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流亡した聖職者と捨てられた少女  作者: 藹仁
堕落した聖職者と呪われた少女
26/32

26.いわゆる極意について

 夜の帳が町を包み込み、宿の前の通りはひっそりと静まり返っていた。

 遠くで時折響く馬の蹄の音だけが、夜の静寂をかすかに破る。


 馬車は宿の前に停まり、馬が時折尾を振って静かに待機していた。

 御者台にはカスタ が手綱を握りながら、退屈そうに欠伸を一つ。


「ちょうどいい時間ですね。」


 リヴィアン は馬車の中で軽く体を伸ばし、

 宿の扉から姿を現したロイ とルティシア を見やる。


「そろそろ、出発といきましょうか。」


 ロイ は周囲を見回し、

 怪しい視線がないことを確認すると、

 まずルティシア を先に馬車へと乗せ、自身も後に続いた。


 馬車の中では、リヴィアン が脚を組み、

 口元に薄く笑みを浮かべながら座っている。


 ミレイア は無言で武器を抱え、

 淡々とした視線を一瞬だけロイ に向ける。


 すべての準備が整ったことを確認し、

 カスタ は軽く手綱を振った。


 馬が歩みを進め、馬車はゆっくりと宿を後にし、

 城外へ向かって静かに動き出した。


 ――馬車の車内。


 揺れる燭火が車内をぼんやりと照らし、

 木製の座席に腰を下ろしたロイ が、

 静寂を破るように口を開く。


「……お前たちの商隊は、主にどんな取引をしている?」


 リヴィアン はその問いに、口元を軽く吊り上げた。


「ロイ大人、もう私たちの商売に興味を?」


 彼女は気だるげに頬杖をつき、

 どこか楽しげに答える。


「主な取引は魔道具の売買 ですね。

 時にはその土地ならではの特産品を仕入れ、

 次の都市で販売することもあります。」


「他には?」


 ロイ は軽く眉を上げる。


「ええ、それから――」


 リヴィアン はゆるく指を動かしながら続ける。


「私たちは、運送や配送の依頼 も請け負います。

 手紙や荷物を届けたり、必要があれば護衛任務 も。

 旅の資金が尽きないようにするためには、

 こうした仕事も欠かせませんからね?」


 ロイ はそれを聞いて、わずかに頷く。


 単なる行商ではなく、柔軟な商売の形――


 リヴィアン の商隊は、

 その都度最も効率の良い形で利益を確保しながら、

 かつ行き先を限定されず、足取りを読まれにくくしている。


 それが、彼女たちの生存戦略なのだろう。

「この形で商売を成り立たせているとは……」


 ロイ は低く呟いた。


「お前、こういう分野ではかなりの手腕を持っているようだな。」


「まあ、ロイ大人ったら。」


 リヴィアン は口元の笑みを深める。


「それは褒め言葉 ですか?」


「商人にとって、情報と柔軟な対応力は生き残るための基本ですからね。

 この時代、固定観念に縛られていたら、あっという間に淘汰されてしまいますよ。」


 彼女は軽く肩をすくめながら言った。


 その間に――


 ルティシア は静かに聚魔の指輪 を取り出し、そっと指にはめた。


 指輪の内部に蓄えられた魔力が、彼女の魔法に応じて微かに波打つ。


 その影響で、彼女の外見がごく自然に変化していく。


 ――目立たない、どこにでもいる旅人のように。


 彼女は指輪をはめた手を一瞥し、

 指先で僅かに位置を調整すると、

 静かに袖の中へと収めた。


 馬車は静かな夜の道を進む。


 ゆっくりとした車輪の揺れが、車内の空気を穏やかにしていく。


 そんな中、ロイ はふと口を開いた。


「ルミナスとは、どんな国なんだ?」


「ルミナス、ですか?」


 リヴィアン は軽く車壁を指で叩き、

 口元に意味深な微笑を浮かべる。


「それは――なかなか特別な国 ですよ。」


 彼女は少し言葉を置き、ゆっくりと説明を続ける。


「ルミナスは、異種族の数が最も多い国の一つです。」


「獣人、ドワーフ、エルフ……そして、海人族まで。」


「さまざまな種族が共存する場所なので、

 外見の違いが目立つことは日常の一部 になっています。」


「だからこそ――」


 彼女はちらりとルティシア を見やる。


「お嬢さんも、そこでならわざわざ偽装する必要はない でしょうね。」


「周囲の目を気にせず、ただ旅人の一人としていれば、

 誰も深く詮索はしないはずです。」

 ロイ はしばし考え込む。


 確かに、これは俺たちにとって好都合な環境 だ。


 ルミナス に入れば、ルティシア はもう偽装魔法に頼る必要がなくなる。

 その分、魔力の消耗も抑えられ、安全性も大きく向上するだろう。


 だが――


「ルミナスが異種族に対してここまで寛容なのは、

 単に混血の多さが理由ではないんじゃないか?」


 ロイ はそう問いかけ、リヴィアン を見やる。


 彼女は微笑を深め、ゆっくりと頷いた。


「ええ、その通り。」


「『魔法の極意』 が、この国を特別な存在 へと変えたのです。」


「ルミナスが現在のような魔法大国へと成長したのは、

 この『魔法の極意』と深く関係 しています。」


 彼女は指先で軽く車壁を叩き、

 まるで話の流れを楽しむように、ゆるやかに言葉を続ける。


「彼が最も長くこの国に滞在し、

 その影響で、ルミナスは異種族の受け入れを推進し、

 魔法技術の発展を遂げたのです。」


「『魔法の極意』……」


 ロイ は低く呟く。


 この言葉を聞いたのは、今回が初めてではなかった。

 だが、それが具体的に何を意味するのか、

 これまで詳しく知る機会はなかった。


 そのとき――


 ずっと黙っていたルティシア が、静かに口を開いた。


「『魔法の極意』って……何?」


 彼女は少し首を傾げ、淡い銀の瞳にわずかな疑問を浮かべる。


 リヴィアン はその問いに、まるで予想していたかのように微笑む。


 そして、ゆったりとした口調で答えた。


「極意とは――ある分野において最強と認められた者 のことです。」


「そして、その名を持つ者は、神に選ばれた存在 とされるのですよ。」

 リヴィアン は優雅に指を宙で弾き、

 淡々とした口調で言葉を紡ぐ。


「現在、世界に知られる七つの極意 は――」


「剣術、結界術、魔法、聖術、闘術、鍛造、錬金術。」


 彼女がその名を順に挙げると、

 ルティシア はわずかに瞬きをし、

 その意味を理解しようとするように、

 首をかしげた。


「ある者が極意に至る か、

 または当代の極意保持者を打倒したとき――」


「その者の体には、

 該当する極意の紋章 が刻まれ、

 極意の祝福を受けることになる。」


 リヴィアン の言葉には、

 どこか語り慣れた調子があった。


「そして、各極意の保持者には、

 それぞれの称号 が与えられるのですよ。」


「例えば――現在の魔法の極意は、『破暁のブレイカー・オブ・ドーン』 の称号を持っています。」


「極意の祝福……?」


 ロイ は眉をわずかにひそめた。


 この言葉自体は、以前どこかで聞いたことがあった。

 だが、その本質について、具体的な記述を見たことはほとんどない。


「その祝福とは、何なんだ?」


「伝承によれば――」


 リヴィアン は微かに笑みを深め、

 まるで語ること自体を楽しむかのように続けた。


「それは、才能や鍛錬とは無関係の神秘の恩恵 だと言われています。」


「極意の祝福を受けた者は、

 その分野において揺るぎない絶対的な存在 となる。」


「それは単なる強さではなく、

 常識を超越した領域への到達を意味するのです。」


 彼女の琥珀色の瞳が、

 燭火に照らされて静かに揺れる。


「そして――」


「魔法の極意、『破暁の者』リオン・アトス は、

 その中でも最も伝説的な存在です。」


「……リオン・アトス?」


 ロイ の視線が鋭くなる。


「それは、終魔大戦の時代の人物 じゃないか?」


 終魔大戦――


 今から八百年以上前に起こった、

 世界の魔法体系を根本から変えた戦争。


 その戦乱の中で、多くの強者が歴史の闇へと消えた。


 リオン・アトス――


 彼は、その時代に名を刻んだ最も象徴的な魔導士 の一人だった。

「その通り。」


 リヴィアン は口元をゆるく持ち上げ、

 どこか気楽な口調で続けた。


「ただ、問題なのは――彼は今も生きている可能性がある ということですよ。」


「……何?」


 ロイ は眉を寄せる。


 その言葉の異常さに、初めて気づいた。


「まだ……生きているのか?」


「少なくとも、いまだに魔法の極意の祝福を受けた新たな者 は現れていません。」


 リヴィアン は軽く眉を上げながら、

 興味深そうな視線を向ける。


「通常、極意の持ち主が死亡すれば、

 新たな極意の保持者が誕生し、

 その証が現れるはずです。」


「ですが――」


「リオン・アトス が姿を消してから、

 未だに魔法の極意を受け継いだ者はいない。」


「つまり、この状況は二つの可能性 を示しているのです。」


 リヴィアン は指を二本立て、さらりと言った。


「彼がまだ死んでいない。」


「もしくは――」


「彼は既に新たな継承者を選んだが、まだ表に出ていない。」


「……」


 ロイ はすぐには言葉を返せなかった。


 考えれば考えるほど、

 この仮説の重みが増していく。


 ルティシア もまた、静かに聞いていたが、

 次第に目を見開き、小さく問いかける。


「……じゃあ、本当に彼は生きているの?」


 馬車の中に、一瞬だけ沈黙が落ちる。


 この話が持つ意味を考えれば、

 それも当然のことだった。


「八百年以上も……?」


 ロイ は眉をひそめる。


「確かに、エルフの寿命は人間より長い。

 だが、それでもそこまで生きることはあり得ないはずだ。」


「普通なら、そうですね。」


 リヴィアン は微かに首を振った。


「エルフの寿命はおよそ三百五十年。

 長寿の個体でも、五百年を超えることは稀 です。」


「だとすれば、彼が今も生きている可能性は――?」


 ロイ が尋ねると、

 リヴィアン は指を一本立て、

 軽快な口調で答えた。


「これはあくまで推測 ですが――」


「もし彼が生きているのなら、

 考えられる理由はいくつか あります。」


「一つ目――」


「彼自身が寿命を延ばす魔法を開発した。」


「二つ目――」


「極意の祝福が、異常な生命力を与えた。」


「三つ目――」


「彼は既に死んでいるが、新たな継承者がまだ名乗り出ていない。」


 ロイ はじっと考え込む。


 どの可能性も、完全に否定できるものではない。


 もし本当にリオン・アトス が今も存命なら――


 その存在は、もはや単なる伝説ではなく、

 今もどこかで魔法の歴史に影響を与えている ということになる。

「もし本当に、彼が今も生きているのだとしたら……」


 ロイ は慎重に言葉を選びながら、低く呟いた。


「魔法界に与える影響は、計り知れないだろうな。」


「そうかもしれませんね。」


 リヴィアン は軽く首を傾げ、気だるげに微笑む。


「ただ、彼の影響力は、すでにこの世界に深く刻まれていますよ。」


「彼がいたからこそ、ルミナスは魔法の大国となり、

 異種族間の共存も進んだのです。」


 ルティシア は、熱心に話を聞いていた。


 銀色の瞳に、微かな興奮の光が宿る。


 極意と歴史の話題に、強く惹かれているのが分かる。


 彼女は膝の上にそっと手を置き、

 わずかに身を乗り出すようにして、問いかけた。


「……では、現在の七つの極意は、どのような状況なの?」


「それと――」


「神は、本当に存在し、極意を与えているの?」


 彼女の声には焦りも疑念もない。


 純粋な好奇心が滲んでいた。


「神の認可」 という概念を、

 まだ完全には理解できていないようだった。


 リヴィアン はその問いに、わずかに眉を上げる。


 そして、ふっと笑いながら肩をすくめた。


「一般的には、神は存在するとされています。」


「ただ――」


「種族ごとに信仰する神は違いますし、

 極意の出現を**『神の御業』** だとする者もいれば、

 そうでないと考える者もいます。」


「ですが……」


 彼女は指先で軽く顎を支え、言葉を続けた。


「極意の顕現は、神の奇跡以外で説明するのが難しい のも事実ですよ?」


 一拍置き、彼女は目を細める。


「それと――」


「現在の極意については、正確な情報を持っているわけではありません。」


「というのも、こうした情報は一般には流通しませんし、

 多くは封じられたまま です。」


「ですが、今なお存在が確認されている 極意がいくつかあります。」


 リヴィアン は指を折りながら挙げた。


「鍛造、剣術、魔法、錬金術――

 この四つは、今でも現存することが知られています。」


 そして、彼女の唇がわずかに持ち上がる。


「……残るものについては、不明ですね。」


 彼女はそう言いながら、

 どこか意味ありげな視線をロイ に向けた。


「特に――聖術の極意。」


 彼女は、軽く酒杯を回しながら微笑む。


「それについては、私は全く知りませんね。」


「ですが――」


「元聖職者の大人なら、もう少しご存じなのでは?」


「聖都って、こういう情報を外部には一切漏らしません からね?」


 馬車内に、微妙な静寂が落ちる。


 全員の視線が、ロイ へと集まる。

 ロイ は静かに息を吐いた。


 そして、隠すことなく、落ち着いた声で答える。


「聖術の極意――それは、俺の師であるアリステル だ。」


 その言葉に、リヴィアン の微笑がわずかに消えた。

 ミレイア も、珍しく顔を上げ、驚きの色を滲ませる。


「……極意の弟子、ですか?」


 リヴィアン はゆっくりと眉を上げ、意外そうな表情を浮かべる。


「ロイ大人は、単なる聖都を裏切った元聖職者 だと思っていましたが……」


「まさか、極意と関わりがあったとは。」


「……いや、聖都を裏切ること自体、普通のことじゃないだろ。」


 ミレイア は僅かに首を傾げながら、

 淡々とした声で、皮肉交じりに呟く。


「むしろ、聖都から無事に抜け出せたこと のほうが驚きなんだが?」


 彼女は腕に抱えた剣を軽く握り直し、

 無表情のまま、じっとロイ を見つめる。


「でも、極意の弟子なら――」


「それも納得できる話ね。」


 彼女の視線には、

 ロイを再評価しようとする色が含まれていた。


 ルティシア もまた、彼を見つめていた。


 驚き、戸惑い、

 そしてどこか説明のつかない感情が混ざったような眼差し。


 彼女にとって、ロイ の過去が、

 これほどまでに伝説的な存在と結びついていたことは――

 想像もしていなかったことなのだろう。


 ロイ は小さく息を吐き、静かに言葉を継ぐ。


「……彼は、楽観的で、正しくあろうとする人だった。」


「『聖術の極意』 の名に、ふさわしい人物だったよ。」


 それ以上のことは語らなかった。


 彼の表情は平静だったが、

 その奥に宿る感情は、どこか複雑だった。


 リヴィアン はすぐに追及せず、

 少し考え込むように沈黙する。


 まるで、この情報の重さを測っているかのように。


 そして、やがて口を開いた。


「……聖術の極意 ですか。」


「もし彼がロイ大人の師なら……

 今、彼の立場は相当に悪い のでは?」


 ロイ は僅かに目を伏せ、

 首を振りながら、苦く笑う。


「俺には分からない。」


「聖都を出て以来、上層部の動向は詳しく知らないが……」


「影響を受ける者がいるとしたら、師は確実にその一人だろうな。」

 ロイ は静かに俯き、拳を軽く握る。


 まるで、心の奥に渦巻く感情を抑え込むかのように。


 そして、低く呟いた。


「……彼を巻き込んだのは、間違いない。」


 その声には、微かに後悔の色が滲んでいた。


「……でも、それで彼が危険な状況に陥ると思う?」


 リヴィアン は、先ほどよりも柔らかい口調で問いかける。


 彼女の瞳には、探るような光が宿っていた。


 ロイ は少し間を置いた後、ゆっくりと首を振る。


「……彼は、俺が見てきた中で最強の聖職者 だった。」


「いや――今まで出会ったどんな戦士や術者よりも、彼ほどの実力者を見たことがない。」


「だからこそ、俺は……彼が簡単にどうにかなるとは思えない。」


 ルティシア は、その言葉にわずかに目を見開く。


 彼女の唇が微かに動いた。


 ――何かを問いかけようとしたのだろう。


 だが、結局、言葉にはしなかった。


 ただ、じっとロイ を見つめる。


 彼の言葉に含まれた「信頼」という感情が、

 彼女にとっては理解しづらいもの だったのかもしれない。


 ――本当に、そんな聖職者がいるの?


 そんな疑問が、彼女の瞳の奥に浮かんでいるように思えた。


 馬車は揺れながらも、夜道を静かに進んでいく。


 車内の燭火が揺らめき、その光がそれぞれの表情を映し出す。


 そして――


 旅は長い。


 ずっと重い話題に浸っているわけにもいかず、

 時間とともに、自然と会話の流れは軽いものへと変わっていった。


 各地の市場、交易の動向、そして精霊族の独特なユーモア。


 ロイ は、特に多くを語らなかったが、

 適度に会話に応じながら、場の雰囲気を静かに見守っていた。


 ふと気づくと、馬車の中の空気は、

 最初の頃よりも明らかに和らいでいた。


 ――そして、静かに座るミレイア。


 彼女は変わらず多くを語らない。


 しかし、その瞳には、以前のような鋭い警戒 はほとんど残っていなかった。


 ロイ とルティシア に向ける視線も、

 当初のような「審査するようなもの」ではなくなっている。


 寡黙な彼女の性格自体は変わらない。


 だが、そこには明らかに、

 以前とは違う「距離の変化」があった。

 三日間の旅路は、昼と夜の巡りとともに静かに過ぎていった。


 馬車は山道を抜け、なだらかな平原へと入る。


 だが――


 車内の誰もが、微妙な空気の変化を感じ取った。


 道の先に、白銀の鎧をまとった聖騎士の部隊 が駐屯していたのだ。


 彼らは長槍と聖徽を掲げ、

 旅人や商隊を順番に呼び止め、慎重に検問を行っている。


「……やっぱり関所が設けられていましたか。」


 リヴィアン は小さくため息をつき、

 姿勢を正しながら遠くの様子を窓越しに眺めた。


「予想はしていましたが、やっぱり面倒ですね。」


「この国境を越えれば、聖都の影響は大きく減る。」


 ロイ は低く呟きながら、じっと聖騎士たちを見つめる。


「だが……この様子だと、巡回を強化しているのは間違いない。」


「――最近、異端者の逃亡を確認。

 馬車に紛れ込んでいる可能性あり。

 各隊は厳重に検問を実施せよ。」


 遠くから、聖騎士が命令を下す声が聞こえてきた。


 この一言に、馬車内の全員が一瞬、無言で視線を交わす。


「……情報が流れてますね。」


 カスタ の声が御者台から聞こえてきた。


「さて、どうやら計画通りにいくしかなさそうですね。」


 そう言いながら、彼は手綱を引き、馬車を止める。


 そのまま軽やかに御者台を降りると、

 手綱を持ち、落ち着いた足取りで聖騎士の方へと歩み寄った。


 聖騎士たち は、近づいてきたのが精霊族の商人風の男 だと認識すると、

 一瞬だけ様子を窺うように彼を見やった。


 その後、一人の聖騎士が前に出て、

 審査官らしい無機質な口調で尋ねる。


「名前、出身、目的を述べよ。」


 カスタ は適度な笑みを浮かべ、

 落ち着いた声で答えた。


「俺は西部の旅商人だ。

 この馬車で北へ向かい、物資の輸送と取引を行う予定でね。」


 聖騎士は表情を崩さぬまま、さらなる質問を投げかける。


「馬車には何人乗っている?」


「仲間と雇い主、それと数人の客人だよ。」


 カスタ の答えは、自然で違和感がない。


 だが――


 聖騎士は依然として疑いを抱いているようだった。


「最近、異端者が逃亡し、馬車に紛れ込んでいる可能性がある。

 安全のため、乗客全員に下車してもらい、検査を受けてもらう。」


 聖騎士の視線が、

 カスタ を通り越して、馬車の中へと向けられる。


 車内にいる全員が、次の展開を予想し、僅かに緊張を高める。


「……仕方ないですね。」


 リヴィアン は車壁を指先で軽く叩き、

 ロイ へと目を向けた。


「ここは、ロイ大人の出番ですね。」


 ロイ は目を閉じ、

 静かに深呼吸をする。


 そして――


 目を開けた瞬間、


 彼の姿が変わっていた。


 それは、かつて彼が見た異端審問官 の姿。


 服装、佇まい、表情、

 さらには、人を威圧するような冷酷な雰囲気まで――


 完全に模倣された、それは本物の審問官そのもの だった。

 ロイは悠然と馬車の扉を押し開け、

 火光と聖騎士たちの視線を浴びながら、

 ゆっくりと地面に降り立った。


 聖騎士たちは、彼の装いを目にすると、

 その態度を瞬時に変える。


 警戒の色が薄れ、若い聖騎士の数名は

 無意識のうちに姿勢を正し、軽く敬礼をする。


 ロイは何も言わず、淡々と彼らを見渡す。


 そして、懐から聖典 を取り出した。


 焚火の光を受け、教会の権威を象徴するその書物が、

 厳かな輝きを放つ。


 それを見た聖騎士たちは、さらに警戒を解く。


 隊を率いる聖騎士が、ロイを一瞥し、慎重な声で尋ねる。


「……あなたは?」


「お前たちは、すでに我々の時間を無駄にしすぎている。」


 ロイの声音は冷たく、威厳に満ちていた。


「まだ検問を続けるつもりか?」


「それとも――」


「本物の異端を、お前たちの目の前で逃がすつもりか?」


 その言葉は、単なる威圧ではない。


 それは、上級審問官としての厳正な叱責 だった。


 聖騎士の隊長は、一瞬、逡巡の色を浮かべる。


 若い聖騎士たちは互いに視線を交わし、

 その言葉を信じるかのように、徐々に動揺し始めていた。


 隊長は依然として疑念を持っていたが、

 目の前にいるのは審問官 であり、

 さらにその手には聖典 がある。


 それが揺るぎない権威を示している以上、

 このまま追及を続けるのは、彼らにとってもリスクがあった。


 やや間を置いた後、

 隊長は聖典を一瞥し、重々しく息を吐くと、

 慎重に言葉を紡いだ。


「……あなたの隊が異端者とは無関係であると判断しました。」


「これ以上の干渉はいたしません。」


「どうぞ、先へお進みください。」


 ロイは微かに頷き、

 審問官としての威厳を崩さぬまま、

 静かに馬車へと戻った。


 そして、馬車が動き出そうとした――


 その時。

「待ってください。」


 静かながらも威厳のある女性の声が響いた。


 その声音には、ただの呼びかけではない、

 拒絶を許さぬ確固たる力 が宿っていた。


 ロイ の胸に、一瞬の緊張が走る。


 彼はゆっくりと顔を向ける。


 そこに立っていたのは――


 紫色の中髪 を持ち、

 聖職者の長衣を纏った一人の女性。


 彼女の紫水晶のような瞳は、

 迷いなく馬車の方向を捉えていた。


 その歩みは落ち着いており、

 無闇に敵意を示すものではなかった。


 だが、その細やかな観察の色 を帯びた眼差しが、

 この場の空気を微かに張り詰めさせる。


「もう一度、確認させていただきます。」


 語調は穏やかでありながら、

 拒否を許さぬ確かな圧がこめられていた。


 彼女は馬車全体を一瞥し、

 次に、じっくりとロイ を見つめる。


 ――この声、この顔。


 ロイ の脳裏に、過去の記憶が駆け巡る。


 彼はこの人物を知っていた。


 聖都の高位聖職者の一人、エローウェン。


 かつて教会にいた頃、

 何度か顔を合わせたことがある相手。


 そして今、彼女が目の前にいる。


「再確認する」――


 その言葉の意図を、ロイは瞬時に理解した。


 内心では警戒を強めつつも、

 表面上は審問官の冷静さを崩さず、

 彼は淡々と問い返す。


「何か問題でも?」


 しかし、エローウェン は答えない。


 ただ、一歩、また一歩と、

 彼へと距離を詰めてくる。


 近づくにつれ、

 ロイ の体は無意識に緊張を強めていた。


 彼女の紫紺の髪が、夜風にさらりと揺れる。


 そして――


 彼女の視線が、ロイの顔に定まる。


 鋭く、静かに。


 まるで、何かを見抜こうとしているかのように。


「……」


 ロイ は表情を崩さない。


 だが、内心では全神経を研ぎ澄まし、

 絶対に変装の綻びを見せない ことに意識を集中していた。

 彼女の瞳には、細やかな観察の光が宿っていた。


 まるで、何かを確かめようとしているかのように。


 見慣れた何かを――

 それでいて、どこか違和感のある何かを、

 じっくりと見極めようとしているかのようだった。


 時間が、静寂の中でゆっくりと引き伸ばされていく。


 ロイ は冷静を保ちつつも、

 心臓がわずかに速く鼓動するのを感じていた。


 しかし――


 エローウェン はやがて、わずかに眉を寄せると、

 一歩、後ろへと下がった。


 まるで一瞬、何かを考えたように。


 そして、静かに言葉を告げる。


「……問題ありません。通行を許可します。」


 その言葉とともに、

 関所の聖騎士たちは、ゆっくりと道を開けた。


 ロイ は動揺を見せることなく、

 審問官としての威厳を保ったまま、軽く頷く。


 そして、振り返り、馬車へと戻る。


 やがて、馬車の車輪が転がり、

 一行はゆっくりと関所を抜けていった。


 ――聖都の境界を越える。


 馬車の中に腰を落ち着けた瞬間、

 ロイ は、ようやく小さく息を吐いた。


「……危なかったな。」


 窓の外に映る、遠ざかる関所を見つめながら、

 彼は心の中でそう呟く。


 もしあの場で偽装が見破られていたら、

 戦闘は避けられなかっただろう。


 そしてそれは、最も避けたかった展開 でもあった。


 だが――


 今はもう、聖都の影響が及ばない領域に出た。


 ほんのわずかに安堵しながら、

 彼は慎重に次の行動を考え始めた。


 ――その頃、関所では。

 エローウェン は、その場に立ち尽くし、

 遠ざかる馬車をじっと見送っていた。


 その紫水晶の瞳が、わずかに揺らぐ。


 しばし沈黙した後、

 彼女は、隣に控える聖騎士へと視線を向けた。


「……先ほどの馬車の記録を見せてください。」


 彼女の声は平静だったが、

 どこか思案するような響きがあった。


 聖騎士はすぐに記録帳を開き、

 恭しく報告する。


「はい、エローウェン様。」


「馬車の所有者は精霊族の男性、カスタ。

 雇い主はリヴィアン、

 護衛としてミレイア、

 同行者の一人にルティシア という名が記録されています。」


「……問題なく通行許可を出されているようですが、

 聖職者の登録名はエイキンソン となっています。」


「……エイキンソン?」


 エローウェン は、その名を小さく繰り返した。


 僅かに眉をひそめ、

 何か引っかかるものを感じていた。


 違和感。


 はっきりとした確信ではないが、

 どこか馴染みのあるような、

 それでいて何かが噛み合わない感覚。


 彼女はゆっくりと顔を上げ、

 夜闇の中に消えた馬車の方を見つめる。


 だが――


 最終的に、その違和感の正体を掴むことはできなかった。


「……いいでしょう。」


 風に揺れる紫紺の髪を手で軽く払うと、

 彼女は小さく息を吐く。


「確かな証拠がない以上、

 これ以上詮索する意味はありません。」


 それだけを言い残し、

 彼女は踵を返し、

 聖都駐留軍の陣営へと戻っていく。


 ――一方で、


 馬車の車輪は止まることなく回り続けていた。


 そして、ロイたちは確かに、聖都の影響範囲を脱したのだった。

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