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流亡した聖職者と捨てられた少女  作者: 藹仁
堕落した聖職者と呪われた少女
23/32

23.微かな光の中で

 町に入ると、ロイはルティシアに偽装魔法を施した。魔法の光が一瞬輝き、彼女の銀髪は普通の栗色へと変わり、銀色の瞳も落ち着いた灰褐色に染まる。その変化によって、彼女は目立たない、ごく普通の少女のように見えるようになった。ロイの聖術では彼女の呪いの気配を完全に消すことはできなかったが、それでも通行人の目を引くことは防げるだろう。


 町では、早朝の住人たちがちらほらと通りを行き交っていた。静かな空気が、昨夜の緊迫した状況を遠いものに感じさせる。ロイはふと空を見上げた。朝の微かな光が屋根を照らし、夜の不気味な静寂とは打って変わって、町はすっかり日常を取り戻したかのようだった。


「杖の影響は消えたな。」ロイはそう確信した。町を覆っていた異様な静けさと圧迫感は、あの杖が破壊されたことで消え去ったのだ。だが、これほど広範囲に精神を支配する魔法とは……。

【背信】の力は一体どれほどのものなのか?


 ルティシアの姿が傍らをすり抜け、ロイの指示に従いながら路地の奥へと進んでいく。彼女の手には、まだ恐怖の余韻を残したままの少年がしっかりと握られていた。小さな手は微かに震えながらも、ルティシアの手を強く握り返していた。まるで、手を放せば再び闇に飲まれてしまうとでもいうように。いくつかの曲がりくねった小道を抜け、彼らは簡素な民家の前にたどり着いた。半開きの扉の奥からは、低く静かな祈りの声が聞こえてくる。


「ここでいいの?」ルティシアが膝をつき、少年に優しく問いかける。


 少年は顔を上げ、焦りと期待に満ちた瞳で彼女を見つめ、力強く頷いた。「お母さん……きっと心配してる……」


 ロイは一歩前へ出て、扉を軽く叩く。「君の息子を連れてきた。」


 すると、家の中から急ぎ足の音が響き、次の瞬間、扉が勢いよく開かれた。

 そこに立っていたのは中年の女性だった。彼女は少年を一目見るなり、驚きと歓喜が入り混じる表情を浮かべ、駆け寄った。そして、何も言わずに少年を抱きしめる。


「よかった……! 本当に……!」彼女の声は震えていた。


「彼はただ怯えていただけで、怪我はない。」ロイは穏やかに告げ、軽く頷いた。

 婦人の目から涙があふれ、子供をしっかりと抱きしめながら、震える声で何度も祈りを捧げた。


「神のご加護に感謝を……感謝を……」


「あなた方は聖都の信徒なのか?」

 ロイが問いかける。穏やかな口調ではあったが、その視線はわずかに鋭さを帯び、婦人の反応を静かに観察していた。


 婦人は何度も力強く頷き、確信に満ちた表情で答える。

「ええ、私たちは家族全員が神を信仰しています。どうか、神が私たちをお導きくださいますように……」


 そう言いながら、彼女は袖で涙を拭う。その声にはなおも敬虔な震えが混じっていた。


 ロイはその言葉を聞くと、わずかに眉を寄せ、目線を何気なく室内へと滑らせた。

 壁には見覚えのある聖都の紋章が掲げられ、机の上には神の像が祀られている。

 この家族は、間違いなく聖都に対して強い信仰心を持っている。


 ――なるほど。


 ロイは考えを巡らせる。

 杖の力が対象の信仰心を判別できる という事実。

 単なる精神操作ではなく、「ドロル審律」 には 信仰の有無を見極める力 がある。


 心から神を信じる者 は強く影響を受けなかった。

 逆に、無神論者や神を信じていない者 は、より深く支配されていた可能性がある。

 そう考えると、目の前の少年が比較的軽い影響で済んだ理由も見えてくる。


 ――彼は、まだ純粋すぎたのだ。


 幼い彼の心には、まだ信仰が深く根付いていなかった。

 だからこそ、杖の影響も限定的なものに留まっていたのかもしれない。


 そんな考察を巡らせる中、ロイはふとルティシアの方へ目を向ける。


 彼女は少年の母の言葉を聞いた瞬間、一瞬だけ沈黙し、視線を伏せた。

 指先がわずかに強張り、微かに拳を握る。


 ロイの視線は、彼女のその小さな仕草を見逃さなかった。

「……なんとも奇妙だ。」

 ロイは内心でそう呟いた。

「これも背信の能力の一端なのか……?」


 考えれば考えるほど、背筋が冷たくなる。

 もしあの杖の力が別の目的で使われたら、一体どれほどの惨劇を引き起こすのか。

 そもそも、この戦いがなければ――自分もルティシアも、まるで抵抗することなく支配され、果てには審問官の刃の下に倒れていたのではないか?


 そんな思考が頭をよぎったその時、母親の腕の中にいた少年がふと身をよじり、ぎこちない足取りでルティシアの前へと歩み寄った。

 小さな顔を上げ、まっすぐ彼女を見つめる。


 その瞳には、子供とは思えないほど真っ直ぐな感謝の光が宿っていた。

 そして、小さな体を深く折り曲げ、丁寧にお辞儀をする。


「助けてくれて、ありがとう……!」


 ルティシアは、一瞬だけ驚いたように瞬きをした。

 目の前に立つ、自分よりもずっと背の低い少年。

 その小さな手の震えが、まだ完全には収まっていないことに気づく。


 指先がわずかに縮こまる。

 それでも、彼女はゆっくりとまぶたを伏せ、小さく息を吐いた。


「……うん。次は、迷子にならないように。」


 相変わらずの冷静な声色。

 しかし、その最後の一言だけは――ほんの僅かに柔らかさを帯びていた。

 まるで、本人さえも気づいていないほどの微細な変化。


 少年は力強く頷き、ぱっと無邪気な笑みを浮かべた。


「うん!約束するよ!」


 ***


 その様子を、少し離れた場所から見ていた二人の精霊――リヴィアンとカスタ は、思わず視線を交わした。

 唇の端には、それぞれ意味深な笑みが浮かんでいる。


 リヴィアンは顎に軽く指を当て、わずかに首を傾げた。

 目の奥に潜むのは、興味深そうな色。

 まるで、芝居のワンシーンでも観賞しているかのような眼差しだった。


 一方のカスタは、くつくつと低く笑い、軽快な口調で何かを呟く。

 その言葉に、リヴィアンは少し眉を上げ――

 そして、ふっと微笑みながら彼の意見に同意したように小さく頷いた。


 ***


 そんな二人とは対照的に、ミレイア はやや距離を置いて立っていた。

 腕を組み、無言でロイとルティシアを見つめている。


 その表情は冷静だが――

 以前のような鋭い警戒心は、今はもうそこにはなかった。


 代わりに、何か別の感情がその瞳の奥に潜んでいる。


 彼女はしばらく思案するように二人を見つめていたが、やがてゆっくりと息を吐き、

 黙ったまま視線を遠くの通りへと移した。

 少年を家へ送り届けた後、ロイたちはようやく宿へと戻ってきた。

 重厚な木の扉を押し開けると、大広間から温かな灯りが漏れ、外のひんやりとした朝の空気との対比が際立つ。


 ロイが足を踏み入れると、無意識に歩調を緩めた。

 肩に残る鈍い痛みが、昨夜の戦いがまだ終わったばかりであることを静かに思い出させる。


 彼はゆっくりと振り返り、リヴィアンを見やる。

「先に傷の処置をしてくる。後で下に降りる。」

 疲労を滲ませながらも、落ち着いた口調だった。


 リヴィアンはその言葉を聞くと、一瞬だけ彼の肩に視線を落とし、

 やがて軽く頷きながら、意味ありげに唇を緩めた。

「では、私たちも少し休むとしましょう。昼食の時間にお会いしましょうか、ロイ殿?」


「……ああ。」


 短く返事をし、ロイはルティシアとともに階段へと向かう。

 背後では、カスタが腕を組みながら、どこか愉快そうに眉を上げて見せた。

 ミレイアは無言のまま、静かに自室の方へと歩いていく。


 階段を上る途中、ロイはルティシアの歩調が普段よりもわずかに遅いことに気がついた。

 彼女の気配から、後ろを振り返りたいという迷いが微かに伝わってくる。

 しかし、結局彼女は何も言わず、ただ黙ってロイの後に続いた。


 宿は、しばしの静寂に包まれる。

 響くのは、階段を踏むわずかな足音と、時折床板が軋むかすかな音だけ。

 まるで、先ほどまでの出来事が、一度区切りを迎えたことを告げるように。


 部屋に入るなり、ロイ は迷いなく上着を脱ぎ捨てた。

 ルティシア の視線が無意識に彼の肩へ向かい、次の瞬間、頬にじわりと赤みが差す。

 慌てて目を逸らし、ぎこちなく衣服の裾を指でつまむ――羞恥を隠そうとする仕草だった。

 それでも、意識とは裏腹に、彼の引き締まった背中へと視線が吸い寄せられてしまう。

 心の奥に、妙なざわめきが広がっていくのを止められなかった。


「……ルティシア 、大丈夫か?」

 ロイ の低く落ち着いた声が響く。

 彼は振り返らずに聖典 を手に取り、自身の傷を確認しながら問いかけた。

 その声色には、自然な気遣いが滲んでいる。


 ルティシア の肩が小さく跳ねる。

 驚いて顔を上げた瞬間、ちょうどロイ がこちらを振り向いた。

 彼の深い瞳に捉えられ、彼女の思考は一瞬止まる。


 慌てて視線を逸らしながら、小さく首を振る。


「わ、私は平気……ただ……少し疲れただけ。」

 か細い声がもれる。

「呪いを抑えるのと、あの精神支配の魔法……かなり力を消耗したから……」


 声はだんだんと小さくなり、最後の方はほとんど囁きのようだった。

 視線は床へと落ちる――まるで、そこに何か特別なものでもあるかのように。


 ロイ は静かに頷き、少し柔らかい声で言った。

「ならいい。ただ……今日の戦い、お前は少し無茶をしすぎた。」


 そこで一拍置き、言葉を選ぶように唇を閉ざす。

 そして、ふっと息を吐いた。


「……まあいい。とにかく、あまり無茶をするな。お前が無茶をするたび、こっちは心臓がもたない。」


 ルティシア は言葉を失い、ただじっと床を見つめる。

 何も言えなかった。


 彼女が危険を顧みずに動いたことは事実だ。

 そして、その結果として――ロイ は傷を負った。


 彼の肩の傷が、それを何よりも物語っている。

 その傷は、彼女を守るためにできたものであり、痛みを伴う代償だった。


「別に責めてるわけじゃない。」

 ロイ の声が続く。

「ただ……そういう役目は俺がやるべきなんだ。俺なら聖術 を使えるし、戦術もある。

 だから、お前は無理をする必要なんてない。」


 その言葉に、ルティシア は一瞬、息をのんだ。


 彼の肩を見ると、聖術 の光が傷をゆっくりと癒していた。

 血の跡は消えつつあるが、傷そのものはまだ残っている。


 彼の手にかかれば、いずれは治る。

 しかし――


 彼がその身を挺して守った事実は、消えない。


 ルティシア はそっと唇を噛みしめた。

 ロイ の表情には、怒りも責める色もない。

 そこにあるのは、ただ深く、静かな**「心配」** だけだった。


 彼の優しさが、胸の奥をじんわりと満たしていく。

 それが、余計に心を締めつける。


「……ごめんなさい。」


 ぽつりと落とされたその言葉は、夜の冷たい空気に溶けるように小さかった。


「ただ……あの時……」

 彼女は迷うように言葉を選びながら、ぎゅっと指を握りしめる。

「ただ見てるだけなんて、できなかったの……あんな状況で、私は……私は……」


 その声には、わずかに悔しさと戸惑いが滲んでいた。

 ロイ はふっと淡く笑った。


「気にするな。お前があの時、あの少年を守り、冷静に呪いを抑えられたおかげで助かった。もしそうでなかったら……俺も、リヴィアン たちが来るまで持ちこたえられなかったかもしれない。」


 その言葉を聞いて、ルティシア の表情が少しだけ和らいだ。

 けれど、胸の奥にある「足手まといだったのではないか」という思いは、まだ完全には消えていない。


「でも、私は……」


 そう呟くように言いかけた瞬間――


「考えすぎるな。」


 ロイ は治癒を終えると、静かに上着を羽織り、彼女の言葉を遮るように言った。

 その声は穏やかでありながら、どこか揺るぎないものを感じさせる。


 彼は歩み寄ることなく、そのまま使い終えた聖典 を袋へと戻す。

 そして、再び振り返ると、ルティシア に向けて微かに安堵を含んだ笑みを浮かべた。


「今後、こういう時は俺に任せろ。それが俺の役目であり、俺の選択だ。」


 その言葉には、どこまでも自然な響きがあった。

 まるで、彼にとってそれが当たり前のことかのように。

 ロイ はルティシア を見つめ、静かだが決意を滲ませた声で言った。


「俺は、リヴィアン たちと同行することに決めた。」


 その言葉を聞いた途端、ルティシア はわずかに眉を寄せた。

 指先が無意識にぎゅっと力を込める。


 しばらく沈黙した後、彼女は静かに問いかけた。


「……考えた上での決断?」


 声に感情の起伏は少ない。

 だが、その瞳には微かに複雑な色が浮かんでいた。


 ロイ はその変化を捉えながらも、迷いなく頷く。


「ああ。すでに考え尽くした。」


 ルティシア は視線を落とす。

 細い睫毛が微かに揺れ、何かを思案するように指先を軽く握った。


 そして、ほんの少しの間を置き、淡々とした声で言う。


「……わかった。」


 その声音は、ひどく穏やかだった。


 ロイ は彼女の表情をじっと見つめる。

 しかし、どこか違和感を覚えた。


「理由を聞かなくていいのか?」


 ルティシア はゆっくりと顔を上げた。

 銀白の瞳が、迷いなくロイ を捉える。


「必要ないわ。あなたの決断なら、それでいい。」


 淡々とした声。

 揺らぎも、試すような素振りもない。


 ただ、彼を信じているというだけの言葉だった。


 ロイ は一瞬、言葉を失った。

 彼は、もっと時間をかけて説得するつもりだった。


 しかし――


 こんなにあっさりと、無条件に信じられるとは思わなかった。


「……ルティシア?」


 低く名を呼ぶ。

 彼女の瞳を探るように。


 だが、ルティシア はただ静かに首を振るだけだった。

 それ以上、何も聞くつもりはない――そう告げるように。

 ルティシア は静かに首を振った。

 何も言わず、ただそれだけ。

 まるで、この話題をこれ以上続けるつもりはないと告げるように。


 その声には感情の起伏こそなかったが、確かに揺るぎないものがあった。


 ロイ はわずかに目を見開く。

 胸の奥に、言葉にしづらい感情がわずかに広がる。


 ルティシア が自分を信じてくれることは、彼にとって意外ではなかった。

 それでも――

 ここまで迷いなく、即座にそう言葉にされるとは思わなかった。


 彼女自身も、こんなに早く答えを出すとは思っていなかった。


 だが、考えてみれば理由は明白だ。

 この旅の中で、ロイ は幾度となく彼女の前に立ち、傷を負いながらも守り続けてくれた。

 彼女がどれほど厄介な存在であろうと、一度たりとも拒むことはなかった。

 冷静で、沈着で――彼女が思考を巡らせる余裕すらなかったとき、ロイ は常に最善の判断を下していた。


 そして何より――彼は、彼女だけではなく、無関係な人々のためにも戦う人だった。


 その事実が、彼女に揺るぎない確信を与えていた。


 そう思った瞬間、胸の奥が僅かに疼いた。


 しかし、それと同時に、別の感情が重くのしかかる。


 脳裏をよぎるのは、自分が審問官に放った言葉。

 聖職者への嫌悪。

 そして――過去に抱いた強い憎しみ。


 その彼女が、今こうして共に歩んでいるのは、かつて聖職者だった男だった。


 ――私の言葉は、彼を傷つけたのだろうか?


 ふと、そんな疑問が頭をもたげる。

 だが、彼女はそれを口にしなかった。


 自分の中に渦巻く矛盾と、拭いきれない不安。

 それを言葉にするには、まだ考えを整理する時間が必要だった。


 だから彼女は、その想いを静かに胸の奥へ押し込んだ。

「……昼まで、まだ少し時間があるな。」


 ロイ は部屋に沈黙が満ちる前に口を開いた。

 その声には、僅かに疲労が滲んでいた。


 彼は側にいたルティシア に視線を向け、静かに言う。


「少し休もう。」


 ルティシア は異論を挟まず、小さく頷いた。

 彼女自身も、酷く疲れていた。

 精神と身体、両方の疲労が積み重なり、全身がどこか鈍く重い。


 だが、彼女が何気なくロイ を見やると――


 すでに彼はベッドへと歩み寄り、迷うことなくそのまま倒れ込んでいた。


「……」


 ルティシア は一瞬、目を見開く。

 驚くほどあっさりと横たわるロイ の姿に、僅かな戸惑いを覚えた。


 彼は掛け布団すらまとわず、そのまま仰向けになり、左腕を額に乗せる。

 そして、まるで枕に触れた瞬間から意識を手放したかのように、静かな眠りへと落ちていった。


 呼吸は次第に落ち着き、安定したリズムを刻む。

 わずかに見える肩の動きが、その穏やかな吐息を物語っていた。


 ルティシア はその場に立ったまま、何かを言おうとした。


 けれど――


 眠るロイ の静かな表情を目にした瞬間、彼女の言葉は喉の奥で途切れた。


 彼が疲れていることは分かっていた。


 だが、それだけではない。


「疲れている」――その言葉だけでは到底言い表せないほど、彼は限界を迎えていたのだろう。


 昨夜から、一度もまともに休んでいない。

 戦い、傷つき、ルティシア を守り、そして罪のない人々を救い続けてきた。


 彼は、いつもそうだった。


 魔物を前にしても、審問官を前にしても――

 彼はルティシア の目の前に立ち、決して退くことはなかった。


 彼女を、誰にも傷つけさせないかのように。

 まるで、不動の盾のように。


 そのことを改めて思い出し、ルティシア の胸の奥が、そっと締めつけられるように痛んだ。

「……ばか。」


 ルティシア はかすかに震える声で呟いた。

 その言葉には、責めるような響きはなかった。

 ただ、静かな空気の中で、淡い感情がふわりと溶けていくようだった。


 ――こんなにも傷ついて、疲れ果てているのに。


 最後の最後まで、彼はルティシア を庇い、敵の攻撃を受け止めた。

 そして今も、傷が癒えたばかりの体で、何のためらいもなく眠りについている。


 まるで、自分の身を案じることなど、最初から考えにすらなかったかのように。


 まるで、この部屋の中なら、安心して眠れるとでも思っているかのように。


 ルティシア はその場に立ち尽くしていたが、やがてそっと息を吐き、小さく動いた。

 できるだけ音を立てないように気をつけながら、自分のベッドへと横になる。


 だが――


 静かに体を横たえた瞬間、ふと気づく。


 思った以上に、距離が近い。


 二つのベッドの間は、手を伸ばせば届きそうなほどだった。


 すぐ隣で、ロイ の穏やかな寝息が静かに響く。

 その、規則正しくゆったりとした呼吸の音が、妙に耳に残る。


 ルティシア の心臓が、一瞬だけ速く跳ねた。


 無意識に、身体を少し内側へと縮める。


 けれど、それでも気になってしまう。


 そっと、ほんのわずかに身を翻し、視線を向けた。

 暗がりの中、横たわるロイ の姿がぼんやりと目に映る。


 彼は相変わらず、無防備なほど静かに眠っていた。


 ルティシア は、指先でそっとシーツを握る。


 この一日で、あまりに多くのことが起こった。

 彼女自身、疲れ切っているはずなのに、思考は静まらない。


 ――私は、ロイの足手まといになっていないだろうか?


 その疑問が、ふと脳裏をよぎる。


 彼女は、あの場で冷静に対処したつもりだった。

 詛呪を暴走させることもなく、少年を守ることもできた。


 けれど――それだけで、本当に十分だったのだろうか?


 もし、自分がもっと強ければ。

 もし、戦場でより大きな力を発揮できていたなら。


 ロイ はあんなふうに傷つくこともなく、何度も彼女の盾にならずに済んだのではないか。


 ――彼に、あんな思いをさせずに済んだのではないか?


 ルティシア は、そっと目を閉じる。


 シーツを握る指先に、少しだけ力がこもった。

「……まだ足りない……私は、まだ全然足りていない。」


 ルティシア の指が、シーツをぎゅっと握りしめる。

 無意識のうちに、細かい皺が布の表面に刻まれていた。


 かつて、彼女は思っていた。

 ただ隠れ、静かに生きることができれば、危険とは無縁でいられるのだと。

 誰の目にも留まらず、ただひっそりと息を潜めていれば、すべてをやり過ごせるのだと。


 だが――それは、ただの幻想だった。


 この世界は、彼女の忍耐を慈しむことなどしない。

 どれだけ縮こまろうとも、どれだけ逃げようとも、容赦なく牙を向けてくる。


 本当に大切なものを守るためには、力が必要なのだ。

 圧倒的な力が。


 そして――


「……彼は、いつも私を守ってくれる。」


 そっと瞼を閉じる。


 脳裏に浮かぶのは、ロイ の姿。

 昨夜、聖術を掲げたときの神聖な光。

 自分を庇い、敵の攻撃を一身に受けた背中。

 暗闇に囚われそうになったとき、迷うことなく手を伸ばし、引き上げてくれた瞬間。


 そのすべてが、あまりに鮮明に残っている。


 ――これは、何だろう。


 胸の奥で、ふと感じる微かなざわめき。


 それは、罪悪感とも違う。

 ただの感謝とも言い切れない。


 もっと――

 何か別の、言葉にならないもの。


 それが何なのか、今のルティシア には分からなかった。

 けれど――


 確かに、心の奥で静かに芽吹いている。


「……いつか、私も……」


 震える睫毛が、そっと揺れる。

 囁くような小さな声が、夜の静寂に溶けていく。


 疲労がゆっくりと意識を沈めていく中、ルティシア はそっと身を縮めた。

 布団の温もりに包まれながら、彼女は静かに瞼を閉じる。


 耳を澄ませば、すぐそばで響くロイ の安らかな寝息が聞こえる。


 その穏やかなリズムを感じながら、ルティシア の意識は、ゆっくりと夢の中へと沈んでいった。

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