28.浮遊書庫の手がかり
部屋の灯りは柔らかく、
深みのある木製の床に淡い影を落としていた。
魔導灯の微かな揺らめきが、
静寂の中にわずかな温もりを添えている。
外はすでに深夜だというのに、
ルミナスの街は静まり返ることなく、穏やかな律動を刻んでいた。
窓辺に立つルティシア の視線が、一瞬外へと向けられる。
何かを考えているような仕草の後、
彼女はゆっくりとうつむき、小さな声で呟いた。
「……節約にもなるし、一緒の部屋で構わないよ。」
それは、あくまで淡々とした口調だった。
だが――
俺はすぐに気づいた。
その声音のわずかな不自然さ に。
ルティシア の頬はかすかに染まり、
指先は微かに収縮していた。
彼女自身は平静を装っている。
だが、心の内は、決して冷静ではない。
俺はすぐに答えず、ただ彼女を見つめる。
――俺たちが同じ部屋に泊まるのは、これが初めてではない。
それなのに、彼女はまだ、この状況に多少なりとも動揺している。
言葉にしなくとも、
その微細な仕草が、彼女の感情を雄弁に語っていた。
……変に突っ込めば、
さらに気まずい空気になりかねない。
俺は、一旦何も言わず、空気を乱さないようにした。
◆
しばしの沈黙の後、
ルティシア が小さく息を吸い込み、
今度は少し違う口調で話し始めた。
「……私は、自分の魔法を習得したい。」
先ほどよりも、強い意志がこもった声。
彼女はゆっくりと顔を上げ、
まっすぐ俺を見つめた。
魔導灯の灯りを受けて、
銀白の瞳が、わずかに輝く。
「このままじゃ、ずっと……頼ってしまう。
それも嫌だし、あなたの足手まといにもなりたくない。」
……俺は、一瞬、言葉を失った。
彼女の表情には、迷いがない。
そこにあるのは――決意。
彼女は、ずっと前から考えていたのだろう。
ただ、それを言葉にする機会がなかっただけで。
彼女の言葉には、迷いがなかった。
それは、ただの思いつきではなく、
ずっと心の中に秘めていた決意――
だが、今まで言葉にすることができなかっただけの思い。
俺は静かに息を吐き、
落ち着いた声で告げた。
「お前は、俺の足手まといになったことなんて、一度もない。」
ルティシア の睫毛が、かすかに揺れた。
彼女は驚いたように一瞬目を見開くが、
すぐに元の表情へと戻る。
彼女はきっと、俺がどう返すのか、
何か言い訳をするのか――
そんなことを想定していたのだろう。
だが、俺はただ事実を述べたまでだ。
彼女の視線を正面から受け止めながら、続ける。
「……だが、魔法を学びたいというのは、いいことだ。」
「ちょうどイリウスの情報を探す 必要もあるし、
それと並行して、どこで魔法を学べるか探してみよう。
魔力を制御する道具があれば、それも視野に入れておく。」
彼女は少し考えたあと、静かに頷いた。
その表情は、どこか張り詰めていたものが和らいだように見える。
俺も、それ以上は深く追及しなかった。
彼女にとって、これはただの「学習」ではない。
――自分自身の証明 なのだ。
◆
話題が一区切りついたことで、
部屋の空気も少しだけ軽くなる。
俺は壁にもたれながら、
今日、街で見た光景を思い返していた。
そして、ふと口を開く。
「……しかし、この街の異種族の共存は、やはり驚くな。」
「他の国では、種族ごとに明確な区分があることが多い。
だが、ここではそれがない。
共に商会を運営し、学問を共に学ぶ――
聖都とは、まるで別の世界だ。」
ルティシア は俺の言葉に耳を傾けながら、
ゆっくりと視線を落とす。
まるで何かを思い出すように、
一瞬、目が揺らいだ。
そして、静かに呟く。
「……昔、母さんと放浪していたとき、
ある獣人に助けられたことがある。」
「……」
俺は、少し驚き、無意識にルティシアを見る。
「……そうか。」
「うん。」
彼女は小さく頷きながら、
窓の外、灯りの灯る街並み を見つめる。
「そのとき、私たちは狙われていた。
まだ魔力をうまく制御できず、戦う術もなかった。
でも、その獣人は私たちを助けてくれて、
安全に休める場所まで案内してくれたの。」
彼女の語り口は落ち着いていて、
まるでずっと昔の出来事を回想するかのよう だった。
だが――
彼女の指先は、無意識に膝の上をなぞっていた。
それは、ただの何気ない仕草ではない。
彼女の記憶の奥深くに、
今でも強く刻み込まれている証拠だった。
「だからね。」
ルティシア はふと、小さく微笑んだ。
「私にとって、異種族は排斥するものじゃない。
むしろ……」
「人間より、よっぽど信用できることもある。」
彼女の唇に浮かぶのは、ほのかな皮肉めいた笑み。
その言葉は、まるでこれまでの経験のすべてを示すよう だった。
……意味深な言葉だ。
俺はすぐには返事をせず、静かに考え込んだ。
すると――
「……それにね。」
彼女は、急に俺の方を向いた。
そして、僅かに悪戯っぽい光を瞳に宿しながら、
小さく微笑む。
「私たちも、異種族みたいなものじゃない?」
「……何?」
俺は思わず眉をひそめる。
思考が、彼女の言葉に追いつかなかった。
「私は人間じゃない。暗裔族だから。」
彼女はさらりと言いながら、
首を傾げるように俺を見つめる。
そして、静かに付け加えた。
「それに、あなたも――
聖都からすれば、"異端" でしょ?」
「つまり、ある意味では、
もう人間の一員じゃなくなってる かもしれないね?」
俺は言葉を失った。
彼女の語り口はどこまでも静かで、どこまでも淡々としていた。
しかし、その瞳には、
まるで俺をからかうような小さな悪戯心 が滲んでいる。
……なるほどな。
これは俺を試しているんだな?
俺は額を押さえながら、
少しだけ肩をすくめ、静かに嘆息する。
「……その理屈は、反論しにくいな。」
「ふふ。」
彼女は満足げに頷くと、
何事もなかったかのように視線を逸らす。
――この短いやり取りが、妙に彼女らしかった。
出会ってから、
彼女はほとんど自分の過去を語ろうとしなかった。
いつも短く、いつも慎重に、
俺との間に一定の距離を置いていた。
だが――
今日の彼女は違った。
自ら母親の話をし、
かつて獣人に助けられた記憶 を語った。
それは、彼女にとって――
ほんの少し、心を開いた証なのかもしれない。
俺はしばらくの間、何も言わず、ただ彼女を見つめていた。
ルティシア もまた、いつものように視線を逸らすことなく、
まっすぐ俺を見つめ返していた。
彼女は、決して言葉を濁さず、
自分の気持ちをしっかりと伝えた。
そして――
今、この瞬間も、俺の返事を待っている。
それが、妙に嬉しかった。
俺は小さく息を吐き、
静かに言葉を紡ぐ。
「……俺のことなら、いつでも聞いていい。」
ルティシア の瞳が、わずかに揺れた。
一瞬、驚いたように目を見開き、
僅かに戸惑いの色がよぎる。
だが、その感情はすぐに消え去り、
彼女はいつものように冷静な表情へと戻る。
そして、淡々とした口調で、
短く答えた。
「……分かった。」
それからしばらく、言葉はなかった。
だが、
その沈黙は決して居心地の悪いものではなかった。
長い旅路を経て、俺たちの身体には疲労が蓄積していた。
部屋には、ほんのわずかに微妙な空気が流れていたが――
少なくとも、以前ほどの気まずさはなかった。
俺たちは、ごく自然に、
最低限の会話だけを交わし、
それぞれの準備を整えた。
そして、
特に多くを語ることなく、静かに床に就く。
互いに、少しずつ、この距離に慣れてきたのかもしれない。
――こうして、俺たちのルミナスでの初夜が、
静かに幕を下ろした。
意識が戻ったとき、
窓の外から差し込む光が、
静かに部屋の中を照らしていた。
淡い朝の光が木製の床に斜めに落ち、
微かな暖かさを伴って空間を包み込む。
空気の中には細かな塵が舞い、
光と影の狭間でゆっくりと漂っていた。
俺はゆっくりと目を開き、
ぼんやりとした意識のまま、
手で乱れた髪を無造作に撫でる。
まだ完全に覚醒しきっていない頭を切り替えながら、
周囲の状況を把握しようとした――
そして、視界の端に映る光景に、
俺は思わず動きを止めた。
ルティシア の寝台。
彼女の掛け布団は緩やかに腰のあたりまで滑り落ち、
薄手の寝間着が、しなやかな肢体に寄り添っていた。
朝の光がその輪郭を優しくなぞり、
繊細なシルエットを浮かび上がらせる。
銀白の髪が枕に広がり、
その一本一本が、月光のような冷ややかな輝きを宿している。
微風がカーテンを揺らし、
彼女の髪をそっとすくい上げると、
ふわりと胸元をかすめて落ちていく。
彼女は静かに眠っていた。
長い睫毛が、閉じられた瞼の上に影を落とし、
その横顔は、あまりにも整いすぎている。
鼻筋は繊細で、輪郭には無駄な線が一切なく、
まるで神が精巧に造り上げたかのような均衡を持つ美貌。
薄く色づいた唇は、わずかに開いており、
規則正しい呼吸に合わせて、かすかに動いていた。
そして――
彼女の肩口から腕にかけて、
黒い呪印 が淡く浮かび上がっていた。
その紋様は、まるで闇が滑らかに流れるように、
白い肌の上を這い、異様な美しさを持っていた。
それは忌むべき呪いの証。
……なのに、どうしてこんなにも目を引く?
まずい。これは、まずい。
冷静になれ、俺。
何をじっくりと観察している。
朝からこれは刺激が強すぎる。
明らかに意識を試されているとしか思えない。
「いやいや、違う、今そんなことを考えてる場合じゃない!!」
俺は心の中で叫びながら、
咄嗟に視線を逸らす。
考えろ、今すべきことは――
上着を羽織る、襟を整える、
今日の行動計画を立てる、
いやむしろ、部屋を飛び出して冷静になるべきだろ?!
……よし。
落ち着け、俺。
今すぐこの部屋を出る。
そして、一切余計なことを考えず、
さっさと行動を開始する――!!
俺は素早く外套を羽織り、
襟をしっかりと引き締めた。
――よし、今のうちに部屋を出る。
ルティシアが目を覚ます前に、一旦外で気持ちを落ち着けるんだ。
そう決めて、椅子から立ち上がった――
その瞬間。
「……ん?」
微かな寝返りの音と共に、
小さな声が耳に届いた。
ルティシア が、
かすかにまぶたを震わせる。
そして――
銀白の瞳が、朝の光を受けながら、ゆっくりと開かれた。
「……おはよう。」
寝起きのぼんやりとした目で、
彼女は穏やかにそう言った。
その声は、普段の冷静なトーンとは違い、
少し鼻にかかった、まだ眠気の残る柔らかい響き。
――これは、ズルい。
俺の思考が、一瞬でフリーズした。
朝の光を受けた彼女の銀髪が、ふわりと揺れ、
睫毛の影が頬に淡く落ちている。
普段の冷静で端正な表情はどこにもなく、
今ここにいるのは――
無防備な、寝起きのルティシア。
俺は即座に視線を逸らし、
平静を装いながら襟元を整える。
「おはよう。」
落ち着け、俺。
何もなかったように、いつも通り振る舞え。
「俺は先にリヴィアンを探しに行く。
お前はもう少し休んでいていい。」
ルティシア は、まだ少し眠たげに瞬きをしたあと、
静かに頷いた。
「……うん。」
眠気を含んだ、素直な返事。
だが、彼女は特に何も聞き返すこともなく、
俺の異変にも気づいていない様子だった。
――神よ、これは本当にあなたの悪ふざけではないのか?
俺は心の中でツッコミを入れながら、
何とか平常心を取り戻し、扉へと向かった。
さっさと外に出よう。
そう思いながら、俺はドアを開け――
――そして、足を止めた。
目の前にいたのは。
ドアに耳を当てて、思いっきり盗み聞きをしていたリヴィアン。
そして、その隣で腕を組んでいるミレイア。
さらに――
明らかに「お楽しみだったな?」という顔をしたカスタ。
……。
…………。
「……何してる?」
俺は彼らの意図を一瞬で理解し、
小さく息を吐いた。
――面倒くさい。
目の前のリヴィアン は、
明らかに現場を押さえられた側の人間 の表情をしていた。
ばつが悪そうにスカートの裾を整え、
何か言い訳しようと口を開きかけたが――
俺はそれを許さなかった。
「……説明しなくていい。
だいたい何を考えていたのか、察しはつく。」
俺は淡々とした口調で続ける。
「だけど、残念だったな。
お前が期待しているような展開は、何も起こらなかった。」
リヴィアン:「……」
カスタ:「……」
ミレイア:「……」
数秒の静寂。
そして――
「……ククッ」
堪えきれなくなったのか、カスタ が低く笑う。
一方、リヴィアン は眉をわずかに上げた後、
すぐに平静を取り戻し、口元に意味深な笑み を浮かべた。
「……まあ、そういうことにしておきましょうか。」
彼女は軽く手を振りながら、
どこか遊び心を含んだ口調で言う。
「でもね、大人?」
「人の会話を盗み聞きするのは、あまり良い行為じゃないですよ?」
「それは俺が言うべきセリフ だろ。」
俺は、ため息混じりに返す。
「朝起きたら監視されてるとか、
気分がいいもんじゃない。」
「監視? それは言い過ぎでは?」
リヴィアンは肩をすくめ、
まるで悪びれる様子もなく小さく笑った。
そして、
軽く手を叩いて こう告げる。
「はいはい、冗談はこの辺にして。
今日の予定を話しましょうか。」
「……」
俺はまだ若干の不満を残しつつも、
渋々彼女の話に耳を傾けた。
「今日は魔導士協会と公会 に行く予定よ。」
「……魔導士協会?」
俺は眉をひそめる。
「お前たち、そこに何の用がある?」
「ん~、」
リヴィアンは適当に手をひらひらさせながら、
あっさりと答えた。
「実はね、私、魔導士の資格を持ってるのよ。」
「……は?」
俺の思考が、一瞬止まる。
「ただ、あまり使わないから、
せっかくだし認定情報を更新しておこうと思ってね。」
彼女はさらりと言うが――
……こいつが正式な魔導士 ?
俺は彼女の実力を軽くは見ていないが、
戦場では指揮や戦術の組み立てが中心で、
いわゆる"魔導士" らしい戦い方をしている場面を見たことがなかった。
だが、まさか……
「……意外だな。」
俺は率直な感想を漏らした。
「そして、公会についてだけど、」
リヴィアンはそのまま続けた。
「情報収集がメインね。
あとは、この国の商業ギルドの動向を確認するつもり。」
俺は少し考えたあと、
「じゃあ、一緒に行こう。
その後は俺一人で別行動する。」と答えた。
すると――
「……ふふん?」
リヴィアンが、興味深げに片眉を上げる。
そして、口元にからかうような笑み を浮かべながら言った。
「もしかして、デートの予定かしら?」
「……。」
俺は完全に無視して、
淡々とした口調で答えた。
「イリウスの情報を集めるついでに、
街の魔導具店を見て回るだけだ。」
「……つまらないわね。」
リヴィアンは、
わざとらしく肩をすくめて、溜息をつく。
「まあ、確かにこの街の魔導具は評判がいいし、
もしかしたら面白いものが見つかるかもしれないわね。」
「それじゃ、今日の予定は決まりね。」
そう言いながら、
彼女は軽く手を叩いてまとめた。
「朝食を済ませたら、すぐに出発しましょう。」
客舎の一階にある食堂は、
思ったよりも賑やか だった。
旅人や商人たちが、
それぞれの交易事情や各地の情報を交わし合っている。
俺たちは、
比較的静かな隅の席を選んで座った。
食事の種類は、なかなか豊富だった。
香ばしく焼かれたパン、
食欲をそそるスパイスの効いた煮込み肉、
新鮮な果物と漬物が、
木製のトレイに綺麗に並べられている。
……見た目からして、間違いなく美味そうだ。
俺が朝食を楽しもうとした、その時だった。
隣に座っていたカスタ が、
重々しく溜息をついた。
「……はぁ、飲み損ねた……」
何かを失った男のような、哀愁漂う声。
俺は眉をひそめる。
「……朝から何を嘆いてる?」
「それが問題なんだよ!」
カスタはテーブルに肘をつき、
悔しそうに拳を握る。
「朝飯に酒を添える のが、普通 だろ?」
「……どこが?」
「なのに!」
「ミレイアに止められたんだよ……!」
俺は、思わずミレイアを見る。
彼女は、カスタの主張など微塵も気にせず、
パンを一口食べた後、冷静に言った。
「朝から酒を飲むのは、不自然。」
「戦士は飲むんだよ!」
カスタは即座に反論する。
「戦場では、酒が士気を高めるんだ!
緊張を和らげ、体を温め、気力を増す。
だから、朝の一杯は常識だ!」
「ここは戦場じゃない。」
ミレイアは冷ややかに言い放った。
「だが――」
「ダメ。」
「……」
カスタは、悲劇の主人公のような表情 で項垂れた。
「はぁ……俺の一日の楽しみが……」
◆
そんなやり取りを、
リヴィアンは楽しそうに見守っていた。
そして、
軽く肩をすくめながら、
面倒くさそうな口調で言う。
「まあまあ、ここはルミナスよ?
夜になれば、いくらでも飲めるでしょう?」
「……確かに。」
カスタは、
すでに夜の酒場の予定を考えているのか、
納得したように頷く。
――よかったな、ミレイア。
少なくとも、朝の一杯は阻止できたぞ。
俺は小さく息を吐き、
再び食事へと意識を戻す。
こうして、俺たちのルミナスでの最初の朝 は、
「酒を巡る攻防戦」 の末に幕を下ろした。
朝食を終えた俺たちは、
魔導士協会 へ向かい、今日の行動を開始した。
――ここ、ルミナスでの探索は、まだ始まったばかりだ。
◆
会話を交わしながら進んでいると、
やがて目的地である魔導士協会 の建物が見えてきた。
この施設は、ルミナスの中心部 に位置しており、
単なる行政機関というよりも、
まるで学問と魔法が融合した神聖な殿堂 のような雰囲気を持っている。
大理石の柱が並ぶ荘厳な造りの建物。
入口の扉には、魔法の封印陣が施され、
大広間の壁には精密な魔法陣と符文 が刻まれている。
内部には、様々な魔導士たち が行き交い、
それぞれが異なるデザインの魔術師のローブを身にまとっている。
この場所には、
冒険者ギルドのような喧騒 ではなく、
静謐な学術的な空気 が流れていた。
俺たちが大広間に足を踏み入れると、
まず目に入ったのは高くそびえる本棚 だった。
壁際には、巨大な書架が並び、
各所には、宙に浮かぶ魔導燈 が漂っている。
普通の光源とは異なり、
この魔導燈は一定の距離と明るさを自動で調節 し、
常に最適な照明環境を維持 しているようだった。
俺は思わず、周囲を見渡しながら小さく呟く。
「……学術的な雰囲気がすごいな。」
「ここは、国が正式に認定している魔導士機関 だからね。」
リヴィアンが、楽しそうに微笑みながら答える。
「ロイ大人は、こういう場所は苦手?」
「……思っていたよりも、ずっと厳格 だな。」
俺は行き交う魔導士たちを眺めながら言った。
彼らは皆、どこか知性と冷静さを感じさせる佇まい で、
冒険者ギルドのような無造作な活気 とは全く異なっていた。
むしろ、ここは……
「研究機関のような雰囲気 だな。」
「ま、ここはルミナスだからね。」
リヴィアンは肩をすくめ、
まるで「当たり前じゃない?」と言わんばかりの態度で応じた。
「じゃあ、私は魔導士認定の更新をしてくるわ。
あなたたちは自由に見て回ってていいわよ。」
そう言い残し、
彼女は受付カウンターの方へ歩いていった。
俺は、その隙を利用し、
イリウス について情報を集めることにした。
受付の職員に尋ねると、
彼は少し考えた後、こう答えた。
「イリウス……ですか?」
「現在の彼の状況をお知りになりたいのですね?」
「もし分かるなら、彼の行方を教えてほしい。」
俺が試しに聞いてみると、
職員は、少し残念そうに首を横に振る。
「イリウス様は、国から賢者として認定された魔導士 ですが、
実はここ数年、ほとんど姿を見せておりません。」
「最後に正式な場で確認されたのは……
ルミナスの『浮遊書庫』 です。」
「しかし、それ以降、
彼の消息は不明となっています。」
俺は眉をひそめる。
「……浮遊書庫?」
職員の言葉を反芻しながら、
更に質問を投げかけた。
「それについて、詳しく聞かせてくれ。」
「浮遊書庫 とは、
この都市で最も古い魔法図書館の一つです。」
受付の職員は、穏やかな口調で説明を続けた。
「貴重な魔導知識が多数収蔵 されており、
その一部の区域に入るには、国から認定された魔導士 または学者資格 が必要になります。」
「しかし……」
彼は少し眉をひそめ、
残念そうに続けた。
「イリウス大人は、そこで目撃されたのを最後に、行方が分からなくなりました。」
「協会としても、その後の足取りは把握できておりません。」
この情報は、決定的なものではなかった。
しかし――
少なくとも、イリウスと浮遊書庫が関係している可能性 が高い。
それは、十分に追跡する価値のある手がかり だった。
俺はそれ以上深追いせず、
話題を変え、次の質問を投げかけた。
「では……この都市で魔法を学ぶには、どのような方法がありますか?」
受付の職員は、すぐに答える。
「正式な魔法教育を受けるのであれば、
最も適しているのは魔法学院への入学です。」
「魔法学院では、体系的な魔導士教育 を受けることができます。
入学から卒業まで、およそ六年 の課程が必要ですが……」
「……六年?」
隣にいたルティシア が、
その数字を聞いた瞬間、僅かに表情を変えた。
――六年。
俺たちが、そんなに長い時間ここに留まるのは現実的ではない。
「……それ以外に、別の方法はあるのか?」
俺はすかさず、次の選択肢を尋ねた。
「ございます。」
受付の職員は、軽く頷いた。
「もし、国が認定する魔導士や賢者が弟子を取ることに同意すれば、
学院に通わずとも、
特別な例として学ぶことが可能です。」
「さらに、所定の試験に合格すれば、
正式な魔導士の資格を取得することもできます。」
――私塾、あるいは師弟制度。
それなら、時間を短縮することが可能だ。
しかし……
「ですが、この方法は非常に稀です。」
受付の職員は、念を押すように言った。
「魔法学院は、魔導士を体系的に育成する場です。
したがって、国としても、通常の入学を推奨しています。」
「さらに、個別に弟子を取る魔導士は少なく、
通常は王族や天才級の人物に限られる 傾向があります。」
俺は少し考え込んだ。
魔法学院の六年課程は現実的ではない。
だが、個別指導を受ける方法なら、
時間を短縮できる可能性はある。
……問題は、その師を見つけるのが極めて難しいという点だ。
簡単ではない。
だが、選択肢がゼロではない以上、探る価値はある。
今の俺たちにできることは、
さらに情報を集め、他の選択肢を探ること。
「ご協力、感謝します。」
俺は冷静な口調でそう伝えたが、
心の中では先ほどの情報を整理しながら、
次に何をすべきかを考えていた。
ふと、隣にいるルティシア に目を向ける。
彼女は微かに俯き、
感情を表に出してはいなかった。
だが――
先ほど、
「魔法学院の課程は六年」 と聞いた瞬間、
彼女の瞳が一瞬、沈んだ のを俺は見逃さなかった。
――彼女は、本気で魔法を学びたいと思っている。
自分が足手まといにならないために。
それは、すでに分かっていることだ。
だが、時間の制約がある以上、
果たして別の方法は存在するのか?
そんなことを考えていた時、
ルティシアが俺の視線に気づいたのか、
ゆっくりと顔を上げた。
銀白の瞳が、
魔導士協会の柔らかな光を映し出す。
そして、静かに――
しかし、確かな意志を込めた声で言った。
「……誰も教えてくれないなら、自分で学ぶ。」
彼女の声には、
余計な感情の揺らぎはなかった。
ただ、強い決意 だけが感じられた。
だが――
彼女の指先は、無意識に衣の袖を握りしめていた。
その仕草が、彼女の本音を雄弁に物語っていた。
ルティシアは、環境のせいで諦めるような人間ではない。
俺は、それを誰よりも知っている。
だが――
魔法は、意思だけで学べるものではない。
特に、彼女の呪いは依然として不安定 だ。
安易な独学は、予測不能な危険を伴う可能性がある。
俺は、彼女の意志を尊重したい。
だが、その方法は慎重に考えなければならない。
協会の職員は、
ルティシアの言葉に僅かに興味を示し、
軽く頷いた。
「もし独学で魔法を学びたい のであれば、
浮遊書庫 に行くという選択肢もあります。」
「……浮遊書庫。」
ルティシアは、その名をゆっくりと繰り返した。
彼女も、この場所の重要性 に気づいたのだろう。
「そうです。」
職員は頷き、
詳細を説明し始めた。
「浮遊書庫 には、
多くの魔導書 が収められています。」
「一部の区域は制限されており、
学院の上層部や特定の身分を持つ者のみが立ち入れます。」
「しかし、一般開放されている学習区 も存在し、
多くの魔法学院の生徒や研究者たちが
そこで魔法の知識を学んでいます。」
その話を聞き、
俺は改めてこの書庫の価値 を見直した。
「……浮遊書庫か。」
ここは、イリウスの最後の目撃場所 であり、
ルティシアの学習の場 にもなり得る。
俺たちがルミナスに到着した際、
すでにあの空に浮かぶ巨大な建築物 を目にしていた。
――まさか、こんなにも深く俺たちの目的と関わることになるとは。
今の俺たちにとって、
浮遊書庫は単なる魔法の象徴ではなく、
必ず訪れなければならない場所になった。
「……なるほど。」
俺は軽く頷き、
この情報をしっかりと頭に刻んだ。
そして、改めて協会の職員に礼を言う。
◆
「ふーん、なかなかいい収穫だったんじゃない?」
リヴィアンは、満足げに微笑みながら、
気怠げな口調で言った。
「じゃ、次は公会に行きましょうか。」
俺たちは魔導士協会を後にし、
次の情報源――
ルミナスの公会 へと向かう。