02.灰燼の中の微光
夜の帳は未だ降りたまま。
暖炉の炎がかすかに揺らめき、薄暗い部屋に仄かな温もりを添えていた。
燃えさしの薪が静かに弾ける音が、微かな呼吸の音と交錯し、この夜の静寂の中で唯一の生命の鼓動となっていた。
彼女はまだ眠っていた。
銀白の髪が枕元に広がり、火の灯りが蒼白な肌を淡く照らし出す。
その姿は、どこまでも儚く、どこまでも脆く見えた。
だが、それを覆う黒き紋様が、なおも絡みついている。
まるで彼女の命そのものを縛り付ける鎖のように。
——この光景を、私は幾度も見たことがある。
教会が「異端」を処理する現場で。
黒き紋様を刻まれた者たち。
その目は、生きながらにして死んでいた。
だが、彼女は違った。
彼女は、まだ抗っている。
呪詛は決して緩むことなく、絡みつき、喰らい尽くそうとしているのに——
彼女の命は、なおもそこにあった。
私は視線を落とす。
露わになった彼女の肌に、黒い紋がゆっくりと広がるのが見える。
まるで、今もなお静かに侵食を続けているかのように。
この安定は一時的なものに過ぎない。
いずれまた、呪詛が彼女を深く喰らい、命を削り取るだろう。
銀白の髪。
銀白の瞳。
透き通るように蒼白い肌。
——こんな特徴を持つ人間は、ほとんど存在しない。
いや、それどころか——
「人間」として、生まれたのかどうかすら、分からない。
——これは、普通の人間が持つべき姿ではない。
——暗裔族。
その名が脳裏に浮かび、指先がわずかに止まる。
歴史から消された種族。
かつて、彼らは「月神」に最も近き存在だったという。
夜の帳を操り、光と闇の境界に耳を澄ます者たち——
だが、今の世界は彼らの名すら忘れている。
呪詛に侵され、異端の烙印を押され、教会によって「存在しなかったもの」とされた。
彼らの痕跡は、すべての歴史の記録から消し去られたはずだった。
——なのに、彼女はまだ生きている。
どうやって?
なぜ、今もこうして息をしている?
私は彼女の腕を見つめる。
傷口の血はすでに乾いていたが、呪詛に蝕まれた痕跡が色濃く残っていた。
触れずともわかる。皮膚の周囲には異常な冷気が漂い、死の気配が張り付いている。
一見すると安定しているように見えるが——
これは、錯覚だ。
彼女の傷は、見た目以上に深い。
私は静かに立ち上がり、部屋の片隅に置いていた清潔な布と薬草を手に取る。
再び彼女のもとへ戻ると、慎重にその袖をまくり上げた。
——目の前に広がったのは、無数の傷跡だった。
深く刻まれた裂傷。
長年の傷の痕。
治りきらぬまま残る裂け目。
一度や二度の戦いでできたものではない。
長い時間をかけ、幾度となく負わされた傷。
治癒の痕跡すら残らぬほど、何度も抉られた傷跡。
一部はすでに瘡蓋となり、他の傷口はまだ癒えておらず、そこからわずかに滲む血が、黒き呪詛の霧と混ざり合っていた。
まるで、痛みそのものが彼女の血肉に刻み込まれているかのように。
——彼女は、どれほどの苦痛を耐えてきたのか。
——彼女は、一体何を経験してきたのか?
私は指先でそっと彼女の腕に触れた。
その肌は異様なまでに冷たかった。
それは呪詛の影響なのか。
それとも、彼女自身の体質なのか。
深く息を吐き、私は温めた布巾を手に取り、静かに彼女の傷口を拭い始める。
——たとえどれほど慎重にしても、痛みは伴う。
布巾が傷に触れた瞬間、彼女の眉がわずかに歪み、指先がかすかに縮こまる。
「……」
その反応は、ごくわずかだった。
彼女の身体は未だに衰弱しきっており、大きな動きを見せることもない。
だが、それでも——彼女はまだ痛みを感じている。
完全に呪詛に意識を奪われたわけではない。
私は少し力加減を調整し、できるだけ刺激を与えぬよう慎重に手を動かす。
傷口を丁寧に拭い終えた後、草薬を細かく砕き、ゆっくりと塗り込んでいく。
血の流れを抑え、炎症を鎮めるために。
それが終わると、綺麗な布で傷口を一つずつ丁寧に包帯で巻いていった。
慎重に。
彼女に余計な負担をかけぬように。
最後の傷口を包帯で覆い終えたとき、私はそっと息を吐いた。
「……これで、少しは持ちこたえられるだろう。」
だが、問題は彼女の傷だけではない。
——呪詛だ。
それは、ただの傷とは違う。
どんなに聖術を尽くしても、まるで意思を持つかのようにそこに留まり、彼女を縛り続けている。
消えない束縛。
追い払えぬ闇。
それは、私の知るどの呪いとも異なっていた。
私はふと視線を上げる。
炎の微かな灯りが、彼女の蒼白な顔を淡く照らしていた。
まるで陶器のように脆く、儚い輪郭。
彼女の眉はわずかに寄せられ、指先が無意識にかすかに動いた。
——夢を見ているのか?
その表情には、どこか苦しげな色が浮かんでいた。
それは、呪詛の影響なのか?
それとも——
彼女自身の記憶が、彼女を苛んでいるのか?
今は何よりも、彼女を今夜乗り切らせることが最優先だ。
体力を取り戻させなければならない。
私は周囲を見渡し、手元にある物を確認する。
何か彼女に与えられるものはないか——
目に留まったのは、旅の間ずっと持ち歩いていた薬草袋だった。
これを使えば、簡単な薬湯を作ることができる。
体力を回復させるには不十分かもしれないが、少なくとも体を温めることはできるだろう。
静かに息をつき、私は椅子に腰掛ける。
目を閉じ、一瞬思考を整理した。
次にどうするべきか。
炎がかすかに揺れ、静寂の部屋に温もりを落とす。
薄暗い灯りが、男の影を長く映し出した。
陰に沈むその表情は見えない。
しかし、その視線は——
床の上に横たわる少女から、決して逸れることはなかった。
この呪詛は、一体どこから来たものなのか?
それは神の罰か、それとも別の何かなのか?
彼女の存在は、明らかにこの世界と馴染んでいない。
まるで、彼女がこの世界にいること自体が何者かの意志に反しているかのように。
そして今、私はすでに彼女の運命に巻き込まれた。
——彼女はまだ死なせるわけにはいかない。
そして、俺もまた、このまま黙って見過ごすつもりはない。
少女の呼吸は、次第に穏やかになっていった。
銀白の髪が枕に広がり、微かに揺れる。
彼女は身を縮こめるように眠っていた。
まるでまだ不安な夢に囚われているかのように。
私は暖炉の前に立ち、その姿をじっと見つめる。
しかし、夜の静寂とは裏腹に、私の思考は決して静まらなかった。
——彼女は、本当に暗裔族なのか?
可能性は高い。
銀白の髪、銀白の瞳、異常なまでの蒼白な肌。
そして、呪詛。
すべてが、あの“消された一族”を示唆している。
だが——
もし本当に暗裔族なら、どうやって生き延びた?
暗裔族の末裔は、教会によって根絶されたはずだ。
その血を引く者は、一人たりとも生き残っていない。
そう、教会は言っていた。
だが今、私の目の前には——確かに生きている暗裔族らしき少女がいる。
——何かが、おかしい。
その違和感が、胸の奥にしこりのように残る。
無意識のうちに拳を握りしめる。
視線を落とせば、彼女の腕には、さっき包帯を巻いたばかりの傷跡がある。
傷は止血され、応急処置も施した。
だが——これでは不十分だ。
私はゆっくりと歩み寄り、ベッドの傍に膝をつく。
彼女の状態を、より慎重に観察する。
黒い紋様は、今は沈黙しているように見える。
だが、それはあくまで表面的なものだ。
この呪詛は、まだ彼女を蝕み続けている。
まるで、次の機会を待っているかのように。
——これは、ただの呪いではない。
私は今までにも、呪われた者を見てきた。
黒魔法に侵された者たちは、肉体を蝕まれ、やがて魂ごと闇に堕ちていく。
だが、彼女は違う。
彼女は未だに、意識を保ち、痛みを耐えている。
それどころか——
彼女の呪詛は、他の呪われた者よりもさらに根深く、抗いがたいものに見える。
いったい、これは何なのか?
どうして彼女は、まだ堕ちていない?
私は、息を潜めるようにして囁いた。
「……これは、一体、何なんだ?」
私はそっと手を伸ばし、指先を彼女の額に触れた。
冷たい。
異常なほどの低体温。
まるで死の淵にいるような温度だが、それでも彼女の呼吸は緩やかで一定だった。
脈は微弱だが、安定している。
これは、死にかけている者の状態ではない——
むしろ、何かに縛られ、死すら許されていないような状態。
この違和感が、あるひとつの伝承を思い出させた。
——「遺されし血脈は、世界の呪いを背負う。彼らは決して解放されることはない。」
誰かがそう言っていた。
暗裔族の末裔たち。
彼らは単に殺されたのではない。
彼らは、ある「神」の呪いを受け、生きていながら、永遠の苦痛に囚われる運命を背負わされた。
——だが、その呪いを与えた存在は、本当に神なのか?
それとも、神を騙る何者か?
どこから来た呪いなのか? 何のために?
私は彼女の頬を覆う黒紋を見つめ、無意識に息を止める。
もしもこの呪詛が、本当に「神の呪い」だとしたら——
今、私にできることは、ただ彼女が生き延びる手助けをすることだけ。
本当の答えを見つけるのは、彼女自身だ。
だが今の彼女は、ただ目を開くことさえできないほど衰弱している。
私は静かに息を吐き、立ち上がる。
そして、そっと毛布を引き上げ、彼女の肩を覆うように掛け直した。
せめて、冷えが少しでも和らぐように。
「……少なくとも、今はまだ生きている。」
微かな火の灯りが揺れ、夜の闇はなおも深まっていく。
——この静寂の長夜は、まだ終わらない。
風が窓の隙間から忍び込み、微かな冷気を運んでくる。
暖炉の火は薪が燃え尽きるにつれ、次第に弱まりながら、低く弾ける音を立てた。
夜は未だに終わらない。
そして、この小さな部屋の中では——
沈黙だけが、すべてを支配していた。
私は、椅子に静かに腰掛ける。
視線はベッドの少女へと向けられたまま。
彼女は未だに衰弱しているが、その表情には微かな変化があった。
眉が時折、僅かに歪む。
そして、また緩やかにほどける。
まるで、不安な夢に囚われ、彷徨っているかのように。
指先も、ごく僅かに震えている。
何かを掴もうとしているように——
だが、それは徒労に終わる。
——呪詛の影響か?
それとも、彼女自身の記憶か?
私は、かつて聞いたことがある。
呪いは肉体だけでなく、精神にも深く影響を及ぼす。
黒魔法に侵された者たちは、夢の中で過去の苦しみを繰り返し、幻覚に蝕まれていく。
そして、やがて——
精神が崩壊し、戻れなくなる。
彼女もまた、同じ道を辿るのか?
「……やだ……死にたくない……」
少女の唇がかすかに動く。
声は微かで、かすれていた。
しかし、そこに滲んだ感情は——
怯え。
私は、ふと指先を止める。
「……お願い……やめて……」
その声には、押し殺した恐怖があった。
まるで、深淵へと引きずり込まれるのを拒むかのように。
——矛盾している。
私は、彼女が森で言った言葉を思い出す。
「殺してくれ。」
その時の彼女の声は、驚くほど静かで、淡々としていた。
まるで、それが唯一の安息であるかのように。
——だが今、彼女は夢の中で、「死にたくない」と願っている。
それは、呪詛による幻覚なのか?
それとも、本当の彼女の心の声なのか?
——もしかして、彼女は本当は生きたかったのか?
だが、生きる希望が見えなかっただけなのか?
私は目を伏せ、短く息をつく。
考えても答えは出ない。
それでも、彼女の肩を覆うように、そっと毛布を引き上げた。
少しでも、震えが和らぐように。
——彼女は、まだ完全には堕ちていない。
苦痛に苛まれながらも、まだ抗っている。
だが、その抵抗がどこまで続くのか——
それは、誰にも分からない。
炎の光が、彼女の蒼白な顔を照らし出す。
その光が、黒紋の輪郭を際立たせ、ますます異質なものに見せていた。
これは普通の呪いではない。
単なる黒魔法などではなく、魂そのものを縛る力。
私は、聖術を試すべきかと一瞬考えた。
だが——
以前の光が呑まれた現象を思い出し、指先がわずかに止まる。
「……やめておこう。下手に動けば、かえって悪化させる。」
この呪いは、そう簡単に解けるものではない。
下手に力を行使すれば、彼女の体に余計な負担をかけてしまう。
まずは、彼女の状態がもう少し安定するのを待つべきだ。
私は小さく息をつき、決断を下すと、静かに立ち上がった。
机の上に置いた草薬袋を手に取る。
残っている薬草はそう多くないが、少しでも滋養のある薬湯を作れば、彼女の体力を回復させる助けにはなるだろう。
私は小さな木の器に乾燥した草薬を入れ、そこにぬるま湯を注ぐ。
ゆっくりと浸されていく薬草から、微かに湯気が立ち昇る。
部屋の空気に、かすかに苦味を帯びた薬草の香りが満ちていく。
——この香りを、私はよく知っていた。
記憶の奥底に眠っていた光景が、不意に蘇る。
「異端は浄化されねばならない。闇は許されぬ。」
——あの教会の中で、幾度も聞いた言葉。
かつて、私は「異端審問」の場に立ち会ったことがある。
そこで見たのは、裁かれ、処刑される者たちの目——
彼らの目に映っていたのは、悪意ではなかった。
それは、ただの恐怖と、理不尽への憤り。
そして、それでもなお消えぬ、かすかな生への執着だった。
だが、その感情は「審判」によって踏みにじられ、彼らの存在は、なかったものとされていく。
その光景を、私は受け入れていた。
疑問を抱くことなく、正しいことだと信じていた。
——そう、私はあのとき、疑わなかった。
教会の言葉を、神の意志を、すべてを。
——そして、今。
私は、かつての自分が追い詰め、消し去ろうとしていた存在を目の前にしている。
彼女は、生きるべきではないと教えられた存在。
彼女は、教会が「異端」として排除すべき者。
そして、私は——その教えを捨てた者。
本来なら、私は彼女を殺すべきだった。
だが、今の私は救うことを選んでいる。
なぜか?
私はすでにその答えを知っていた。
私が変わったのではない。
変わったのは、私が見る世界の「真実」だった。
かつての私は、こんなことには関わらなかっただろう。
もしかすると、彼女の苦しみを終わらせるために、自ら手を下していたかもしれない。
だが今、私は彼女の傷を手当てし、彼女が生き延びることを願っている。
——笑える話だ。
私は、ひとり苦笑する。
何が変わった? いや、何が私を変えた?
だが、その問いに答える前に——
——少女が、かすかに震えた。
「……」
私は動きを止める。
——彼女の身体が、小さく揺れる。
視線を向けると、彼女の睫毛がかすかに震え、眉がわずかに歪んでいた。
唇が、何かを言おうとするように微かに動く。
だが、その声はあまりにも弱々しく、聞き取ることはできなかった。
——夢を見ているのか?
それとも、誰かを呼んでいるのか?
私は一瞬、迷う。
だが、次の瞬間には足が自然と動き、彼女の寝台へと近づいていた。
「……目が覚めたのか?」
呼びかけると、彼女の睫毛がわずかに動いた。
今度は、意識が戻りかけているのがはっきりと分かる。
彼女は、目を開けようとしている。
私はただ、黙ってその様子を見守った。
夜はまだ終わらない。
だが——
彼女は、再び目を覚まそうとしている。
彼女の睫毛が、かすかに震えた。
次の瞬間、銀白の瞳が、ゆっくりと開かれる。
火の灯りを映しながら、その視線はどこか朧げで、まだ意識が完全に戻っていないようだった。
呼吸は浅く、喉が乾いているのか、かすかに掠れた音が漏れる。
それでも、彼女は確かに目を覚ました。
「……水。」
微かに、言葉がこぼれる。
あまりにも小さな声。
それは無意識の呟きのようだった。
私は何も言わず、ただ頷くと、机の上の水杯を手に取り、再び彼女の傍へと戻る。
片手でそっと彼女の身体を支え、ゆっくりと上体を起こした。
——彼女は、一瞬、戸惑ったように見えた。
だが、やがて静かに口を開き、慎重に水を一口飲む。
その仕草は、まるで警戒心を拭えぬまま毒を試す者のように慎重だった。
——一体、どれほど疑心に囚われて生きてきたのか?
私は小さく息をつき、静かに言った。
「ゆっくり飲め。誰もお前を害しはしない。」
彼女は答えなかった。
ただ、しばらくの間、無言のまま水を口にしていた。
やがて、乾ききった唇が僅かに潤うと、彼女は視線をゆっくりと動かし、初めて真正面から私を見た。
「……お前は誰だ?」
細く、掠れた声。
それでも、その言葉の中には、僅かでも「生」に執着する意思が感じられた。
生きる気力を失った者の声ではない。
だが、その警戒心は、決して緩んではいなかった。
私は特に迷うこともなく、淡々と答える。
「通りすがりの聖職者だ。」
——彼女の目が、一瞬揺らぐ。
そして、次の瞬間。
彼女の唇が微かに歪み、かすかな嗤いが漏れた。
それは笑みというにはあまりにも薄く、虚ろで、どこか冷えたものだった。
だが、その中には、どこか皮肉めいた響きがあった。
「……聖職者?」
かすれた声で、彼女は繰り返す。
その口調には、まるで信じていないという色が滲んでいた。
まるで——
「そんなもの、信じられるはずがない」と言わんばかりに。
彼女の声は掠れていた。
銀白の瞳が細められ、その目は、まるで本質を見抜こうとするように、冷ややかにこちらを見据えていた。
そして——
「……で? 今回はどんな手口だ?」
軽く、乾いた声音。
それはあまりにも淡々としていて、どこか投げやりな響きを含んでいた。
「まずは祈りの言葉でも捧げるか? それから ‘象徴的な救済’ ってやつを見せて、最後は火刑で締める?」
彼女はわずかに間を置くと、皮肉めいた笑みを浮かべた。
その笑みは浅く、どこかひどく淡い。
それはまるで定められた結末に向かうことを、既に悟っているかのような微笑みだった。
「それとも、さっさと殺すつもりか?」
彼女の言葉には、怒りも恐怖もなかった。
あるのは、ただの慣れ。
異端と呼ばれ、追われ、拒まれ、殺される。
彼女にとって、それはもう 何度も繰り返された “決まりきった流れ” に過ぎなかった。
私は、かつてこの目で、こうした瞳を何度も見たことがある。
——信じることを捨てた者の瞳。
彼女は、もうこの世界を信じていない。
信じたところで、何の意味もないと知っているのだろう。
だが——
私は、微塵も動揺しなかった。
彼女の言葉を受け止めたまま、ただ、静かに彼女を見つめる。
そして、平坦な声で答えた。
「……生憎、俺はそういう聖職者じゃない。」
「異端かどうかは関係ない。俺は、助けを必要とする者を救うだけだ。」
彼女の瞳がわずかに揺らぐ。
まるで、そんな言葉を聞くとは思ってもいなかったかのように。
すぐには返事をしなかった。ただじっと私を見つめている。
その銀白の瞳には、まだ疑念が色濃く残っていた。
しかし、そこには一抹の困惑も混じっていた。
——なぜ、聖職者がそんなことを言うのか?
答えを見つけられないように、彼女の視線がわずかに揺らいだ。
私の考えを読み取れなかったのか、あるいは——
彼女自身、どう受け止めるべきか分からなかったのか。
やがて、彼女はゆっくりと身を横たえ、考えることすら億劫になったかのように目を閉じた。
「……眠るなら、ゆっくり休め。ここなら、少なくとも今は安全だ。」
私はそう言いながら、手にしていた水の入った杯を静かに机に戻した。
彼女は何も言わず、そのまま目を閉じる。
火の揺らめきが、部屋の静寂に映える。
私はその場に立ち尽くし、彼女の寝顔をじっと見つめた。
この少女は、呪いの残骸なのか? それとも、何か新たな運命の兆しか?
今の私には、その答えは分からない。
だが、少なくとも——
俺は彼女を、この闇の中から拾い上げた。
この世界にまだ光が残されているのか、それは分からない。
だが、この暗闇の中で、俺は彼女を決して消させはしない。