表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
流亡した聖職者と捨てられた少女  作者: 藹仁
堕落した聖職者と呪われた少女
12/32

12.運命の交錯

 ルティシアの状態が安定したのを確認すると、俺はようやく彼女を支えていた手を離した。


 その瞬間、全身から力が抜ける。


 まるで、体の中のすべてを絞り取られたかのように――俺はその場に崩れ落ちた。


「……疲れた。」


 冷たい土の上に仰向けに倒れ、夜風が頬を撫でるのを感じる。


 微かに残る涼しさとは裏腹に、身体の奥底から疲労が押し寄せた。


 戦いの緊張と、呪詛の侵蝕。


 それらすべてが、俺の力を徹底的に奪い尽くした。


 指先にはまだ、かすかな聖光が揺らめいている。


 だが、それすらも、もはや支えにはならなかった。


 ルティシアは、無言で俺を見つめていた。


 揺らぐような視線。


 何かを考えているのか、迷うような沈黙が流れる。


 そして、わずかに目を伏せると、小さな声で囁いた。


「……ありがとう。」


 ぎこちない。


 まるで、慣れていない言葉を無理に紡いだかのように。


 俺は特に反応することなく、ちらりと彼女を見て、それから目を閉じた。


「気にするな。」


 静かに、淡々と答える。


 そんなもの、理由なんて必要ない。


 しばらくの間、夜の静寂が続く。


 やがて、俺はなんとか身を起こし、自分の腕を見下ろした。


 呪詛の痕は、依然としてはっきりと残っていた。


 黒い紋様が、まるで焼きついたように皮膚を這い上がり、じわじわと内側へと浸透していく。


 聖術で抑え込んだはずなのに、それでも完全には消えず――


 まるで、燻る残り火のように、俺の肉と血に絡みついていた。


 鈍く、じわりと広がる灼けるような痛み。


 簡単に振り払えるものではない。

 だが、傷よりも気になることがあった。


 先ほどの、蒼藍の炎――。


 あの炎は、単に呪詛を弱めただけではない。


 一瞬とはいえ、その爆発を抑え込み、俺の体の侵蝕を止めた。


 もし、あの炎がなければ――


 俺はすでに行動不能に陥り、それどころか……ここで命を落としていたかもしれない。


 蒼藍の炎――あれは一体何なんだ?


 あの力と、彼女の呪いにはどんな繋がりがある?


 それは、単なる黒魔法ではない。


 だが、聖術の対極にあるわけでもない。


 まるで、それらとは別の、未知なる存在――。


 脳裏に疑問が渦巻く。


 だが、今は考えている場合ではない。


 深く息を吸い、ひとまず思考を脇に置く。


 手元の《聖典》を開き、残された魔力をわずかに巡らせると、低く詠唱を紡ぐ。


「……神聖の息吹よ、血と魂を癒やせ。」


 淡い金色の光が掌に灯る。


 温かな輝きが傷口を覆い、かすかな安堵をもたらした。


 治癒術の効果で、表面の傷はゆっくりとふさがり、焼けるような痛みも和らいでいく。


 しかし――


 呪詛の気配は、まだ消えてはいなかった。


 根深く、しつこく、まるで体の奥深くに巣食う残り火のように。


 聖術だけでは、完全に祓うことはできない。

 この程度の治癒術では、結局、二重の呪詛 に完全に抗うことはできない。


 それでも、できる限りの処置を施しながら、ふと視線を横へ向けた。


 ルティシアはまだその場に座り込んでいた。


 呼吸は乱れたままだが、少なくとも幻影や異常な反応は見られない。


「……今の状態は?」


 治癒術を続けながら、静かに問いかける。


 ルティシアの視線が俺の腕をなぞるように動き、一瞬、止まった。


 まるで、まださっきの状況を飲み込めていないように。


 しばらく無言のまま、彼女は小さく息を吸い込んだ。


 そして、低く囁く。


「……そんな状態で、まだ他人の心配をする余裕があるの?」


 僅かに驚きを滲ませた声音。


 銀白の瞳に、揺らめく聖光が映り込む。


 まるで、俺の行動の意味を測るように。


 俺は彼女を一瞥し、口元をわずかに動かした。


「お前の様子を見る限り、大丈夫そうだな。」


 淡々とした口調だった。


 ルティシアは、かすかに目を見開いた。


 意外そうな表情を浮かべ、何かを言いかけたが――


 結局、何も言わずに唇を噛み、静かに視線を落とした。


 まるで、何かを考え込むように。

 初級の治癒術で、痛みは多少和らいだものの――


 呪詛の残滓は依然として俺の体内に根を張っていた。


 焼け跡の亀裂のように、肉の奥深くへと染み込み、簡単には消えない。


 腐食の呪詛による侵蝕はまだ完全には治まっておらず、


 ルティシアの呪いは魂にまで深く刻み込まれているせいで、聖術の効果は大きく削がれていた。


 しばらくすると、ルティシアの視線が再び俺の傷へと落ちた。


 その瞳には、ほんの僅かな迷いと、何かを考え込むような色が浮かんでいた。


 眉をわずかに寄せ、数秒の沈黙の後――


 彼女は小さく囁くように言った。


「……どうして、治らないの?」


「無理だからだ。」


 俺は淡々と答えた。


「さっきの戦いで消耗が激しすぎた。今は高位の治癒術を使う余裕がない。」


「それに――」


 俺は視線を落とし、黒い紋様の残る腕を見やる。


「この二つの呪詛は絡み合ってる。たとえ高位の聖術を使ったとしても、一瞬で払えるものじゃない。」


 ルティシアは、わずかに俯いた。


 細い指が、無意識のうちに護符を握りしめる。


 そして、かすかな声で呟いた。


「……ごめん。」


 その声は、掠れるほどに小さく。


 まるで、押し殺した感情の奥底から零れ落ちたようだった。


 俺は横目で彼女を見やる。


 微かに震える指先、噛み締めた唇――


 彼女の考えていることは、おそらく分かる。


 もし、自分の呪いがなければ。


 もし、俺の回復がもっと早ければ。


 もし、こんなことが起こらなければ――


 そんな「もし」を考えているのだろう。


「気にするな。」


 俺は、静かにそう言った。


 責めるつもりなどなかった。


「お前の魔法と、さっきの炎がなければ――俺たちは生き残れなかった。」


 ルティシアの目がわずかに揺れる。


 まるで、そんな言葉を想定していなかったかのように。


「互いに貸し借りはない。」


 俺はそう付け加える。


 淡々とした口調で。


 余計な後悔も、罪悪感も持たせないように。


 彼女は口を開きかけた。


 けれど、言葉にはならず、そっと目を伏せる。


 指の力を強め、護符を握りしめるように。


 まるで、その感情を静かに押し込めるかのように――。

 ――今は、立ち止まっている場合じゃない。


 俺たちは、一時的に噛魂獣こうこんじゅうの脅威から逃れた。


 だが、まだやるべきことがある。


 エリーを見つけなければ。


 深く息を吸い、意識を無理やり研ぎ澄ませる。


 疲労で重くなった身体を押し起こし、足に力を込めた。


 ルティシアの動きはまだ鈍かったが、それでも俺の後を迷いなくついてくる。


 俺たちは、霧が徐々に晴れつつある方向へと歩を進めた。


 そして――


 ほどなくして、地面に倒れ伏す二つの影が視界に入った。


「……いた。」


 俺はすぐさま駆け寄り、身をかがめて彼女たちの状態を確認する。


 エリー。


 彼女の呼吸は浅く、不安定ながらも、まだ確かに胸が上下している。


 顔色は悪いが、外傷は見当たらなかった。


 しかし、もう一人の少女は――


 俺は無言で手を伸ばし、彼女の首筋に指を当てた。


 ――脈は、なかった。


 その肌はすでに冷えきり、血の気を失っていた。


 半ば開かれた瞳には、何の焦点も宿っていない。


 彼女の魂は、完全に喰われていた。


「……遅かったか。」


 眉を寄せ、喉の奥にわずかな苦さが残る。


 全力を尽くした。


 それでも、全員を救うことはできなかった。


 隣に立つルティシアも、静かに少女の亡骸を見つめていた。


 その指が、かすかに震える。


 だが、その震えはすぐに消え、彼女は何事もなかったかのように袖口を握りしめた。


 何も言わない。


 けれど、彼女が何を考えているのか――その仕草だけで、伝わってくる。


 指先が、無意識に布をなぞるように動く。


 ほんのわずかな仕草。


 だが、それはまるで、何かを必死に振り払おうとしているかのように。


 銀白の瞳に映る、微かな光。


 その静かな表情の奥に、拭いきれない影が落ちている。


 まるで、かつての記憶を呼び起こされるのを恐れるように。


 あるいは――


 その記憶に囚われまいと、必死に耐えているかのように。


「……」


 彼女は小さく息を吸い込んだ。


 何かを言おうとして――


 けれど、言葉にはならず、ただ視線を落とした。


 瞼を伏せ、口を閉ざしたまま。


 だが――今は悲しんでいる時ではない。


 少なくとも、エリーはまだ生きている。


「俺が、彼女の状態を安定させてみる。」


 聖典を開き、残された魔力を無理やり集中させる。


 指先で聖紋を描き、低く詠唱を紡いだ。


「聖光よ、迷える魂を庇護せよ。」


 柔らかな金色の光がエリーを包み込む。


 蒼白だった頬に、かすかに血色が戻る。


 不規則だった呼吸も、少しずつ穏やかになっていく。


 だが――


 魔力の消耗と共に、視界がかすかに揺れた。


 意識が一瞬、途切れる。


 祝福術の効果が――中断された。


 奥歯を噛み締める。


 膝が揺らぐのを何とか堪え、体勢を維持する。


 やはり、消耗が激しすぎる。


 これ以上の聖術は、維持できない。


「……まだ、無理?」


 ルティシアが、かすかな声で尋ねる。


 その声音には、微かに滲む不安の色があった。


「少なくとも、今は落ち着いた。」


 低く答えながら、そっと手を離す。


 額にじわりと汗が滲んだ。


「でも、これ以上の治癒は無理だ。」


 ルティシアの瞳がかすかに揺れる。


 俺を見つめ――そして、意識を失ったままのエリーへと視線を移した。


 何か言いかけた。


 だが、わずかな迷いの後、彼女はその言葉を飲み込む。


 その沈黙が、妙に重い。


 ――だが。


 その余韻を引き裂くように、遠くから聞こえてきた。


 雑然とした足音。


 そして、それを伴う声。


「あっちだ! 声がしたのはこっちだぞ!」


「……厄介だな。」

 遠くの森の奥から、いくつもの微かな光が近づいてくる。


 暗闇を照らし、ぼんやりとした人影を浮かび上がらせた。


 ――村人だけじゃない。


 白い聖衣を纏った聖職者たちも混じっている。


 その瞬間、背筋に冷たい警戒心が走った。


 まずい。


 ルティシアは今、何の偽装もしていない。


 銀色の髪も、瞳も。


 この夜闇の中では、あまりに目立ちすぎる。


 だが、今の俺には偽装魔法を施すだけの魔力は残されていない。


 このままでは――見つかれば、間違いなく危険だ。


 ルティシアも、それに気づいたのだろう。


 体が一瞬、こわばる。


 指先が無意識に強張り、銀の瞳に微かな不安が過った。


 俺たちは、すでに限界寸前だった。


 戦うどころか、逃げることすら難しい。


 どうする……?


 最悪の想定が脳裏を駆け巡る。


 そんな中――


 突然、静かな声が背後から響いた。


「――見つかりたくないんだろう?」


 心臓が一瞬、強く跳ねる。


 俺は反射的に振り向いた。


 夜闇の中に、一つの影が立っていた。


 白の聖衣を纏い、肩には銀の紋章。


 夜の微光に映える金茶色の乱れた短髪。


 琥珀色の瞳が、冷静な光を湛えてこちらを見つめている。


 その佇まいは、一般の聖職者とは異なる。


 静かで、落ち着いている。


 だが、どこか――測り知れない圧を感じる。


 彼の視線が俺たちに向けられる。


 そのまま、淡々と告げた。


「聖術と、呪詛の侵蝕……この距離でも感じるほどの強い波動だ。」


「隠すつもりなら、そのままでは無理だぞ。」


 ――何者だ?


 ルティシアが、警戒の色を滲ませる。


 俺も即座に彼女をかばうように立ち、鋭く相手を見据えた。


 緊張が走る。


 だが、白衣の男は、それ以上の動きを見せなかった。


 代わりに、静かに片手を上げる。


「誤解するな。俺に敵意はない。」


 穏やかな声色。


 だが、その中には確かに、何かを見極めようとする気配があった。


 彼の視線が俺たちをなぞるように動く。


 そして、ルティシアの銀髪と銀瞳を見た瞬間――


 瞳が、わずかに揺れた。


「……暗裔族あんえいぞくか。」


 低く呟く。


 何か思い当たることがあるのか、僅かに表情が変わる。


 再び俺に視線を戻し、ゆっくりと口を開いた。


「聖術の異端。そして、呪詛と共に生きる一族。」


「――お前が、ロイ・エリオットだな?」


 指先に、力がこもる。


 胸の奥が、一瞬だけ強く軋む。


 ――こいつ、俺たちを知っている?

 俺の視線がわずかに鋭くなる。


 全身が無意識のうちに強張った。


 ――俺の聖術と呪詛の侵蝕を感じ取っただけでなく、名前まで知っている。


 これは、偶然ではありえない。


 ルティシアも、俺の背後で微かに身をこわばらせた。


 銀白の瞳に、警戒の色が浮かぶ。


 指先がわずかに縮こまり、肩が強張る。


 彼女も、この男を危険視しているのが分かった。


「お前は……何者だ?」


 低く問いかける。


 声を落ち着かせたまま、相手の一挙一動を注視する。


 白衣の男は、一瞬の間を置いてから――


「ヴィセアン」


 と、簡潔に名乗った。


 それ以上の説明も、余計な情報も、一切ない。


 まるで、それだけを伝えれば十分だとでも言うように。


 だが、その琥珀色の瞳は、確かに俺たちを値踏みするように観察していた。


「ヴィセアン……?」


 俺は眉を寄せる。


「聖都の者か? それとも――」


 ヴィセアンはすぐには答えなかった。


 代わりに、遠方の光の群れへと視線を向ける。


 森の奥から聞こえてくる足音。


 踏みしめられる湿った土の音。


 燃え上がる松明の炎に照らされ、人影が次第に近づいてくる。


 その間に聞こえた声――


「このあたりに呪詛の痕跡が……早く確認しろ!」


「それに聖術の残滓もある……さっき単独で森に入った聖職者のものか?」


「わからん、もう少し先を調べてみよう。」

 ヴィセアンの視線が、遠くの光の点に留まる。


 わずかに眉を寄せ、一瞬だけ思考の色を滲ませた。


 だが、すぐに俺たちへと目を戻し、静かに口を開く。


「……今は、それを話している場合じゃない。」


 淡々とした口調だった。


 次の瞬間――


 彼は片手を持ち上げ、掌に小さな光を宿した石を掲げる。


 そのまま、唇が僅かに動いた。


 低く、落ち着いた声で、詠唱が紡がれる。


「虚無の波動よ、世界の視線を覆い隠せ。」


「朧なる霧影よ、音と魂の痕跡を呑み込め。」


「幽影、降臨せよ――静寂の領域サイレント・ドメイン。」


 ――瞬間。


 石が淡く震え、透き通る波紋が地面を駆け抜けた。


 波動が空間を覆い、俺たち三人を包み込む。


 霧が僅かに歪む。


 次の瞬間――


 そこに漂っていた聖術と呪詛の波動が、まるで吸い込まれるように消え去った。


 同時に、空気が張り詰める。


 足音も、呼吸すらも。


 まるで世界が一瞬にして沈黙したかのような、静寂。


 ――結界術か?


 俺は目を細め、周囲の変化を探る。


 魔素の流れが、異常なほど静止していた。


 気配を消し、音を断ち切る。


 高位の隠匿術に特化した結界。


 これほどの術を使える聖職者が、どれほどいる?


 この男――


 一体、何者だ?

 ヴィセアンは静かに手を伸ばし、少女の亡骸の上にそっと聖紋を描いた。


 低く、静かな声で、祈りの言葉を紡ぐ。


 その所作はあまりにも慣れたものだった。


 けれど、その指先には、確かに微かな敬意が滲んでいた。


 まるで、心から彼女の安息を願うかのように。


「……魂はすでに喰われ、完全な安息は得られない。」


「だが、せめて――もう二度と、闇に囚われることはない。」


 それは、俺たちに向けられた言葉ではなく。


 ただ、彼女自身に語りかけているようだった。


 ヴィセアンは瞼を閉じ、一瞬、短く息を吐く。


 そして、目を開き、俺たちへと視線を向けた。


「まだ生きている方――間もなく目を覚ますはずだ。」


「……お前が今使ったのは、魂を安定させる祝福術か。」


 俺はエリーの様子を見ながら、低く問いかける。


「そうだ。」


 ヴィセアンは平然と答えた。


「俺ができるのは、せいぜい持ちこたえさせることだけだ。回復できるかどうかは、彼女次第だな。」


 その言葉には、迷いがなかった。


 ただの慰めではない。


 確信に基づいた判断――そう思えた。


 俺はしばらく彼を観察する。


 だが、そこに偽りは感じられなかった。


 ヴィセアンはふたたび俺とルティシアへと目を向け、淡々と言った。


「さっきの結界、ついでにお前たちにも隠蔽魔法をかけておいた。」


「村に戻るといい。聖職者たちが撤収した後なら、問題なく動けるはずだ。」


 提案のようでいて、どこか確定的な響き。


 まるで、それ以外の選択肢はないと言わんばかりに。


 俺は改めて、この男を見た。


 何者なのか――


 なぜ、俺たちをここまで助けようとするのか。


 その疑問が、どうしても拭えなかった。


「……なぜ、俺たちを助ける?」


 最終的に、その言葉が口をついて出た。


 ヴィセアンは、わずかに微笑んだ。


 だが、その笑みはどこか掴みどころがない。


「お前たち二人は――もしかすると、この世界の現状を変える鍵になるかもしれない。」


 淡々とした声。


 だが、その言葉の重みは、無視できなかった。

「今は、すべてを説明する時ではない。」


 ヴィセアンはそう告げ、わずかに間を置いた。


「だが、これから数ヶ月の間――ここには、さらに多くの聖職者が駐留することになる。」


「お前たちにとって、この地はもはや安全ではない。」


 その言葉には、一切の迷いがなかった。


 彼はふと動きを止め、軽く眼鏡を押し上げる。


 そして、静かに続けた。


「もし、本当に知りたいことがあるのなら――魔導都市『ルミナス』へ行け。」


「そこにいる賢者、『イリウス』を探せ。」


「状況が許せば――俺たちは、また会うことになるかもしれない。」


 ルミナス……魔導都市?


 俺は眉をひそめる。


 胸の内に、新たな疑問が膨らんでいく。


 ――この男は、どこまで知っている?


 ――どの立場にいる?


 そして、何より――


 なぜ、俺たちを助ける?


 ロイとルティシアは、一度も振り返ることなく、二人の少女を連れて森を後にした。


 その足取りは、静かで、迷いがない。


 まるで、この不吉な森に長く留まることを拒むかのように。


 だが――


 彼らが気づかぬ場所で、黒き霧が夜闇の中に静かに集まっていった。


 意思を持つかのように、蠢き、渦を巻く。


 そして、その暗闇の中に、一つの影が佇んでいた。


 長い外套が微かに揺れる。


 顔の半分は闇に覆われ、その指先には淡い紫の光が揺らめいていた。


 彼は静かに残滓の霧を見つめる。


 そこに滲む魔素の痕跡を――感じ取るように。


 黒霧が、その掌に絡みつく。


 それはゆっくりと収束し、やがて全てを飲み込むように吸収されていく。


 彼はそれをすぐには手放さなかった。


 僅かに目を細め、指先で慎重に魔力を探る。


 ――これは、ただの呪詛ではない。


 これは、ただの闇ではない。


 違和感がある。


 指を軽く弾くと、黒霧の中に微かな光が灯った。


 交わる、二つの異なる魔力の痕跡。


 聖術。そして、月神の魔法。


「聖術……それに、月神の魔法?」


 低く、静かな囁き。


 興味を惹かれたような声音。


 彼は視線を落とし、黒霧が漂う地面を見つめた。


 沈黙の中、思索の色がその瞳に浮かぶ。


「この時代に……暗裔族あんえいぞくは、もう存在しないはずだが。」


 確かめるように。


 疑念を抱きながらも――どこか愉しげに。


 黒霧が、彼の手の中で消えていく。


 呪詛を最後まで喰らい尽くすかのように。


 ゆっくりと口元が僅かに綻ぶ。


 愉悦の混じった、微かな笑み。


「……やはり、暗裔族は滅んではいなかったか。」


 夜風が吹き抜ける。


 黒霧が四散する。


 そして――


 彼の姿もまた、闇に溶けるように消えていった。


 まるで、最初からそこにはいなかったかのように。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ