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流亡した聖職者と捨てられた少女  作者: 藹仁
堕落した聖職者と呪われた少女
10/32

10.光の下に現れし幽影

 夜の闇はますます深く、不気味なほどの静寂が辺りを包み込んでいた。

 足元の土は湿り気を帯び、踏みしめる落ち葉も、本来の乾いた音を立てることなく、鈍く沈んだ感触を残すばかりだった。


 魔力灯を握りしめ、できるだけ前方を照らす。

 だが、光が届く先に映るのは、入り組んだ木々の影と、次第に濃くなる霧だけ。

 獣の鳴き声すら聞こえず、異様なほどの静寂が広がっていた。


 ルティシアは俺の隣を歩いていた。

 その歩みは軽やかで、迷いの欠片も感じられない。


 彼女の姿は、夜の闇に溶け込むようでいて、決して見落とせるものではなかった。

 意識して見ていなくても、視界の端で彼女の存在を感じる。

 魔力灯の光を受けて、銀白の髪がかすかに輝く。まるで夜空に散らばる月のかけらのように。

 そして、その瞳は仄かに銀の光を帯び、霧よりもなお幻想的に揺らめいていた。


 俺は眉を寄せ、低く囁くように言った。


「……魔法が解けてるぞ。」


 ルティシアの足が、ほんのわずかに止まる。


 自分でも気づいていなかったのか、そっと髪に手を伸ばし、指先で軽く触れた。


「……あなたの聖術の影響?」

 その声は小さく、確信が持てないようだった。


「たぶんな。」


 護符はまだ機能している。つまり、幻影に干渉されても呪いが暴走することはなかった。


 だが、今の彼女は偽装の魔法による庇護を失っている。

 銀白の髪も、淡い光を湛えた瞳も、すべてさらけ出されていた。


 それは、彼女がずっと隠し続けてきたもの。


 ──だが、今はそれを気にしている場合ではない。

 ルティシアはそっと視線を落とした。

 何か言いたげだったが、結局、微かに唇を引き結び、沈黙を選んだ。


 彼女の指がかすかに握られ、そしてまた静かに開かれる。

 最後には手をそっと降ろし、何事もなかったかのように歩みを進めた。

 その足取りには、一切の迷いがなかった。


 ──驚くことではない。


 彼女は、自分のことを進んで話すタイプではないし、他人の視線を浴びるのも好まない。


 だが、それでも気にしている。


 俺は視線を前に戻し、それ以上言葉を重ねることはなかった。ただ、何気なく付け加える。


「ここが片付いたら、もう一度偽装を施してやる。」


 ルティシアの肩が、ほんのわずかに揺れる。

 一瞬の間があって、彼女はこくりと小さく頷いた。


「……うん。」


 その声は相変わらず静かだったが、先ほどよりも少し柔らかくなっていた。


 もしかすると、彼女はこれが俺にとって何か特別な問題なのだと考えているのかもしれない。

 だが、正直に言えば、俺は彼女の髪や瞳の色など気にしていない。


 それどころか──今の彼女のほうが、よほど彼女らしく見えた。


 だが、今考えるべきことは、それではない。

 より重要なのは、彼女の状態がどこまで持つのか、そして──


 エリーは、まだ生きているのか。


 さっきルティシアを安心させるために言ったが、俺自身、確信が持てているわけではなかった。


 再び森へと意識を向ける。


 ──すでにかなりの距離を歩いている。

 それなのに、森の死寂はまるで変わらない。


「……この時間なら、何かしらの気配があるはずだ。」


 俺は眉を寄せ、静かに呟いた。


 ルティシアも周囲を見回し、小さな声で答える。


「……確かに。ここは静かすぎる。」


 静か、というよりも──異様なまでの沈黙。


 風がない。虫の鳴き声もない。

 木々のざわめきすら消え、まるで森全体が何かに押さえつけられているような圧迫感があった。

 風はない。虫の声も聞こえない。

 木の葉が揺れる音すら消え、まるで森全体が何かに押さえつけられているような、重苦しい静寂が広がっていた。


 息をするだけで、その沈黙に飲み込まれそうになる。


「……ここに入った時、何があった?」


 ルティシアはわずかに動きを止め、一瞬だけ思考を巡らせるように黙り込んだ。

 それから、ゆっくりと口を開く。


「……最初に、エリーの声が聞こえたの。」


「……聞こえた?」


「うん。」


 彼女は小さく息を吸い込み、手元の護符に目を落とす。

 まるで、記憶を整理しながら注意を集中させようとしているかのようだった。


「エリーが私を呼んでいたの。確かに見えた。前を走ってた……だから、私は追いかけた。」


 彼女の声は淡々としていたが、思い出すほどに表情はわずかに曇っていく。

 眉をひそめ、何かがぼんやりと抜け落ちるような感覚にとらわれているようだった。


「パパを見た、って言って……それで、森の奥へ走っていったの。」


 ルティシアの指が、無意識に護符を握りしめる。


「だから、私は追いかけた。でも、途中から……おかしいって思った。」


 俺は黙って彼女を見つめ、続きを待つ。


「……エリーの声が。」


 ルティシアの手がさらに強く握り込まれる。

 まるで、思い出すこと自体が彼女を不安にさせるかのように。


「ずっと前にいるのに、霧の向こうから聞こえてくるの。そんなに遠くないはずなのに、どれだけ走っても追いつけなかった。」


「いくら足を速めても、どれだけ必死に走っても──私との距離はずっと同じだった。まるで、わざとそうしてるみたいに……。」


 彼女の声がかすかに掠れる。


「それに……」


 彼女は少しだけ言葉を詰まらせ、ほんのわずかに肩をすくめた。

 そして、絞り出すように低く言った。


「……一度も振り向かなかったの。最初から最後まで、一度も。」

 空気が、一瞬だけ凍りついたように沈黙する。


「……私が名前を呼んでも、エリーは止まらなかった。返事もなく、足取りには一切の迷いがなかった。」


 ルティシアの声は、さっきよりもさらに抑えられていた。


「でも……彼女の声はずっと霧の中に響いていた。どの方向へ走っても、どこに向かっても……はっきりと聞こえたの。」


 指先がわずかに震える。声はさらに低く、かすれた。


「……今になって思い返すと……あの声、私に向けられたものじゃなかった気がする。」


 彼女の手がぎゅっと固く握られる。


「ただ、繰り返していただけ……。」


「お姉ちゃん、早く来て。」


「お姉ちゃん、こっち。」


「お姉ちゃん……」


 ルティシアの呼吸が乱れる。


「彼女の声には、急かすような響きも、焦りもなかった。ただ……」


 彼女はふと顔を上げた。


 銀白の瞳が迷いと不安を滲ませ、俺を映す。


「ただ、私を……誘い込もうとしていたみたいに。」


 その声は小さく、かすかに震えていた。


 俺はゆっくりと眉を寄せる。


 この話を聞いて、ある出来事が脳裏に浮かんだ。


「……あの夜と、同じか?」


 ルティシアの肩がびくりと強張る。


 ──彼女は分かっていた。


 俺が言っているのは、初めて出会ったあの夜のことだ。


 ルティシアはすぐには答えなかった。


 唇をかすかに噛み、考え込むように視線を落とす。


 霧は沈黙を知っているかのように、彼女の周囲をゆっくりと包み込んでいく。


 銀白の髪が、淡く、儚げに揺れた。

「……すごく似てる。」


 ルティシアはようやく口を開いた。


 その声は小さかったが、確かな確信を帯びていた。


「いいえ……ほとんど、まったく同じ。」


 彼女はわずかに視線を落とした。


 まるで、その時の記憶を思い出したくないかのように。

 指先が無意識に護符をなぞる。

 それはまるで、自分を落ち着かせるための拠り所を探しているようだった。


「……あの夜、私が見たものは、たぶん幻覚だった。」


 そう囁くように言ったものの、その声にはまだ迷いが滲んでいた。


「……声を聞いて、それを追いかけたの。」


「……どんな声を?」


 彼女はすぐには答えなかった。


 視線を伏せ、しばらく考え込むように沈黙する。

 そして、自分がまだ幻影に囚われていないことを確認するかのように、静かに口を開いた。


「……お母さんの声がしたの。」


 俺の心臓が、わずかに跳ねた。


「霧の中から聞こえたの。優しくて……私の記憶の中と、まったく同じだった。」


 ルティシアの声は小さく、どこか不確かだった。


「……気づいたら、追いかけてた。」


 彼女は浅く息を吸い、指先をきゅっと握りしめる。


「でも……どれだけ追いかけても、追いつけなかった。」


 ゆっくりと顔を上げる。


 銀の瞳が、霧の中でより鮮明に輝く。


「──今回と、まったく同じだった。」


 ……すべてが、繋がった。

 森の異変、村人の幻覚、ルティシアへの精神的影響、エリーの失踪──


 もしこれらの現象の根源が同じものだとしたら……。


「……噛魂獣しこんじゅかもしれない。」


 ルティシアの瞳がかすかに揺れる。


「……噛魂獣?」


 まるで、聞いたことのない言葉を耳にしたかのように、彼女は小さく繰り返した。


「魂を喰らう魔物のことだ。」


 俺はゆっくりと立ち上がり、視線を森の奥へと向ける。


「──だが、もう時間がない。」


 噛魂獣。


 それは、極めて厄介な魔物だった。


 魂を糧とし、人間の知覚を操る。

 幻を作り出し、獲物を自ら誘い込ませる。


 その手口は実に巧妙で、対象にとって最も大切な存在を餌にする。

 普通の人間には感知すらできない。なぜなら、それは常に物理世界と魂の狭間に潜んでいるからだ。


 そして最も厄介なのは──


 噛魂獣は、決して直接手を下さない。


 獲物を襲うことはなく、ただ静かに、少しずつ魂を吸い取っていく。

 そうして、気づいた時には手遅れとなり、何の抵抗もできないまま死へと誘われる。


 ──これで、すべての点が繋がった。

 ルティシアの眉が深く寄せられる。

 まるで、ようやく何かがおかしいと気づいたかのように。


「……もし、それが噛魂獣しこんじゅなら……エリーは?」


「彼女は、もう……」


 俺は息を深く吸い込み、闇の奥へと視線を向けた。


「……すでに、あいつの狩場にいるかもしれない。」


 魔力灯を手に取り、一歩、前へと踏み出す。


 夜の闇がすべてを覆い尽くし、森は異様なほどの静寂に包まれていた。

 魔力灯の淡い光が、濃い霧の中で揺らめく。


 だが、光の先に終わりは見えない。


 それでも、確信していた。


 ──何かが、どこかで、俺たちをじっと見つめている。



 俺たちは森の奥へと足を踏み入れ、しばらく進んでいった。


 霧はますます濃くなり、まるで意図的に俺たちを包み込もうとしているかのようだった。


 魔力灯の光を前方へ投げかけても、霧はまるで生き物のようにうごめき、視界の先を呑み込んでいく。

 この異様な静寂は、肺を締めつけるような圧迫感を生み出していた。


 湿った冷気が漂い、空気の重さが肺の奥へと入り込んでくるような感覚に襲われる。


「……このままじゃ、エリーを見つけられない。」


 ルティシアが低い声で言った。

 微かに顔を傾け、俺を見る。


「霧がどんどん濃くなってる。」


「これは普通の霧じゃない。この場所自体が、すでに噛魂獣しこんじゅの狩場になっている。」


 俺は眉をひそめ、周囲へと目を走らせる。


 この異常な静寂は、決して自然のものではない。


「……じゃあ、どうすれば?」


 彼女の声は少し低く、わずかに震えていたが、それでも冷静さを保っていた。


「──見つけるしかない。」


 俺はそう言いながら、立ち止まり、魔力灯の光を地面へ向ける。

 エリーの痕跡を探しながら、一歩一歩慎重に足を進める。


 ルティシアは何も言わずに、俺の動作に合わせて行動する。

 護符を強く握りしめたまま、指先にはわずかに力がこもっていた。


 彼女は冷静に見えるが、内心の不安を完全に隠せているわけではないことが分かる。


「……あなたが言ってるのは、噛魂獣のこと?」


 驚いたような声色だった。


「そうだ。」


 俺は低く答え、視線を地面から離さなかった。

 これは……妙だ。


 噛魂獣しこんじゅは通常、幻覚を用いて獲物を死へと誘い込み、気づかれることなく魂を喰らう。

 だが、今回のやり口は今まで見たどの個体よりも巧妙だった。


 ──まるで、俺たちを試しているかのように。


 この魔物は、明らかに普通の噛魂獣とは違う。

 より狡猾で、より計算された動きをしている。


 俺は深く息を吸い込み、聖典を開いた。


「聖光よ、虚妄を打ち破れ──」


 光が一気に広がり、周囲を照らす。

 淡い輝きが霧を押し返し、視界がわずかに開けた。


 だが──


 何もない。


 黒い影も、歪んだ空間も、空気の揺らぎさえも。


 ルティシアが眉をひそめた。


「……効かないの?」


「いや、こいつは思った以上に深く隠れている。」


 低く呟きながら、俺は聖典を握りしめる。


 ──気に入らない。


 噛魂獣は本能で動く捕食者のはず。

 だが、こいつは違う。まるでこちらの反応をうかがい、狙いを定めるように待っている。


 まさか、耐え忍ぶことまで覚えたというのか?


「……もう、俺たちの存在には気づいている。」


 沈んだ声で言いながら、再び周囲を見渡す。


「このまま隠れ続けられたら、エリーを見つけるのは難しい。」


 ルティシアは何も言わなかったが、その目がすべてを物語っていた。


 ──俺と同じ考えだ。


「じゃあ……」


 彼女は静かに息を整え、問いかける。


「……見つけ出せる?」


「できる。」


 俺は唇を引き結び、霧の奥へと視線を向ける。


 ──待つつもりか?


 ならば、俺たちが引きずり出してやる。


「……もう一度試す。」

 俺は手を上げ、魔力灯の光を僅かに揺らした。


 霧は相変わらず濃く、視界を遮っている。


 だが、今──


 どこかで、ほんの僅かな揺らぎを感じた。


 かすかな波動。音すら立てないほどの微細な動き。


 だが、確かに何かが動いた。


 俺は素早く顔を上げ、鋭い視線を霧の奥へと向けた。


「……見つけた。」


 ルティシアが息を呑み、護符を強く握りしめる。


 霧は波打つように揺らいでいる。

 そこには何もないように見える。


 だが──俺の直感が告げている。


 あの中に何かがいる。

 俺たちを見つめ、機を伺っている。


「……でも、何も見えない。」


 ルティシアがかすかな声で言った。


「まだ完全に姿を現していないからだ。」


 俺は低く答える。


噛魂獣しこんじゅは、現世と魂の狭間に棲む魔物だ。そう簡単には姿を晒さない。……だが、さっき、ほんの一瞬波動を見せた。」


「波動……?」


 ルティシアが眉を寄せる。


「さっきの顕現聖術けんげんせいじゅつでは、完全に引きずり出せなかった。だが、わずかに反応を示した。」


 俺はゆっくりと息を吐き、再び聖典を開く。


 指先で、古い呪文の文字をなぞる。


「──今度は、もっと直接的にいく。」


 ルティシアがわずかに眉をひそめた。


「……どうするつもり?」


 俺は微かに顔を傾け、彼女を一瞥する。


 そして、口元にわずかな笑みを浮かべた。


「──向こうから出てこざるを得ないようにする。」

「……あなた、まさかわざと現れさせるつもり?」


 ルティシアが不意に口を開いた。


 その声には、わずかな迷いが混じっていた。

 だが、それ以上に、何かに気づいたような不安の色が濃かった。


 俺はわずかに顔を傾け、彼女を見た。


「そのつもりだ。」


 聖典を開き、指先で見慣れた文字をなぞる。


「──あいつが自ら姿を現したくないのなら、こっちから引きずり出せばいい。」


 ルティシアの眉が深く寄せられる。


 視線は俺の手に向けられ、銀色の瞳が微かに揺れる。

 まるで、何かを悟ったかのように。


「……あなた、まさか──」


 彼女の声がわずかに低くなり、焦りが滲んだ。


「囮になるつもり?」


 その言葉に、俺は一瞬だけ動きを止める。


 だが、すぐに頷いた。


「ダメよ。」


 彼女の反応は、さっきよりも速かった。

 まるで、考えるよりも先に言葉がこぼれたかのように。


「……それなら、私が囮になるべきじゃないの?」


 今度は、俺の眉が寄る番だった。


「ダメだ。」


「でも──」


「お前はまだ回復していない。」


 言葉を遮るように、俺はきっぱりと言った。

 その声は、さっきよりもずっと低く、鋭い響きを帯びていた。


 ルティシアは唇をぎゅっと結んだ。


「……でも、噛魂獣の幻覚は、もう経験してる。初めてじゃない。」


「だからこそ、お前を囮にするわけにはいかない。」


 彼女の動きが止まる。


 手元の護符を無意識に握りしめる指先が、かすかに震えた。


「……また幻覚に囚われたらどうする?」


「……」


「詛呪が暴走しても、自分で制御できると断言できるか?」


 ルティシアは、何も言えなくなった。

 夜の闇が深く沈み、霧がゆっくりと渦を巻く。

 この静寂が、まるで空気そのものを重くしているかのようだった。


 ルティシアは微光の中に立ち、魔力灯の淡い輝きが銀の瞳に映る。

 だが、それでも彼女の目に浮かぶかすかな迷いを隠しきることはできなかった。


 彼女はすぐには答えなかった。


 視線を落とし、指先が無意識に護符の縁をなぞる。


「……」


「ルティシア。」


 俺は彼女の名前を呼んだ。

 さっきよりも少しだけ、優しい声音で。


「お前なら分かっているはずだ。お前がそのリスクに耐えられないことを。」


 彼女の手が微かに震え、護符をぎゅっと握りしめる。

 まるで、込み上げる感情を押し殺すように。


 ──先ほどよりも、長い沈黙が落ちた。


 やがて、ルティシアは深く息を吸い込み、小さく呟いた。


「……でも、それじゃあ危険すぎる。」


「危険なのは分かってる。」


 俺は聖典を開き、指先で古い文字をなぞる。


「だが、無駄な危険に身を投じるつもりはない。」


「……」


「──一度、俺を信じろ。」


 先ほどよりも、少しだけ優しく言った。

 彼女の不安を少しでも和らげるように。


 ルティシアは唇を噛み、銀の瞳に一瞬の迷いを滲ませる。

 だが──


 最後には、静かに小さく頷いた。


「……分かった。」


 彼女の銀の瞳は、魔力灯の淡い光を映しながら、まだどこか不安げだった。

 それでも、もう何も言わなかった。


 俺はわずかに微笑むと、ゆっくりと前を向く。


 視線の先には、闇と霧が渦巻く森の奥。


「……さあ、出てこい。」


 鋭い視線を向け、囁く。


「今度こそ、お前を炙り出してやる。」


 手を前に差し出し、聖なる光を掌に集める。


 ──今度は、もう迷いはない。

 霧が波のように渦を巻きながら押し寄せ、視界を覆い尽くしていく。

 そして、その奥底で──


 何かが蠢き始めた。


「……準備はいいか?」


 低く問うたまま、俺は霧の奥をじっと見つめ続けた。


 ルティシアはすぐには答えなかった。


 だが、護符を強く握りしめ、深く息を吸い込むと、しっかりと頷く。


 俺は手を伸ばし、指先に微かな聖光を宿らせる。


 そして、そのまま彼女の額にそっと触れた。


「──影を纏い、虚無に溶けよ。

 沈黙の夜は光を飲み込み、世界に痕を残さず。」


 透明な光の紋様が水面の波紋のように広がる。

 淡い魔力の気配がルティシアの周囲を覆い、徐々に彼女の存在感を希薄にしていく。


 その魂の波動は限界まで抑え込まれ、まるで霧に溶け込むように消えていった。


 ルティシアは一瞬、動きを止めた。

 まるで、この感覚に馴染めないかのように。


「……これは?」


 眉をひそめ、小さな声で尋ねる。


「お前の魂の気配を隠した。」


 俺は静かに答え、ゆっくりと手を引く。


「今、この場にいるのは──俺だけだ。」


 ルティシアの表情がわずかに変わる。


 銀白の瞳が俺をしっかりと捉え、そこには明らかな不安の色が滲んでいた。


「あなた……」


「仕方ない。」


 俺は淡々と答えながら、聖典を開く。


 だが、視線はあくまであの“圧”が潜む気配から外さなかった。


「こいつの狩りの本能は単純だ。獲物が少なくなればなるほど、渇望は増す。」


「……だから、今、ここにいる“獲物”は俺だけだ。」


 霧が、一気に荒れ狂うように動いた。


 空気を裂くかのようにうねり、視界を乱しながら、圧倒的な威圧感を生み出していく。


 さっきよりも、はるかに強い。


 ……いや、単純に強さの問題じゃない。


 これは──


 明確な悪意。


 それは深海の底から這い上がる闇の波のように、静かに、しかし確実に光を飲み込みながら広がっていく。


 冷たい圧迫感があたりを満たし、息をするだけで胸が重くなる。


 指先がわずかに強張り、聖典のページが冷気に震える。


 ──違和感がある。


 これは、本当に“噛魂獣”なのか?


 獲物を狩るためだけの本能に従う魔物。

 それは確かに狡猾ではあるが、ここまで強烈な“威圧”を放つような存在ではないはずだ。


 だが、今のこの圧は──


 まるで、何か別の“意思”を持っているかのように、じわじわとこちらを押し潰そうとしていた。


「……」


 俺は、静かに息を飲んだ。

 その瞬間──


 俺は、ルティシアの呼吸が一拍乱れたのを聞いた。


 彼女も、気づいたのだ。


 ──これは、俺たちが想定していたものとは違う。


 俺は動じることなく、ゆっくりと深く息を吸う。

 冷静を保ちながらも、思考の奥でひと筋の疑念が浮かぶ。


 そして、静かに詠唱を始めた。


「聖光よ、虚妄を破れ。

 隠れし影を暴き、闇を祓え──」


 聖なる光が炸裂した。


 それは夜の帳を切り裂く刃のように暗闇を貫き、隠された存在を暴き出した。


 霧が狂ったように歪む。


 そして、次の瞬間──


 漆黒の影が深淵から溢れ出す。


 まるで、飢えに駆られた捕食者のように、俺へと襲いかかってきた。


 ──その瞬間、俺はついに、その正体を見た。


 聖光に照らし出されたソレは、明確な形を持たない闇だった。


 影は常に揺らぎ、まるで砕けた鏡の破片が漂うように、不安定に震えていた。


 ときに拡がり、ときに収縮し、しかし、その“存在”は決して消えることなく、圧倒的な悪意をたたえていた。


 目も、口もない。


 ──だが、それは確かに聞こえる。

 耳元で囁く、幻の声が。


 形も、実体もない。


 ──だが、それは確かに奪う。

 人の魂を。


 形を持たぬ影。


 ──だが、それは確かに存在する。

 強烈な違和感と、否応なく感じる“気配”として。


「……これは……」


 ルティシアが息をのむ。


 護符を握りしめ、銀の瞳に得体の知れない影を映す。

 だが──彼女は、一歩も退かない。


 俺は静かに言った。


噛魂獣しこんじゅ。」


 そして、わずかに眉を寄せる。


「……だが、思っていたよりも遥かに厄介だ。」

 ──分かる。


 あの影の意識が、確かに俺を捉えているのを。


 それは、ただ狩りの本能に従う捕食者ではない。

 俺を“観察”している。


 噛魂獣しこんじゅの中でも、知性を持つ個体……それも、ただの知性ではない。


 異様なまでの“忍耐力”を兼ね備えた存在。


「……厄介なことになったな。」


 低く呟きながら、俺はわずかに視線を落とす。

 冷静に、自分の立ち位置と状況を測る。


 ルティシアの気配は完全に霧へと溶け込んでいる。


 だが、それはつまり──


 この場に晒されているのは、俺だけだ。


 この怪物が認識している“獲物”は、今や俺しかいない。


 ──そして、もう完全に狙われている。


「……森で、何かあったのか?」


 町外れの小さな酒場。


 ゆらめく燭火が薄暗い店内を照らし、いつもより重苦しい空気が漂っていた。

 数人の村人が集まり、ひそひそと言葉を交わしている。


 その顔には、抑えきれない不安の色が滲んでいた。


「……ああ。村長が援軍を求めてな。冒険者ギルドから何人か向かったらしいが……」


 そのうちの一人が、声を潜める。


黒衣くろころもの聖職者が、森に入っていくのを見たって話がある。」


 酒場の隅に座る男が、静かに顔を上げた。


 金色の瞳が、ゆらめく燭火を映す。


 彼は手の中の酒杯をゆるく回しながら、まるで周囲の話に興味がないかのように振る舞っていた。


 だが──


「黒衣」という言葉が耳に届いた瞬間、彼の指が一瞬だけ、僅かに止まった。


 そして、すぐに何事もなかったかのように、わずかに眉を上げる。


 すぐには言葉を発さず、ただゆっくりと立ち上がり、話していた村人たちへと歩み寄る。


「……たった一人で森に?」


 低く呟き、目を細める。


「それも、こんな時に……」


「……何時ごろ森へ向かった?」


 彼の問いに、村人は一瞬、迷うように視線を交わし合う。


「……たぶん、半刻はんときくらい前だったと思うが……何か問題でも?」


 そのとき、別の村人が、ふと何かに気づいたように表情を変えた。


「……お前、なんでそんなことを聞く?」


 その声には、微かな警戒が滲んでいる。


 もう一人の村人も、訝しげに眉をひそめた。


「お前、何者だ?」

 男は、ほんの僅かに動きを止めた。


 そして、静かに酒杯を置くと、微かな笑みを浮かべた。


「……ヴィセーン。」


 落ち着いた口調で名を告げる。


 金色の瞳が、ゆらめく微光を受けて、わずかに揺らめいた。


「聖職者だ。」


「……聖職者?」


 村人たちの視線が、一斉に彼の白い聖衣へと向けられる。


 だが、その表情には、まだ疑念が色濃く残っていた。


「教会の者なのか?」


 ヴィセーンは軽く笑い、肩をすくめる。


「うん……完全には、そうとは言えないな。」


 曖昧な答え。


 村人たちは互いに視線を交わし、空気に警戒の色が広がる。


「完全には……?」


「それじゃ、お前は一体何者なんだ?」


 問い詰めるような声が飛ぶ。


 だが、ヴィセーンは動じることなく、静かに指先で手元の指輪を回す。


 まるで、答えをどう言うべきか思案しているように。


「……それよりも。」


 彼は穏やかな声音で話を続けた。


「さっき言っていた“黒衣の聖職者”について、もう少し詳しく聞かせてもらえないか?」


 村人たちはまだ半信半疑だったが、それでも誰かが低く言った。


「……そいつは余所者だ。村に来てまだ日が浅い。俺たちとも馴染んでいない。」


「ほう?」


 ヴィセーンは僅かに目を細める。


 その視線が、酒場の窓の外へと向かう。


 霧が立ち込める森。


 そこをじっと見つめながら、静かに言葉を紡ぐ。


「……もし、本当にあの森で何か異変が起きているのなら──」


「黒衣の聖職者も、助けが必要かもしれないな。」


 村人たちは顔を見交わす。


 疑念の名残はあるものの、彼の言葉に少しずつ揺らぎが生じた。


 やがて、一人がため息をつき、重く口を開く。


「……分かった。ついてこい。」


 ヴィセーンは静かに立ち上がった。


 白い聖衣が、揺らめく燭火の光と夜の闇に溶けるように、静かに揺れる。


 夜の町並みは、まだ灯火に照らされ、活気はあった。

 だが、彼の視線はその喧騒を越え、再び遠くの森へと向かった。


 黒い闇が、海のように静かに広がり、沈黙の中に何かを隠しているかのようだった。


「……これは、なかなか面白くなりそうだ。」


 ヴィセーンは、誰にも聞こえないほどの声で、そう呟いた。


 金色の瞳に、一瞬、妖しい光が揺れた。





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