14.旅の準備
夜が明けたばかりのシルヴォ村は、まだ薄霧に包まれていた。
夜の冷気がわずかに残り、湿り気を帯びた朝の空気が肌をかすめる。
俺は村長の家の前に立ち、最後に荷物を確認した。
必要なものはすべて揃っているか、もう一度確かめる。
その隣では、ルティシアが静かに佇んでいた。
両手をそっと下ろし、銀白の髪が朝の風に揺れる。
表情はいつも通り無機質で、今回の旅立ちに対して特別な感情を抱いているようには見えない。
けれど――彼女の指先がわずかに縮こまるのを、俺は見逃さなかった。
それは、彼女が無意識に見せる仕草。
何かしらの不安を抱えている時に、いつもこうする。
……とはいえ、このまま町に入るのはさすがにまずい。
彼女の髪の色は目立ちすぎるし、銀瞳も一目で異端だと気づかれる。
俺はそっと手をかざし、小声で呪文を唱える。
「霧華流転、心眼迷蒙、真相遠離、虚影浮現。」
淡い魔力が空気に溶け込むように広がり、霧となってルティシアの体を包み込む。
すると、銀白の髪はゆっくりと柔らかな栗色に変わり、銀色の瞳も淡い琥珀色へと変化していった。
まるで、彼女の鋭さが霧の向こうへと隠されたように。
「どうだ?」
俺が尋ねると、ルティシアは少し髪に触れてみて、微かに首を傾げた。
「……別に、特に何も。」
口調はいつも通り淡々としているが、指先の動きにわずかな違和感が滲んでいる。
自分の知らない「自分」を見ているような、そんな戸惑いが感じられた。
俺は軽くフードを引き上げ、彼女の顔がはっきり見えないように整える。
ルティシアは何も言わず、ただ小さく頷いた。
そっと手を伸ばし、フードの端を指で軽くつまんで、握りしめる。
――準備は整った。
俺は最後に荷物を確認し、深く息を吸う。
そして、木の扉を押し開け、冷たい朝の光の中へと歩き出した。
俺たちが村長の家を出ると、朝の冷たい風がそっと吹き抜けた。
薄霧はまだ完全には晴れず、静かな村の景色がぼんやりと広がっている。
そして――門の前には、数人の姿があった。
村長、エリーの母親、そしてエリー本人。
ルティシアの足が一瞬止まる。
まさか誰かが見送りに来るとは思っていなかったのだろう。
彼女の視線が村長たちを一通り見渡し、最後にエリーの姿を捉える。
小さな少女は母親の服の裾をぎゅっと握りしめ、大きな瞳で俺たちをじっと見つめていた。
「……本当に行くのか?」
村長が口を開く。
その声はいつも通り落ち着いていたが、微かに寂しさが滲んでいるのを感じた。
「ああ。」
俺は短く頷く。
声は淡々としていたが、その意志は揺るがない。
「まだやるべきことがある。ここに長くは留まれない。」
村長はしばらく黙った後、懐から折り畳まれた地図を取り出し、俺に手渡した。
「これは、シフォートスの町へ向かうルートだ。」
「裏道を通れば、巡回の兵士に見つかることも少ないし、商隊とも鉢合わせしにくい。」
俺は地図を広げ、ざっと目を通す。
道のりは明確に示されており、俺たちの考えていたルートよりも遥かに安全そうだった。
「助かる。」
そう言って、村長に視線を向けると、彼はゆっくりと頷いた。
「君たちの目的地がどこなのかは知らないが……どうか無事でいてくれ。」
村長の声は穏やかだった。
しかし、その言葉の裏には、この数日間、俺たちを受け入れた者としての想いが感じられた。
「シルヴォ村は、ずっと静かな場所だ。」
「俺たちにできることは少ないが……せめて、この数日間だけでも、君たちが少しでも安心して過ごせたなら、それでいい。」
俺は小さく息を吐き、簡潔に返す。
「感謝する。」
その時、ずっと母親の後ろに隠れるようにしていたエリーが、不安そうに口を開いた。
「……行っちゃうの?」
か細い声が、ルティシアに向けられる。
彼女の手は、母親の服をさらにぎゅっと握りしめ、小さな体を震わせていた。
ルティシアは、わずかに目を見開いた。
まさか、自分に向けられる言葉だとは思わなかったのかもしれない。
彼女は一瞬だけ俺を見た。
まるで「なんて答えればいい?」と問うように。
だが、これは俺が答えるべき質問ではなかった。
数秒の沈黙の後、ルティシアは静かに口を開く。
「……私たちは、まだ行かないといけない場所があるから。」
エリーの目が揺れる。
戸惑いと、ほんの少しの諦めの色が混ざる。
そして、震える声で問いかけた。
「……また、帰ってくる?」
ルティシアの指が、無意識に小さく縮こまる。
答えを探すように、しばらく口を開いたまま、言葉を紡げずにいた。
本当なら「いいえ」と言うべきだったのかもしれない。
だが、エリーの表情を見た瞬間、彼女はほんの少し迷い、最後には――
静かに、こくりと頷いた。
「……たぶんね。」
彼女の声はとても小さく、自分自身すら確信を持てていないようだった。
それでも、ルティシアはそう言った。
エリーは一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに目の奥に小さな光が宿る。
まるで、その言葉に少しだけ安心したかのように。
すると、エリーの母親が一歩前に出て、優しくルティシアを見つめながら、そっと彼女の手を取った。
そして、小さな護符のついたネックレスを、ルティシアの手のひらにそっと置く。
「ありがとう。」
彼女の声はかすかに震えていた。
だが、その言葉には紛れもない感謝の気持ちが込められていた。
「あなたがいてくれなかったら、エリーは……もう二度と戻ってこられなかったかもしれない。」
ルティシアは静かに視線を落とし、手のひらにある護符を見つめる。
指先が、ほんのわずかに震えた。
「……私は、神を信じていない。」
その声はかすれるように小さかった。
まるで、自分自身に言い聞かせるように。
だが、それでも――
彼女の指は、無意識のうちに護符をしっかりと握りしめていた。
エリーの母親は、微笑んだ。
何も言わず、ただそっと彼女の手を叩く。
それは、まるで見えない祝福を込めたような優しい仕草だった。
「どうか、無事でいて。」
エリーが、ふいに一歩踏み出した。
そして、小さな両腕を広げ、ルティシアの腰にそっと抱きつく。
小さな体が、微かに震えていた。
「また……また絶対に帰ってきてね……」
ルティシアの体が、ぴくりとこわばる。
まるで、このような触れ合いに慣れていないかのように。
彼女は戸惑いながらも、一瞬だけためらい、そして――
ゆっくりと、そっと手を持ち上げる。
エリーの背中に、かすかに触れるように、ぎこちなく手を添えた。
まるで、「どうやって応えればいいのか」を、探るように。
「……うん。」
彼女の声は小さかった。
けれど、そこには今までになかった、どこか柔らかい響きがあった。
しばらく歩き、村の外れにある小屋へとたどり着く。
シルヴォ村から離れた場所にあり、周囲を森に囲まれたその小屋は、一時的な滞在には最適だった。
俺が扉を押し開けると、室内は出発前のままだった。
簡素だが整頓されており、昨夜の消えた燭台や、わずかに残った食料の痕跡がそのまま残っている。
「必要なものをまとめろ。」
そう言いながら、俺は机の上の物資を確認し、すべてをバックパックに詰め込む。
ルティシアは黙ったまま、素直に自分の荷物を整理し始めた。
彼女の持ち物は多くない。替えの服が一着と、俺が渡した魔素安定の護符のみ。
ふと、彼女が護符を見つめる。
指先が表面をそっとなぞる。
それが、まだ効力を保っているかを確かめるように。
「大丈夫か?」
俺は何気なく問いかけた。視線は彼女の手へと向かう。
ルティシアは一瞬だけ動きを止め、そして小さく頷いた。
「問題ない。」
その返答に、俺は深く追及しなかった。ただ、黙ってバックパックを肩にかける。
「よし、行くぞ。」
ルティシアは最後にもう一度、小屋を振り返った。
短く息を吐き、俺の後を追うように歩き出す。
扉を開けると、朝の冷たい空気が頬をかすめた。
こうして俺たちは、「スィフォルタスの町」 へと向かう旅路を踏み出した。
小屋を離れると、空気は次第に暖かくなり、木々の葉の隙間から降り注ぐ陽光が、隠れた小道にまだら模様の光を落としていた。
あたりは静寂に包まれ、時折、藪を飛び越える小鳥がその静けさを破る程度だった。
ルティシアはずっと無言で歩いていた。
足音ひとつ立てずに軽やかに進みながらも、何かを考えている様子だった。
俺は特に問いかけることもなく、そのまま歩き続けた。
しばらくすると、彼女はふと口を開いた。
声は淡々としていたが、わずかな迷いが滲んでいるように聞こえた。
「……村の人たち、今まで出会った人たちとは少し違う。」
俺は横目で彼女を見る。
ルティシアは俯き加減で、わずかに眉を寄せていた。
言葉をどう整理すればいいのか、迷っているようだった。
「どういう意味だ?」
俺が促すと、彼女は少し間を置いてから、静かに続けた。
「彼らは……私に敵意を向けなかった。むしろ……少し優しかった。」
そう言って、彼女は小さく息を吸い込んだ。
まだ自分の考えをまとめきれていないのか、言葉を慎重に選んでいるようだった。
「あまり、こういう扱いには慣れていない。」
……それは、よく分かる。
ルティシアの過去について、詳しく知っているわけではない。
だが、これまでの言動や態度から察するに、彼女はただの逃亡者ではなく、もっと深い排斥や冷遇、あるいはそれ以上のものを経験してきたのだろう。
一方で、シルヴォ村の人々は貧しいながらも、彼女の存在をあえて詮索しようとはせず、むしろエリーを救ったことで純粋な感謝を示した。
それが、ルティシアにとっては「異質」なことだったのかもしれない。
しばらく考え込んだ後、彼女は再び口を開いた。
「……村の人たち、あなたに感謝していた。」
「こういうこと、よくしているの?」
「ただ、やるべきことをしただけだ。」
俺はあくまで淡々と答えた。
ルティシアは少し黙り、今度はこんな問いを投げかけてきた。
「……それって、疲れない?」
今回は、すぐには答えなかった。
俺は前方の道へと視線を向ける。
不遠の先、木々の隙間から降り注ぐ光が、土の道を照らしていた。
相変わらず、風が木の葉を揺らす音だけが響く。
俺はしばらくその景色を眺め、静かに言った。
「……昼までには町に着くように急ごう。」
ルティシアは俺の横顔をじっと見つめた。
俺の返答に対して、特に驚いた様子もなく、むしろ予想通りだとでも言うように。
彼女は何も言わず、小さく頷いた。
そして、俺の歩調に合わせるように、一歩を踏み出した。
太陽が次第に昇り、朝霧はすっかり消え去っていた。
林道を抜けると、西フォートスの町並みが視界に広がる。
シルヴォ村の静けさとは異なり、ここは活気に満ちていた。
石畳を軋ませながら進む馬車、行き交う旅人や傭兵、店の前で声を張り上げる商人たち。
焼きたてのパン、革製品、鍛冶屋の金属の匂いが入り混じり、まさに市場の喧騒そのものだった。
ルティシアは帽子のつばを少し下げながら、俺の隣を静かについてくる。
歩調は落ち着いているが、初めて訪れる町並みに対する警戒と興味が、僅かに動く視線から伝わってきた。
「まずはセランの店で道具を補充しよう。」
俺がそう言うと、彼女は無言で頷く。
人混みを避けつつ、俺たちは馴染みの店へ向かった。
店の扉を押し開けた瞬間、微かな魔素の波動が空気に広がる。
薬草と金属が混ざった独特の香りが鼻をかすめ、棚には錬金薬や強化符石など、種類豊富な魔道具が整然と並べられていた。
店内はいつものように静かだったが、そこに並ぶ品々はどれも侮れない力を秘めていた。
「おやおや、ロイじゃないか。」
馴染みのある気怠げな声が、カウンターの向こうから響く。
そこには、手の中で魔導石を器用に転がしながら、琥珀色の瞳でこちらを見つめるセランの姿があった。
丸縁の眼鏡越しに俺を見据え、口元には意味ありげな笑みを浮かべている。
「うちの神父様がまたご来店とはね。さて、今回はどんな特別な品をお探しで?」
そう言いながら、彼女の視線が俺の隣へと移る。
そして、少し眉を上げると、唇の端を更に吊り上げて、ゆったりとした口調でこう言った。
「ほう?」
「そちらのお嬢さん……もしかして、君の "可愛い恋人" ってやつかい?」
隣にいたルティシアの動きが、ぴたりと止まった。
今まで商品棚を見ていた視線が、戸惑うようにこちらへと向けられる。
表情こそ大きく変わらなかったが、彼女の指先がそっとマントの端を握りしめるのが見えた。
まるで、どう反応すればいいのかわからない、といった様子で——。
「違う。」
俺は淡々と答えた。
「ただの同行者だ。目的地がたまたま同じなだけ。」
「へぇ?」
セランは興味深げに俺を見つめ、それから隣のルティシアに視線を移した。
彼女の存在が気になったようだが、深くは追及せず、軽く肩をすくめた。
「ま、そういうことにしとくよ。」
小さく鼻を鳴らしながら、カウンターの裏へと戻り、棚に並ぶ商品を手際よく整理し始める。
「で、今回は何がご入り用?」
そう言いながら、手に取った魔力回復薬を軽く振ってみせる。
「まさか、また魔素安定の護符を買うつもり?今度は割引しないよ?」
俺は彼女の軽口を受け流しながら、棚に並んでいた強化符紙を数枚手に取り、簡潔に注文した。
「今回は道具の補充がメインだ。傷口治癒の薬を一本、初級防護符を二枚、それと……魔力遮断粉はまだあるか?」
セランは軽く眉を上げ、口元に小さな笑みを浮かべる。
「あるにはあるけどさ、あれの効果は限られてるって知ってるでしょ?本当に強い感知系の術士には通用しないよ?」
「それでも、ないよりはマシだ。」
「はいはい。」
彼女は肩をすくめながら、俺の注文した品を次々とカウンターに並べた。
その後、何かを思い出したかのように指でカウンターをトントンと叩き、目を細めて俺をじっと見つめる。
「……ねぇ、あんた。」
「"西" に向かうって?」
彼女はわずかに唇の端を持ち上げ、意味ありげに低く笑う。
「さては、ルミナスを目指してるんでしょ?」
俺は何も答えず、ただカウンターの上に置かれた符紙を手に取りながら、静かにセランと視線を交わした。
「賢い選択ね。」
セランはくすっと笑い、意味深な表情を浮かべる。
「ルミナスなら、少なくとも身を隠すには悪くない場所だしね。」
そう言いながら、彼女の視線がふと俺の隣へと移った。
ちょうどその時、ルティシアは店内の棚を興味深そうに眺めていた。
彼女の目はガラスケースの中に並ぶ魔道具に向けられ、じっと観察しているものの、決して手を伸ばそうとはしない。どこか慎重な様子だった。
セランはその様子を面白そうに眺め、口元に悪戯っぽい笑みを浮かべながら、ルティシアの隣へと近づいた。
そして、彼女が見つめていた瓶へと視線を落とし、軽く囁くように言った。
「それ、気になる?」
彼女の声には、わずかに含み笑いが混ざっていた。
「これは普通の薬じゃないのよ? "魅惑の霧" の薬、男女問わず効果抜群……さて、誰かに飲ませるつもり?」
ルティシアの肩がぴくりと強張る。
驚いたように振り向いた彼女の瞳は、銀色——いや、今は変装の魔法で茶色に変わっているものの、そこには明らかな動揺が映っていた。
唇がわずかに開くが、言葉が出てこない。
「ち、違う。」
ようやく言葉を絞り出すように、彼女は小さく息を吸い込み、一歩後ずさった。
「ただ……色が変わってて、変だなって思っただけ。」
彼女の耳元が、ほんのり赤く染まる。
明らかに、こういう話題には耐性がないらしい。
俺は軽く首を振り、セランへと視線を向ける。
「からかうな。彼女は、そういうのを知らない。」
「あら、つまんない。」
セランは肩をすくめながら、クスクスと笑い、カウンターの方へ戻った。
「まあいいわ。それで、今回の分は4銀貨ね。他に買うものは?」
「ない。」
俺は無言のまま銀貨を取り出し、カウンターの上に置くと、符紙と薬を手早く鞄にしまい込んだ。
店を出ようとしたその時——
「また会う機会があれば、楽しみにしてるわ。」
セランが眼鏡を軽く押し上げ、口角を上げながら呟く。
「それと、ロイ。」
「私は、君の "物語" に期待してるのよ?」
俺は何も答えず、ただ静かに扉を押し開き、ルティシアとともに店を後にした。
セランの店を出ると、通りの人混みは来た時よりもさらに賑やかになっていた。
商隊の馬車が石畳を軋ませながら進み、露店の商人たちの呼び声が絶え間なく響いている。
ルティシアは俺の隣を歩きながら、うつむき加減でフードを少し引き締めた。どうやら、さっきのセランのからかいからまだ完全には立ち直れていないようだ。
「……魅惑の薬って、本当に男女どちらにも効果があるの?」
彼女が突然口を開いた。少し戸惑ったような声色で、その真偽を確かめようとしているようだった。
「お前はどう思う?」
俺は彼女を一瞥する。「そういうものは、特定の場所では重宝されてる。特に、人の心を操るのが好きな貴族や商人たちにな。」
「……そうなの。」
ルティシアは納得したように小さく頷いたが、すぐに首を横に振り、これ以上その話を深掘りする気はなさそうだった。
俺たちは人通りの少ない小道を抜け、静かな裏路地へと入る。遠くからは商隊の掛け声が聞こえるが、ここにはほとんど人がいない。
裁縫店の前で足を止めると、風に揺れる暖簾がわずかに店内の様子を映し出した。中では布を織る音や針と糸が布地を通るかすかな音が聞こえる。
俺の足が止まったのを感じて、ルティシアもまた歩みを止めた。彼女が俺を見上げ、少し疑問を含んだ声で尋ねる。
「どうかした?」
「お前の服を新調する。」
俺は淡々と告げる。それは当然のことのように。
ルティシアは一瞬きょとんとし、それからわずかに眉をひそめた。
「……必要ない。」
彼女は即座に否定する。口調はどこか硬く、拒絶の意志が滲んでいた。
「今の服で十分。無駄遣いはやめて。」
「無駄ではない。」
俺は静かに言う。「お前はこの服しか持っていない。旅は長くなる。着替えがなければ、むしろ不便だろう。」
ルティシアは黙り込み、視線を落とした。考えているのか、それともただ拒む理由を探しているのか。
だが、最終的に彼女は何も言わなかった。
俺は店の暖簾を軽く払い、扉を押して中へ入る。
ルティシアも、小さくため息をつきながら、それに続いた。
「でも……」
彼女の声はさっきよりも少し低くなり、話す速度もわずかに遅くなる。
「もう十分すぎるくらい助けてもらった。こんなことまで——」
「ただの衣服の準備だ。大したことじゃない。」
俺は彼女の言葉を遮り、淡々とした口調で言う。しかし、その声には先ほどよりもわずかに強い意志が込められていた。
「旅の必需品を揃えるだけだ。」
彼女は唇をわずかに噛み、指先を小さく縮こまらせる。まだ何かを迷っているようだったが、やがて小さく息を吐き、それ以上は反論しなかった。
「……わかった。」
かすかに力の抜けた声で、そう呟く。
俺はそれ以上何も言わず、店の中へと足を踏み入れる。
彼女も、わずかにためらいながらも、静かに俺の後を追った。
店内にはさまざまな衣服が並び、淡い布の香りが漂っている。窓から差し込む陽光が、室内に柔らかな光を落とし、木製の棚と布地に温かな色彩を添えていた。
ここにある服は、村の古びた衣服とは違い、より丁寧に仕立てられている。豪奢な貴族の衣装には及ばないが、旅人や冒険者が着るには申し分ない実用的なものばかりだ。
ルティシアは扉の近くに立ったまま、他の客のように物色することはせず、ただ静かに掛けられた衣服を見つめていた。
だが、その指先はどの布にも触れようとはしない。
その目にはわずかな戸惑いが浮かび、どう振る舞えばいいのか分からないような様子が見て取れた。
「何か気に入ったものはあるか?」
俺はそう問いかける。語調は特に急かすことなく、自然なものだった。
ルティシアはわずかに肩を揺らし、目線をゆっくりと俺へ移す。そして、一瞬だけ思案するような間を挟み、結局、首を横に振った。
「……特にない。」
予想していた通りの答えだった。
「なら、これを試してみろ。」
俺は衣架へと向かい、数着の服を手に取る。
どれも目立たない落ち着いた色合いで、動きやすさを重視したシンプルなデザインだ。
旅の道中において邪魔にならず、なおかつ必要最低限の防寒性を持ったものを選んだ。
ルティシアは俺の動きをじっと見つめながら、小さく瞬きをする。
そして——少しだけ困惑したように、再び俺を見上げた。
俺は深い色合いのロングコートを手に取り、ルティシアへと差し出した。
「これは防寒用だ。夜の冷え込みが厳しい時に役立つ。」
彼女はわずかに躊躇いながらも、それを受け取る。指先がそっと布地に触れ、その感触を確かめるように滑らせた。
さらに、適度にフィットし、耐久性のある長ズボンを選ぶ。今彼女が履いているものよりも丈夫で、長距離の移動にも向いている。俺はそれも手渡した。
「こっちのズボンの方が、今のより動きやすいはずだ。」
ルティシアは手の中の衣服を見つめ、眉をわずかに寄せる。戸惑いの色が、さっきよりも濃くなった気がした。
「……本当に、こんなに必要?」
「当然だ。」俺は淡々と答える。「これからの旅は長い。着替えがなければ不便になるだけだ。」
彼女は唇をかすかに引き結び、しばらく黙っていたが、結局何も言わずに受け入れたようだった。
俺はさらに、シャツとインナー用のズボン、それに長距離の移動に適した軽めのブーツを選び、サイズを確認して店主に渡した。
その時、ルティシアがぽつりと口を開く。
「……これ、結構な額になるんじゃない?」
「まあな。」俺は簡潔に返し、店主に包むように促す。
店主は手際よく衣服を揃え、最後に顔を上げて軽く微笑んだ。
「全部で銀貨一枚になります。」
俺は一瞬黙り、財布の中を確認する。残っている銀貨は、そう多くない。
心の中でため息をつきながらも、俺は躊躇うことなく銀貨を取り出し、代金を支払った。店主が釣り銭を手渡すのを受け取ると、改めて財布の中を覗く。
……残りは、そう長くはもたなそうだ。
このままルミナスまで旅を続けるなら、途中で食糧や宿代を補充する必要がある。今の手持ちでは、さすがに厳しいだろう。
——どこかで金を稼ぐ必要があるな。
あまり気は進まないが、冒険者ギルドで仕事を請けるしかないか。低リスクの任務——商隊の護衛や低級魔獣の討伐なら、そこまで危険もないだろう。
ルティシアは包まれた衣服を受け取り、視線を落とす。そして、小さな声で呟いた。
「……いずれ、返す。お金でも、何か別の形でも。」
「その時考えればいい。」俺は気にする様子もなく答え、踵を返す。「行くぞ。先に飯でも食おう。」
ルティシアは一瞬驚いたように目を見開く。俺が先に食事のことを口にするとは思わなかったのかもしれない。
だが、すぐに小さく頷き、静かに「……うん」と返した。
俺たちは裁縫店を出て、人混みの中へと歩き出す。目指すは、町の食堂——腹を満たし、次の行動を考えるために。
俺たちは町の中にある静かな食堂へと足を踏み入れた。ここは酒場のような喧騒はなく、客の多くは地元の住民や、時折立ち寄る旅人たちだった。会話の声は控えめで、時折、スプーンが皿に当たるかすかな音が聞こえる。
扉を押し開くと、煮込まれた肉と焼きたてのパンの香ばしい香りがふわりと鼻をくすぐった。
窓際の席を見つけて腰を下ろすと、ルティシアも静かに座った。彼女はフードを下ろすことも、店内を見渡すこともせず、ただ肩を少し縮めながらマントの端をそっと握る。どこか落ち着かない様子だった。
俺は手元のメニューに目を通す。料理はシチューや肉料理、野菜を使った素朴なものが中心で、価格もそれなりに手頃だ。
迷うことなく、濃厚なスープとモート種の羊肉のステーキを頼むと、メニューをルティシアの方へと滑らせた。
彼女は受け取るものの、すぐには開かず、わずかに躊躇した様子を見せる。そして、ゆっくりとページをめくり、いくつかの料理に視線を移していく。
だが、何を頼むか決めかねているのか、しばらくして彼女はメニューをそっと閉じ、淡々とした口調で言った。
「同じのでいい。」
俺は軽く彼女を一瞥するが、特に何も聞かず、そのまま給仕へと視線を戻し、注文が完了したことを告げた。
店員はメモを取り、静かに立ち去る。テーブルには穏やかな沈黙が落ち、俺たちは向かい合ったまま、それぞれ思考に沈む。
ルティシアはメニューをもう見ようとはせず、指先をそっとマントの中へと引っ込める。彼女の肩はわずかにこわばり、慣れない環境に気を張っているのが伝わってくる。
俺はふと彼女を見つめ、さりげなく口を開いた。
「俺たちの目的地は、五大都市の一つだ。場所は、オルム大陸の南西にある。」
彼女はゆっくりと顔を上げ、視線を俺へ向ける。まだどこか硬さは残るものの、しっかりと話を聞いているのがわかった。
「徒歩で向かえば、一、二ヶ月はかかる。その間、いくつかの町や村を通ることになる。」
言いながら、俺は一呼吸置く。
「俺たちは逃亡者ではあるが、変装魔法がある。大きな問題にはならないだろう。」
ルティシアは小さく頷く。静かに、だが確かに。
そして、再びマントの端を指で軽くつまむ。その仕草は、彼女が無意識に自分を落ち着かせようとする時の癖だった。
ちょうどその時、給仕が温かい料理を運んできた。
湯気を立てる料理が乗った木製のトレーが、俺たちの前のテーブルに静かに置かれる。
羊肉の香ばしい匂いが、熱気とともにふわりと広がった。
ルティシアの視線が、目の前の皿へと吸い寄せられる。
しかし、すぐには手をつけず、ただじっと湯気の立ちのぼる肉の塊を見つめた。
指先がかすかに縮こまり、何かを考えているようだった。
しばらくして、彼女はゆっくりとナイフとフォークを手に取る。
慎重に、小さな一切れを切り取ると、そっと口へと運んだ。
その瞬間——
彼女の手が、一瞬だけ止まる。
ルティシアは視線を落としたまま、喉を僅かに動かし、肩を微かに震わせた。
そして、次の瞬間——
彼女は無言のまま、そっと手で顔を拭った。
それでも、涙は静かにこぼれ落ちる。
声を出すことなく、彼女は俯きながら食べ続ける。
袖口で素早く涙を拭いながら、それでも食べる手は止めない。
——まるで、食べることを優先することしかできないかのように。
俺は何も言わず、ただ彼女の様子を見つめていた。
思い返せば、シルヴォ村での数日間、彼女は村長の家で食事をしていたが、そのときも特に食事を楽しむ様子はなかった。
出されたものを淡々と口に運び、食べるスピードも控えめで、決して「おかわり」を求めることはなかった。
俺が用意した食事も、彼女は静かに受け入れたものの、どこか警戒心を解いていなかった。
まるで、自分が食事を口にしていることすら意識しないように、淡々と。
それはまるで——
「食事」に期待を持たない者の仕草だった。
そして、それ以前の彼女はどうだったのか。
ルティシアの過去を、俺は詳しくは知らない。
だが、彼女が「食べるものを選ぶ余裕などなかった」ことだけは、確信できる。
この温かいスープと、香ばしい羊肉のプレート——
彼女にとっては、あまりにも久しぶりの「温もり」だったのかもしれない。
俺は静かに息をつき、淡々と告げる。
「……ゆっくり食え。これは全部お前のものだ。足りなければ、まだ頼める。」
ルティシアの動きが、わずかに止まる。
まるで、自分の姿にようやく気がついたかのように。
彼女は深く息を吸い、俯いたまま、小さく頷いた。
今度は涙を拭おうとはせず、そのまま食事を続ける。
手の動きは少し落ち着いたが、それでも涙は途切れ途切れに零れ落ちた。
それでも彼女は、最後まで食べ続けた。
皿の上の食べ物がほとんどなくなるまで、静かに、淡々と。
そして、最後の一切れを食べ終えると、フォークをそっと置き、ゆっくりと息を吐いた。
「……ありがとう。」
声は小さく、かすれていたが、確かに俺の耳に届いた。
俺は何も言わず、ただポケットから取り出した清潔なハンカチを、彼女の前に置いた。
「拭け。」
ルティシアは、戸惑ったようにハンカチを見つめる。
そして、少しの間だけ迷ったあと、静かにそれを手に取ると、ゆっくりと涙の跡を拭った。
ちょうどその時、食堂の扉が押し開けられた。
外の陽光が差し込み、扉の方から聞き覚えのある声が響く。
「おやおや、これはこれは。我らが“神父様”じゃないか? こんな優雅にデートとはね?」
俺はスプーンを置き、視線を上げる。
ちょうどその瞬間、馴染みのある姿が食堂の中へと大股で踏み込んできた。
カーンだ。
相変わらず、少しくたびれた薄茶色のローブを羽織り、腰には長弓を吊るしている。
顔にはお決まりの軽薄な笑みを浮かべ、視線を食堂内にざっと巡らせると、すぐに俺たちを見つけた。
「へぇ、ロイ。」
カーンはテーブルの傍らで立ち止まり、腕を組みながら揶揄するように言う。
「こんなところでのんびり飯なんて、随分と余裕じゃないか?」
俺は彼の言葉を受け流し、無言のままスプーンを置く。
そして、淡々と彼を見つめながら問いかけた。
「……用件は?」
「おいおい、そんな冷たい目をするなよ。」
カーンは軽く肩をすくめ、無造作に椅子を引き寄せると、俺たちの向かいに座り込んだ。
肘をテーブルにつき、すっかりくつろいだ様子で俺を見つめる。
「久しぶりに会ったんだ。少しくらい話してもいいだろ?」
その時、ルティシアがわずかに首を傾け、静かにカーンを見つめる。
表情にこそ変化はないが、微かな警戒心が伝わってくる。
カーンもそれに気づいたようで、彼女の視線を受けながら、目を細めて口角を上げた。
「……なんだ? もしかして、本当にデート中か?」
彼は楽しげに俺とルティシアの間を見比べ、からかうような笑みを浮かべる。
ルティシアの指先が、マントの端をそっと握りしめる。
わずかに視線をそらし、沈黙するものの、否定の言葉は出さなかった。
カーンの目が、その仕草を捉え、さらに面白そうに笑みを深める。
「くだらない話はやめろ。」
俺は淡々と言い放つ。「本題に入れ。」
カーンは肩をすくめ、ちょうど給仕が置いていった水の入ったコップを手に取ると、一口飲んでから、ようやく口を開いた。
「わかったよ。……最近、この町の様子が少しおかしい。聖都からの連中が、いつもよりずっと増えてる。」
俺はわずかに眉を寄せる。「聖都の連中?」
「そう。今まで来てたのはただの巡回審査官だった。定期的に商隊を検査して、異端者が紛れ込んでないか確認する程度のやつらさ。だが、今回は違う。」
カーンは軽く間を置いてから、慎重な口調で言った。
「……“異端審問官”が来てる。」
その言葉に、俺は一瞬沈黙する。
異端審問官——
それは単なる審査官とは違う存在。異端の排除を専門とし、独自の権限で調査と処刑を行う。
この手の人間は、確実な証拠を掴んでいない限り動くことはない。
特に、十人の主要審問官の中には、それぞれ異なる特殊な能力と権限を持ち、異端狩りを専門とする者たちがいる。
彼らはただの聖職者ではない。——処刑者だ。
「目的は?」
俺の問いに、カーンは再び肩をすくめる。
「まだはっきりとは分からない。ただ……今回の調査範囲は、かなり広がっているらしい。すでに外部から来た旅人を何人か尋問し始めてる。」
彼はそこで一旦言葉を切り、口元に皮肉めいた笑みを浮かべる。
「お前も知ってるだろ? あいつらが何の根拠もなく動くような連中じゃないってことくらい。」
つまり、聖都の者たちは、すでに何らかの“異常な痕跡”を掴んでいる可能性がある。
まだ確実に俺たちを狙っているとは限らないが——状況は、決して楽観視できるものではなかった。
俺は指先でテーブルを軽く叩きながら、状況を整理する。
俺はこれまで、詛呪の痕跡を極力隠し、ルティシアの魔素異常も聖術で覆い隠してきた。
だが、それらを完全に消し去ることは不可能だ。
もし、今回来ている異端審問官がより鋭敏な感覚を持つ者なら——
この町に長く滞在すること自体が、危険を伴う。
「……どうやら、今が出発する一番のタイミングみたいだな。」
俺は低く呟いた。
ルティシアはそっと顔を上げる。
問いかけることはしなかったが、その瞳には確かな理解と同意が宿っていた。
カーンは俺たちのやり取りを見て、軽く笑いながら伸びをする。
「やっぱりな。」
彼は気楽な口調で言った。「お前みたいな奴が、一つの場所にじっとしてるわけがない。」
そう言いながら立ち上がり、衣の裾を軽く払う。
「まぁ、とりあえず俺の知らせはここまでだ。……あとは、お前がどう動くか次第ってことだな。」
カーンは俺を見下ろしながら、目を細め、からかうような笑みを浮かべる。
「……死ぬなよ、ロイ。」
俺は何も返さなかった。ただ静かに彼を見送り、カーンの姿が食堂の扉の向こうへと消えていくのを目で追う。
そして——
「行くぞ。」
俺は短く告げる。
ルティシアは迷うことなく、小さく頷いた。
そして静かに立ち上がると、俺のあとを追って食堂を後にした。