17.旅路とエルフの誘い
黄昏時分、夕陽の余韻が街路に降り注ぎ、石畳の道を淡い橙色に染めていた。
数日間の旅路の疲れが、確かにルティシアの歩みに表れている。
彼女の足取りは相変わらず軽やかだったが、無意識のうちに速度を落としているのがわかった。
城内の通りは依然として賑わっており、行き交う商人や傭兵、旅人たちがひしめいている。
市場の呼び声、交わされる会話が絶え間なく響き渡るこの町は、交易都市として栄えている。
だが、それ以上に目についたのは、聖都の影響の強さだった。
銀白の鎧をまとった聖殿騎士たちが三、五人の小隊で巡回し、
時折、地元の衛兵と言葉を交わしている。
また、長衣をまとった聖職者たちが群衆に紛れ込みながら、
特定の旅人たちに視線を向けているのが見えた。
「……思ったより数が多い。」
ルティシアは低く呟きながら、帽子のつばをそっと引き下げ、影に身を隠した。
「この町だけの話じゃないだろうな。」
俺は静かに答えながら、通りの向こうにいる聖職者たちを見やる。
「聖都の方で何かあったのかもしれない。だからこそ、あちこちに人員を派遣しているんだろう。」
聖殿騎士や聖職者の活動は決して珍しいものではない。
だが、通常ならば巡回区域がこれほど広がることはないはずだ。
それが今や、大通りだけでなく、裏通りの片隅にまで聖職者の姿が見受けられる。
彼らは地元の人々と小声で言葉を交わし、
まるで何かの「捜索」を進めているかのように思えた。
——これは、かつて俺が見たどの状況よりも異常だった。
何が起こっているにせよ、ここに長く留まるのは賢明ではない。
「宿を探そう。」
俺は小さく息を吐きながら言い、足を止めることなく歩き続けた。
「街に長く留まるのは得策じゃない。」
ルティシアは静かに頷き、何も言わずに俺の後を追った。
***
しばらく進むと、一軒の宿が目に入る。
ここは一般的な旅籠よりも規模が大きく、
外壁には「銀月亭」と刻まれた木製の看板が掛けられている。
出入りする旅人や商人の姿も多く、
この宿がある程度の質を保っていることを物語っていた。
「ここにしよう。」
そう思いながら扉へ手をかけた瞬間、ふと視線を大広間へ向けた。
そして、目に飛び込んできたのは——
金色の長髪を持つ、優雅な仕草の精霊の女性。
彼女はカウンターで宿泊の手続きを進めており、
傍らには、二人の護衛——ミレイアとカスタが控えている。
——リヴィアン一行。
彼女たちも、偶然にもこの宿を選んでいたらしい。
それがただの偶然なのか、それとも何かしらの必然なのかはわからない。
だが、少なくともこの城に滞在する間は、彼女たちとの関わりが増えることは避けられそうになかった。
リヴィアンはすぐに私たちの到来に気付いた。
彼女は振り返り、一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに程よい微笑みを浮かべ、軽やかな口調で言った。
「これはまた……面白い巡り合わせですね。」
彼女の声はそれほど大きくなかったが、それでも傍らにいた護衛たちの注意を引いた。
彼女の側に立つ緑髪の女性護衛——ミレイアは、眉をわずかにひそめ、警戒の色を滲ませながら私たちを観察する。
彼女は何も言わなかったが、その微妙な立ち位置の変化——リヴィアンのすぐ側へと無意識に近づいた動作から、私たちの突然の出現に警戒していることが見て取れた。
一方で、短髪の男性護衛——カスタは、それほど緊張した様子もなく、カウンターに肘をつき、気だるげな笑みを浮かべていた。
まるでこの「偶然の再会」がまったくの想定内であったかのように、いや、むしろ少し楽しんでいるようにも見える。
「お二人も、こちらの宿に泊まる予定ですか?」
リヴィアンは微笑みながら尋ねた。
その口調には、まるで旧知の間柄であるかのような親しみがあり、自然に距離を縮めようとしているのが伝わってくる。
「そのつもりだ。」
私は簡潔に答え、特に説明を付け加えることはしなかった。
リヴィアンは満足げに頷くと、さらに機嫌が良さそうな笑みを見せた。
「それはよかった。では、一緒に食事でもどうですか?今夜の食事代は私が持ちます。城門で助けていただいたお礼も兼ねて。」
彼女の言葉は、一見するとただの感謝の意を示しているようにも聞こえるが——
これは単なる礼儀ではない。
「遠慮しておこう……」
私は本能的に断ろうとした。
彼女たちとの接触を深めるのは、決して得策ではない。
しかし、その瞬間、視界の端に映ったルティシアのささやかな仕草が、私の決断を鈍らせた。
——彼女は何も言わなかった。
だが、彼女の指先がわずかに披風の端をつまみ、そっと握りしめている。
それは、彼女が遠慮しているときの仕草だった。
……彼女も、おそらく空腹なのだろう。
私の財布の中身は、まだ数日間は耐えられる程度には残っているが、節約できるに越したことはない。
それに、リヴィアンがこうして招待する以上、彼女にも話したいことがあるのは明白だ。
短く思考を巡らせた後、私はわずかに頷いた。
「……わかった。では、お言葉に甘えよう。」
リヴィアンの微笑みが、先ほどよりも少し深くなる。
「それでは、一時間後に宿の隣の食堂でお会いしましょう。」
夜の帳が次第に降り、街路の灯火が次々と灯る。
貿易都市の夜は、昼間とはまた違った活気を帯び、より賑やかさを増していた。
宿の隣にある食堂は、明るい灯りに照らされ、店内からは賑やかな話し声や、酒杯がぶつかる音が響いてくる。
時折、豪快な笑い声も混じり、陽気な雰囲気が満ちていた。
食堂に足を踏み入れると、ルティシアの微妙な緊張が伝わってきた。
特にこの場を嫌がっているわけではなさそうだが、見知らぬ人と共に食事をすることに慣れていないのは明らかだった。
一方、リヴィアンはまるで自分の庭のように慣れた様子で、迷わず壁際の席を選び、優雅に腰を下ろした。
ミレイアは彼女の後ろに立ち、依然として警戒心を解かず、目を鋭く光らせていた。
カスタは椅子を引き、気楽に座り込むと、相変わらず気だるげな笑みを浮かべている。
「どうぞ、お好きなものを頼んでください。今夜の食事代は、私が持ちます。」
リヴィアンは微笑みながら言った。
その口調はあくまで自然で、まるで気前の良さを示しているかのようだったが——
この食事の目的が、単なる感謝の意を示すためではないことは明白だった。
「では、遠慮なく。」
私は席に着くと、すぐにメニューに目を通した。
この店の料理は決して高価なわけではなかったが、今の私たちにとって、少しでも出費を抑えられるのはありがたい。
ルティシアはメニューをしばらく見つめた後、少し迷いながらも、最終的に煮込み料理とパンを選んだ。
私は野菜の煮込みと麦酒を注文することにした。
「大人が酒を飲まれるとは……」
リヴィアンは微かに眉を上げ、興味深そうに笑った。
「少し意外ですね。」
「適当に選んだだけだ。」
私は淡々と返す。
「それなら、ちょうどいい。」
カスタが手を挙げて、店員を呼び止める。
「俺も二杯追加で。」
「また飲むの?」
ミレイアは眉をひそめ、呆れたように言った。
「せっかくの美味い酒を飲まずにどうする?」
カスタは当然だと言わんばかりに肩をすくめる。
しばらくして、注文した料理が次々と運ばれてきた。
温かい香りが広がる中、私たちの会話も、少しずつ砕けたものになっていった。
しかし——リヴィアンはすぐには本題に入らなかった。
彼女はあくまで自然に、「旅の計画」とやらについて語り始めた。
その声は決して急くことなく、まるで何気ない雑談のように、警戒心を解こうとするかのように穏やかだった。
「今回の旅の目的のひとつは、各地の魔法環境を調査することですね。」
リヴィアンはそう言いながら、フォークでパンを切り分け、自然な口調で続けた。
「グラントの街は規模こそ大きくありませんが、交易が活発で情報の流れも速い。補給や情報収集にはちょうどいい場所です。」
「それで、どれくらい滞在するつもりだ?」
私は淡々と尋ね、特に感情を込めずに問いかける。
「三日ほどの予定ですね。」
リヴィアンは微笑みながら、ちらりとこちらの様子を伺うように視線を送る。
「ただ、もし良い機会があれば、同行できる仲間を探すのも悪くありません。」
……明らかに試すような言い方だった。
私はすぐには答えず、食事を続ける。
下手に言葉を返せば、彼女の誘導に乗せられる可能性が高い。
しかし、リヴィアンはそのまま話を終えるつもりはないようだった。
「そういえば、大人たちの目的地はどこですか?」
彼女はあくまで軽やかな口調を保っていたが、目の奥には探るような視線があった。
私はスプーンを置き、淡々と答える。
「ルミナスだ。」
「おや?」
リヴィアンはわずかに目を見開き、微笑を深める。
「これはまた、偶然ですね。私たちも、ルミナスは訪れる予定地のひとつなんです。」
彼女はそう言うと、ワイングラスを軽く揺らしながら続ける。
「商業の盛んな街ですし、仕入れや販売にはうってつけの場所でして……少なくとも、私たちにとっては価値のある土地です。」
……だが、彼女の本当の目的が「交易」だけであるとは到底思えなかった。
「それは奇遇だな。」
私は平静な口調で返し、肯定も否定もせずに言葉を濁す。
その時だった。
——ガタンッ。
食堂の扉が勢いよく押し開かれた。
銀白の鎧を纏った聖殿騎士たちが数名、堂々と店内へと歩みを進めてくる。
鋼鉄が擦れる音、腰に帯びた剣が鎧にぶつかる硬質な響きが、ざわめく店内に鋭く響いた。
彼らは適当な空席を見つけると、どっかりと腰を下ろし、うちの一人が手を挙げて店主を呼びつける。
「酒だ、さっさと持ってこい。」
私は目を上げず、食事を続けた。
だが、店内の雰囲気がわずかに変わったのを敏感に感じ取る。
騎士たちの登場により、それまで陽気に談笑していた客たちが、自然と声をひそめ始めた。
旅人たちは不用意に騎士たちの機嫌を損ねぬよう、注意深くなっている。
……しかし、騎士たちは私たちに気づく様子もなく、ただ酒が運ばれるのを待ちながら、大声で**「エルフ族」**の話をし始めた。
「最近、あの亜人どもはどこにでも出没するな。こんな場所でまで見かけるとはな。」
「さあな。どうせ、どこかの後ろ盾を探してるんだろうよ。あいつらの故郷なんざ、森と木しかねぇんだからな。」
その口調には、露骨な軽蔑と嘲笑が滲んでいた。
ミレイアの手が、ぴたりと止まる。
スプーンを握る指に力が入り、唇をきつく結び、眉間には深い皺が刻まれる。
その瞳には、明らかに抑えきれない怒りが宿っていた。
「……今、何て言った?」
彼女は静かに食器を置くと、低く抑えた声で騎士たちの方を振り向いた。
その声音には、怒りを抑え込んだような鋭さがあった。
騎士たちも彼女の視線に気づく。
そのうちの一人が嘲るように鼻を鳴らし、ゆっくりとミレイアの方へ顔を向けた。
「ん? 何か間違ったことでも言ったか?」
一瞬で、場の空気が張り詰める。
数名の騎士がミレイアを挑発するような視線を向ける一方で、彼女はすでに腰の剣に手をかけていた。
その冷え切った眼差しからは、今にも剣を抜きかねない気配が漂っている。
ルティシアもこの一触即発の状況に気づいたのか、僅かに首を傾け、こちらを見た。
まるで、私の判断を待っているかのように。
私はすぐには動かず、ゆっくりと手にしていた酒杯を置くと、静かな声で告げた。
「ここがどこか、忘れるな。ここで剣を抜けば、面倒が増えるのはお前たちだけじゃない。」
この言葉は、ミレイアだけでなく、あの騎士たちにも向けたものだった。
「ほぅ?」
その言葉に、ようやく騎士の一人がこちらへと目を向けた。
視線が私の黒衣と胸元の聖印に移り、彼の眉が僅かに動く。
「……聖職者、か?」
彼らの間に、一瞬の沈黙が流れる。
先ほどまでの敵意が完全に消えたわけではない。
だが、少なくとも、明らかに警戒と慎重さが入り混じった視線へと変わっていた。
依然張り詰めた空気の中、リヴィアンが突然立ち上がった。
彼女は穏やかに微笑みながら、静かに騎士たちのテーブルへと歩み寄り、柔らかな声で話しかける。
「私の護衛が少し無作法でした。お詫びの印に、一杯いかがですか?」
その声音は決して大きくはないが、貴族らしい優雅さと礼節を兼ね備えている。
騎士たちは一瞬驚いたような表情を見せた。
まさか精霊族の側から歩み寄ってくるとは思わなかったのだろう。
リヴィアンの申し出により、張り詰めた空気は僅かに和らいだ。
先ほどまで敵意を剝き出しにしていた騎士たちは、互いに顔を見合わせ、意外そうな表情を浮かべる。
「……ほう?」
そのうちの一人がリヴィアンを横目で見やり、軽く鼻を鳴らした。
口調にはまだ若干の軽蔑が滲んでいる。
「お前みたいな精霊にしては、随分と人間社会のルールをわかってるじゃねぇか。」
「商人ですから。礼儀は大切にしないと。」
リヴィアンは自然な笑みを浮かべながら答える。
その口調は柔らかく、低姿勢にも見えるが、決して媚びるようなものではない。
むしろ、商人としての立場を強調しながら、冷静に場の流れを制御している。
彼女は店主に軽く合図を送り、新たに酒を頼むと、そのまま騎士たちのテーブルに向かって腰を下ろした。
この動きに、ミレイアの眉がわずかに寄る。
彼女は未だに腰の剣に手をかけたままであり、どうやらリヴィアンのこの行動に納得がいっていないようだ。
しかし、それでも口を挟むことはなかった。
——だが、私は知っている。
リヴィアンの狙いは、単なる「謝罪」ではない。
彼女が本当に望んでいるのは、情報だ。
案の定、彼女が席に着くや否や、話題はゆるやかに移行し始める。
「それにしても、最近の聖殿騎士団は随分と忙しそうですね。」
リヴィアンは軽やかな口調で言いながら、手元の酒杯を揺らした。
「どの町に行っても、あなた方の姿を見かけますけれど……何か、大きな事件でも?」
彼女の問いに、騎士たちは一瞬視線を交わす。
そのうちの一人が肩をすくめ、ぞんざいに答えた。
「お前に関係のある話じゃねぇよ。」
「そうですか?」
リヴィアンはくすっと微笑む。
「でもね、これだけ大々的に人員を動かされると、私たち商人も影響を受けるんですよ。」
彼女はあくまで商人としての立場を崩さず、少し困ったような表情を見せる。
「せめて、何かヒントくらい教えてもらえませんか?」
彼女の口調は変わらず軽やかだったが、その指先がわずかに動いたのを、私は見逃さなかった。
——魔力が、わずかに波打つ。
……魔法を使っている?
私は反射的に眉をひそめたが、無闇に動くことはしなかった。
しかし、直感的に分かる。
彼女が使っているのは、精神干渉系の魔法だ。
騎士たちの表情が、ほんの少し和らいだ。
そのうちの一人が鼻を鳴らしながら、気だるそうに口を開く。
「どうせ時間が経てば、誰の耳にも入る話だ……俺たちは確かに、上層部からの命令で捜査を行っている。」
彼は酒杯を軽く揺らしながら続ける。
「大審問官【背信】様直々の指示で、大量の聖職者と騎士が動員され、国境沿いの街々で大規模な調査を行っているんだ。」
【背信】。
その名を聞いた瞬間、俺の指先がわずかに強張る。
「背信」——聖都に君臨する十名の最高審問官の一人。
異端審問と高リスク案件の処理を専門とする存在。
「そんな大掛かりな作戦なのですか?」
リヴィアンは驚いたような口調を作りながらも、その態度は相変わらず落ち着いていた。
「何か、大きな事件でもあったのでしょうか?」
「呪いを持つ異端者を追ってるって話だが……」
もう一人の騎士が気だるそうに答える。
「詳細は俺たちにも知らされちゃいねえ。ただ、一つだけ確かなのは、命令はすでに下ってるってことだ。どんな些細な異変でも、見逃すなってな。」
——呪いを持つ異端者。
その言葉を聞いた途端、俺の視線はわずかにリュティシアへと向かう。
だが、その瞬間、リュティシアもまた、俺を見ていた。
明らかに、同じ考えに至っている証拠だ。
——これは、ソウルイーター(噛魂獣)の事件と関係があるのか?
——あるいは、彼らが追っているのは、リュティシア自身なのか?
リヴィアンもまた、俺たちの間に流れた緊張を察したのか、表情を変えずに微かに頷いた。
「なるほど……どうやら、私が思っていた以上に、大きな影響を及ぼしているみたいですね。」
そう言いながら、彼女はどこか考え込むような微笑みを浮かべた。
その後も、彼女は騎士たちと軽く言葉を交わし、場の雰囲気が和らいだのを見計らって、さりげなく話題を切り上げた。
そして、礼儀正しく笑みを浮かべながら席を立ち、俺たちのテーブルへと戻ってきた。
リヴィアンが席に着いた途端、ミレイアがうつむき、静かな声で言った。
「……リヴィアン様、申し訳ありません。先ほどは、私が軽率でした。」
彼女の声には、自責の念が滲んでいる。
リヴィアンは一瞬驚いたように瞬きをしたが、すぐに柔らかく笑い、手を軽く振った。
「気にしないで。あなたが心配してくれたのは分かってるわ。」
彼女は優しく言葉を続ける。
「でも、次はもう少し抑えてね?」
その口調には決して責めるような響きはなく、むしろ穏やかな慰めに近かった。
ミレイアは微かに頷き、何も言わなかったが、その表情にはまだ後悔の色が残っていた。
——そして、リヴィアンは俺を見た。
その琥珀色の瞳には、かすかな興味と探るような光が宿っている。
「……ロイ様。」
彼女は軽く笑みを浮かべながら、いたずらっぽい口調で言う。
「先ほどの話、聞いていましたよね?」
「……ああ。」
俺は短く頷く。
だが、その裏で、思考を巡らせていた。
——もし、今回の聖都の大規模な調査が噬魂獣事件と関係しているなら。
——もし、それが単なる魔物討伐ではなく、異端者狩りの一環だとしたら。
俺たちの状況は、想像以上に厄介なものになっているかもしれない。
場の空気が、一瞬だけ静まり返った。
そして、リヴィアンが軽くため息をつき、柔らかく笑いながら言った。
「本当は、ただロイ様に食事をご馳走しようと思っていただけなのですが……思わぬ収穫がありましたね。」
彼女の声は軽快だったが、その奥にはどこか慎重な響きがあった。
「……さっき、お前は何をした?」
俺は彼女の冗談には乗らず、直接問いかける。
リヴィアンはゆっくりと瞬きをし、相変わらず穏やかな笑みを浮かべながら、落ち着いた口調で答えた。
「ただ、彼らの警戒心を少し和らげただけですよ。……ほら、お酒が入ると、人は自然と口数が多くなるでしょう?」
俺はすぐには返事をしなかった。
——こいつが使ったのは、ただの酒ではない。
何かしらの魔法技術を織り交ぜたはずだ。
隣のリュティシアがわずかに首を傾げ、考え込むように視線を落とす。
ミレイアは眉をひそめ、慎重な口調で言った。
「……今回の調査に呪いが関係しているのなら、今後の行動はより慎重にしなければなりませんね。」
彼女の視線が俺に向けられる。
「聖殿騎士たちはただの命令に従っているだけ……本当の問題は、その命令を下した大審問官です。」
ミレイアはそう言いながら、静かに頷いた。
表情にはさほど変化はないが、その瞳には明らかな警戒の色が宿っている。
「……もし彼が直接動いているのなら、単なる定例の調査では済まされません。」
「厄介な相手ですね。」
リヴィアンは微笑みながら、視線を俺へと移した。
「ロイ様、今後のご予定は?」
「……予定通り、旅を続ける。」
俺は短く答える。
リヴィアンは少しの間、じっと俺を見つめた後、微笑を深めながら言った。
「それなら、一つ提案があります。」
彼女の声は、これまでと同じく穏やかだ。
しかし、それが決して気まぐれではなく、明確な意図を持っていることは明白だった。
「……聞こう。」
俺は静かに促す。
リヴィアンは手元の酒杯を軽く揺らしながら、軽やかに口を開いた。
「この旅路、私たちにとっても決して楽なものではありません。ご存知の通り、精霊族は一部の地域ではあまり歓迎されませんから。」
彼女はわずかに肩をすくめながら、苦笑交じりに言う。
「こういう時、聖都に認められた聖職者が同行していれば、余計な厄介事を避けられるのではないかと思いまして。」
——つまり、俺の身分を利用したい、ということか。
俺は僅かに眉を上げ、淡々と尋ねる。
「……庇護を求めているのか?」
「庇護だけではありません。」
リヴィアンはくすりと笑い、ゆっくりと酒杯を置いた。
「情報も、私たちにとっては重要です。
ロイ様なら、聖都内部の動きをより深く把握できるでしょう?」
——確かに、それは間違いではない。
精霊族の情報網は広いが、聖都の内部機密に容易にアクセスできるわけではない。
俺は元聖職者であり、聖都の行動パターンを熟知している。
さらに、表向きはまだ「聖職者」として扱われる立場を持つ俺なら、精霊族とは無関係に行動しやすい。
それを利用すれば、ある程度の立ち回りが可能になる。
——リヴィアンは、それを計算に入れた上で俺を誘っているのだ。
「つまり、聖都の情報を提供しろということか?」
「その代わりに、大人にはもう一つの庇護を差し上げられます。」
リヴィアンは微かに頷き、淡々とした口調で続けた。
「精霊商隊の身分は決して歓迎されるものではありませんが、一部の地域では通行の優位性を持っています。少なくとも、大人の足跡を隠し、不要な詮索を避けることはできるでしょう。」
彼女の言葉は実に滑らかだったが、その本質は明確だった。
お互いが持っていないものを補い合う、それだけの取引に過ぎない。
「つまり、互いに利用し合うということか?」
俺は簡潔にまとめた。
「冷たく聞こえるかもしれませんが、そういうことです。」
リヴィアンは一切のためらいもなく認め、口元に微かな笑みを浮かべた。
「でも、私個人としては、ただの取引ではなく、この旅が少しでも楽しくなるのなら、それも悪くはないと思っています。」
その時、露ティシアがついに顔を上げ、リヴィアンに目を向けた。
彼女の声は淡々としていたが、その眼差しには明らかな警戒心が宿っていた。
「……本当に、それ以外の目的はないの?」
「ありません。」
リヴィアンは穏やかに答えた。
「ちょうど、大人がご自身の行動や目的を容易には明かさないのと同じです。私たちは互いに利害が衝突する立場ではありませんし、私はロイ大人の過去を詮索するつもりもありません。」
俺は返答せず、短い思考の時間を取った。
確かに、この取引は悪い話ではない。
俺たちはより安全に身を隠す手段を手に入れ、彼女たちは聖都の情報を得られる。
だが、こうした協力関係が成立するには、双方が裏切る意思を持たないことが前提だ。
その保証が今の時点でできるのか……。
そんなことを考えていると、リヴィアンがゆっくりと前傾し、俺の耳元にそっと囁いた。
「……偽装魔法。普通の旅人が使うものではありませんよね? それほどまでに足取りを隠す理由、単なる旅行ではないのでは?」
その声は極めて小さく、俺にしか聞こえないほどだった。
露ティシアは僅かに目を見開いた。
彼女もリヴィアンの行動を予測していなかったのだろう。
その視線には警戒の色が濃く浮かんでいたが、すぐに反応することはなかった。
俺は一瞬で警戒を強め、リヴィアンの表情をじっと観察する。
彼女がどこまで把握しているのか、それを探るために。
すると、リヴィアンはゆるりと微笑み、すっと上体を引いた。
元の姿勢に戻りながら、何気ない調子で言う。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。ちょっと推測してみただけですから。」
「何しろ、城門の前で私の芝居に乗ってくれた時点で、もう十分に気づいていました。」
彼女の目には依然として穏やかな笑みが浮かんでいたが、その奥に隠された試すような視線が、俺の警戒心をさらに強くした。
「安心してください、悪意はありません。」
リヴィアンは淡々と続けた。
「ただ、せっかく行き先が同じなら、協力できるのではないかと思っただけです。」
「……それで、どうするつもりだ?」
俺は尋ねた。
「私たちが同行すれば、大人は商隊の身分を利用して足取りを隠せます。逆に、私たちは大人の情報収集力を頼ることができる。」
その時、ミレイアが口を開いた。
彼女は俺を一瞥し、冷ややかな声で言い放つ。
「申し訳ありませんが、リヴィアン様、私は聖職者を信用しません。」
その言葉に、露ティシアの表情が僅かに変化した。
わずかながら、不快感を示しているようだったが、反論することはなかった。
ただじっとミレイアを見つめている。
「おいおい、それはさすがに偏見が過ぎるんじゃないか?」
カスタは苦笑しながら肩をすくめ、軽く酒杯を揺らした。
「今日の朝、神父様が助けてくれなかったら、俺たちはまだ城門の前で揉めてたぜ?」
「確かに。」
リヴィアンも微笑み、カスタの言葉に頷く。
「もしロイ大人が私たちに害をなすつもりだったなら、あの場で私たちを見捨てることもできたはずです。」
ミレイアは数秒間沈黙した後、小さく息を吐き、淡々と言った。
「……リヴィアン様のご判断なら、従います。」
だが、彼女の目にはまだ警戒の色が残っていた。
俺は僅かに視線を落とし、ゆっくりと言った。
「……少し考えさせてくれ。」
「もちろんです。」
リヴィアンは静かに微笑んだ。
「私たちはこの街にあと三日ほど滞在します。もし決心がついたら、いつでも声をかけてください。」
そう言い残し、彼女は立ち上がった。
その所作は相変わらず優雅で、一分の隙もない。
——彼女の目的は、ひとまず果たされたのだろう。
俺の頭に「同行」という選択肢を植え付けた時点で。
露ティシアは俺を一瞥した。
何も言わなかったが、その表情からは慎重に考えてほしいという思いが伝わってきた。
この提案……確かに、一考の価値はある。
「おいおい、それはさすがに偏見が過ぎるんじゃないか?」
カスタは苦笑しながら酒杯を持ち上げ、相変わらず軽い口調で言った。
「今朝、神父様が助けてくれなかったら、俺たちはまだ城門の前で揉めてたぜ?」
リヴィアンは微笑み、カスタの言葉に頷いた。
「もしロイ大人が私たちに害をなすつもりだったなら、あの場で私たちを見捨てることもできたはずです。」
ミレイアは数秒沈黙し、最後に淡々と口を開いた。
「……リヴィアン様のご判断なら、従います。」
「この件については、少し考えさせてくれ。」
俺は即答を避け、簡潔にそう告げた。
「今はまだ、答えを出せない。」
「もちろんです。」
リヴィアンは軽く頷き、依然として落ち着いた口調で続けた。
「私たちはこの街にあと三日ほど滞在します。もし決心がついたら、いつでも声をかけてください。」
そう言いながら、彼女はゆっくりと立ち上がり、衣襟を整えた。
この食事の場は終わりを迎えたが、彼女はすでに目的を達成していた。
——俺に「同行」という選択肢を考えさせることに、成功したのだ。
露ティシアが俺を一瞥する。
何も言わなかったが、その表情からは、慎重に考えるべきだという思いが伝わってくる。
この提案……確かに、考える価値はある。