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流亡した聖職者と捨てられた少女  作者: 藹仁
堕落した聖職者と呪われた少女
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29.甘球焼

 公会の雰囲気は、魔導士協会とはまるで異なっていた。ここには学術機関のような厳格さはなく、むしろ冒険者ギルドに近い空気が漂っていた。


 旅人、商人、傭兵、狩人――さまざまな者たちが集まり、活発に会話を交わしている。飛び交う話し声が混ざり合い、場内は常に賑やかだった。


 公会に足を踏み入れると、まず鼻を突くのは、酒と料理が混ざり合った香り。壁には無数の依頼書が張り出され、受付カウンターには長い列ができている。依頼の申請、情報の交換――ここはまさに都市の情報が集まる中心地だった。


 リヴィアンは慣れた様子でカウンターへ向かい、軽快な口調で受付の職員に尋ねた。


「最近の商業動向について、何か情報はある?」


「もちろんです。」


 受付の職員は頷き、記録帳をめくりながらルミナス国内の商業状況を説明し始めた。


「現在、国内の商業活動は安定しています。特に、魔導産業関連の市場が発展期に入っており、いくつかの著名な魔導工房や商会が協力関係を広げています。」


「短期的には、市場の需要は今後も拡大する見込みです。」

 リヴィアンは微笑みながら、満足げな光を瞳に宿した。彼女は明らかに、この状況に大いに満足しているようだった。


「これなら、ここに留まるのは正解ね。」


 軽く頷きながら、すでに頭の中では、今後の商業計画を組み立てているようだった。


 俺もこのタイミングで、公会の職員に質問を投げかける。


「浮遊書庫へ行くには、どうすればいいですか?」


「浮遊書庫へ向かうには、浮遊プラットフォームを利用する必要があります。」


 受付の職員は丁寧に説明を続けた。


「ただし、本国の市民でない場合、通行証の申請が必要です。」


「……通行証?」


 俺は眉をひそめる。


「その申請条件は?」


「魔導士資格を持つか、特別許可を受けていることです。」


 職員は書類をめくりながら補足した。


「浮遊書庫は、国の学術資源として管理されているため、本国市民以外で立ち入りを許されるのは、正式に登録された魔導士、学者、または特定の職位に就く者のみとなります。」


 この話を聞き、俺は無意識に隣のリヴィアンに視線を向けた。


 彼女も、この条件をしっかりと聞いていたようで、唇をわずかに持ち上げ、興味深そうに俺を見つめている。その眼差しには、明らかな愉悦が滲んでいた。


 ――これは、もう分かりきった展開だった。


 通行証を得るには、またリヴィアンの力を借りる必要がある。


 俺は軽くため息をつきながら、仕方なく口を開いた。


「……また、頼ることになりそうだな。」


「まあまあ、大人しく認めるなんて、ロイ大人らしくないわね?」


 リヴィアンは、まるで楽しむように微笑み、気怠げな口調で言った。


「そんな態度じゃダメよ? せめて、もう少し誠意を見せてもらわないと?」


「……誠意?」


 俺は眉を寄せる。


「例えば、お茶を奢るとか?」


「荷物を運んでくれるのもいいわね。」


「でもね、私が一番好きなのは……金貨の誠意よ?」


 彼女は、微笑みながら冗談めかして言った。


「……考えておく。」


 俺は軽く首を振り、これ以上付き合っていられないとばかりに話を終わらせる。


「ふふっ、冗談よ。」


 リヴィアンはクスクスと笑いながら、すでにこの状況を十分に楽しんでいるようだった。

 受付の職員は、俺たちの会話が終わるのを待ってから、再びイリウスの情報を提供してくれた。


「イリウスの行方についてですが……こちらでも、正確な情報は掴めていません。ですが、彼が最後に公の場に姿を現したのは浮遊書庫 でした。」


 やはり、魔導士協会で聞いた話とほぼ同じだった。


「もともと、彼は行方をくらませるのが常 なんです。」


 職員は肩をすくめ、少し呆れたような口調で言う。


「ですが、しばらくすれば、またどこかで姿を見せるのが通例ですね。」


 つまり、イリウスの行方が分からないのは、いつものこと というわけか。


「では、彼は普段どこに現れることが多い?」


 俺が尋ねると、職員は記録を思い返しながら答えた。


「これまでの傾向から言うと、イリウスは国家公認の賢者 ですので、もし戻ってきたとしたら、魔法学院 に顔を出すか、自身の研究室に戻る可能性が高いですね。」


「……つまり、すぐに会えるとは限らない?」


「ええ、それは運次第です。」


 職員は軽く手を広げ、苦笑しながら言った。


「もし気長に待てるのであれば、ある日突然、学術会議か何かに現れるかもしれませんね。」


 ――どうやら、短期間でイリウスを見つけるのは難しそうだ。


 このまま彼の行方を追っても、手掛かりのないまま時間だけが過ぎてしまう可能性が高い。


 だが、彼が最後にいたのは浮遊書庫 だ。


 もし何らかの痕跡を残しているとすれば、そこで手掛かりを探す方が効率的かもしれない。

 俺は心の中で計画を整理し、ひとまずこの問題について深く考えるのは後回しにすることにした。そして、もうひとつ重要な情報を尋ねる。


「では、この街で魔法の行使を助けるような魔導具 を扱っている店はありますか?」


「魔導具ですね?」


 受付の職員は少し考えた後、答えた。


「もし魔杖 などのアイテムをお探しでしたら、アンテルファ広場の周辺にある商業区がおすすめです。そこには魔導工房が集まっており、適した道具が見つかるかと思います。」


 この情報を聞き、俺は軽く頷き、記憶に留める。


 これで、次に進むべき道筋が見えてきた。


 浮遊書庫の通行証を取得する(リヴィアンの協力が必要)

 浮遊書庫を探索し、イリウスに関する手がかりを探す

 アンテルファ広場へ行き、魔法の行使を助ける魔導具を調達する

「分かりました、ご協力ありがとうございます。」


 俺は再び受付の職員に礼を述べ、それからリヴィアンたちの方へ振り向く。


「こうして計画が固まったわけね。」


 リヴィアンは微笑みながら言い、軽く手を打つ。


「それじゃあ、そろそろ行動開始といきましょうか?」


 こうして、浮遊書庫への通行条件とイリウスの情報を確認した俺たちは、公会を後にした。

 リヴィアンたちはこの後、それぞれの予定をこなす必要があった。彼女は商会へ向かい、業務の状況を確認するとのこと。一方、俺はルティシアと共にアンテルファ広場 へ向かい、適した魔導具を探すことにした。


「それじゃあ、今夜は宿で落ち合いましょう?」


 リヴィアンは軽快な口調でそう言い、唇の端を少し持ち上げる。


「ついでに、一杯どう?」


「……ただ飲む理由を作りたいだけだろ?」


 俺は眉をひそめ、少し呆れたような声を返す。


「まあ、ロイ大人ったら、私の狙いをすぐに見抜いちゃうのね?」


 リヴィアンはくすっと笑い、いつものように茶化すような口調で言う。


「でもね、こういうのも交流を深める一環 でしょう?」


「……勝手にすればいい。」


 俺は軽くため息をつき、それ以上この話題に突っ込むのをやめた。


「じゃあ、決まりね。」


 リヴィアンは軽く手を振りながら、最後に一言。


「楽しいお買い物を。悪徳商人に騙されないようにね?」


「気をつける。」


 俺は軽く頷き、彼女たちと別れた。


 ***


 ルティシアと共に、街の標識を頼りにメインストリートを進んでいく。


 途中、異国情緒あふれる街並みが次々と目に飛び込んできた。


 盧ミナスの建築様式は非常に多彩で、古典的な魔法学院風のデザイン から、機械と魔法を融合させた工房風の建物 まで―― どの建築も、それぞれ異なる魔法の息吹を感じさせた。

 しかし、俺が本当に驚いたのは、広場の方向を探していたときのことだった。


 道を尋ねた相手が、まさかの人物だったからだ。


「あぁ、アンテルファ広場ね?この道を真っすぐ進んで、二つ目の交差点を左に曲がるとすぐよ。」


 そう答えたのは―― 魔族 の女性だった。


 彼女は他の異種族とは明らかに異なる特徴を持っていた。


 髪は淡いピンク色で、肌は人間よりもやや白く透き通るような質感。そして瞳には、ほのかに紅い光が宿っており、彼女の周囲には微細な魔素の波動が漂っている。


 まるで、彼女自身が魔力そのものと結びついているかのような感覚を覚えた。


 魔族――膨大な魔素を持ち、純粋な魔法生物に最も近い種族。


 俺は無意識に足を止め、その姿をじっと見つめてしまう。


 魔導書には何度も魔族についての記述があったが、こうして実際に目の前で見るのは初めてだった。


「……どうしたの?」


 ルティシアが小さな声で問いかける。俺の視線の先に気づいたのだろう。


「……いや、ただ、ここが想像以上に多種多様な種族が集まる街だと実感しただけだ。」


 俺はそう答え、魔族の女性に軽く会釈して礼を述べると、再び歩き出した。


 盧ミナスは確かに異種族共存の街だ。


 だが、ここまで開かれた環境だとは思わなかった。


 ***


 アンテルファ広場に到着すると、そこには活気あふれる交易区域が広がっていた。


 魔導具の専門店、魔法素材の商店、鍛造工房、符文道具の販売屋台――


 まるで、さまざまな魔法技術が集結した市場 のようだった。


 通りには無数の商人と旅人が行き交い、並べられた魔導装置や魔法道具の数々が淡く光を放っている。


 行き交う人々の中には、魔導士だけでなく、獣人や精霊族、さらには先ほど見かけた魔族の姿もあり、それぞれが商品を見定めながら商人と値段交渉をしていた。


 ――これが、魔法の都の交易市場か。


 俺はその賑わいを目の当たりにしながら、改めてこの街の特異さを実感するのだった。

 俺たちは広場を回りながら、適した魔導具の店を探し続けた。


 しかし、魔導具に関する知識がそこまで深くない以上、俺は安易に購入を決めるつもりはなかった。


 まずは市場の価格帯や、どんな商品があるのかを把握することが先決だ。


「……魔導具の種類は想像以上に多いな。」


 店の陳列棚を見渡しながら、俺は低く呟いた。


 強化防御の符文水晶から、魔力を増幅させる法陣刻印まで――


 どの品も、精巧に作られた魔法の技術が込められているのがわかる。


「……値段も、かなり高い。」


 ルティシアが淡々とした口調で言いながら、視線をショーケース内の魔杖へと向ける。


 俺もつられてそちらを見た。


 その魔杖は繊細な細工が施されており、柄の部分には複雑な符文が刻まれている。


 杖の先端には透き通った魔導石がはめ込まれ、かすかに魔力の波動を放っていた。


 ――しかし、値札を見た瞬間、俺は思わず眉をひそめる。


 上等な軍馬が一頭買えるほどの値段 だった。


「……やはり、魔杖は簡単に買える代物じゃないな。」


 俺は小さくため息をつきながら、資金の問題を改めて考え始める。


 旅費は今のところ十分あるが、魔導具を購入するとなると余裕がなくなる。


 いずれにせよ、そろそろ資金を稼ぐ手段を考えるべきだ。


「……明日は簡単な依頼を受けるか。薬草の採取や、基本的な仕事ならすぐに片付くはずだ。」


 そう独り言のように呟くと、ルティシアがわずかに首をかしげた。


「……リヴィアンたちも誘うの?」


「それは彼女の予定次第だな。」


 俺は少し考えてから答える。


「もし協力してくれるなら、依頼の達成も早くなる。」


 ルティシアは小さく頷き、それ以上は何も言わなかった。


 どうやら、この計画には特に異論はないようだ。

 私は広場の中央に集まる人々を眺めながら、これからの計画について考えていた。


 この都市の魔法産業は確かに発展しているが、俺たちのような旅人にとっては、決して簡単に暮らせる場所ではない。資金の問題、情報収集、そしてルティシアの魔法習得……すべてを慎重に進める必要がある。


 リヴィアンたちと共に依頼を受けるのも悪くないが、それは彼女たちの都合次第だ。そもそも、彼女たちには彼女たちの計画がある。


 とりあえず、この考えは頭の片隅に置いておいて、明日リヴィアンに相談してみるのがいいだろう。


 街は相変わらず賑やかで、魔道具店や様々な商店が軒を連ね、人々の活気に満ちている。異国情緒あふれる雰囲気が広がり、まるで別世界に足を踏み入れたかのようだ。


 俺は歩きながら、先ほど魔道具店で見た商品について考えていた。魔道具に詳しいわけではないが、専門的な知識を持つ者の助けがあれば、適切な道具をより効率的に見つけられるかもしれない。


 そんなことを考えていると、不意にルティシアの気配が後ろから消えたことに気づいた。


 俺は歩みを止め、振り返ると、彼女がある屋台の前で立ち止まっているのを見つけた。


 近づくと、ふんわりとした甘い香りが漂ってきた。空気にはほのかにバターと焼き立ての卵の香ばしさが混ざり合い、魔法の気配が満ちたこの街とは少し違う、どこか懐かしい温もりを感じさせる。


 ルティシアは屋台の前でじっと木製のトレイに並べられた菓子を見つめていた。


 そこには、丸くてふっくらとした黄金色の焼き菓子が並び、表面にはほのかなカラメル色の焼き目がついている。その優しい甘い香りが、心をほぐすように漂っていた。

「哦,こちらのお客様、甘球焼きはいかがですか?」


 屋台の店主は陽気な中年男性で、にこやかに声をかけてきた。


「卵とバターをたっぷり使った、ふんわりとした甘いお菓子ですよ。中には特製のバニラクリームが入っていて、焼き立てが一番おいしいんです!」


「甘球焼き……?」


 俺は小さく呟きながら視線を屋台に向けた。確かに、これまで見たことのない菓子だった。


 だが、それ以上に気になったのは――ルティシアの表情だ。


 彼女は珍しく目を逸らさずに甘球焼きをじっと見つめている。


 普段はどんな状況でも冷静で、些細なことに心を動かされることのない彼女が――

 今は、まるで迷っているかのように、躊躇いがちに菓子を見つめていた。


 俺はふと、彼女の手元に視線を落とす。


 すると、既に財布を取り出しているものの、手が止まったまま、買おうとせずにじっとしているのが分かった。


 ――彼女は迷っている。


 その姿は、どこか新鮮で、妙に興味をそそられた。


 どんな危険な状況でも一切揺るがない彼女が、こんな小さなことで悩んでいるとは。


 俺は少し眉を上げ、面白そうに口を開いた。


「いくらだ?」


「一つ五銅貨ですよ。」店主が笑顔で答える。


 それほど高いわけではない。


 俺は躊躇うことなく腰袋から十五銅貨を取り出し、店主に渡した。


「三つ頼む。」


 店主は慣れた手つきで焼きたての甘球焼きを紙袋に包み、それを差し出してくる。


 俺はそのうちの一つを手に取り、残りの二つを無言のままルティシアへと差し出した。

 彼女は、わずかに目を見開いた。


 差し出された紙袋をじっと見つめ、どこか驚いたような表情を浮かべる。


「……私に?」


 小さく問いかける声は、どこか不確かだった。


「ん。食べたいなら、迷う必要はない。」


 俺は淡々とした口調で答える。


「それに、そんなに高いものでもないし。たまには甘いものを食べてもいいだろ?」


 ルティシアは、ほんの少し唇を引き結ぶ。


 そして、無言のまま紙袋をそっと受け取った。


 彼女の手の中で、甘球焼きはまだ温かさを保っていた。


 ほのかに香るバニラの甘い香りが、ふわりと鼻先をかすめる。


 それが、彼女の決意を後押ししたのかもしれない。


 ルティシアはゆっくりと顔を近づけ、小さく一口――


「――!?」


 次の瞬間、彼女の体がぴくりと強張った。


 わずかに開いた唇から、驚きの色が滲み出る。


 どうやら、思っていたよりも中のクリームが熱かったらしい。


「熱……っ!」


 彼女は息を呑み、小さく肩を震わせる。


 それでも、口を大きく開けるわけでもなく、ぎゅっと唇を閉じ、中のクリームがこぼれないように必死に堪えている。


 思わず、俺は小さく笑ってしまった。


「ゆっくり食べろ。やけどするぞ。」


 ルティシアは、わずかに眉を寄せながらも、慎重に甘球焼きを咀嚼する。


 次第に温度に慣れたのか、彼女の表情はゆるみ、ほんの少しだけ穏やかな色を帯びた。


 目の奥に、かすかな満足感がにじんでいる。


 それを見た俺は、なんとなく気になって問いかけた。


「どうだ?うまいか?」


 彼女はふっと顔を上げ、俺を見た。


 そして、まるで自分の行動を自覚したかのように、一瞬戸惑った表情を浮かべたあと、すぐに冷静さを取り戻す。


「……うん、美味しい。」


 淡々とした答え。


 だが――


 わずかに赤く染まった耳が、それ以上の感情を物語っていた。


 そして、小さな声でぽつりと付け足す。


「……こんな味、初めて。」


 その言葉は、静かでありながら、不思議と真っ直ぐな響きを持っていた。

 俺は特に何も言わず、ただ小さく微笑むと、手に持った甘球焼きをひと口かじった。


 ふわりとした生地が、ほのかに温かいバニラクリームを包み込んでいる。


 口当たりは軽やかで、甘さもちょうど良い。しつこくなく、ついもう一つ手を伸ばしたくなる味だ。


「……確かに悪くないな。」


 素直な感想を述べながら、軽く頷く。


 ルティシア は何も言わずに、小さな紙袋を両手で包み込むように持ち、最後の一つをゆっくりと口に運んだ。


 さっきのように急ぐことなく、慎重に。


 今度は火傷しないように気をつけながら、ひと口ずつ味わっている。


 その姿を見て、俺はふと感慨深い気持ちになった。


 ――こんな風に、彼女が食事を楽しむ姿を、今まで俺はどれくらい見てきただろうか?


 普段の ルティシア は、常に冷静で感情をあまり表に出さない。


 だが、今の彼女は――まるで、ほんの少しだけ肩の力を抜いているように見えた。


 些細なことで満足し、純粋に美味しいものを味わっている。


 だが、その穏やかな時間は長くは続かなかった。


 ルティシア は、ふと何かを思い出したように動きを止め、ゆっくりと俺の方を見た。


「……また、お金を使わせた。」


 小さな声だったが、はっきりとした響きがあった。


 俺は、思わず目を瞬かせる。


 まさかそんなことを言い出すとは思っていなかった。


「こんなの、些細な出費だ。気にするなよ。」


 軽く手を振って言う。


 だが――


 ルティシア は、静かに首を横に振った。


 その瞳には、真剣な色が浮かんでいる。


「今回だけじゃない。」


 静かだが、確かな意志を感じさせる声。


 俺は、軽く眉を寄せる。


「……どういう意味だ?」


「これまでにも、あなたは私のためにたくさんお金を使ってきた。」


 ルティシア はそう言って、紙袋の端を指先でそっと撫でた。


 まるで、それが計算するための帳簿にでもなったかのように。


 そして、淡々とした口調で続けた。


「護符、服、旅の途中の食事……全部合わせると、決して小さな額ではない。」


 その言葉を聞いた瞬間、俺は一瞬、言葉を失った。


 ……まさか、そんな細かいことまで覚えていたとは。

 俺は、この話題に触れられるとは思ってもいなかった。


 これまで、ルティシア は資金のことに関して何も言わなかったし、俺も特に説明することはなかった。旅の費用を負担するのは当然のことだと考えていたし、彼女が気にする必要はないと思っていた。


 だが、彼女はずっと覚えていた。


「そんなに細かく覚えてるのか?」


 俺は思わずそう問いかける。


「当然のこと。」


 ルティシア は静かに答えた。


「あなたは、ずっと私のために動いてくれている。でも、私はただ守られるだけの存在でいたくない。」


 少しの沈黙の後、彼女は俺をまっすぐに見つめた。


「あなたが公会で受ける仕事、私も手伝う。そして、その報酬の一部を私に分けてほしい。」


「……」


 俺は眉をわずかに寄せ、しばらく考え込む。


 この旅の間、費用を負担することは俺にとって特別なことではなかった。むしろ当然のことだった。ルティシア の状況を考えれば、俺が面倒を見るのは当たり前だと思っていた。


 だが、彼女はそれを「負担」だとは考えず、自分の力で返そうとしている。


 それは、借りを返したいからではなく、ただ「対等でいたい」からだ。


 もし、ここで俺が否定すれば、彼女の意志を踏みにじることになる。


「……」


 俺は小さく息を吐き、ゆっくりと頷いた。


「わかった。これからの報酬は、お前にも分ける。」


 すると、ルティシア はわずかに頷き、どこかほっとしたような表情を見せた。


「ありがとう。」


 その声はいつもと同じ落ち着いたトーンだったが、彼女の瞳の奥には、自分の意思を貫いた満足感がわずかに見えた。


 彼女は、ただ守られる存在ではなく、自らの力で俺と共に歩むことを望んでいる。


 ならば、俺はその意志を尊重するべきだ。


 こうして、一日の行動を終えた俺たちは、それぞれの思考を抱えながら宿へと戻った。



 宿の扉を開けると、賑やかな談笑が耳に飛び込んできた。


 ロビーの片隅、円卓に並ぶ料理と酒瓶。


 そこには、既にグラスを片手に楽しげに談笑する リヴィアン、カスタ、そして ミレイア の姿があった。


「おやっと、ようやく戻ったのね?」


 リヴィアン は俺たちを見つけると、軽くグラスを掲げ、にっこりと微笑む。


「さあさあ、今日は良い日だったわ。せっかくだし、一杯どう? ロイ大人も、お堅いことは抜きにして楽しみましょう?」


 俺たちは 彼女たちと再び合流し、賑やかな夜が始まった。

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