11.彼女が否定できないもの
霧が渦巻き、星の輝きを飲み込み、夜の闇は静かな黒い潮のように広がっていた。
聖光に照らされたことで、噛魂獣の姿が露わになる。しかし、それは怯えることなく、むしろ堂々とそこに佇んでいた。
その形は歪み、震え、まるでひび割れたガラスのように不安定だ。まるでこの世界の理から外れた存在――。
俺は息を詰め、目の前の異形と対峙する。
お互いに無言のまま。
だが、わかる。
こいつは「観察している」。
俺だけじゃない。この森全体を試しているのだ。
目などないはずなのに、魂そのものを射抜かれたような感覚がする。どれだけ逃げようとも、この「狩場」から抜け出すことはできない。
くそっ……思った以上に厄介だ。
「気をつけろ、こいつは普通の噛魂獣とは違う。」
低く呟くと、ルティシアが小さく頷く。
彼女は護符を握りしめ、銀白の瞳に黒い影を映していた。表情は冷静で、動揺の色は見えない。
そして――
次の瞬間、噛魂獣が動いた。
だが、それは獣のように飛びかかるのではなく、俺の周囲を静かに回り始めた。
異様な動きだ。生物というよりも、この世のものではない影が漂うように、じわじわと迫ってくる。まるで、獲物が疲れるのを待つ狩人のように――。
俺は眉をひそめ、試すように手を掲げた。
掌に聖光を集め、一気に前方へと放つ。
光が闇を裂く。その瞬間、噛魂獣の歪んだ姿が露わになり――
次の瞬間、光が「喰われた」。
黒い霧が光に絡みつき、まるで一寸ずつ蠶食するかのように、ゆっくりと消し去っていく。完全に無効化されたわけではないが、通常の噛魂獣よりも聖術への耐性が圧倒的に高い。
それだけではない。
聖術の光が消えた瞬間、不穏な魔力の波動がやつの体内から溢れ出た。まるで反射するように、細い黒い霧が逆流し、俺へと向かってくる――!
「……反撃か?」
直感的に体を逸らし、間一髪でそれを避けた。
まずい――
こいつは聖術の一部を吸収し、それを利用して攻撃に転化する能力を持っている。
思った以上に、厄介だ――
「……ロイ。」
ルティシアが小さく囁いた。
顔色は青ざめ、眉間にかすかな皺を寄せている。何かを感じ取っているのか――。
「どうした?」
「……あの幻覚の感覚が、まだ……」
声が微かに震えている。
その瞬間、俺は気づいた。
たとえルティシアの気配を隠していても、噛魂獣は彼女の精神そのものに影響を及ぼしている――。
彼女の瞳が微かに揺れ、荒い息遣いが漏れる。指先が震え、目に見えぬ侵蝕に抗っているのがわかった。
噛魂獣の幻覚――それは直接幻術をかけるのではなく、「見せる」ことで獲物を追い詰める。
記憶の奥底に沈んだ恐怖を呼び起こし、逃れられぬ悪夢へと引きずり込むのだ。
このままでは、ルティシアの精神が喰われる……!
「落ち着け……意識を集中しろ。」
俺は低く呼びかけたが、ルティシアの瞳はまだ揺れていた。
くそっ……思った以上に深刻だ。
「耐えろ、ルティシア。」
俺は奥歯を噛みしめる。
聖術はこいつにはほとんど効かない。下手に魔力を消費すれば、こっちが持たない。
弱点を探るしかない――そうしなければ、俺たちは長くはもたない。
黒い霧が波のようにうねり、噛魂獣の姿はその中に溶け込むように消えていった。
だが、確実にそこにいる。
霧の中を、さらに速く、獲物を狩る機会を狙いながら――。
音はない。
だが、確かに感じる。
見えない捕食者が獲物を追い詰めるように、じわじわとその「狩場」を狭めている。
――このままでは不利になる。
早く決着をつけなければ……!
「聖光臨世、止まれ!」
――《聖印・束縛》!
素早く聖典を開き、指先で金色の紋章を描く。
地面から聖なる光が立ち昇り、光の輪が噛魂獣を包み込むように広がっていった。
術が発動した瞬間、空気が震える――
だが、こいつは想像以上に鋭い。
黒い霧が大きく波打ち、噛魂獣の形が一瞬にして歪む――
次の瞬間、奴の姿は消えた。
そして、気づいた時にはすでに俺の背後に回り込んでいた。
「くっ……!」
即座に身を翻し距離を取る――だが、それよりも速く、漆黒の影が霧を切り裂きながら襲いかかる。
強烈な瘴気がまとわりついた爪が、一直線に俺を貫かんと迫る。
――もう避ける時間はない。
咄嗟に左腕を上げ、手首の護符を盾にする。
────ッ!
詛咒と聖術がぶつかり合い、耳をつんざくような不協和音が響く。
まるで世界そのものが軋むような、異様な共鳴音。
衝撃が腕に響き、痺れるような感覚が走る。
辛うじて踏みとどまったものの、腕を伝って冷たい瘴気がじわじわと侵食してくるのを感じた。
「……チッ。」
護符の加護があっても、完全には防ぎきれない――。
この詛咒、並の黒魔法とは比較にならない。
こいつはただ強いだけじゃない――異常に狡猾だ。
すぐに仕留めるつもりはなく、じわじわと俺を追い詰め、体力を削り、隙を生む機会を狙っている。
――まずい。
聖術のダメージが思った以上に通らない。
それどころか……
「……こいつ、光の力を一部吸収してやがる。」
単なる耐性ではない。
聖術を取り込み、それを自らの力へと変換している――。
このままでは、まずい……!
ルティシアの声が微かに震えていた。
護符を握る手にはまだ力がこもっているが――
彼女の精神状態は、もはや限界に近いのがわかる。
瞳がかすかに揺らぎ、こめかみには冷や汗が伝い落ちる。呼吸も浅く、不規則に乱れ始めていた。
「……大丈夫か?」
低く問いかけながらも、俺は噛魂獣から視線を外さなかった。
一瞬の油断が命取りになる――それだけは避けなければならない。
「……まだ……」
ルティシアは声を震わせながらも、懸命に落ち着こうとしていた。
だが、その指先は微かに震え始めている。
――まずい。
このままでは、彼女は幻覚に呑まれる。
状況を打破しなければ……!
俺は小さく息を吸い込み、腰のポーチに手を伸ばした。
指先が触れたのは――
《聖釘》。
聖術の力を増幅し、呪われた存在を封じる特製の聖具。
数は限られているが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
だが、問題は――
これを地面に突き立て、結界を形成する時間をどう確保するか。
噛魂獣はすでに狩人の動きに入っている。
黒霧の中を巡回しながら、わずかな隙を狙い続けている。
その姿は霧に紛れ、輪郭すら曖昧だ。
――ならば、こっちから引きずり出すしかない。
「……ルティシア。」
低く呼びかける。
彼女は一瞬、驚いたように俺を見た。
「これから、何が聞こえても――信じるな。」
ルティシアの目がわずかに揺れる。
察したのかもしれない。
だが、説明している暇はない。
「俺が機を作る。お前は、意識を保つことだけに集中しろ。」
俺は聖釘をしっかりと握りしめ、指先に聖光を宿す。
もう片方の手で、ゆっくりと聖典を開いた。
「……さて、どれほど狡猾なものか、試してやる。」
次の瞬間――
俺は迷わず前へと踏み出した。
噛魂獣の懐へと、強引に突っ込んでいく。
――聖釘を突き立てる機会を掴むために。
――轟ッ!
俺が一歩踏み込んだ瞬間、噛魂獣の姿が激しく歪む。
まるで危機を察知したかのように、黒霧が四方へと奔るように広がった。
だが、次の瞬間――
足元から、凍りつくような悪寒が背筋を駆け上がる。
これは……ただの霧ではない。
「ッ……!」
即座に足を止める。
だが、気づいた時にはもう遅かった。
地面が、いつの間にか黒霧に蝕まれていた。
そして、その霧は静かに、だが確実に俺の身体へと浸透してくる――
皮膚に触れた途端、異様な灼熱感が走る。
いや、熱さではない。
これは、温度そのものを「奪う」呪詛だ。
まるで血肉の中へと入り込み、じわじわと四肢を侵食していく毒のように。
「……!」
奥歯を噛み締める。
全身が震えた。
これは単なる冷気ではない。
それは触れた瞬間から、まるで寄生するかのように俺の魔力を蝕み、意識すらも奪おうとする――
視界が霞む。
息が重くなる。
黒霧は腕へと這い登り、枷のように筋肉を締め付け、身体の動きを封じていく。
振り払おうと聖力を燃やすが、霧はしつこく纏わりつき、俺の魂そのものを汚染するように喰らい続けていた。
これは――
「……喰らう呪詛」
ダメージを与えるだけのものではない。
これは"吸収"だ。
まるで何かが俺の魂を啜るように、静かに、確実に深淵へと引き摺り込もうとしている。
「……チッ……」
指先が微かに痙攣する。
魔力を練ろうとするが、普段よりも僅かに遅れた――
そして、その一瞬の隙を、"それ"は見逃さなかった。
次の瞬間――
耳の奥に、微かな囁きが響いた。
低く、曖昧で、時間の狭間に埋もれたような、奇妙に馴染みのある声。
「……助けて……」
「……どうして……?」
「……神はお前を許さない……」
――違う。
これは噛魂獣の声ではない。
これは――「過去」だ。
「……ッ!」
歯を食いしばり、意識を手放すまいとする。
だが、次の瞬間――
目の前の景色が、音もなく歪み始めた。
光と影がねじれ、砕け、鏡の破片のように世界が崩れ落ちていく。
そして、映し出されたのは――
――聖都の、審判堂。
空気には重い焚香の匂いが立ち込めていた。
冷たい石壁には、神聖な紋様がびっしりと刻まれている。
そして、その中心――審判台の上には、鎖に縛られた人影が数人、膝をついていた。
乱れた髪が顔を覆い、表情は見えない。
唇が微かに震え、瀕死の呻きが漏れる。
だが、その声を聞く者は、誰一人としていなかった。
……違う。
ここは――
俺がかつて、確かにこの目で見た光景だ。
「異端」の名を冠せられた者たちが、何の迷いもなく火刑に処された場所。
そして、その時の俺は――
ただ黙って、その場に立っていた。
何も言わずに。
燃え盛る炎の中、彼らは最後の叫びを上げる。
「……なぜ……?」
「神は……こんなにも残酷なのか……?」
「これが……俺たちの運命なのか……?」
指先が、わずかに震えた。
手に握る《聖釘》が、異様に重く感じる。
まるで、その力の意味を俺自身が疑い始めたかのように。
「……これは、幻覚だ。」
かすれた声で呟く。
何とか意識を引き戻そうとするが――
景色はあまりにも鮮明すぎた。
燃え盛る炎の熱ささえも、確かに感じるほどに。
「……ロイ……」
闇の奥から、聞き覚えのある声が響いた。
それは、言葉では言い表せないほどの悲哀と哀願を孕んでいた。
俺は反射的に顔を上げる。
――そして、目にした。
審判台の向こう側に立つ、一人の男の姿を。
俺の師――エリスタ。
神職者の長衣はすでに深紅に染まり、見るも無惨な姿だった。
だが、それでも彼の瞳は、かつてと変わらぬ静かな光を宿していた。
穏やかでありながら、どこか痛みに満ちた声で、彼は問いかける。
「ロイ……なぜ、まだその道に執着する?」
「お前は、すでに"教会の真実"を知っているはずだ。」
「それでもなお……奴らの力を使うのか?」
「……それを、本当に『正義』だと信じているのか?」
その声は黒い霧を通して響き、微かな囁きとなって耳元にまとわりついた。
一言一言が骨の奥まで染み込むような冷たさを帯びている。
無視できない。
「……こんなの、偽物だ……」
かすれた声で呟く。
だが、呼吸が乱れる。
心臓が締め付けられるように苦しい。
――違う。
これはただの幻覚じゃない。
噛魂獣が見せているわけでもない。
これは……俺自身の記憶だ。
俺の迷いと、俺の過去――それが、俺の意志を侵食しようとしている。
「……ロイ。」
エリスタの姿が、徐々に近づいてくる。
敵意は感じられない。
むしろ、その瞳には哀れみの色さえ浮かんでいた。
そして、彼は優しく囁くように言う。
「……手放せ。」
――違う。
これは、エリスタの声ではない。
こんな言い方をするはずがない。
俺は強く《聖釘》を握りしめた。
この光景から抜け出さなければならない。
だが――
目の前の世界が激しく揺れ始める。
視界が歪み、無数の黒い影が渦を巻くように広がり、俺を深淵へと引きずり込んでいく。
底の見えない闇の中へ、沈んでいく――
意識が完全に幻覚へと呑まれかけた、その瞬間――
「ロイッ!」
鋭く、必死な叫び声が響いた。
遥か遠くの世界から、俺の耳へと突き刺さるように。
次の瞬間――
まるで月光の刃のように、鋭く蒼白い光が闇を裂いた。
それは暗夜を貫く一閃となり、幻影の世界を真っ向から切り裂く――!
轟ッ!!
審判台が砕け散る。
燃え盛る炎が闇へと呑まれ、幻影のすべてが崩壊していく。
世界が激しく震え――そして、一瞬にして霧散した。
気づけば――
俺は再び、森の中に立っていた。
視界がかすかに揺れる。
耳の奥には、まださっきの幻聴が残響のようにこびりついている。
額を流れる冷たい汗を感じながら、俺は顔を上げた。
そこには――
震えるように立つ、ルティシアの姿があった。
荒い息をつきながら、指先には未だ淡い魔力の光が残っていた。
ルティシアの顔色は蒼白だった。
完全に回復していないのは明らかだ。
だが――
銀白の瞳には、確かな決意が宿っていた。
――彼女だ。
彼女は噛魂獣の影響を力づくで振り払い、幻覚を断ち切る魔法を放った。
身体は限界に近い。
魔力も、ほとんど枯渇しているはずだ。
それでもなお――
俺が幻影に呑まれる前に、彼女は俺を呼び戻した。
「……ルティシア……」
思わず、低く名前を呟く。
無意識のうちに、指先に力がこもる。
だが――
その瞬間、異変に気づいた。
――彼女の気配が、不安定になっている。
先ほどの魔法。
それは、彼女を隠していた結界を破るものでもあった。
そして、その瞬間――
黒霧が大きく揺れ動く。
噛魂獣の視線が、俺から――
ルティシアへと移った。
「……まずい!」
狩人が狩るべき獲物を変えた。
今、奴が狙うのは――彼女だ。
ルティシアの体が、微かな光の中で震えていた。
蒼白い指先は護符を必死に握りしめ、銀色の瞳はわずかに揺れる。
目の奥には、未だ消えぬ魔力の余韻が閃いていた。
だが――
彼女の膝が崩れ、力なく地面に倒れ込む。
先ほどの魔法で、残された僅かな魔力すら使い果たした。
呼吸は乱れ、胸が激しく上下する。
額には冷たい汗が滲み、震える指先が地面を掴もうとするが、もう立ち上がる力は残っていない。
それでも――
噛魂獣は、まだそこにいた。
奇妙な震え声を発し、黒霧を激しく揺らしながら、傷ついた獣のように身をよじる。
ルティシアの魔法は、確かにこいつにダメージを与えた。
しかも、聖術以上に深い傷を――
その痛みが、怒りを生んでいた。
「……グルル……ガァ……」
咆哮とともに、噛魂獣の視線が完全にルティシアへと固定される。
まるで、獲物を見定めた捕食者のように。
彼女の隠蔽魔法は先ほどの魔法で解かれてしまった。
今の彼女は、噛魂獣の獲物として丸裸の状態だった。
――まずい!
「ルティシア!!」
低く叫ぶ。
もう迷っている時間はない――!
噛魂獣の注意が彼女に向いた、その一瞬を逃さず――
俺は迷わず《聖釘》を地面に突き立てた。
「――審判の鎖よ、邪悪を鎮めよ!」
刹那――
大地と聖釘が共鳴する。
白金の鎖が爆発的な閃光とともに地面から奔り出し――
噛魂獣の歪んだ影を絡め取るように、強く、容赦なく、その身を締め上げた。
噛魂獣が、耳をつんざくような悲鳴を上げた。
黒霧が狂ったように渦巻き、もがく獣のように暴れ回る。
――今だ。
今こそ、終わらせる時!
「聖光よ、降臨せよ! 罪深き者に裁きを!」
俺は聖典を高く掲げ、全身の魔力と信念を呪文に込める。
「闇を焼き尽くし、邪悪を逃すな!」
――《裁決の焔》!
金色の聖なる炎が天から落ちる。
それはまるで神罰の如く、一直線に噛魂獣を飲み込んだ。
聖釘の力と裁決の焔が共鳴し、閃光が爆ぜる。
漆黒の影は光に包まれ、存在そのものが焼き尽くされていく――
「――グアアアアアッ!!!」
噛魂獣は炎の中でのたうち回り、影が歪む。
その存在が、徐々に消滅しつつある。
だが――
それでもまだ死なない。
炎の中で、その身はさらに縮み――
そして――
最後の、本能に突き動かされたかのように、狂気の反撃を放った。
黒霧が爆発的に膨れ上がる。
それと同時に――
空間全体に、異様な圧力が走った。
これは……ただの幻覚じゃない。
噛魂獣が持つ最も強力な精神侵蝕――
亡者の囁き、呪われた言葉、絶望の波動。
それが、一気に俺の意識を飲み込もうとしていた。
――まずい!
「聖光よ、我を護れ――《赦免の加護》!」
「聖なる盾よ、闇を拒め――《聖盾の加護》!」
金色の光が弾け、俺の身体を防御する聖なる障壁が形成される。
だが――
間に合わない。
俺は咄嗟に歯を食いしばり、
ルティシアの方へと全力で駆け出した――
間に合え――!
だが、その瞬間――
間に合わなかった。
精神への衝撃は、想像を遥かに超えていた。
俺がルティシアへと駆け寄る瞬間――
猛烈な呪詛の波動が、すでに彼女の意識を飲み込んでいた!
ルティシアの体が激しく震える。
銀白の瞳が、かっと見開かれたかと思えば――
次の瞬間、急激に収縮する。
そして――
黒霧が、彼女の身体から溢れ出した。
それはまるで堰を切った潮のように、四方へと奔り出し、空間を歪ませる。
ルティシアの身体が激しく震えた。
銀白の瞳には、押し寄せる黒霧が映り込んでいた。
意識は深く沈み、抜け出せない幻影の中へと囚われていく。
静かに、だが確実に、暗闇が広がる。
感覚を飲み込み、音を歪め、四方八方から囁きが響く。
それは混ざり合った声――馴染みがあるようで、どこか遠い。
忘れ去られた記憶の破片が、冷たく心を叩いた。
「穢れた血……罪深き証……こんなもの、存在してはならない。」
「呪われた存在……生きていること自体が、呪いなのだ。」
「お前の存在そのものが、邪悪の証明だ。」
「なぜ、こんな奴がまだ生きている?」
――それは、かつて聞いた言葉だった。
言った者の顔も、名前も、とうに思い出せない。
だが、その声音だけは、昨日のことのように鮮明に蘇る。
黒霧の中に、影が浮かび上がる。
顔は見えない。
それでも、視線の冷たさだけは確かに感じ取れた。
まるで、存在を否定するかのような、鋭い刃のような眼差し――
彼らは輪を作り、ルティシアを囲む。
そこに立つのは、燃え盛る村の中。
視界の隅では、次々と人が倒れていく。
見慣れた建物が崩れ、炎が夜空を赤く染める。
焦げた匂い、血の匂いが、鼻を突いた。
泣き叫ぶ声、助けを求める声――
それはかつて、彼女が耳にした声だった。
彼女のせいで、呪いに巻き込まれた人々の悲鳴だった。
「化け物め……!」
「来るな! 近寄るな! お前のせいでみんな死ぬんだ!」
「あんなもの、助けるんじゃなかった……こんな存在、死んでしまえばよかった……!」
黒い世界の中、ふと、ひとつの影が現れる。
それは――
彼女の母だった。
ルティシアの瞳が揺れる。
全身の血が凍るような感覚に襲われ、胸が強く押さえつけられた。
息が、うまくできない。
その姿が、ゆっくりと手を伸ばす。
優しく――彼女の髪を撫でるように。
「……ルティシア……」
その声は優しく、懐かしい温もりを含んでいた。
ルティシアは思わず、手を伸ばしそうになった。
だが――
次の瞬間、伸ばされた手が突如として力を込め、彼女の喉を掴んだ。
「お前が……みんなを殺したんだ。」
声の調子は変わらない。
相変わらず優しげな響きなのに、そこには底冷えするほどの冷淡さが滲んでいた。
馴染みのある手が、黒い霧の枷へと変わる。
喉を締め付け、呼吸を奪い――
生命そのものを、少しずつ吸い尽くしていく。
「……ッ!」
身体は本能的に逃れようともがく。
だが、動けない。
「や……だ……」
震える声が零れる。
頬を伝う涙。
恐怖に縛られ、彼女は小さく身を縮めた。
「ごめ……なさい……私……そんなつもりじゃ……」
「やめて……お願いだから……殴らないで……もうやめて……」
喉は乾き、声は途切れ途切れになる。
震える指先が、護符を必死に握りしめる。
それはまるで、溺れる者が最後の浮木に縋るように――
だが、それでも、この呪われた檻からは逃げられない。
黒霧がうねり、呪詛が狂ったように体内を侵食する。
黒い紋様がまるで生き物のように蠢き、四肢を這い上がり、喉元、顔へと広がっていく。
意識が、完全に沈みかけた――
その瞬間。
――まばゆい光が、闇を切り裂いた!
聖光――炸裂するように、輝きが弾ける!
ルティシアの肩を、強く、しかし確かに掴む手。
ロイだった。
彼の全身から、眩い光が溢れる。
呪詛の反撃を受けながらも、力を振り絞り、燃え盛るような聖なる力で黒霧を押し返していく。
「聖光よ、闇を祓え――」
「真理よ、導きを示せ――!」
低く、荒い声。
息遣いには、押し殺しきれない疲労が滲む。
それでも、止まることはできない。
銀白の光が、彼の掌から広がる。
その輝きは、血を通じて、魂を通じて、ルティシアを覆う呪いを狂ったように抑え込んでいった。
蒼藍の炎が、静かに黒霧の中で灯った。
最初は、ただのかすかな火の粉だった。
暗闇の中で揺れ、まるで瀕死の者が最後に漏らす微かな息遣いのように。
しかし、次の瞬間――
炎は、突如として燃え上がった。
黒に呑まれることを拒むかのように。
絡みつく呪詛を、一つひとつ焼き尽くすように。
炎の奔流が四肢を駆け巡り、皮膚に刻まれた黒い紋様を焼き払う。
そして、そのまま深く――魂の奥底へと届く。
呪いの核へと。
黒霧が、激しく収縮した。
まるで死を悟ったかのように、狂ったように震える。
その光景の中――
ルティシアの瞳が、蒼く輝いた。
深淵から引き戻された意識が、ゆっくりと目覚めるように。
彼女の唇がかすかに震え、囁く。
「……ママ?」
幻影は、炎に呑まれる。
黒霧は急速に後退し、まるでなかったかのように霧散していく。
それでも、蒼き炎だけは静かに燃え続けた。
黒を飲み込み、なお夜闇に揺らめくその炎は――
呪いの力とは思えぬほどに、どこか温かかった。
ルティシアの意識は、まだ完全には現実へと戻っていなかった。
幻影の残響が耳にこびりつき、闇の悪意が完全には消え去らず、内側にまとわりついているようだった。
身体には力が入らず、指先は冷え切っている。
まるで見えない鎖に縛られたまま、自由を奪われたように。
息は浅く、不規則に乱れ、震えが止まらなかった。
だが――
何かが、彼女を支えていた。
温かくて、確かで、決して離れようとしないもの。
視界はまだ霞んでいた。
それでも、彼女は感じた。
――誰かに、しっかりと抱きしめられている。
温もりがあった。
それは、彼女にとってあまりにも馴染みのない感覚だった。
それなのに、奇妙な安堵を覚えた。
耳元で、荒くも落ち着いた息遣いが聞こえる。
それを感じた瞬間、無意識に胸が小さく上下する。
そして――
ようやく、目の前の姿がはっきりと映った。
ロイ。
彼の顔色は蒼白く、口元には乾ききらぬ血の跡が滲んでいた。
纏う聖光はまだ完全には消えていない。
だが、彼の身体はかすかに震えていた。
それでも、決して離さなかった。
片腕で、ルティシアの手をしっかりと掴み――
もう片方の手は、まだ宙に掲げられている。
掌に宿る微かな聖光で、彼女に残る呪詛を必死に抑え込んでいた。
自らも呪いに侵蝕されながら、それでも、決して手を離さなかった。
「……聞こえるか?」
掠れた、低く、かすかに息を乱した声。
それでも、その響きは揺るがなかった。
ルティシアは、ただ彼を見つめた。
銀白の瞳が、疲弊しきった彼の姿を映し出す。
唇が震える。
何か言おうとする。
だが、声が出ない。
意識はまだ曖昧で、幻影の残滓が脳裏を漂い続ける。
現実と虚構の境界が曖昧になり、自分が本当に生きているのかさえ、分からなくなる。
……それでも。
確かに感じた。
この腕に抱きしめられていること。
この人が、自分を離さないでいること。
________________________________________
彼の声は掠れ、かすかに息が乱れていた。
それでも、その響きは冷静で、揺るぎなかった。
ルティシアはただ、彼を見つめた。
銀白の瞳に、疲れ果てた彼の姿が映る。
唇が震える。
何かを言おうとする。
だが、声にならない。
意識はまだ混濁していた。
幻影の残滓が脳裏にこびりつき、現実と虚構の境界を曖昧にしていく。
今、自分は本当に生きているのか――
それすらも、わからない。
――ただ。
彼の手が、確かに彼女を抱きしめていた。
この人は。
自分を守るために、迷いなく手を伸ばし――
自らがどれほど傷つこうとも、まず彼女の無事を確かめた。
呪詛に侵され、痛みの中にあっても、決して手を離さなかった。
なぜ?
ルティシアには、理解できなかった。
どうして彼はここまでしてくれるのか。
どうして、こんなにも迷いなく――
何かが、胸の奥で揺らぐ。
指先が、かすかに震えながら動いた。
何かを掴むように、伸ばしかけた手は、しかし半ばで止まる。
彼女の世界は、ずっと冷たかった。
呪いと孤独に閉ざされ、そこに温もりなど存在しなかった。
――けれど。
ロイの金色の瞳に映る蒼き炎が、夜に落ちた星のように揺らめく。
その光が、確かに彼女の心の奥に届いていた。
知らなかった感覚。
理解できない温かさ。
それでも、否定できなかった。
今夜、この人が、彼女の世界に――
ほんの少しだけ、違う色を灯したことを。