19.審判もまた虐殺である
夜の風が荒野を静かに吹き抜け、不気味な沈黙を運んでいた。
俺とルティシアは群衆に紛れ込み、歩調を合わせながら、まるで彼らと同じように引き寄せられた者たちの一員であるかのように振る舞っていた。だが、周囲の人々の様子は明らかに異常だった。虚ろな目、重い足取り、まるで見えない糸に操られているかのように、同じ方向へと進んでいく。
俺は周囲を見渡し、胸の奥に不安が広がるのを感じた。この行列には、ぼろぼろの服を纏った浮浪者、宿から出てきたばかりの旅人、さらには亜人の姿もあった。しかし、彼らは誰一人として自分の意思で動いているようには見えない。ただ黙々と前へ進み続けるだけ。――これは、異常だ。
「……この人たち」俺は声を潜めてルティシアに囁いた。「意識があるようには見えないな。」
「私も感じてる……」ルティシアはわずかに息を詰まらせながら答えた。彼女の指先は胸元の護符を強く握りしめている。「これは単なる精神干渉じゃない……もっと根本的な、何かに引きずられるような感覚……」
俺は眉をひそめ、魔力の流れを探るように意識を集中させた。すると、空気中に漂う異質な魔力の流動を感じ取ることができた。まるで目に見えぬ糸が張り巡らされ、それが人々の意識を絡め取り、無理やり城外へと導いているようだった。
これは単なる催眠魔法などではない。もっと強制的で、根本から人間の意志を奪うような何かだ。――さらに不可解なのは、この異常事態に気づいている者が他にいないということだった。誰も騒がず、驚かず、まるでこれが「当たり前」のことのように振る舞っている。町の住民たちは普段通りの夜を過ごし、聖職者や聖殿騎士の姿すら見当たらない。――それこそが、最も不穏な事実だった。
「もしこの影響が町全体に及んでいるとしたら……」俺は低く呟いた。「俺たちだけが無事でいられる理由があるはずだ。おそらく、お前の呪い、もしくは俺の魔力特性が、この力に干渉されることを防いでいる。」
ルティシアは静かに頷いたが、彼女の顔色は優れない。今もなお、その見えざる力に抗っているのだろう。
余計な言葉は必要なかった。俺たちはこの異変の正体を突き止めるため、ただ群衆の流れを追い続ける。
――静まり返った夜の町で、何かが動き出そうとしている。
夜の闇の中、俺たちは群衆の流れに紛れ込みながら前進していた。城外へと近づくにつれ、行進する人々の異常さがますます顕著になっていく。
起伏の激しい地形も、転びそうな岩場も、まるで意識していないかのように、彼らはただ足を止めることなく、機械のように歩き続けていた。その統一された歩調には、人間らしさがまるで感じられない。
俺はもう一度周囲を見渡し、聖殿騎士や聖職者の姿がないか確認する。だが、やはり彼らの姿はどこにもない。こんな大規模な異変が起きているにもかかわらず、それを阻止しようとする者が一人もいない――この異常な状況が、不気味さをさらに際立たせていた。
「……もう城の外よ。」ルティシアが低い声で囁く。その声には、微かな苦しさが滲んでいた。
俺は彼女の方を振り向く。彼女の手は護符を強く握りしめ、表情はさっきよりも硬くなっていた。肩がかすかに上下し、呼吸が荒くなっているのが分かる。
「大丈夫か?」俺は声を潜めて尋ねた。
「この感覚が……どんどん強くなってる……」ルティシアは息を整えながら答える。「私に影響を及ぼしているというより……何かが、私に向かって“何か”を伝えようとしているみたい……。」
俺は眉をひそめ、頭の中で可能性を探る。
もしこれが単なる精神支配なら、通常の心智干渉魔法の範囲を遥かに超えている。それ以上に問題なのは、ルティシアがこの力と無意識のうちに何らかの“つながり”を持ち始めていることだ。
「持ちこたえられるか?」
ルティシアは深く息を吸い、静かに頷いた。「問題ない……今のところは……まだ抑えられる。」
その言葉を信じ、俺はそれ以上は追及せず、ただ目の前の状況に集中することにした。
前方の視界が徐々に開け、闇の中に微かな火の灯りが揺らめいているのが見えた。燃える炎が周囲の影を映し出し、その中に立つ数人の人影が輪郭を浮かび上がらせる。
俺は無意識に兜のフードを引き下げ、できるだけ目立たぬよう身を低くする。ルティシアもまた、自然な動作で歩調を調整し、群衆の中に紛れ込んだ。
「……着いた。」ルティシアが小さく呟く。その声には、はっきりとした警戒の色が宿っていた。
俺たちは立ち止まり、行列の最後尾に紛れながら、前方の光景を見つめる。
火の光が揺らめく先、暗色の長衣を纏った異端審問官たちが静かに佇んでいた。彼らは沈黙のうちに、人々が自ら進み出るのを待っているかのようだった。
「……異端審問官か。」俺は低く呟き、奥歯を噛みしめた。
予想以上に、奴らの動きは早かった。
俺たちは足を止め、群衆の中に身を隠しながら、高台の異端審問官たちをじっと見据えた。
広大な荒野に篝火の灯りが揺らめき、黒い影を歪ませる。その光に照らされるように、高台の上には何人もの審問官が立ち並んでいた。深い闇色の法衣に身を包み、静かに夜に溶け込むように佇む彼らは、さながら死者を裁く亡霊のようだった。
しかし、その中でも中央に立つ男の存在感は際立っていた。
彼の手には、異様な形状の権杖が握られている。それはまるで無数の茨が絡み合い、螺旋を描いているかのような奇怪な杖であり、表面には何か古い刻印が刻まれていた。杖に沿って魔力が流れ、重苦しい威圧感を放っている。
そして、その男が権杖を掲げた瞬間、俺はある"既視感"を覚えた。
この魔力の波動――以前、あの親子を裁いた審判の術とは異なるが、どこか共通した冷酷さがある。
術式自体は異なる。だが、その根底に流れる"残酷な意志"は同じ。
つまり、この権杖もまた**「異端を篩い落とすための道具」**なのだろう。
「……ロイ……」
隣で小さな震え声が響いた。ルティシアが低く、かすれた声で俺の名を呼ぶ。
俺が振り向くと、彼女の息遣いが荒くなっているのが分かった。長い睫毛がわずかに震え、指先が護符を押しつけるように握りしめられている。まるで、それだけが彼女を支える最後の拠り所であるかのように。
「この力……私の呪いに影響を及ぼしている……」
ルティシアは歯を食いしばり、必死に自分の身体の異変を抑えようとしていた。
「耐えろ。」俺は短くそう言った。「まず、やつらが何をしているのかを見極める。」
彼女は小さく頷いたが、表情には未だに緊張と苦痛が滲んでいる。
権杖を握る審問官は、篝火の灯りの中で静かに佇んでいた。その長衣の裾が揺れ、火の影がその顔に陰影を落とす。彼は群衆を見下ろしながら、無慈悲な視線を前方の一人へと向けた。
それは、隊列の最前に立っていた中年の男だった。
男は旅人のような質素な服を纏い、衣服には長旅の汚れが染みついている。しかし、彼の目は虚ろだった。
まるで、自らの意志ではなく、何か見えない糸に操られているかのように――。
「汝、神を信仰するか?」
審問官の声が響く。低く、重く、絶対的な威圧感を伴った声だった。
男は一瞬、唇を震わせた。わずかに**思考しようとする"意志"**が見えた。しかし、その努力もむなしく、何かに強制されるように、ゆっくりと答えた。
「……ワタシは……神を……信仰する……」
「汝、神を裏切ったことはあるか?異端に手を染めたか?」
再び問いかける審問官の目は、鋭い刃のように男の反応を見極めていた。
男の瞳がわずかに揺れた。
まるで、何かを思い出そうとするように――だが、すぐにその光は消え、力なく首を横に振る。
「……ない……私は……異端では……ない……」
その言葉が正しいかどうかは、もはや意味を成さない。
審問官は無言のまま彼を見つめ、やがて、唇に冷たい微笑を浮かべた。
それは、まるで**"すでに答えは決まっていた"**かのような、決定事項を告げる者の表情だった。
「汝の信仰は、純粋ではない。」
男の声は静かで、だが冷酷だった。ひとつひとつの言葉が、まるで審判の槌のごとく響き渡り、疑念も猶予も一切許さぬ響きを帯びていた。
「貴様の口にする信仰など、ただ生にしがみつくための方便に過ぎぬ。神への真の忠誠ではない。」
彼はわずかに首を傾け、唇の端をわずかに持ち上げた。だが、その微笑みには温かみも慈悲もない。ただ、冷ややかで淡々とした絶対的な裁定がそこにあった。
「真の審判のもとでは、神は迷う者を必要とせぬ。偽りの信徒を哀れむこともない。」
言葉が終わると同時に、審問官は手にした荊棘の権杖を振り上げた。その瞬間、杖の刻まれた古い紋様が黒く輝き、闇の魔力が迸る。
ズンッ!
鈍い衝撃音が響き渡ると、杖は男の額に深々と叩きつけられた。
「ぐ……!」
男の瞳が一瞬にして見開かれ、全身が激しく痙攣した。まるで、魂そのものが恐るべき力によって捻じ曲げられているかのように。膝から崩れ落ち、地面に手をつきながら口を何度も開閉させるが、声すら出せない。ただ、虚無の中で自身の存在がゆっくりと侵食されていくかのようだった。
次の瞬間、傍らに立っていた別の審問官がゆっくりと前に進み出る。
その手には、鈍く光る大剣。
刃に映る篝火の炎が、血の色に染まったかのように揺らめいていた。
「異端は――死すべし。」
スパァンッ!
冷たく鋭い閃光が闇を切り裂く。
鈍い音とともに、男の首が無情にも刎ね飛ばされた。**首級は地面を転がり、頚部からは噴水のように赤い鮮血が噴き出す。**血潮は瞬く間に高台の石畳を濡らし、暗闇の中に紅の湖を作り出した。
だが――
この場にいる誰一人として、それを悲劇とも、惨劇とも認識していなかった。
異端審問官たちは静かに立ち尽くし、無表情のままその光景を見下ろしている。血に濡れた剣を構えた執行者すら、微動だにしない。
そして、それを取り囲む呆然とした群衆。
誰も叫ばない。誰も嘆かない。
まるで――
これは"当たり前の儀式"に過ぎない、とでも言うように。
「……ッ!」
ルティシアの肩がわずかに震えた。
俺はすぐに彼女の異変を察知する。
魔力が……漏れ始めている。
袖の下で、黒い靄が揺らめく。彼女の拳は固く握られ、指先が掌に食い込むほどの力がこもっていた。その震えは、単なる怒りではない。彼女の呪いが、それに呼応して活性化している。
「冷静になれ。」
俺は小声で囁き、そっと視線を送る。
ルティシアはギリギリと奥歯を噛み締め、耐えるように目を伏せた。だが、彼女の内側に渦巻く感情は、今にも制御を失いそうだった。
そして、その時――
次の"審判"が始まる。
審問官たちの合図によって、新たな者が高台へと連れ出された。
それは、ひとりの幼い少年だった。
彼の小さな体は痩せ細り、骨ばった腕と足が貧しい暮らしを物語っている。ぼろぼろの服は擦り切れ、裸足の足元は冷たい石畳の上で震えていた。
――いや、震えていたのは、ただ寒さのせいではない。
少年は、心の奥底から湧き上がる"恐怖"に震えていたのだ。
だが、それでも誰も手を差し伸べようとはしない。
誰一人として――。
小さな少年の震える視線は、周囲をさまよった。
誰かが助けてくれるのではないか――彼は必死にそう願った。
だが、彼の目に映るのは、ただ無表情で立ち尽くす群衆と、冷酷に見下ろす異端審問官たちだけだった。
彼のために声を上げる者はいない。
この裁きの場を止める者もいない。
権杖を手にした審問官が、少年を見下ろしながら、無機質な声で問いかける。
「汝は、神を信仰するか?」
少年の唇が微かに震え、目の奥に刻まれた恐怖が凍りつく。しかし、彼が答えを考える間もなく、審問官は次の問いを続けた。
「汝は、神を裏切ったか?異端を崇めたことは?」
「ぼ、僕は……」
少年の声は掠れ、震えていた。本能的な恐怖に突き動かされるように、小さく呟く。
「わからない……」
その声は、絶望そのものだった。
彼には、なぜ自分が問い詰められているのかさえわからない。どう答えれば、生き残れるのかもわからない。ただ、目の前に立つ存在が、彼の命をすでに握りつぶそうとしていることだけが、冷たい現実として突きつけられていた。
だが――
彼の迷いは、審問官にとって罪そのものだった。
「純粋さに欠ける。」
審問官の瞳が冷たく光り、淡々とした声が響く。
「汝は――有罪だ。」
その瞬間――審問官の手が権杖を振り上げる。
荊棘のような刻印が黒い光を放ち、まるで空間そのものを重く歪ませるかのように、あたりの空気が一変する。圧倒的な殺意が、夜の闇へと染み出していった。
大剣が、閃く。
処刑人の足が一歩前に出る。
鋭い刀身が、幼い首へと振り下ろされる――。
だが、その刹那。
一つの影が、稲妻のごとく飛び出した!
――ルティシア!
彼女の動きは、雷光よりも速かった。
瞬きする間もなく、彼女は少年の腕を掴み、その身を引き寄せる。
そして、刃が振り下ろされる直前に、少年を己の背後へと庇った。
ズシャッ!
大剣は空を切り、血の代わりに砂埃が舞い上がる。
突然の乱入に、審問官たちの動きが凍りつく。
静寂――
数秒間、ただ篝火の揺らめく音だけが響いた。
そして、権杖を持つ審問官が、目を細めながら低く呟いた。
「……誰だ。」
その声には、明確な威圧が宿っている。
「誰が、神聖なる審判を邪魔するというのか?」
静寂を打ち破るように、ルティシアが顔を上げる。
銀色の瞳が、夜の炎を映し、燃えるように輝いた。
「これは――審判なんかじゃない。」
彼女の声は、怒りに満ちていた。
「こんなの、ただの虐殺よ!」
ゴォォォォッ……!!
その瞬間、空気が震えた。
まるで長く封じ込められていた力が、ついに解放されたかのように――。
彼女の体を包む黒い靄が、まるで獣が解き放たれるように広がる。
怒りに呼応するように、呪いの力が彼女の周囲に渦巻く。
そして――
その瞬間、彼女の偽装魔法が崩壊した。
銀白色の髪が、夜闇の中で輝く。
琥珀のような瞳が、光を帯びる。
暗裔族――その証が、あらわになった。
ザワッ……!
異端審問官たちの反応が、一瞬で変わる。
静寂の中、彼らの視線は一斉にルティシアへと集中する。
最初は驚愕――
だが、それは次第に、狂気じみた歓喜へと変わっていった。
まるで、長年追い求めた獲物が、自ら罠に飛び込んできたかのように。
獰猛な笑みを浮かべる者もいれば、興奮で震える者もいる。
その目には、貪欲さと狂信の色が滲んでいた。
「……ついに見つけた。」
審問官の一人が、震える声で呟く。
「これこそが……神が与えし"異端"。」
「"裁きの焔"に捧げるべき、供物……!」
その言葉を皮切りに、空気が張り詰める。
ルティシアはそれをただ無言で見つめ、拳を固く握り締めた。
その身を震わせるのは、恐怖ではない。
怒り。
彼女の中に煮えたぎる、純粋な怒りが、燃え上がる。
――そして、それを見ていた俺は、ゆっくりとフードを下ろし、深く息を吐いた。
「……はぁ。」
「やれやれ……これは、どう考えても戦いになるな。」
腰に手をかけ、冷ややかに呟く。
――俺たちは、もう逃げられない。
高台に立つ杖を握る審問官は、わずかに目を見開いた後、残忍な笑みを浮かべた。その声は低く、狂信者特有の震えを帯びていた。
「……ほう、まさか闇裔族が自らここへ現れるとはな?」
その口調には微塵の驚きもなく、むしろ狩りが成功した時の満足感が滲んでいた。まるでこの審判自体が異端を選別するためではなく、より「貴重な供物」が現れるのを待っていたかのように。
ゆっくりと杖を掲げると、氷のように冷たい視線をルティシアへと向け、声を低くしながらも興奮を隠しきれない口調で言い放つ。
「これほど高貴な捧げ物……当然、【背信】様への供物に相応しい。」
その言葉と同時に、杖に刻まれた荊棘のような紋様が妖しく輝き、強大な魔力の波動が空気を震わせる。
「捕えろ!」
審問官の命令が響くと同時に、数人の異端審問官が一斉にルティシアへと殺到した。
この瞬間、俺は悟った——
もう、迷う余地はない。
審問官の命令が下るや否や、数名の異端審問官が素早くルティシアへと襲いかかった。彼らの動きは鋭く正確で、明らかに専門的な訓練を受けている。ただの追跡ではない——異端を制圧するための戦術だ。ほんの一瞬で、俺たちとの距離が縮まる。
迷っている暇はない。即座に判断し、右手を掲げ、低く聖術の詠唱を紡ぐ。
「誓約に従い、聖光の寵召を承け、天律を降ろせ——《誓約の鎖》!」
黄金の鎖が虚空から生じ、燃え上がるような聖光を纏いながら、異端審問官たちへと疾走する。
「なっ——!」
最前列にいた二人の審問官は反応が遅れ、鎖が手足を縛り上げた。聖光の力が彼らの身体を蝕み、その動きは鈍くなり、苦悶の表情が浮かぶ。《光鎖誡律》の聖光が、彼らの肉体と精神を強く束縛していた。
「行くぞ!」
俺はすかさずルティシアの手を取り、包囲網を突破しようとする。
しかし、異端審問官の数は想定以上に多かった。周囲の敵が素早く対応し、すでに包囲の輪を完成させていた。動揺することなく戦術を切り替え、確実に俺たちの退路を塞ぎにかかっている。
「逃げられるとでも?」
権杖を握る審問官が嘲笑を浮かべ、ゆっくりと歩み寄る。その声には、軽蔑と侮蔑が滲んでいた。
「——さっきの術、聖術か?」
彼の視線が俺に向けられ、愉悦の混じった嗤いが消えた。代わりに浮かんだのは、明らかな敵意と嫌悪。
「……聖術?」
彼はじっと俺を見据え、何かを確認するように沈黙する。そして次の瞬間、表情が凍りつき、低く震える声で、まるで呪詛のように俺の名を呼んだ。
「……ロイ・エリオット。」
周囲の審問官たちが目を見開き、驚愕の色を浮かべる。権杖を持つ男はその場で拳を握り締め、明らかな怒りを滲ませた。
「聖都の裏切り者が……まだ生きていたとはな?」
彼が権杖を高く掲げると、荊棘のような刻印が浮かび上がり、不吉な光が揺らめく。同時に、俺が放った《光鎖誡律》の鎖が霧散し、光の粒子となって消えていった。
「……何っ?」
思わず眉をひそめる。俺の聖術が、強制的に解除された……?
「クク……」
男が愉悦を滲ませた笑いを漏らす。そして、荊棘の刻まれた権杖を優雅に撫でながら、ゆっくりと俺たちに向けて突きつけた。
「聖都の叛徒、そして生まれながらの異端……なんとも興味深い組み合わせだな。」
一歩、また一歩と俺たちへと歩を進める。
そして、権杖をまっすぐに俺たちへ向け、冷たく宣告した。
「——今宵、貴様たちを《ドロル審律》の裁きにかける。」
権杖に刻まれた荊棘の紋様が瞬時に輝きを増し、まるでその言葉に呼応するかのように、重々しい魔力が周囲に広がっていく。空気が一気に圧迫され、篝火の灯りさえも一瞬揺らぎ、暗く沈んだ。
漆黒の魔力が波濤のように権杖から溢れ出し、まるで夜の帳に広がる荊棘の網のように、俺たちへと襲いかかる。
「気をつけろ!」
咄嗟に身を引き、ルティシアの腕を掴んで後方へと引き寄せる。直後、凄まじい魔力の衝撃が地面を駆け抜け、俺たちの立っていた場所を飲み込んだ。
権杖が地を打つと同時に、大地が震え、不気味な呪文が地表を這うように広がっていく。まるで生きた蔦のように絡みつくその紋様を見て、俺は瞬時に判断した——これは単なる聖術でも、単なる黒魔法でもない。信仰と審判の力が絡み合った、異端を裁くための呪詛だ。
「この力……」
ルティシアが低く呟く。彼女の詛呪の紋様が微かに発光し始め、抑えきれない黒い靄が滲み出す。彼女は奥歯を噛み締め、かろうじて己の異変を押さえ込んでいる。
——この戦いが長引けば長引くほど、彼女の状態は悪化する。
持権杖の審問官は、その変化を見逃さなかった。冷笑しながら唇を歪ませ、興味深げにルティシアを見つめる。
「どうした?お前の身体がこの力に応えているのか?」
彼の声には確信が滲んでいた。「やはり……生まれながらの異端は、どれだけ隠れようと神の裁きを逃れることはできない。」
権杖をゆっくりと持ち上げ、冷酷に宣告する。
「——今夜、貴様たちはここで終わる。」
その言葉が響くと同時に、異端審問官たちが一斉に動き出した。包囲網が狭まり、彼らの歩調には迷いがない。これは裁きであり、既に定められた運命の執行——彼らはそう信じて疑わない。
篝火の灯りが剣の刃や鎖を照らし、狂信に満ちた瞳が次々と俺たちを捉える。
まるで、すでに「処分されるべき異端」として認識されているかのように——。
そして俺たちの退路は、完全に閉ざされた。
「……ロイ。」
ルティシアが低く囁く。その声に怯えはなく、だが抑えきれない焦燥が滲んでいた。
俺は横目で彼女を見やる。銀白の瞳が微かに揺らぎ、呼吸は乱れつつも、彼女はまだ護符をしっかりと握り締めていた。袖口の奥では黒い靄が一瞬うねりを見せたが、すぐに彼女の意志によって押し戻される。
——詛呪が再び暴れようとしている。
この状態では、例え小さな魔法でも発動すれば、彼女の体力を一気に奪いかねない。それでも——
「動ける。」
彼女は低く、はっきりと告げた。まるで自身に言い聞かせるように、声には先ほどよりも強い決意がこもっている。「必要なら、支援する。」
俺はすぐには返事をしなかった。代わりに、鋭く周囲を見渡しながら、状況を冷静に見極める。
彼女の身体は、明らかに戦闘に適した状態ではない。だが、ルティシアが無理を押してでも戦おうとすることは、これまでの旅で嫌というほど知っている。放っておけば、彼女は自ら限界を超えてでも動こうとするだろう。
「必要ない。」俺は迷いなく応じた。落ち着いた声色の中に、僅かに強調するような硬さを加える。「お前の状態では戦えない。無理をすれば、かえって状況が悪化するだけだ。」
ルティシアの唇が微かに引き結ばれる。銀白の瞳に一瞬、悔しさの色が滲む。だが、彼女は何も言わず、指先をわずかに握り込み、そして静かに——
「……わかった。」
そう、一言だけ返した。
俺は短く息をつき、再び周囲を見渡す。状況は厳しく、選択肢は限られている。手の中の聖典の表紙を指でなぞりながら、次の行動を瞬時に組み立てる。
これは、ただの突破ではない。
——俺たち二人とも、生きてこの場を脱出しなければならない。
猶予は、もう残されていない。