。」


 カスタは微妙な表情を浮かべ、一瞬、何かを測るようにこちらを見つめた。


 だが、最終的には軽く肩をすくめ、あっさりと道を開ける。


「……入れよ。」


 俺は一歩足を踏み入れた——


 そして。


「……」


「……」


 ——何だ、この状況は!?


 部屋に足を踏み入れた瞬間、俺の思考が一時停止する。


 目の前に広がる光景に、脳がついていかない。


 いや、むしろ、理解が追いつきたくない。


 カスタは何事もないような顔をしているが……


 いやいやいや、絶対何かあっただろ!?

 ミレイアはまるで神聖な儀式でも執り行っているかのように、背筋をぴんと伸ばして正座していた。


 頭を深々と垂れ、両手を膝の上に揃え、まるで懺悔でもしているかのように厳粛な雰囲気を纏っている。


 その正面では、リヴィアンが困惑した表情で半ば宙に浮いた手を止めたまま、戸惑っていた。


「リヴィアン様……本当に、申し訳ありません……!」


 ミレイアの声は、まるで重要な儀式の誓いを立てるかのように低く、そして深刻だった。


 その異様な真剣さが、場の空気をさらに不可解なものにしている。


「え、えっと……そんなに気にしなくても……?」


 リヴィアンは明らかに戸惑い、少し引き攣った笑みを浮かべながら、どこか気まずそうにミレイアを見下ろす。


 まるで「どうしよう、この状況……」とでも言いたげな視線だった。


「……」


 俺は静かにドアの前で立ち尽くす。


 何だこれは?


 ミレイアがリヴィアンに対して土下座寸前の勢いで懺悔し、リヴィアンは逆に申し訳なさそうにしている……。


 何がどうしてこうなった?


 ……いや、待てよ。


 昨夜のことを思い返す。


 ——もしかして、ミレイアは昨夜の自分の言動をようやく思い出したのか?


「……何があった?」


 俺は低く呟くように問いかける。


 すると、横で腕を組んでいたカスタが、大きく溜息をつきながら、面倒くさそうに答えた。


「さぁな。ただ、さっきのやり取りを聞いた限りだと、どうやら自分が昨夜やらかしたことを、ようやく思い出し始めたらしい。」


「……やっぱりか。」


 俺は視線をミレイアへと戻す。


 正座したまま微動だにせず、完全に自分の行いを反省するモードに入っている。


 この光景を見る限り、彼女の精神は現在進行形で崩壊しつつあるようだった。


 しかし——


「……でもさ。」


 カスタがふと俺を横目で見ながら、妙に意味深な口調で言った。


「彼女、まだ自分が昨夜お前を散々罵倒したことまでは思い出してないんじゃないか?」


「……」


 俺は沈黙する。


 そして、ミレイアを改めて見る。


 この、懺悔モード全開の光景。


 もし、彼女がさらに昨夜の記憶を掘り起こし、俺に対して何を言ったかまで思い出してしまったら——


 ——ミレイアは今この場で地面に穴を掘って、そのまま埋まりたくなるだろう。

「じゃあ、今のうちに思い出させてあげたほうがいいのか?」


「やめとけ。」


 カスタの声には珍しくはっきりとした確信がこもっていた。


「お前、本当に彼女がテーブルをひっくり返して逃げ出すところを見たいのか?」


「……」


 その一言が、妙に説得力を持っていた。


 俺は少し考えた後、黙って頷く。


 ……確かに、これ以上の追い打ちは不要だろう。


 現状を見ればわかるが、ミレイアのメンタルはすでに限界寸前。


 今ここでさらに余計なことを言えば、確実に崩壊する。


 少しの沈黙の後、ようやく部屋の雰囲気が落ち着き始めた。


 リヴィアンが時間をかけて説得し、ついにミレイアはしぶしぶ正座を解く。


 まだどこか気まずそうにしていたが、リヴィアンの優しい言葉に促され、ゆっくりと膝を払いながら立ち上がる。


 その時——


 ミレイアの視線が、ようやく俺に向いた。


「……」


 一瞬、時が止まる。


 目が合った瞬間、ミレイアの動きがピタリと止まった。


 その表情は、一瞬だけ完全にフリーズする。


 しかし次の瞬間、彼女は無理やり平静を装い、普段通りの表情を作ろうとする。


 ……だが、耳まで赤く染まっている時点で、誤魔化しようがない。


「……いつからそこにいたの?」


 声は平静を装っているものの、微かに視線を逸らしている。


 隠しきれない耳の赤みが、彼女の動揺を物語っていた。


「お前が跪いた時から。」


 俺は淡々と返す。


「……っ!」


 ミレイアの指先が微かに震える。


 眉が一瞬だけ僅かに動き、まるで何かを必死に堪えているようだった。


 だが、最終的には何も言わず、ただ沈黙を選んだ。


 おそらく、彼女の中では**「今すぐ忘れてくれ」**という念が俺に全力で送られているのだろう。


 俺もこれ以上深く突っ込むつもりはなかった。


「それより——」


 話題を切り替え、用件を伝える。


「今日はギルドで依頼を受けて、旅費を補充するつもりだ。お前たちもどうする?」


 リヴィアンは俺の言葉を聞くと、微笑を浮かべながらゆっくりと首を振る。


「ううん、行きたいのは山々だけど、今日は別の予定があるの。」


「どこへ?」


「ちょっと物色にね。」


 リヴィアンは意味ありげに微笑みながらウィンクする。


「この町で売れそうなものを見て回ろうと思ってるの。私たちは単なる旅人じゃなくて、商人でもあるからね?」


 なるほど、それはリヴィアンらしい考えだ。


 彼女はただの商人ではなく、計画的に物事を進める商人。

「でもね——」


 リヴィアンは言葉を切り、口元に悪戯っぽい笑みを浮かべた。


 その瞳には、どこか意地の悪い光が宿る。


「私たちも邪魔したくないしね。デートの時間を。」


「……」


 もう反論する気も起きなかった。


 昨夜からこの「デート説」、いったい何回目だ?


 俺がため息をつこうとしたその時——


 廊下から小さな足音が聞こえた。


 次の瞬間、扉の向こうに見覚えのある姿が現れる。


 ルティシア。


 彼女は扉の前で足を止め、首をかしげながら部屋の中を見渡す。


「……どうしたの?」


 柔らかい声で問いかけながら、視線を俺たちの間に巡らせる。


 嫌な予感がした。


 果たして、その予感は見事に的中する。


 リヴィアンの笑みが、さらに深まった。


「まあまあ、ルティシアさん、ちょうどいいところに来ましたね。」


 彼女は軽快な口調で言いながら、俺の方へ視線を向ける。


「ロイ様、さっきこう言ってましたよ?」


「ルティシアさんとデートがしたい、って。」


「——は?」


 ルティシアの動きが止まる。


 銀の瞳がわずかに見開かれ、戸惑い、理解し、そして——


 一気に顔が真っ赤に染まった。


「……な、なに……?」


 声がかすかに震え、視線が泳ぐ。


 彼女の体が反射的に一歩後ずさる。


「待て、冗談だ! こいつが勝手に——」


 俺が説明しようとした、その瞬間。


「わ、わたし、用事があるから……先に戻る……!」


 ルティシアは速口で言うと、踵を返し、そのまま部屋を飛び出していった。


「……」


 俺は扉の向こうで姿を消した彼女を見送りながら、無言で息を吐く。

 ……この既視感、なんだ?


 また顔を真っ赤にして逃げようとするルティシアを見て、俺はすかさず手を伸ばし、進路を塞いだ。


「からかわれただけだ。落ち着け。」


 俺は呆れ混じりに言う。


 ルティシアはピタリと動きを止め、怯えたようにこちらを見上げる。


 瞳にはまだ戸惑いが残っている。


「……本当?」


 小さな声でそう問いかける。どこか不安げな響きを帯びていた。


「本当だ。」


 俺は冷静な口調で返しながら、先ほどのリヴィアンとのやりとりを簡潔に説明する。


 ルティシアは静かに話を聞き、微かに視線を落とした。


 数秒の沈黙。


 彼女は誤解を消化するかのように、そっと息を吸う。


 そして、ゆっくりと顔を上げ、まだ頬にかすかな赤みを残しながらも、小さく頷いた。


「……」


 唇を軽く引き結び、慎重に言葉を選ぶようにして口を開く。


「ギルドの依頼を受けるなら、軽めのものがいいわね。二人でこなせる範囲のものなら問題ないはず。」


「決まりだな。」


 俺も頷き、ようやく話を本題に戻せたことに安堵する。


 しかし、ふと横を向くと——


 リヴィアンが、まだ楽しそうに笑っていた。


 先ほどからまったく表情を変えることなく、あからさまに愉快そうな顔でこちらを見ている。


「……」


 ……お前、絶対に楽しんでるだろ。

 リヴィアンたちとは組めなかったが、別に問題はない。


 それから数日間、俺とルティシアは計画通りに軽めの依頼をこなしていった。


 薬草の採取、小型魔物の討伐、書簡の配送——どれも二人で十分対応できる仕事だ。


 報酬は決して高くないが、数をこなせばそれなりの額になる。


 旅費も少しずつ増え、資金に余裕ができてきた。


 これまでの逃亡、戦闘、そして追っ手の影に怯えながら過ごしていた日々と比べると——


 ルミナスでの生活は、ルティシアにとってかなり穏やかなものだったのだろう。


 彼女は普段、あまり感情を表に出さない。


 しかし、依頼を終えて報酬を受け取るたびに、その表情がほんのわずかに和らぐのがわかった。


 時折、口元にうっすらと笑みを浮かべることさえある。


 ——きっと、彼女にとって「自分の力で稼ぐ」という経験は特別なものなのだろう。


 彼女自身、以前こう言っていた。


「呪いのせいで、まともに働くことすらできなかった」と。


 そんな彼女が、今、自分の手で報酬を得ている。


 それがどれほど新鮮なことか、想像に難くない。


 そして、ふと気づく。


 俺自身も——この日常に、いつの間にか慣れ始めていることに。

 この日々は、これまでの逃亡生活と比べると格段に穏やかで、俺にとっても少し余裕が生まれていた。


 そして、その余裕のおかげで、今後のことについて考える時間もできた。


 例えば——


 もう少し貯金ができれば、ルティシアの魔法制御を補助する魔道具を買えるんじゃないか?


 ここルミナスは魔導都市。


 多種多様な魔道具が取り扱われており、価格帯も幅広い。


 高級品を選ぶ必要はない。


 彼女の魔力を安定させるだけで十分。


 それだけでも、呪いによる負担を軽減できるはずだ。


 だが、問題は——


 俺が直接プレゼントしようとしても、彼女は絶対に拒否する。


 ここ数日でよくわかったが、ルティシアは借りを作るのを嫌う性格だ。


 特に金銭的な恩恵に関しては、余計に慎重になる。


 自分で解決できることなら、どんなに辛くても自力で乗り越えようとする。


 だからこそ——


 どうやって、彼女が素直に受け取れる形にするか?


 ……。


「誕生日プレゼント」


 この考えが浮かんだ瞬間、自分の天才さに驚いた。


 誕生日プレゼントなら、断る理由はないはずだ。


 ……だよな?


 さすがに「受け取るのが当然」なものくらいは、素直に受け取る……よな?


 ただし、前提として——


「……お前の誕生日、いつだ?」


 俺は隣にいるルティシアへと視線を向ける。


 彼女はちょうど今日の報酬を整理しており、指先で銅貨を数えていた。


 俺の問いかけを聞いた瞬間、彼女の手が微かに止まる。


 そして、ゆっくりと顔を上げ、銀の瞳をこちらに向けた。


「……なんでそんなことを?」


 静かな口調。


 だが、その目には、わずかな警戒の色が滲んでいた。


 まるで**「どうして急にそんなことを聞く?」**と疑っているような表情だった。


「別に、大した意味はない。ただの雑談だ。」


 俺は何気ない口調で答える。


 あくまで自然に。


 ルティシアは、軽く眉を寄せた。


 しばらく考え込んだ後、ようやく口を開く。


「……六月二十五日。」


 その答えを聞いた瞬間、俺は内心で満足げに頷いた。


 ——ちょうど、あと一ヶ月。


 この期間があれば、貯金を増やしながら最適な魔道具を探す時間もある。


 これなら、彼女が心から納得して受け取れる形にできる。


 ……この計画、完璧だ。

 ルミナスのギルドホールは、朝から活気に満ちていた。


 任務掲示板の前には、多くの冒険者が集まっている。


 金属鎧のぶつかる音、紙をめくるかすかな音、交渉の声や冗談交じりの談笑が入り混じり、この都市の繁栄を象徴するような賑やかな空間が広がっていた。


 俺は掲示板の前に立ち、今日受ける依頼を考えながら、一枚一枚の依頼書に目を通す。


 すると——


「ロイ。」


 隣から、控えめに袖を引かれる感触。


「これ……どう?」


 ルティシアが指さした依頼書に目を向ける。


 そこには、はっきりとした文字で**「月霊石の採取」**と書かれていた。


「……月霊石?」


 俺は依頼書を指でなぞりながら、詳細を確認する。


 報酬はこの数日で受けた依頼と比べても破格。


「この鉱石……聞いたことがないな。」


 俺は小さく呟き、依頼書の詳細を改めて読み込む。


 ルティシアも軽く首を傾げながら言う。


「ギルドの資料にも記載がなかった。でも、内容を見る限り、ただの採集依頼みたい。」


「……」


 俺は、依頼書の一番下へと視線を移す。


 依頼主の情報が記されているはずの欄。


 しかし——


 そこは、空白だった。


 ——これは、おかしい。

 ギルドの依頼は、通常依頼人の名前が明記されるものだ。


 商会や個人が発注した場合でも、最低限の連絡先や所属情報は記されているのが普通。


 だが、この依頼——


 依頼人の情報が、一切ない。


「依頼主の記載がない?」


 俺は眉をひそめ、違和感を覚える。


「こんな依頼がギルドに掲示されるものなのか?」


「ギルドの審査を通っているなら、大丈夫……なはず。」


 ルティシアの声には、ほんの僅かに不安の色が混じっていた。


 確かに不審ではあるが、内容自体はただの採集依頼だ。


 警戒しすぎる必要はない……はず。


「……よし、これを受けるか。」


 俺たちは受付で依頼の確認と登録を済ませ、準備を整えてから指定された採集地へ向かった。


 約半日の移動を経て、俺たちは地図上の指定地点に到着した。


 この森林の奥は、外縁部と比べて明らかに異質な雰囲気を持っていた。


 木々の根は絡み合い、鬱蒼と茂る枝葉が光を遮り、周囲は常に薄暗いまま。


 静寂が支配するその空間では、鳥のさえずりすらほとんど聞こえない。


「……なんだか、妙ね。」


 ルティシアが低く呟きながら、周囲を注意深く見回す。


 銀色の瞳が静かに揺れ、わずかに魔素の流れを探るような仕草を見せる。


「確かに……」


 俺も警戒を強め、手を腰の聖典へと伸ばす。


 気配が静かすぎる。


 これは単なる廃坑跡なのか? それとも——


 俺たちの目的地である鉱洞の入り口は、岩壁の間にぽっかりと開いた自然洞窟だった。


 外壁にはかつての採掘の痕跡が残っており、かつてここが正式な鉱脈として開発されていたことがわかる。


 だが、今は完全に放棄されていた。


「行くぞ。」


 俺たちは慎重に足を踏み入れた。


 途端に——


 ひやりとした冷気が肌を撫で、地下特有の湿った土と鉱石の匂いが鼻をかすめる。


 洞内は思った以上に広く、天井も高い。


 壁面には、かろうじて魔導光石が埋め込まれており、淡い白光がぼんやりと通路を照らしていた。


 それでも、肝心の「月霊石」らしきものは一向に見当たらない。


「もし本当に月霊石があるなら、もっとはっきりと光を放つはずよね……?」


 ルティシアが周囲を見渡しながら、疑問を口にする。


「それなのに、今のところそんなものは影も形もない。」


「……確かにな。」


 俺も地面や岩壁を丹念に調べながら、徐々にこの依頼の真偽に疑念を抱き始める。


 俺たちは慎重に鉱洞の奥へと進みながら、注意深く地面や壁の様子を観察していった。


 だが、どれだけ進んでも——


 目的の鉱脈は、一切見当たらない。

「本当にこんな鉱石があるのか……?」


 俺は低く呟きながら、周囲をもう一度見渡す。


 しかし、目に入るのはただの岩壁と、わずかに魔力を帯びた低級の魔導鉱石のみ。


 肝心の月霊石らしきものは、どこにも見当たらない。


「もっと奥にあるのかも……」


 ルティシアが低く呟く。


 だが、その表情には疑念が浮かんでいた。


 彼女もまた、何かがおかしいと感じているようだった。


 ——その時。


 俺の胸に、強い違和感が走る。


 この鉱洞、静かすぎる。


 廃坑であれば、普通は何かしらの生物が生息しているはずだ。


 小型の魔獣、洞窟に棲むコウモリ、あるいは肉食の捕食者——何かしらの生命の気配があるのが自然だ。


 だが、ここは異常なまでに無音だった。


 まるで、この場所には何も生きていてはならないかのように。


 俺はゆっくりと息を整え、腰の聖典を握りしめる。


 この状況——


 俺の直感が、警鐘を鳴らしている。


 ——!


 突如として、洞窟の奥から響き渡る轟音。


 低く、震えるような咆哮が、洞内の空気を揺るがした。


 壁が微かに振動し、土埃が舞い上がる。


「……魔獣?」


 俺は即座に身構え、咄嗟に咆哮の方向を見た。


「待って……!」


 ルティシアが俺の袖を掴む。


 その銀色の瞳は、普段の冷静さを保ちつつも、わずかに警戒の色を滲ませていた。


「ただの魔獣じゃない……これは……」


 彼女は声を潜め、不安げに言う。


 俺も改めて息を飲む。


 確かに、今の咆哮は普通の魔獣とは違う。


 ただの野生の獣が発する威嚇とは、まるで質が違う。


 ——そして。


「先生!! 逃げて!!」


 鉱洞の奥から、人間の悲鳴が響いた。


 恐怖に震えるような叫び。


 まるで、目の前で絶望的な光景を見たかのような声だった。


「……!」


 中に人がいる!?


 俺とルティシアは、一瞬だけ視線を交わす。


 その一瞬で、お互いの意図を察する。


 これは、単なる採集依頼ではない。


「行くぞ!!」


 俺は迷わず駆け出した。


 ルティシアもそれに続く。


 今は、とにかく状況を確認することが最優先だ。








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