13.夜の訪問
「なぜ、ルミナスなんだ?」
俺は低く問いかけた。
視線を、ヴィセアンに固定したまま。
出発する前に、どうしても確認しておくべきだった。
俺たちに選択肢はほとんどない。
だが――だからこそ、無闇に次の罠へと飛び込むわけにはいかない。
ヴィセアンは、さほど表情を変えずに、わずかに眉を上げる。
そして、淡々とした口調で答えた。
「そこなら、聖職者の数が圧倒的に少ないからだ。」
一拍の間。
それだけでは説明不足だと感じたのか、彼は続けた。
「それに――あの男は、お前に会う価値がある。」
「イリウス。……俺の友人の一人だ。」
「友人?」
俺は目を細める。
「正確に言うなら――」
ヴィセアンは言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「聖都に残されなかった歴史を、知る者だ。」
淡々とした口調。
だが、彼の目の奥には、簡単には測りきれない何かが潜んでいた。
俺は、その意味を考えながら、一瞬だけ沈黙する。
「……つまり、お前は俺たちにそこへ行かせたい。」
「何かを探すために。」
「お前たち自身のために、な。」
ヴィセアンは、わずかに唇をつり上げる。
「いや、むしろ――お前たちが知るべきことのために、だ。」
「もっと単純に言おうか?」
彼はわずかに肩をすくめ、薄く笑った。
「そろそろ、この世界の現実を知るべきだろう? エリオット。」
俺は、すぐには返答しなかった。
彼の言葉には、悪意はない。
むしろ、それはただの「事実」だった。
たとえ俺が聖都の準大主教だったとしても――
俺が知る世界は、教院という狭い空間に限られていた。
俺は、外の世界を知らない。
俺は、今この瞬間にすら、この世界の「現状」を把握できていない。
――それが、何よりも皮肉だった。
ヴィセアンは、そんな俺を見て、鼻で軽く笑う。
「どれだけ才能があっても――」
「教院に閉じ込められていたお坊ちゃまには、各国の現実は見えないだろう?」
その言葉には、わずかに淡い嘲笑の色が滲んでいた。
だが――
俺は反論しなかった。
なぜなら、事実だからだ。
俺は世界の「理論的な構造」を理解している。
だが、実際の権力の流れや、各国の立場、現状については――ほとんど知識がないに等しい。
ましてや、聖都の腐敗を知ってしまった今、
俺は、さらに疑い始めていた。
――教院で教えられた歴史と真実は、本当に正しいのか?
どこまでが真実で、どこまでが偽りなのか?
それすら、俺には分からなかった。
「……お前の言う通りだ。」
結局、俺が返したのは、それだけだった。
無駄な弁明も、言い訳もいらない。
ヴィセアンは、俺を一瞥する。
その目には、驚きもなければ、興味もない。
まるで――最初から、俺がそう言うと分かっていたような視線だった。
彼は、それ以上何も言わずに、一歩後ろへと下がる。
そして、変わらぬ口調で静かに告げる。
「ルミナスに行けば、答えが見つかるかもしれない。」
「だが、行くかどうかは――お前自身の選択だ。」
――この会話は、ここで終わりだった。
俺は倒れたエリーと、もう一人の少女を抱え上げる。
そして、一度も振り返ることなく――
静かに、その場を去った。
俺は腕の中の少女の姿勢をわずかに調整した。
少しでも揺れを抑え、彼女が不安定にならないように。
そして、歩き出す。
村へ向かい、夜の闇の中を進んでいく。
冷たい夜風が頬をかすめる。
土と枯葉の匂いが混じり合い、静まり返った森に漂っていた。
俺とルティシアの間に、言葉はなかった。
ただ、足音だけが、この沈黙の中に響く。
――あの子は、もう助からなかった。
だが、それを簡単に受け入れることはできない。
もし――俺が、もう少し早く村に来ていれば?
もし、二日前に小屋で様子を見るだけでなく、自分で村の状況を確かめていたら?
何か、変わっていたのか?
頭をよぎる無数の疑問。
そのたびに、腕に力がこもる。
だが、どれだけ強く抱きしめても――
俺の腕の中で眠る子供は、変わらず冷たいままだった。
その温度が、胸の奥をじわりと締めつける。
この感触を、俺は知っている。
何度も、何度も、経験してきた。
――だが、慣れることなど、決してない。
どれだけの命を救おうとも、俺の手はすべてを救えるわけじゃない。
俺の隣を歩くルティシアもまた、無言だった。
彼女の足音は、限りなく軽い。
まるで、存在すらも掻き消そうとしているかのように。
だが、俺には分かっていた。
彼女の気持ちも、俺と同じだということを。
彼女は、俺よりもずっと「死」に慣れている。
それでも――
それでも、この現実に、心が動かないわけではない。
指先が、時折かすかに震える。
その小さな仕草が、押し殺した何かを物語っていた。
視線が、俺の腕の中の少女へと向かう。
だが、何かを言いかけたその刹那――
彼女は、言葉を飲み込んだ。
そして、そっと目を伏せる。
表情に浮かぶのは、僅かに沈んだ影。
それは、感情のない無機質なものではなく――
言葉にするには、あまりにも曖昧な、深い悲しみだった。
だが、彼女は何も言わなかった。
俺もまた、言葉を選ばなかった。
なぜなら、この感情は――
ただ、黙って抱えているだけで、人を押し潰すには十分だったから。
この死は、もう覆せない。
だから、俺たちは――この重みを抱えたまま、ただ前に進むしかない。
村の輪郭が、ゆっくりと視界に浮かび上がる。
夜の帳はまだ降りたままだが、いくつかの家には灯りがともり始めていた。
ほのかな光が、闇の中で微かに揺れている。
だが、俺たちはすぐに村へ入ることはしなかった。
代わりに、ひとまず人の気配がない空き家へと身を隠す。
古びた木の扉をそっと押し開けると、室内には長い間使われていなかった気配が漂っていた。
埃を被った机と椅子。
古びた木の香りと、どこか湿った空気。
長く人が住んでいないのは明らかだったが、それでも――
今の俺たちには、十分な避難場所だった。
俺はエリーを慎重に寝かせた。
まだ使えそうな木製の簡素なベッドの上へと。
そして、もう一人の少女――
すでに還らぬ存在となった彼女の遺体は、部屋の隅へと静かに横たえ、古い布をそっと被せる。
ルティシアは、ただそれを黙って見守っていた。
言葉は、なかった。
時が、静かに流れる。
外からは、ときおり村人たちの小さな声や足音が聞こえてきた。
まだ、聖職者たちの気配も微かに残っている。
だが――
それも次第に薄れていく。
おそらく、撤退の準備を始めたのだろう。
俺はそっと目を閉じ、深く息を整える。
まだ完全ではないが、魔力は徐々に戻りつつある。
偵察魔法を使う程度なら問題ない。
「様子を見てくる。」
そう告げながら、俺は静かに聖典を開いた。
指先がページをなぞる。
低く、淡々とした詠唱が口をついて出る。
――聖光よ、道を照らせ。
柔らかな魔力が波紋のように広がる。
掌から放たれた薄い光の輪が、静かに村全体を包み込む。
それは目には見えぬが、確かに俺の意識に伝わってきた。
ルティシアは、そんな俺の施術を黙って見つめていた。
邪魔はせず、ただ――結果を待っている。
数秒後。
俺はゆっくりと目を開いた。
「……聖職者は去った。もう、危険はない。」
短く、そう告げる。
ルティシアの肩が、わずかに緩む。
だが、まだ完全には警戒を解いていない。
「行こう。」
俺はエリーを再び抱え上げる。
ルティシアも、遺体がしっかりと布に覆われていることを確認すると、静かに俺の後を追った。
今度こそ――
迷わず、村長の元へ向かう。
村長の家が近づくと、扉の前に二つの人影が立っていた。
村長――そして、エリーの母親。
二人とも、明らかに長い時間待っていたのが見て取れる。
焦燥と不安が、顔に滲み出ていた。
エリーの母親は、何度も周囲を見回し、何かを探すように視線をさまよわせていた。
両手を固く握りしめ、落ち着かない様子で微かに震えている。
一方の村長は腕を組み、険しい表情のまま、時折村の入口へと目を向けていた。
――何かを待っている。
そして――
俺たちの姿を見つけた瞬間、二人の動きが止まった。
「ロイ……?」
村長が驚いたように名を呼ぶ。
だが、すぐにその視線は、俺の腕の中へと移った。
「その子は……?」
その表情が、一瞬で険しくなる。
エリーの母親も、一瞬息を呑んだ。
次の瞬間、駆け寄る。
「エリー……!」
震える声。
目は、ただ娘だけを見ていた。
「エリーは……無事なの?」
俺は静かに答える。
「生きている。」
短い言葉だったが、それだけで母親の体が大きく震えた。
「ただ、まだ衰弱が激しい。詳しい話は、中で。」
母親の目に、涙が浮かぶ。
何度も何度も頷き、震える手で扉を押し開けた。
俺たちはそのまま、家の中へと足を踏み入れる。
俺はエリーを慎重に寝かせた。
使い古された木製のベッドの上へ。
一方、ルティシアは、もう一人の少女の亡骸を部屋の隅へと横たえた。
そして、清潔な布を静かに掛ける。
「……聖職者は?」
村長の低い声が、沈黙を破った。
「先ほど、彼らが来ていた。魔物が現れたと言っていたが……お前たちはなぜ、今になって戻った?」
語気に責める色はない。
だが、隠しきれない不安と困惑が滲んでいた。
俺は村長の目を見据え、静かに説明する。
「その魔物は、確かに存在していた。」
「……何?」
「奴は幻を作り出し、人の意識を惑わせる。俺たちは、その影響から抜け出すのに時間がかかった。」
村長の表情が険しくなる。
「……で、今は?」
「すでに致命傷を与えた。長くは持たない。」
「聖炎が、完全に焼き尽くすだろう。」
俺の声には、迷いはなかった。
この戦いはすでに終わった。
あとは――この村に残る余波を、どう処理するかだけの問題だった。
エリーの母親が、嗚咽を漏らしながら娘のそばへと歩み寄る。
震える手で、小さな手を強く握る。
その頬を、静かに涙が伝った。
「本当に……本当に、大丈夫なの……?」
掠れた声。
俺は小さく頷いた。
「もうすぐ、目を覚ます。」
その言葉を聞いた途端、彼女は抑えきれず嗚咽を漏らした。
「……こんな遅くまで、外に出すんじゃなかった……」
「もっと早く気づいていれば……」
悔いと自責に満ちた声が、部屋の静寂を震わせる。
「あなたのせいじゃない。」
不意に、ルティシアが口を開いた。
その声音は、いつもよりも少しだけ柔らかかった。
エリーの母親が、驚いたようにルティシアを見つめる。
だが、その目には――痛みと、感謝が滲んでいた。
彼女はゆっくりと頷く。
けれど、その表情から、まだ罪悪感が完全に消えたわけではなかった。
――そのとき。
村長の視線が、もう一つのベッドへと移る。
その上には――布に覆われた少女の亡骸。
村長の表情が、静かに沈んだ。
深く息を吸い、ゆっくりと口を開く。
「……この子は?」
静かに問う声だった。
俺は、短く答えた。
「……救えなかった。」
低く、静かな声。
この現実を受け入れていたはずだった。
それでも、胸の奥に残るのは――言葉にならない、重さ。
村長は数秒の沈黙の後、静かに頷いた。
そして、低く呟く。
「私が……彼女の母親の元へ連れていこう。」
「これは……誰のせいでもない。誰にも、予測できなかったことだ。」
その声には、責める意図はなかった。
ただ、悲しみと、理解が滲んでいた。
俺は、ゆっくりと息を吐き、静かに応じた。
「……頼む。」
村長は頷くと、一度俺たちを見つめ、そしてこう続けた。
「――今夜、泊まる場所がないだろう?」
俺たちを見渡しながら、静かに問いかける。
「ここに泊まるといい。客室を用意してある。」
その目には、微かな憐れみが宿っていた。
俺は一瞬だけ考え――そして、頷く。
「……ありがとう。」
今夜は、休息が必要だった。
そして――思考を整理する時間も。
村長はすぐに部屋を用意し、熱々の食事を卓上に並べた。
「まずは食べなさい。」
そう促すように言いながら、湯気の立つ料理を指し示す。
「今夜はここで泊まるといい。」
短く、けれど迷いのない声で言った。
「余計なことは考えなくていい。村を助けてくれた者は、当然のもてなしを受けるべきだ。」
俺は静かに頷いた。
断る理由はなかった。
今の俺たちにとって、これが最良の選択なのだから。
ルティシアもまた、何も言わずに料理へと目を向けた。
その銀色の瞳が、食事の湯気をじっと見つめる。
長い間、まともな食事を口にしていなかったのだろう。
だが、それでも彼女はすぐに手を伸ばさなかった。
俺の動きを待っているのが、はっきりと分かった。
俺は静かにスプーンを手に取り、湯気の立つスープを一口すする。
そして、彼女へと視線を向け、軽く言った。
「食べろ。」
ルティシアは、僅かに動きを止めた。
けれど、すぐに小さく頷き、そっとスプーンを手に取る。
その動作は慎重で、どこか抑制されていた。
食事の間、会話はほとんどなかった。
ただ、木製スプーンが器に当たるかすかな音と、湯気が静かに漂う気配だけが、部屋を満たしていた。
やがて食事を終えたころ、村長が再び口を開く。
「湯を用意してある。着替えもある。使うなら、好きにしなさい。」
そう言ってから、一度間を置く。
そして、視線をルティシアへと向けた。
「お嬢ちゃん……その服、もう着替えたほうがいい。」
ルティシアは、僅かに動きを止めた。
不意の言葉に、驚いたような表情を浮かべる。
「うちの娘が昔残していったものだ。今はあまり帰ってこないし、そのまま置いていても仕方がない。たぶん、サイズは合うはずだ。」
村長は淡々と語った。
けれど、その声には確かな好意が滲んでいた。
ルティシアは、少しだけ俯いた。
迷いがあるのが、わずかなしぐさで分かった。
けれど――
やがて、彼女は静かに頷き、村長が差し出した衣服を両手で受け取る。
白の長袖の上衣と、黒のサスペンダースカート。
どれも飾り気のない、シンプルな服だった。
だが――
今の彼女が着ている、血と汚れの滲んだ服よりは、ずっと良い。
「……ありがとう。」
彼女は小さく呟いた。
控えめな声だったが、その響きは真実の感謝だった。
村長はただ手を軽く振り、特に何も言わずに背を向ける。
そして、そのまま静かに部屋を出て行った。
俺たちに、時間を残して。
村長の足音が遠ざかっていく。
ルティシアはしばらくの間、手の中の衣服をじっと見つめていた。
言葉もなく、ただ指先で布の感触を確かめるように。
ほんの数秒の沈黙の後――
彼女は静かに振り返り、準備された部屋へと向かっていった。
身を清め、そして服を着替えるために。
俺も、自分の部屋へと戻る。
ベッドの端に腰を下ろし、ゆっくりと外套を解いた。
露わになった腕。
袖をまくり上げ、そこに残る傷を確認する。
赤黒く残る詛呪の痕跡。
聖術で抑え込んではいるが、完全に消え去るには、まだ時間がかかる。
それでも――
この夜は、ようやく訪れた、わずかな安息の時間だった。
部屋の灯りが、木製の床に柔らかく映る。
空気には、淡い草木の香りが混じっていた。
俺は静かに上衣を脱ぎ、傷の状態を確認する。
――呪いの侵蝕の跡は、依然として残っていた。
黒い紋様が腕を這うように広がり、薄い灼熱感を伴って肌に刻まれている。
抑え込んではいるものの、完全に消え去るにはまだ時間がかかるだろう。
俺はそっと聖典を開き、指先で紙の感触を確かめながら、低く呟いた。
「神聖の息吹よ、残痛を拭い去れ。」
掌に金色の光が灯る。
聖術の力が流れ出し、傷の上を静かに覆っていく。
呪いを完全に祓うことはできないが――
それでも、痛みを和らげ、少しでも体力を回復させることはできる。
――その時。
コン、コン。
控えめなノックの音が、静かな部屋に響いた。
だが、それに返答する前に――
扉が開かれた。
「……?」
わずかに動きを止め、視線を向ける。
扉の向こう――
ルティシアが立っていた。
彼女の動きは、いつもと同じく軽やかで静かだった。
しかし、俺の姿を目にした瞬間――
その足が、ぴたりと止まった。
銀色の瞳が、大きく見開かれる。
「…………」
一瞬、言葉を失ったようだった。
そして次の瞬間――
彼女はハッとしたように目をそらし、顔を手で覆う。
僅かに上擦った声が、静寂を破った。
「……な、なんで服を着てないの?」
俺は、ちらりと彼女を見やる。
そして、何事もなかったように淡々と答えた。
「治療していた。」
ルティシアの指先が、微かに震えた。
目を逸らしたまま、何か言いたげに口を開きかけるが――
しばしの沈黙。
その後、彼女は僅かに声を落とし、言った。
「……せ、せめて一言くらい……言いなさいよ……。」
「お前が返事を待たずに入ってきたんだろう。」
何でもないようにそう返しながら、ベッドの横に置いてあったシャツを手に取る。
ルティシアの肩がわずかに揺れた。
どうやら自分の行動を自覚したようだった。
唇を噛むように僅かに抿り、反論しようとしたのかもしれない。
けれど――
最終的には、小さく鼻を鳴らし、視線をそらすにとどまった。
沈黙が、部屋に広がる。
俺は襟元を整え、シャツのボタンを留めながら、口を開いた。
「……それで? 何か用か?」
ルティシアは、わずかに視線を彷徨わせた。
そして、ほんの少しの間を置いて、低く呟く。
「……その傷、もう大丈夫?」
静かな問いかけだった。
その声音には、はっきりとした感情はこもっていない。
けれど――
その奥に、僅かな気遣いが滲んでいた。
俺は静かに腕を見下ろす。
詛呪の痕跡は依然として薄く残っているが――
少なくとも、痛みはかなり引いていた。
「……問題ない。」
簡潔にそう返す。
相変わらず、特に感情を込めることなく、平坦な声で。
ルティシアは俺の言葉を聞くと、ふと視線を落とし、そっと俺の腕を見やった。
そのまま、ほんの一瞬、目を伏せる。
そして――
かすかに、ためらうような声音で呟いた。
「……ごめんなさい。」
俺は眉を寄せ、彼女を見る。
「……何故、謝る?」
ルティシアの指先がわずかに握り込まれる。
何かを言おうと、一瞬迷うような素振り。
そして、低い声で答えた。
「……私のせいで……あなたの呪いが、もっと酷くなった。」
どこか自責の滲んだ言葉。
かすかな後悔を映した銀色の瞳が、灯りに淡く揺れる。
「それは俺が選んだことだ。お前が謝る必要はない。」
淡々と返す。
「それに――お前の魔法がなければ、俺はとっくに死んでいた。」
ルティシアの指先が、ぴくりと震えた。
だが、すぐには言葉を返さない。
ただ、視線を落としたまま、ぎゅっと唇を結ぶ。
何かを言いかけて――
けれど、それを飲み込むように、静かに息を吸った。
俺は、そんな彼女を見つめながら、ふと口を開く。
「……こっちへ来い。」
ルティシアの肩が、わずかに揺れた。
「……え?」
一瞬、戸惑ったように目を瞬かせる。
俺の意図を測りかねているのか、扉の前で小さく足を止めたまま。
だが――
迷った末に、彼女はゆっくりと歩み寄る。
その足取りは、どこか慎重で、少しぎこちない。
そして、ほのかに染まる頬。
灯りに照らされた横顔が、かすかに赤く染まっていた。
――何か、変なことを考えているのかもしれない。
だが、俺はそれを問いただすことはしなかった。
ルティシアが近づくのを待ち、指でベッドの端を軽く示す。
「……座れ。」
彼女は一瞬だけ迷うように動きを止めたが――
最終的に、静かに頷き、ベッドの端に腰を下ろした。
その手は、そっと膝の上で組まれ、どこか落ち着かない様子。
俺の方へ視線を向けるが、その銀色の瞳には、わずかな緊張が滲んでいた。
「動くな。」
そう告げると、俺はゆっくりと手を伸ばし、彼女の手首に触れた。
指先から、微かな光が浮かぶ。
「神聖の息吹よ、穢れなき癒しを。」
柔らかな聖光が、ルティシアの腕へと静かに広がる。
温かく、穏やかで、どこまでも優しい光。
彼女に大きな外傷はなかったが、戦闘と呪いによる疲労を癒すには十分な力だった。
光がゆるやかに肌を包み込む。
――その瞬間。
ルティシアの身体が、ほんの僅かに震えた。
まるで、この温もりを初めて知ったかのように。
長い睫毛がわずかに揺れ、瞳の奥に、ごく微細な戸惑いが浮かぶ。
「……?」
まるで、信じられないものを見ているような――
そんな表情だった。
俺はそれを見ながら、施術を続ける。
そして、落ち着いた声で言った。
「最初にお前を森で拾った時、俺は治癒術を使わなかった。」
ルティシアの瞳が、かすかに揺れる。
「お前の呪いの状態が分からなかったし、傷も深すぎた。下手に聖術を使えば――」
「……呪いが暴走する可能性があったからな。」
施術を続けながら、淡々と語る。
聖術と呪いの力は、通常、相容れない。
彼女の状態を見誤れば、取り返しのつかないことになっていたかもしれない。
――だからこそ、俺は慎重に選択した。
そして今、こうして彼女に聖術を施している。
これが意味するものを、ルティシアはどう捉えるだろうか――。
ルティシアは、そっと顔を上げた。
銀色の瞳が俺を映し、言葉を噛みしめるように、じっと見つめてくる。
――何かを、考えている。
俺は光を緩めながら、淡々と続けた。
「今は、お前に護符がある。」
「だから、簡単な治癒術なら問題ない。」
柔らかな聖光が、ゆっくりと消えていく。
ルティシアの体に残った小さな傷は、完全に修復されていた。
彼女は、わずかに腕を動かす。
まるで、自分の状態を確かめるかのように。
そして――
彼女の視線が、自分の掌に落ちた。
指先が、そっと開かれ、ゆっくりと閉じる。
その表情には、言葉にできない何かが浮かんでいた。
「……?」
俺が言葉をかけるよりも先に――
彼女は、低く呟いた。
「……この感じ……」
俺は眉を寄せる。
「どうした?」
ルティシアの指先が、微かに震える。
やがて――
彼女は、ぽつりと呟いた。
「……あたたかい……。」
それは、まるで独り言のように。
かすかな息と共に零れ落ちた、戸惑いにも似た声。
「……あたたかい……?」
俺はその言葉を反芻する。
彼女の声音には、確かに不思議な響きがあった。
まるで――
生まれて初めて、この温もりを知ったかのような。
ルティシアは視線を落とし、そっと指先で手首をなぞる。
その仕草は、何かを確かめるようで。
それとも――
この温もりが、彼女の中の「何か」を呼び起こしたのかもしれない。
ルティシアは静かにベッドの端に座っていた。
その銀色の瞳がわずかに揺れ、まだ先ほどの治癒術の感触に浸っているようだった。
彼女の視線は、自らの掌へと落ちる。
まるで、そこに聖術の余韻が残っているかのように――
それは彼女にとって、未知の体験なのかもしれない。
あるいは、生まれて初めて触れた「温もり」だったのか。
「お前の魔法……あれは月神の力か?」
俺は先に口を開き、探るような声で問いかける。
ルティシアは、一瞬だけ指を強く握りしめた。
そして、数秒の沈黙の後、小さく首を横に振る。
「……わからない。」
彼女の声は、どこか遠い記憶をたどるように静かだった。
「私と……お母さんは、どちらもこの魔法を使えた。」
「でも、使うたびに呪いが騒ぎ出して、すぐに体が動かなくなるの……。」
俺はわずかに眉を寄せる。
「……つまり、さっきの森での戦いでも、無理をして魔法を使ったんだな?」
ルティシアは、答えなかった。
けれど――
小さく唇を噛み、視線を逸らす。
その仕草が、すでに答えを語っていた。
俺は、深く息を吐く。
「……お前、本当にバカだな。」
呆れたように言うと、ルティシアは不満げに顔を上げる。
そして――
「……あなたも同じでしょ?」
どこか抗うような声音。
その言葉に、俺は一瞬きょとんとした。
そして――
ふっと、口元に微かな笑みを浮かべる。
「……確かに。」
それ以上、何も言わなかった。
結局のところ――
俺たちは、同じだ。
代償があると分かっていても、やるべきことを選ぶ。
それ以外の選択肢なんて、考えたこともない。
ルティシアは、そんな俺の反応を見て、僅かに唇を尖らせる。
けれど、その瞳の奥には、確かに小さな共感の光が宿っていた。
俺は軽く首を振り、この話題にはあまりこだわらず、淡々と言った。
「とにかく……ありがとう。」
ルティシアは、一瞬驚いたようにまばたきをした。
まさか、俺が突然礼を言うとは思わなかったのだろう。
「……何のこと?」 彼女は小さな声で問い返す。
「俺を幻覚から引き戻してくれたことだ。」
ルティシアの瞳が、わずかに大きく見開かれる。
まるで、この言葉が意外だったかのように。
しばしの沈黙の後、彼女の口元がほんの僅かに動き、小さな微笑を作った。
「まさか……聖職者に癒されて、感謝までされる日が来るなんてね。」
「じゃあ、しっかり覚えておくんだな。」 俺は淡々と返す。
ルティシアは、くすっと微かに笑った。
その声はとても小さかったが、どこか言葉にし難い感情が滲んでいた。
「……忘れないよ。」
俺たちの会話は、そこで一旦途切れた。
俺はふと彼女を一瞥し、あることを思い出す。
「そういえば……お前、俺に何か用があって来たんじゃないのか?」
ルティシアは、俺の問いにわずかに動きを止めた。
睫毛がかすかに震え、まるで言葉を選んでいるかのように、一瞬の間を置く。
そして、小さく息を吸い込んだ後、静かに口を開いた。
「……そろそろ、ここを出たほうがいいかもしれない。」
俺は眉を寄せ、彼女をじっと見つめる。
「なぜだ?」
ルティシアの指が、無意識にそっと護符を握りしめる。
その声はどこか沈んでいた。
「……もし、このままあなたについて行ったら……きっと迷惑をかける。」
俺はしばらく黙っていた。
だが、次の瞬間、ゆっくりと首を振る。
「お前がいようがいまいが、俺はすでに聖都の指名手配者だ。正直、たいして変わらない。」
ルティシアの瞳が、わずかに見開かれる。
まさか、そんなふうに返されるとは思っていなかったのだろう。
「それに、お前が暗裔族かどうかなんて、俺には関係ない。」
俺は淡々と続ける。
「一緒に行きたいなら、行けばいい。」
ルティシアの唇が微かに震える。
まるで、何かを言いかけて――けれど、言葉にできなかったように。
「それに……」 俺はふと、付け加える。
「ウィゼアンは言っていた。ルミナスに行けば、俺たちの疑問が解けるかもしれない。」
「お前の呪いについても。聖都の真実についても。」
ルティシアは目を伏せ、指先で護符をそっとなぞる。
まるで、何かを考え込むように――
そして、ややあって、小さく尋ねた。
「……あなたは、本当に彼を信じるの?」
俺は、一瞬だけ間を置く。
そして、すぐに答えた。
「今のところ、信じない理由がない。」
ルティシアは、じっと俺の目を見つめる。
彼女は、俺の言葉の続きを待っていた。
「まず第一に、ルミナスはあらゆる種族を受け入れる国だ。聖都の駐留兵力もごくわずかしかない。」
俺は冷静に言葉を紡ぐ。
「聖都とルミナスの理念は正反対だ。一方は規律を徹底し、もう一方は自由な創造を奨励する。長年、対立している関係だ。」
「……この違いは、お前も理解できるだろ?」
ルティシアは、静かに頷く。
「そして、もう一つ……あの少女の遺体を見た時の彼の表情。」
俺は、言葉を切り、少し低い声で続けた。
「それは、本当に命の喪失を惜しむ者の顔だった。」
「俺の師匠以外で、あんな表情をする聖職者は見たことがない。」
ルティシアは俺の言葉を聞き、わずかに瞳を揺らした。
数秒の沈黙の後、彼女は小さく息を吐きながら、ぽつりと呟く。
「……わかった。あなたの判断を信じる。」
俺はゆるく口角を上げ、軽く言ってみせる。
「おや? ずいぶん素直だな。聖職者なんて信じないんじゃなかったのか?」
ルティシアは、むっとしたように俺を睨みつけ、少しむくれた口調で返す。
「あんたは違うの。なんか……変なのよ。」
俺は片眉を上げる。
「変?」
「うまく説明できないけど……」** ルティシアは少し考え込むように言葉を選ぶ。**
やがて、言葉を見つけられなかったのか、ふっと息を吐いて肩をすくめる。
「とにかく、あんたなら信用してもいいと思っただけ。」
その声は、普段の彼女とは違い、どこか素直で。
俺は軽く頷き、静かに言った。
「じゃあ、一緒に行こう。」
ルティシアは、燭火に照らされた俺の顔をじっと見つめる。
長い沈黙の末、彼女はゆっくりと――確かに頷いた。
「……うん。」
そうして、そっと護符に指先を這わせる。
まるで、自分の決意を確かめるように。
そして、微かに笑みを浮かべながら、軽く肩をすくめる。
「……これで、あんたはとんでもない厄介ごとを背負うことになったわけね。」
「まさか、自分が聖職者と旅をする日が来るなんて。」
俺は肩をすくめ、淡々と返す。
「後悔しないといいがな。」
ルティシアは小さく笑った。
その声は、どこか呆れたようで――けれど、今までより少しだけ、距離が近くなったような気がした。
夜の静寂の中、俺たちの会話はそこで終わる。
この夜が、きっと――
俺たちが、本当の意味で旅立つ始まりなのだろう。