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流亡した聖職者と捨てられた少女  作者: 藹仁
堕落した聖職者と呪われた少女
18/32

18.眠れぬ夜

 夜色が深まり、窓の隙間から客棧の中へと微かな夜風が忍び込む。静寂が広がる中、揺れる灯火の明かりが、ロイとルティシアの立つカウンターをぼんやりと照らしていた。


「申し訳ありません、お二人さん。もうほとんどの部屋が埋まっておりまして……空いているのは、ツインルームが一部屋だけですね。」


 数秒の沈黙が続く。妙な気まずさが空気の中に漂う中、ロイは無意識にルティシアへと視線を向けた。彼女はそっと俯き、フードが顔の大部分を隠していたが、その硬直した雰囲気までは覆い隠せなかった。


「……一部屋。」彼女は低く呟く。声には微かな渇きが滲んでいた。


 ロイはわずかに口元を引きつらせると、懐の金袋の中身を素早く計算し、やむを得ず頷いた。「それで構いません。」


 その言葉が口をついた瞬間、ルティシアの肩が微かに揺れたのが分かった。反対はしなかったが、かといって受け入れた様子でもない。この場の空気は、何とも言えない妙なものになった。旅の途中、彼らは何度か野営を共にしてきたが、それとは状況が全く違う。


 野営地には風が吹き、草のざわめきがあり、獣の気配や危険が常に付き纏う。だからこそ、互いに常に警戒心を持っていた。だが、ここは違う。ただの閉ざされた部屋であり、響くのはお互いの呼吸音だけ。それが妙に意識されてしまう。


 ロイは内心で自嘲気味に苦笑した。自制心には自信があるが、それでもこの状況を意識せずにいるのは難しい。


「……行こう。」彼は静かに息を吐き、鍵を受け取ると、先に階段を上っていく。


 ルティシアは何も言わず、ただ静かに後をついてきた。


 部屋は二階の端にあり、決して広くはないが、清潔さは保たれていた。並べられた二つのシングルベッドは距離が近く、野営時の寝床よりもずっと接近している。窓は半開きのままで、外の夜闇が広がる中、遠くで馬車の車輪が軋む音や、道を行く人々の低い囁きが微かに響いていた。

 しかし、二人が部屋に足を踏み入れた瞬間、ルティシアの偽装魔法の時限が切れた。


 ロイが扉を閉めた途端、微かな魔力の波動が広がるのを感じた。そして次の瞬間、ルティシアの銀白の髪が夜風に揺らぐようにふわりと現れ、偽装の下に隠されていた銀色の瞳が、揺れる燭光の下で淡い輝きを放った。


「……時間切れね。」彼女は低く呟きながら、マントの端を指で軽くつまみ、僅かに眉を寄せた。


「うん、少し厄介だな……」ロイはため息混じりに言った。


 ルティシアの偽装魔法は永続的なものではなく、定期的に魔力を補充しなければ維持できない。そして魔法が解けるたびに、彼女の本来の銀白の特徴がそのまま露わになってしまう。都市の中では決して好ましい状況ではない。何しろ、聖殿騎士や異端審問官がまだ巡回しているのだから、ほんの些細なミスが命取りになりかねない。


 ——だが、今はまだ安全なはずだ。


「それにしても……このベッド、近すぎないか?」ロイは無意識に呟いた。


 ルティシアはフードを直していた手をふと止め、ゆっくりと顔を上げた。そして、二つのベッドが思った以上に接近していることを確認すると、微かに眉をひそめ、何とも言えない表情を浮かべた。


「……野宿とはまるで違うわね。」彼女は低く呟いた。


 ロイは無言で頷くしかなかった。


 これまで荒野で共に眠ることはあったが、常に一定の距離を取るよう意識していたし、大抵は篝火や木々を挟んでいた。しかし今、二人は同じ密室にいて、逃げ場はなく、ちょっとした動作すら空気を微妙にしてしまう状況だった。

「俺が床で寝る——」


「いいえ、私が床で——」


 二人の声が同時に重なった瞬間、室内は一瞬静寂に包まれた。


 ルティシアの表情が一瞬硬直し、自分の発言に驚いたようだった。一方、ロイは無言のまま、微かに眉をひそめ、少し複雑な表情を浮かべた。


「……この部屋、ベッドが二つあるんだけどな。」

 彼は淡々と指摘し、その声にはわずかに呆れが混じっていた。


「あ……そうね。」

 ルティシアは小さく咳払いをし、自分の反応が過剰だったことに気づいたのか、そっと視線を逸らす。そして、無意識のうちにマントの端を指でぎゅっと握りしめた。


 ロイはそんな彼女の仕草を見て、内心で苦笑する。

 ——本来なら気にするようなことではなかったのに、ルティシアがここまで緊張していると、逆に意識せざるを得なくなる。野宿とは違い、こうして閉ざされた空間に二人きりとなると、どうしても互いの存在が際立ってしまう。


「……まあいい。」

 ロイはそう言ってベッドの端に腰を下ろし、なるべく自然な口調で話を切り替えた。

「先に本題に入ろう。リヴィアンの提案について、お前はどう思う?」


 ルティシアはその言葉に肩の力を少し抜き、自分のベッドの端に静かに座る。そして、しばらく思案した後、ゆっくりと口を開いた。


「聞いた限りでは、悪い話ではない……でも——」


 彼女は胸元の魔素安定の護符をそっと指でつまむ。銀白色の瞳が揺らめく燭光を映し出しながら、静かに続ける。


「取引というものは、決してそんなに単純じゃないわ。」

 ロイはすぐに返事をせず、静かにルティシアを見つめながら、彼女が続けるのを待った。


 ルティシアの指先は無意識に胸元の魔素安定の護符を撫でていた。銀色の瞳が揺らめく燭火を映しながら、まだ思考を巡らせているようだった。しばらくの沈黙の後、彼女は低い声で口を開いた。


「……私は、以前に裏切られたことがある。」


 その言葉は静かだったが、かすかに感情の余韻が滲んでいた。


「一見、自分にとって有利に見える取引ほど、裏には何か隠されているものよ。」


 彼女はゆっくりと顔を上げた。銀白の髪が微かに揺れ、燭火の光が瞳の中で揺らめく。


「リヴィアン本人に悪意は感じない。でも……彼女の護衛、特にあの女性は、私たちと同行することを強く拒んでいる。」

 彼女の眉がわずかに寄せられる。

「彼女は私たちを信用していない。」


「……ミレイアか。」

 ロイは小さく唸りながら、緑髪の護衛の表情を思い出す。


「ええ。」 ルティシアは頷いた。

「彼女の警戒は、ただの慎重さとは違う……まるで私たちが問題の種だと決めつけているようだった。」

 彼女は軽くため息をつき、僅かに顔を伏せる。

「彼女の視線は、正直、あまり気分のいいものじゃなかった。」


 一瞬の間があった後、ルティシアの視線が揺れ、そっと言葉を継いだ。


「……カスタの態度は、また別の意味で気になる。」


 ロイは眉を上げ、続きを促した。


「彼はミレイアのように露骨に拒絶してはいなかった。むしろ、同行には前向きなように見えた。軽口を叩いたり、冗談を言ったりもしていた。」

 ルティシアは護符を指でなぞりながら、わずかに躊躇した様子を見せた。

「でも……彼はずっと私たちを観察していた。まるで何かを見極めているみたいに。」


「見極める?」 ロイは考え込むように繰り返した。


「ええ……私たちの価値なのか、それとも潜在的な危険なのか……」

 ルティシアは眉をひそめ、静かに言った。

「彼の態度はミレイアよりも読みにくい。それが不安なの。」


 ロイはしばらく沈黙し、彼女の言葉を噛み締めながら、ゆっくりと口を開いた。


「じゃあ、お前がより気にしているのは——ミレイアの拒絶か、それともカスタの探りか?」


 ルティシアは一瞬、動きを止めた。

 彼女は視線を伏せ、護符をそっと握りしめる。


「……ミレイアは、単に私たちを拒絶している。」

 彼女は低く呟くように言った。

「でも、カスタは……私を不安にさせる。」


 その言葉は小さかったが、確かな感情が宿っていた。


 ——露骨な敵意よりも、目に見えない探りの方が、ずっと恐ろしい。

 彼女の声からは、そんな深い警戒心が滲んでいた。

 彼女は一瞬沈黙した後、ふと口を開いた。慎重な響きを帯びた声で、まるで答えを聞くのが怖いかのように、そっと問いかける。


「……わたしも……かつて、あなたにそう思わせたことがある?」


 彼女の指が、胸元の護符をぎゅっと握りしめる。その仕草には、言葉にしがたい不安が滲んでいた。


 ロイはわずかに目を見開いた。まさか彼女がそんなことを聞いてくるとは思っていなかった。


 彼は初めてルティシアと出会ったときのことを思い返す——全身に呪いの紋様が刻まれ、冷たく、他人を寄せつけない少女。彼女は、彼の善意に疑いの眼差しを向け、「あなたも……わたしを殺すの?」と何のためらいもなく尋ねた。


 もしミレイアの拒絶が露骨な敵意だとするなら、当時のルティシアは高い壁を築き、誰一人として近づくことを許さなかった。


「その時のことか?」ロイは小さく笑い、わずかに肩をすくめる。「正直なところ、そんなふうに考えたことはなかった。」


 ルティシアは顔を上げ、銀色の瞳を揺らした。「……考えたことがなかった?」


 ロイは軽く肩をすくめ、飾り気のない口調で答えた。「もし立場が逆だったら……俺の態度も、ミレイアほどとは言わなくても、そんなに変わらなかったかもしれないな。」


 ルティシアは一瞬、驚いたように目を見開いた。彼女の指先は無意識に護符を握りしめ、その縁をそっとなぞる。長い銀のまつげがかすかに震えた。


 だが、しばらくすると、彼女の手は力を緩め、口元に微かに弧を描いた——ほんの少し、安心したように。


「……そう、なのね。」彼女は小さく呟いた。その声には、どこか名状しがたい安堵の色が混じっていた。


 彼女はそっと視線を落とし、ロイの言葉を消化するように、しばらく沈黙した。


 やがて、再び彼を見つめ、真剣な声で続ける。


「……確かに、彼らの提案には大きな利益がある。」彼女の声には、先ほどまでの迷いが消え、慎重さだけが残っていた。「でも……それでも、あなたには慎重に考えてほしい。」


 ロイは片眉を上げ、「そんなに信用できないなら、なぜ俺に決めさせる?」


 ルティシアはそっと息を吸い込み、迷いのない声で答えた。


「だって……わたしは、あなたを信じているから。」


 その言葉が落ちた瞬間、部屋にはしばしの静寂が満ちた。

 ロイは一瞬動きを止め、わずかに目を見開いた。その言葉はあまりにも率直で、即座に反応することができなかった。

 彼はルティシアのこれまでの警戒心と防備を思い返す。それは彼女の中に深く根付いた習慣であり、まるで誰も簡単には信じないことを当然としているかのようだった。

 それなのに——この瞬間だけは、彼女は何の躊躇もなく、決定権を彼に委ねていた。


「……それはまた、意外な答えだな。」

 ロイは小さく笑い、複雑な感情を滲ませながら呟いた。「普段なら、自分で全てを確かめたがるんじゃないのか?」


「できるなら、そうしたい。」ルティシアの声は変わらず落ち着いていたが、その眼差しには確かな決意が宿っていた。「でも、今回のことは私一人の判断では不十分……それに、あなたの方が、この決断に向いている。」


 ロイはすぐに返事をせず、彼女をじっと見つめると、やがて小さく息をつき、口元に苦笑めいた微笑を浮かべた。


「……よく考えてみる。たぶん、一日か二日くらいはかかるな。」


 その言葉を聞いたルティシアは、ほっとしたようにわずかに肩の力を抜いた。

 緊張感のあった空気は、次第に和らいでいき、先ほどまでの張り詰めた雰囲気も少しずつ消えていく。


 しかし、ロイはすぐに現実的な問題へと意識を戻し、こめかみを揉みながら、少し困ったように言った。


「……それよりも、もう一つ、現実的な問題があるんだが。」


 ルティシアは彼を見つめ、「何の問題?」と問いかける。


「金がそろそろ底をつく。」ロイは深いため息をつきながら、少し苦笑する。「もし彼らと同行するなら、今後の資金をどうするかも考えないとな。たぶん……ギルドで依頼を受けることになりそうだ。」


 ルティシアはわずかに瞬きをし、眉を寄せた。初めて聞く言葉に戸惑いを覚えたようだった。


「ギルド?」


「冒険者や傭兵、情報屋なんかが仕事を請け負う場所だよ。」ロイは簡潔に説明する。「護衛や魔物討伐、情報収集の依頼があって、それをこなせば報酬が手に入る。」


 ルティシアは少し考え込み、ゆっくりと頷いた。「私はギルドに行ったことがない……あまり話にも聞いたことがない。」


「問題ない。実際に行ってみればすぐに分かるさ。」ロイは軽く肩をすくめ、「ただ、できればお前には危険な依頼はやらせたくないけどな。とりあえず、どんな仕組みか理解しておくのはいいことだろう。」


 ルティシアは俯き、何かを考え込んでいるようだったが、すぐに顔を上げると、真剣な眼差しで言った。


「……足手まといにはならないようにする。」


 ロイはその言葉を聞き、思わず小さく笑った。


「そんなこと、思ってもいないさ。」


 ルティシアは一瞬、意外そうに彼を見つめた。しかし、最後には何も言わず、小さく頷いた。それはまるで、その言葉を静かに受け入れたかのようだった。


 話題が終わると、二人は自然と口を閉ざし、それぞれ簡単に寝る準備を始めた。

 ルティシアは洗面台の前に立ち、冷たい水を手にすくい、そっと顔にかける。

 先ほどの会話の余韻を振り払おうとしたが、思ったほど簡単にはいかなかった。


「ただ一緒に寝るだけ……別に大したことじゃない。」

 鏡の中の自分にそう言い聞かせる。

 だが、その言葉はなぜかあまり説得力を持たなかった。


 部屋に戻ると、ロイはすでにベッドに横になっていた。

 彼は背を向け、静かに寝息を立てているように見えた。


 ルティシアは何も言わず、そっと蝋燭の火を吹き消し、自分のベッドに身を沈める。

 部屋は闇に包まれ、窓の外から差し込む月明かりだけが、ぼんやりと輪郭を映し出していた。


「目を閉じて、朝が来れば何事もなかったようになる……。」

 そう自分に言い聞かせながら、布団を引き寄せ、きちんとした姿勢で横になる。


 しかし——それは思ったよりも難しかった。


 室内の微かな空気の流れが聞こえる。

 それだけでなく、ロイの呼吸のリズムが、まだ完全に安定していないことに気づく。

 彼はまだ起きている——それが妙に気になってしまう。


 ルティシアはそっと身じろぎしながら、心の中でぼそっと毒づく。


「……結局、どっちが先に寝るのが正解なの?」

「なんでこんな妙な膠着状態になってるの?」


 本来なら、旅の疲れが溜まっているはずで、すぐに眠れるはずだった。

 なのに、意識すればするほど、身体が眠りを拒んでいく。


「もし変に寝返りを打ったら、何かするつもりだって思われたりしない?」


「……それとも、もしかして彼も『ルティシア、まだ起きてるんじゃないか?』とか考えてる?」


 思考が変な方向へと暴走し、つい笑いそうになる。

 この「お互いが相手を意識しすぎて寝られない状況」、暗闇での情報戦よりもよほど気まずい。


「でも、ロイは聖職者だから……普通はこんなこと考えないはずだよね?」


 そう思った瞬間、彼女はもう一度寝返りを打った。


 しかし、今回は少し動きが大きすぎた。


 ——ギシッ。


 静寂の中で、ベッドの軋む音がやけに響いた。


 ルティシアの動きが止まる。


(……しまった。)


 その瞬間、彼女はまるで敵の目の前で物音を立ててしまった斥候のように、息を詰めて固まった。

 ロイの方も微かに動いた気配がしたが、すぐに静かになった。


 ——つまり、彼もまだ眠れていない。


「……今夜、長すぎない?」


 ルティシアは心の中で小さくぼやいた。


 とはいえ、疲労には勝てなかった。

 思考が渦巻く中でも、徐々にまぶたが重くなり、意識が暗闇へと沈んでいく。

 やがて、彼女の呼吸は安定し、静かで穏やかな寝息が部屋の中に微かに響いた。


 ***


 ロイはベッドに横たわり、目を閉じて眠ろうとしたが——当然のように眠れなかった。

 いや、正確には、冷静でいること自体が難しかった。


「同じ部屋で寝ること自体はまあいいとして……なぜこんなにベッドが近い?」


 心の中でぼやきながら、今までの旅路を振り返る。

 魔物との戦闘時よりも緊張している自分に気づき、思わずため息が漏れそうになる。


 この宿の設計者は、「プライバシー」という概念を理解しているのか?

 この狭い間隔、少し手を伸ばせば隣のベッドに触れてしまいそうな距離感——

 これはもう「ツインルーム」ではなく、「他人との距離感を試される罠」では?


 ロイは寝返りを打ち、余計なことを考えないようにしようとした。

 だが、どうしても身体が無意識に「高度な警戒モード」に入ってしまう。

 まるで戦場で突発的な襲撃を警戒しているような感覚。


 ただし、今回の「危機」は敵からの襲撃ではなく——

 部屋の中の、説明しがたい妙な空気から来るものだった。


「落ち着け、ロイ。これはただの……普通の……寝るだけの話だ。」


 何度も自分にそう言い聞かせるが、なかなか効果はない。

 そうこうしているうちに、微かな寝返りの音が耳に届いた。


 ロイはわずかに目を開け、ぼんやりとした月明かりの中で、ルティシアが背を向けて眠っているのを確認する。


「……寝るの、早いな。」


 思わず心の中でつぶやく。

 これは信頼の証なのか、それとも単に疲れ果てているだけなのか?


 彼は再び目を閉じ、翌日の計画を考え始めた。

 気を紛らわせようとしたが、少し気を抜くと、頭のどこかで別の声が囁く——


「おい、お前、今、異性と同じ部屋で寝てるんだぞ?」


 ……もう自分で自分にツッコミを入れたくなってきた。


 いっそ、「瞬間睡眠」が可能な聖術を発明できたらどれほど楽か。

 そうすれば、こんな無駄に長い夜を過ごさずに済むのに。


「……神よ、今のところ信仰心はないが、もし速攻で眠れる加護を与えてくださるなら、もう一度お前との関係を再考する用意がある……。」

 しかし、神は答えなかった。


 ロイが思考を放棄し、ただ疲労に身を任せて眠りにつこうとしたその時——

 ルティシアの方から、微かな動きの気配が伝わってきた。


 彼女はそっと眉を寄せ、無意識に毛布の端を握りしめる。

 唇がわずかに動き、かすかな呟きが漏れた。


 しばらくすると、彼女の銀色の瞳がゆっくりと開く。

 暗闇の中で、その輝きはひどく際立っていた。


「……ロイ?」


 小さく、少し眠たげな声だった。


 ロイは目を開け、彼女の方を向いた。


「どうした?」


 ルティシアは少し起き上がり、眉をひそめる。

 彼女の表情には、言いようのない不安が滲んでいた。


「……何か、聞こえた?」


「音?」ロイは周囲を見回した。

 しかし、部屋の中には彼らの呼吸の音しかない。


「……囁き声。」ルティシアは胸元の護符を押さえながら、戸惑いがちに続ける。「私を呼んでいるみたい……。」


 ロイはさらに警戒を強めた。

 再び耳を澄ませたが、やはり何も聞こえない。


「どこへ?」彼は低く問いかける。


「……わからない。」ルティシアは小さく首を振る。「でも、この感覚……どんどん強くなってる……。」


 ロイが何かを言いかけたその時——

 彼の視界の端で、異変が起こった。


 窓の外。


 夜の街を、何者かの影が静かに移動していた。


 それは旅人、浮浪者、ア人種……様々な人々が混じり合い、無言のまま城門へと向かっている。

 まるで何かに導かれるように、一歩、また一歩と進んでいた。


「……これはおかしい。」ロイは低く呟く。


 ルティシアも異変に気づき、眉をひそめた。

「行くべき……?」


 ロイはすぐには答えなかった。

 聖都の異端審問官たちの動きと関係があるのか、それとも、これはそれ以上に根深い異変なのか——?


 数秒の沈黙の後、彼は決断した。


「行こう。」


 そう言ってロイは立ち上がり、黒い外套を翻すと、自らの聖職者としての気配を偽装魔法で覆い隠す。

 ルティシアも無言でうなずき、慎重に動いた。


 静かに部屋の扉を開け、足音を殺して外へと踏み出す。

 二人は夜の闇へと溶け込み、謎の夜行者たちの後を追い、城外へ向かった。


 ——だが、その様子を、じっと見つめる視線があった。


 廊下の奥、影に紛れるように立っていたのは、短髪の弓士。


 カスタは壁に寄りかかりながら、薄く口元を歪めた。

 その瞳には、獲物を狙うような光が宿っている。


「……面白い奴らだな。」


 小さくそう呟き、彼は夜の静寂に紛れるように微かに笑った。

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