03.光と影の対話
淡い朝の光が窓の隙間から漏れ、木の床に冷たい光の筋を描く。
夜の名残はまだ完全には消えていない。
暖炉の火はほぼ消え、残った熾火が時折、かすかなパチ、パチという音を立てていた。
静寂が、部屋を支配する。
私は何も言わず、ただ立ち尽くした。
視線の先には、まだ眠りの中にいる少女。
彼女の呼吸は、昨夜よりもわずかに穏やかだった。
蒼白だった顔にも、ほんの少し血の気が戻っている。
だが——
陽の光が肌に触れたその瞬間、黒紋が微かに浮かび上がる。
まるで夜の残滓のように、未だに彼女の身にまとわりついている。
——この呪詛は、一体何なのか?
どれほど強大な黒魔法でも、魂を蝕まずに生かしたまま侵食し続けることはできない。
だが、この呪詛は——
彼女を「生かし続けながら」、常に死の淵に立たせている。
まるで、生と死の狭間に閉じ込められているかのように。
この状態は、普通ではない。
——誰が、何のために?
私は思考を巡らせながら、そっと机の上に目をやる。
木製の碗に手を伸ばし、薬湯の温度を確かめる。
すでに微温くなっていた。
これは、昨夜煮た薬湯だ。
呪詛を解除することはできないが、少なくとも彼女の身体の状態を維持し、呪いによる痛みを和らげることはできる。
私は静かに木碗を手に取り、再び彼女の傍へと戻る。
片手でそっと彼女の肩を支え、もう一方の手でスプーンを口元へと運んだ。
「……少しでも飲め。」
——銀白の睫毛が、かすかに震えた。
ゆっくりと、彼女の瞳が開かれる。
銀白の瞳孔が、朝の光を反射する。
微かに揺らぐ視線。
まだ意識が朦朧としているのか、数秒の間、ぼんやりと宙を彷徨う。
やがて、彼女はようやく状況を理解し、ゆっくりと私へと目を向けた。
「……お前、まだいたのか?」
掠れた声。
乾いた喉が、辛うじて音を紡ぐ。
「当然だ。」
私は淡々と答える。
「今は、まだ離れる時ではない。」
彼女は、一瞬だけ目を細めた。
驚きとも、疑念とも取れる表情。
しかし、それ以上の言葉はなかった。
私は黙って、スプーンを再び彼女の唇へと寄せた。
彼女の瞳が、わずかに細められる。
言葉の意味を測るように、疑問を孕んだ視線。
だが、反論はしなかった。
代わりに、本能的に手を持ち上げようとする——
——だが、次の瞬間、動きが止まる。
「……?」
彼女の視線がゆっくりと落ちる。
腕に巻かれた布に気づいたのだ。
破れた袖の下、白く清潔な包帯が丁寧に巻かれている。
結び目は無駄にきつくもなく、ゆるくもない。
傷をしっかりと固定しながらも、動きを妨げないように施された処置。
——彼女の傷は、包帯で覆われていた。
手当てをされていた。
彼女の表情がわずかに揺らぐ。
この状況を、理解しきれていないような僅かな違和感。
彼女は指をそっと動かし、包帯の上からゆっくりと押さえる。
指先に伝わる、薬草の冷たい感触。
傷口の周囲には、不快な痛みも、感染の兆候もない。
——確かに、治療が施されていた。
だが、彼女には理解できなかった。
なぜ、目の前の「聖職者」がこれをしたのか。
彼女は、信じられないというように、視線をゆっくりと持ち上げる。
だが、その間にも、私の手は止まらなかった。
私は変わらぬ口調で言う。
「お前の傷を放置するのは得策ではない。助けるついでに、処置をしただけだ。」
それは、あまりにも淡々とした言葉だった。
彼女の眉がわずかに寄る。
——この男は、何を考えている?
彼女は、わずかに布団を持ち上げる。
視線を下ろすと、腹部と大腿にも同じように包帯が巻かれているのが見えた。
破れた服の隙間から覗く肌には、もはや血の痕跡はない。
不衛生な処置のせいで、悪化するような兆候もない。
傷はすべて、適切に清められ、きちんと処理されていた。
彼女は目を細め、静かに息をつく。
この男が、何を考えているのか。
そして、彼女自身——
どう反応すればいいのか、分からなかった。
──傷は確かに落ち着いていた。
しかし、彼女は気を緩めることなく、むしろ小さく鼻を鳴らし、淡々とした警戒心を滲ませながら言った。
「聖職者って、いつからそんなに優しくなったの?」
「少し飲めば、体力が回復する。」
彼女の疑問には答えず、私はただ静かにスプーンを唇の前へ差し出した。
彼女はわずかに顔を背け、スプーンを一瞥する。
そこにはどこか迷いがあり、低い声で言った。
「……毒は入ってない?」
私は思わず小さく笑い、「殺すつもりなら、とっくにやっている。」
彼女は一瞬動きを止め、数秒の沈黙の後、納得したようにわずかに口を開き、ゆっくりと薬湯を飲み込んだ。
苦みが広がったのか、彼女の眉がわずかに寄る。
しかし、拒むことなく、一口、また一口と飲み続け、最後には碗の中が空になった。
私は空になった碗を机に戻し、再び彼女を見つめる。
「どうだ?」
彼女は軽く息をつき、まだ薬湯の味に慣れないのか、しばらく間を置いてから低く答えた。
「……生きてる。」
「それで十分だ。」
私の静かな返答に、彼女は微かに冷ややかな笑みを浮かべる。
「……あんたみたいな聖職者、珍しいね。」
「どういう意味だ?」
「私の呪いについても、私が誰なのかも聞かずに助けるなんて……」
彼女は皮肉げに付け加える。
「高みから見下ろす聖職者とは、ずいぶん違うじゃない?」
私は淡々と答えた。
「俺はもう聖職者じゃない。」
彼女は一瞬動きを止めた。
何かを尋ねようとしたようだったが、結局、口を閉じ、それ以上何も言わなかった。
部屋の中に沈黙が広がる。
しばらくの間、静寂が支配したが、最初に口を開いたのは彼女だった。
疲れが滲む声で、ゆっくりと問いかける。
「……で、あんたは私をどうするつもり?」
私は数秒黙った後、静かに答えた。
「今のお前は、この部屋を出る力すらない。まずは体を休めろ。」
彼女はわずかに顔を背けた。
反論はしなかった。
しかし、その銀白の瞳には、依然として薄い警戒の色が宿っていた。
まだ、私を完全に信用していない。
私は立ち上がり、ゆっくりと扉の方へ歩を進める。
「もう少し休め。体が回復したら、いくつか質問をさせてもらう。」
彼女は答えなかった。
ただ、静かに私の背中を見つめ——
そして、ゆっくりと目を閉じた。
炎の揺らめき。
朝の光が、ゆっくりと夜の帳を押しのけていく。
だが、この静かな邂逅は——まだ始まったばかりだった。
部屋の中は依然として静寂に包まれていた。
窓の外を吹く風がかすかに光影を揺らし、木の床に淡い影を落とす。
暖炉の残り火が微かに**パチ…パチ…**と音を立て、空気にはまだ草薬のほろ苦い香りがわずかに残っていた。
彼女は静かに枕に身を預け、銀白の髪が肩に散らばる。
その瞳にはどこかぼんやりとした色が宿っており、まだ完全には意識がはっきりしていないようだった。
先ほど飲んだ薬湯は苦かったはずだ。
それでも、少しは力を取り戻せたのか、彼女の表情にわずかに生気が戻っている。
「……何を聞きたいの?」
掠れた声。
だが、その声には、わずかな警戒心が滲んでいた。
私はすぐには答えず、手に持っていた空の碗を机の上に戻した。
視線を向けると、彼女はまだ包帯の巻かれた腕を軽く押さえていた。
その仕草はまるで、この状況をまだ受け入れきれていないかのようだった。
「そんなに警戒しなくていい。無理に答えさせるつもりはない。」
私は淡々と告げ、窓辺へと歩を進める。
指先でわずかに窓を押し開くと、朝のひんやりとした風が入り込み、部屋の中に漂う草薬の匂いをかすかに散らしていった。
「ただ、お前には行くあてがあるのか?」
彼女の動きが一瞬止まる。
まるで、そんな問いを投げかけられるとは思っていなかったかのように。
「……行くあて?」
彼女は小さく嗤うように息を漏らした。
銀白の瞳がわずかに揺らぎ、その声には自嘲めいた響きが混じっていた。
「もしそんなものがあったのなら——こんなところに転がってはいないでしょうね。」
淡々とした言葉。
しかし、その無関心を装った口調の奥には、捨てられることに慣れた者の色が滲んでいた。
私はすぐには答えず、ただ静かに彼女を見つめる。
「それとも……」
彼女はわずかに首を傾げ、再びこちらを見据えた。
「試してるの?」
「その必要はない。」
「だが、お前がこれからどうするつもりかは、知っておくべきだ。」
彼女はしばらく黙ったまま、視線を落とした。
細い指先がゆるく握られ、無意識に掌を撫でる。
まるで、その言葉の意味を確かめるように。
「……とりあえず、生きる。」
しばらくして、彼女は低く呟いた。
——簡単な答えのようで、重い言葉だった。
この世界で生きるということは、決して容易なことではない。
特に、彼女のような存在にとっては。
「お前の呪い……」
私は言葉を選びながら、彼女の腕へと目を向ける。
そこに浮かぶ、未だに消えぬ黒紋。
「その由来を知っているのか?」
彼女の動きがわずかに止まる。
——まるで、不意を突かれたように。
やがて、ゆっくりと視線を上げる。
銀白の瞳が、朝の光を受けて、かすかに陰を帯びる。
「……知らない。」
この呪いが、理由もなく降りかかるはずがない。
——そして、彼女の沈黙が、その確信をより強めた。
彼女は何かを知っている。
しかし、それを語ろうとはしない。
——ならば、今は無理に聞き出すつもりはない。
「答えたくないなら、それでもいい。」
私はそう言いながら、机へと向かう。
「だが、このまま放っておけば、いずれお前の身体は持たない。」
彼女は小さく笑った。
どこか投げやりな響きを含んだ、乾いた笑みだった。
「……だから?」
私はふと手を止め、振り返る。
「お前は、生きたいとは思わないのか?」
「……選択肢がないだけよ。」
彼女は、淡々と言った。
「もしこの呪いが解けないものなら……遅かれ早かれ、死ぬだけ。」
彼女の声には、何の感情もなかった。
その瞳にも、もはや生き延びたことへの安堵も、希望もない。
——それが、当たり前の結末だと言わんばかりに。
この態度には、見覚えがあった。
かつての俺も、同じ考えを抱いていた。
「それは、運命の問題じゃない。」
私は静かに口を開く。
「お前がまだ、生きる理由を見つけられていないだけだ。」
彼女はわずかに眉をひそめる。
まるで、その言葉の意味が分からないとでも言うように。
私はそれ以上説明することはせず、ただ指先で机の表面をなぞる。
そして、軽く木の表面を指で叩いた。
コツン——
小さな音が静寂の中に響く。
「とにかく、お前はまだ休まなきゃならない。」
「少なくとも、自分で歩けるようになってから考えればいい。」
彼女は何も答えなかった。
ただ静かにこちらを見つめる。
銀白の瞳が朝の光を映し、何かを考えているように揺らいだ。
——今回は、反論しなかった。
窓の外、風がやさしく吹き抜ける。
微かな鳥のさえずりが、静かな部屋に溶け込んでいく。
新たな朝が、ついに訪れた。
部屋の中は依然として静寂に包まれていた。
窓の隙間から差し込む柔らかな光が、壁と床に淡い温もりをもたらしている。
私は椅子に腰掛け、未だ横たわる少女を見つめていた。
彼女はすでに目を覚ましていた。
だが、すぐに口を開くことはなく、ただ静かに何かを考え込んでいるようだった。
銀白の睫毛が微かに揺れ、視線は何度か自身の包帯を巻かれた腕を掠める。
指先がゆっくりと布の上をなぞるように動く。
まるで、傷が本当に適切に処置されたのかを確かめるように。
私は急かさなかった。
ただ静かに、彼女が言葉を発するのを待った。
そして——
ついに、彼女は口を開いた。
その声はまだかすれていたが、その口調は不思議なほど落ち着いていた。
「……ルティシア。」
彼女は、迷うことなくその名を口にした。
ためらいも、余計な感情の起伏もなく、まるでただの事実を述べるように。
「ルティシア・ヴィルセル。」
もう一度、静かに繰り返す。
冷淡な響きを含んだまま。
まるでその名が彼女自身とは関係のないものであるかのように——
それでも、それが彼女の答えだった。
「ロイ・エリオット。」
私は平静に応じる。
彼女はわずかに眉を寄せた。
銀白の瞳がかすかに揺れ、その名を反芻するように小さく呟く。
そして、しばらくの沈黙の後、軽く口角を上げながらぼそりと呟いた。
「……聖職者らしくない名前ね。」
「もう聖職者じゃないからな。」
私は、何の躊躇もなくそう答えた。
それ以上の説明は、不要だった。
彼女はそれ以上問い詰めることなく、静かに視線を窓の外へと向けた。
微かな光が彼女の蒼白な顔を照らし、昨日よりも幾分か生気を感じさせたが、依然としてその姿は儚げだった。
「……あの森。」
不意に彼女が口を開く。
その声には、どこか迷いがあった。
私は軽く眉を上げ、耳を傾ける。
「意識があったときには、すでにそこにいたの。」
彼女はそう静かに語ると、無意識に指先で布団を握りしめた。
まるで、何か嫌な記憶が蘇るのを抑え込もうとするかのように。
「……?」
私は眉をひそめる。
「つまり、自分がどうやってそこに行ったのか覚えていないのか?」
彼女の瞳がかすかに揺れる。
何かを整理するように、一瞬思考を巡らせた後、低い声で答えた。
「……はっきりとは覚えてない。体がとても冷たくて、視界もぼやけてた……何かに連れ込まれたみたいに気づいたら森の中にいて、我に返ったときには、呪いが発動していた。」
口調は淡々としていたが、その指先がわずかに縮こまるのが見えた。
——本当は、口にするほど単純な状況ではなかったのだろう。
彼女はただ「倒れた」のではない。
何者かによって、あの呪われた地へ連れ込まれ、そこに捨てられた。
「……つまり、誰かが意図的にお前をそこに置いたということか?」
彼女は一瞬沈黙し——
そして、わずかに頷く。
その声には、どこか冷え切った響きがあった。
「……たぶんね。」
「お前には、心当たりがあるのか?」
「……分からない。もしくは、思い出したくないだけかもね。」
彼女はそっと顔を背ける。
その声は相変わらず冷淡だった。
まるで、その話題に深入りすることを避けるかのように。
——思い出したくないのか、それとも、思い出すのが怖いのか?
この呪いは、単なる黒魔法ではない。
それはもっと深い、何かに縛られたもの。
この呪いが彼女に宿る理由は、決して偶然ではありえない。
——誰かが意図的に、彼女にこれを刻んだ。
彼女が記憶を失っているのではなく、答えを知りながらも、それに触れようとしないだけではないのか?
——だが、それを問い詰めたところで、今すぐに答えが出るわけではない。
私はそれ以上追及しなかった。
すると、彼女はふとこちらを見つめ、問いかけた。
「……じゃあ、あんたは?」
銀白の瞳が、まっすぐにこちらを射抜く。
「なんで、あんな森にいたの?」
その問いには疑いの色はなかった。
だが、どこか探るような、何かを確かめようとする響きがあった。
——俺がどんな答えを返すのか、見定めようとしている。
「……たまたま通りかかっただけだ。」
彼女はわずかに眉を上げる。
その答えを、信用していない。
「——あの森が『たまたま』通りかかるような場所じゃないことくらい、知ってるでしょ?」
口調には、微かな嗤いが混じっていた。
私は淡々と答えた。
「教会の追手から逃げていた。」
「やつらの目を避けるために、あえて人が足を踏み入れない場所を選んだ。」
ルティシアはわずかに眉をひそめた。
私の言葉の真偽を慎重に測っているようだった。
そして、しばらくの沈黙の後、小さく呟く。
「……聖職者? それが教会に追われる?」
「言ったはずだ。俺はもう聖職者じゃない。」
私は彼女を一瞥し、淡々と付け加えた。
「かつてはそうだったが、今は違う。」
彼女は視線を落とし、指先で無意識に包帯をなぞる。
まるで、その言葉をゆっくりと噛み締めているかのように。
「……変な組み合わせね。」
しばらくして、彼女は低く笑った。
その笑みには、自嘲の色が滲んでいた。
「呪われた異端と、追われる聖職者。」
「世の中には珍しいことはいくらでもある。」
私は特に気にすることなく、静かに応じた。
彼女もそれ以上問い詰めることはなかったが、その銀白の瞳には、わずかに違う色が混ざっていた。
それは——
俺に対する「興味」。
もしくは、こうも言えるだろう。
この出会いが単なる偶然ではないと、彼女も気づき始めた。
短い沈黙が流れる。
先に口を開いたのは、私だった。
「お前の体にはまだ時間が必要だ。この間は、ここにいろ。」
彼女はゆっくりと目を上げる。
その声には、どこか探るような響きがあった。
「……私が厄介ごとを持ち込むとは思わないの?」
「もう十分厄介事は抱えている。」
「ひとつ増えたところで、変わらない。」
ルティシアは、わずかに動きを止めた。
そして——
ふっと、小さく笑った。
その笑みには、これまでのような皮肉はなかった。
そこにあるのは、何か別の感情。
「……じゃあ、お言葉に甘えて。」
彼女は静かに身を横たえた。
銀白の髪が淡い光を映し、儚げに揺れる。
まだ微かに弱々しい息遣い。
だが、昨夜と比べれば、確かに僅かながら生気が戻っていた。
私は椅子を立ち、机へと歩み寄る。
昨夜のままになっていた薬碗を手に取り、ふと彼女を横目で見る。
彼女はまだ、警戒するようにこの見知らぬ部屋を見回していた。
——そして、私は思案する。
空気には、まだ消えきらない薬草の香りが漂っていた。
ルティシアの視線は天井へと向けられていたが、そこに焦点はなかった。
——彼女はかつて、こう言った。
「殺して。」
それは、強い死への願望からくる言葉ではなかった。
それは、運命に対する諦念。
生きることは苦しみの連続であり、死ぬことの方がずっと楽だった。
——どうせ最後にはそうなるのなら、無駄に抗う必要なんてない。
そう思っていたからこそ、彼女はあまりにも自然に、それを口にしたのだろう。
だが——
死の間際、彼女は抗った。
恐怖からではない。
——ただ、「まだ準備ができていなかった」だけ。
あの時、彼女は確かに感じた。
冷たい窒息感、深い闇に飲み込まれる感覚、どうしようもない絶望——
そして、それを拒絶する自分がいた。
彼女は、何の迷いもなく死を受け入れるはずだった。
それなのに、あの瞬間、彼女は必死に抗おうとしていた。
ほんの一秒でもいい、ただ生にしがみつこうとしていた。
——何のために?
彼女自身、答えを持たない。
手の指がわずかに縮こまる。
何かを掴もうとするように、しかし、そのまま動くことはなかった。
——これは、「生きたい」という意思なのか?
それとも、ただの未練に過ぎないのか?
彼女にはわからない。
この選択が正しいのか、間違っているのか、それすらも。
だが、少なくとも——
今の彼女は、まだ手を離していない。