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流亡した聖職者と捨てられた少女  作者: 藹仁
堕落した聖職者と呪われた少女
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01.堕落した聖職者と呪われた少女

これは私の初めての作品です。長い時間をかけて書き上げたこの物語が、皆様に少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。まだまだ未熟な部分も多いですが、心を込めて書きましたので、温かい目で見守っていただければ幸いです。この作品が皆様に少しでも感動や楽しさを与えることができることを願っています。


 ──信仰は、人を救えるのか?


 かつての私は、それを疑うことなく信じていた。


 だが、信仰が屠殺の刃となり、「神の意志」が殺戮の口実となったとき、ようやく気付いたのだ。自分はただの駒に過ぎなかったのだと。


 過去を捨て、「聖職者」と名乗ることもやめたつもりだった。だが、彼女を目にしたとき——


 呪詛の紋様に覆われ、血の海に横たわる細い影……


 それでも、私は手を伸ばしていた。


 崩れた石柱の間を風が低くうねりながら吹き抜け、地上の塵と枯葉を巻き上げる。それはまるで、この廃墟に残された記憶を囁いているかのようだった。


 ここには生命の気配などなく、ただ静寂と無言の哀哭だけが漂っている。


 私は足を引きずるようにして、この死の気配に満ちた地を進む。長袍は土埃にまみれ、腰に吊るした聖典が足に何度もぶつかった。かつては信仰の象徴だったこの書は、今や重苦しい枷となり、私の過去を絶えず思い出させる。


 夜の帳は重く、息苦しいほどの暗闇が広がっていた。だが、その中に、ただ一つの青い光が遠くに瞬いていた。


 それは廃墟の中で一瞬燃え上がり、崩れた石壁の輪郭を照らし出した。まるで風に舞う残り火のように、儚く、しかし確かにそこに存在していた。だが、次の瞬間、光はゆっくりと消え去り、まるで最初からなかったかのように虚無へと溶け込んでいった。


 しかし、私は確かにそれを感じ取った。


 無意識のうちに足を速める。マントが砕けた石畳をかすめ、私は光が消えた方角へと進んでいく。


 魔素の残滓か? それとも、何か異変の兆しなのか?


 その導きに従うようにして、私はこの荒涼たる地へと辿り着いた。


 そして、瓦礫と枯れ果てた草の向こうに、それを見た。


 血だまりに横たわる、一人の少女を。


 銀白の長髪は塵にまみれ、露わになった肌には呪詛の黒紋が絡みついていた。それはまるで燃え尽きた後の焦げ跡のようだった。微かに上下する胸、今にも消え入りそうな呼吸——


 だが、彼女の存在に気づいていたのは、私だけではなかった。

 低く荒い息遣いが、四方から響き渡る。


 ——呪詛魔獣。


 闇に潜むそれらは、まるで夜そのものと同化しているかのようだった。裂けた皮膚の隙間からは不気味な黒霧が漏れ出し、獰猛な紅い瞳が鈍く輝いている。その眼差しには、純粋な侵略と飢えしかなかった。


 彼らはじっと待ち、狙いを定めている。獲物が二度と逃れられぬよう確実に仕留め、その命の残滓すらも貪り尽くすために。


 空気には腐臭と黒魔術の瘴気が入り混じり、吐き気を催すほどの異様な気配が漂っていた。


 群れの先頭に立つ魔獣が、ゆっくりと身を低くする。鋭い牙の間からは黒く濁った腐食性の液体が滴り落ち、影がその周囲でうごめいていた。まるで闇そのものが魔獣のために蠢き、狩りの準備を整えているかのように。


 そして、その紅い瞳が、血溜まりの中に倒れた少女を捉える。


 次の瞬間——


 魔獣は爆発するように跳びかかった。疾風のごとき猛威を伴い、巨大な口を裂くように開き、無力な獲物へと襲いかかる!


「……!」


 私は即座に聖典を翻し、指先を冷たい書の頁へと這わせる。そして、低く呟いた。


「吾、誓約に従い、聖光の寵召を承ける。天律のもとに、誓約の鎖を結ばん——」


 ——光鎖誡律!

 金白色の鎖が虚空から現れた。それはまるで空間そのものから生え出るかのように、瞬く間に魔獣の四肢を絡め取る!


 聖なる光は燃え盛る炎のように灼熱し、鎖は容赦なく締め上げる。魔獣の皮膚が聖光に触れるたび、焼け焦げる音が空気を裂いた。


「ギャアアアァァッ!!」


 魔獣は激しく咆哮し、狂ったように鋭い爪を振り回して鎖を引き裂こうとする。しかし、黒霧がどれほど渦巻こうとも、光の枷に込められた聖なる力は、その肉体に深く刻み込まれていた。魔獣はもがきながらも、一歩も動くことができない!


 ——次々と響き渡る怒号。


 他の魔獣たちが危機を察し、殺意に満ちた唸り声を上げた。


 そして、四方から一斉に襲いかかる!


 閃く鉤爪。獰猛な牙。その間には呪詛の魔力が渦巻き、空気を切り裂きながら、真っ直ぐに私へと迫る!


「聖光よ、降臨せよ。罪を裁き、闇を焼き尽くし、邪悪を一切許すことなかれ!」


 ——裁決の焔!

 光芒が炸裂した!


 黄金の聖焔が流星のごとく闇を貫き、猛然と襲いかかる魔獣たちを引き裂く。純粋なる聖光がその血肉を焼き尽くし、詛呪と魔力が灼熱の中で歪み、崩壊していく!


 先頭の魔獣は必死に足掻く。黒霧を渦巻かせ、鎖の束縛を振りほどこうとするが、光はなおもその邪悪な肉体を蝕み続ける。聖なる炎が焼き付き、その存在そのものを浄化していく。


 聖焔が燃え盛り、夜闇の中、黒き影が崩れ去っていく。


 最後の断末魔が、かすかな風の中へと溶けていった。


 呪詛魔獣の残骸は塵となり、風に乗って消え去る。空気には、焦げた肉の匂いと焼け焦げた大地の臭気、そして生々しい血の匂いがまだ漂っていた。


 燃え尽きた灰が静かに宙を舞い、荒れ果てた大地へと降り積もる。それは、まるでこの死の廃墟と一体化するかのように——。


 風が低く唸りながら吹き抜け、石柱の影を揺らした。すべてが静寂へと還ったかのように思えたが、空気に残る圧迫感はまだ完全には消えていなかった。


 私は静かに聖典を閉じ、ゆっくりとこの死寂の地を見渡す。


 焼け焦げた空気の匂いがまだ漂い、血溜まりが夜の闇を映しながら、不気味なまでに静かに広がっていた。


 そして、私の視線はその中心に横たわる少女へと向かう。


 銀白の髪が乱れ、鮮血に浸されている。


 周囲に生き物の気配はないはずなのに、この空間にはなおも呪詛の気が渦巻いていた。


 私はそっと歩み寄る。


 黒く淀んだ血が、破れた衣の隙間から染み出していた。その体はまるで呪いに侵され、深く蝕まれているかのようだった。


 少女の呼吸は今にも消え入りそうなほどに微弱で、かすかに上下する胸が、まるで死の縁にいることを告げているかのようだった。


「……呪詛か。」


 この禍々しい気配……私は知っている。


 かつて、「異端審判」の処刑場で目にしたものと、あまりにもよく似ている。


 ……私は、彼女を救えるのだろうか?

 私はわずかに眉をひそめ、膝をつき、手を伸ばして彼女の額に指先をそっと触れた。


 彼女の状態を探ろうとした、その瞬間——


 冷たい闇が腕を駆け上がる。


 指先から侵入する強烈な呪詛の気配。それはまるで見えざる鎖のように私の魂を締め上げ、耳元で腐蝕的な囁きを響かせる。この世のものではない、純粋な悪意を孕んだ声。


 即座に手を引く。


 眉を寄せ、息を整えながら状況を分析する。


 ——これはただの呪いではない。もっと深い、根源的な力のものだ……。


 それなのに——彼女はまだ生きている。


 これは果たして、幸運なのか、それとも不幸なのか?


 彼女を生かせば、間違いなく厄介な事態を招くだろう。教会は決して彼女を見逃さない。

 そして私自身も、この災厄に巻き込まれることになる。


 だが、私はその場を離れなかった。


 その時——


「……殺して。」


 乾いた唇から、かすかな声が漏れた。


 私は動きを止める。


 彼女が目を開いた。


 銀白の瞳。その光はまるで静止した死水のように冷たく、そこには苦しみも願いもなかった。世界に対するすべての希望を捨て去った者の目——。


 この目を、私は何度も見てきた。


 彼女はすでに、この世界の憎悪に慣れきっていた。


 一瞬、言葉を失う。

 そして、私は苦笑した。


「悪いが、聖職者の役目は人を救うことであって、殺すことじゃない。」


 私は手を伸ばし、彼女の細い腕にそっと触れた。


 わずかに残る体温。しかし、その奥深くにまで冷たさが染み込んでいる。


 彼女は何も言わなかった。

 拒むこともなく、ただ黙って私を見つめていた。


 だから、私は彼女を拾い上げた。


 ——この闇の中から。

 風が低く唸り、荒野には微かに血の匂いが漂っていた。


 崩れた石柱が闇の中に静かに佇み、地に刻まれた呪詛の紋様が、月光の下で淡く浮かび上がる。それはまるで今もなお、この地の生命を貪り続けているかのようだった。


 私は彼女の身体を抱き上げる。


 その身はあまりにも軽く、生きているとは思えないほどだった。


 だが、かすかに上下する胸の動きだけが、彼女がまだこの世に留まっていることを証明していた。


 昏睡の中でも、彼女の眉はわずかに歪んでいる。額に滲んだ冷たい汗が、未だ消えぬ苦痛を物語っていた。


 呪詛はなおも彼女の命を蝕み続けている。


 それは目に見えぬ鎖となって彼女を縛り、今にもその儚い生命線を断ち切ろうとしていた。


 ——このままでは、彼女は今夜を越えられない。


 私は静かに彼女の顔を見下ろす。血の気の失せたその顔に、一瞬迷いの色を浮かべた。


 だがすぐに思考を振り払うように、彼女の体勢を少し整え、傷に負担がかからぬよう慎重に支える。


 そして、私は腰に手を伸ばし、長年手放すことのなかった聖典を取り出した。


 指先で表紙をなぞる。厚く重みのあるその頁は、わずかに冷たく、それでいてどこか温もりを感じさせた。


 私はそれを静かに開き、見慣れた経文へと目を落とす。


 そして、深く息を吸い込み、静かに祈るように詠唱を始めた。


「聖光よ、彼の者を包み、迷える子羊を導き、穢れし影を祓わん——」

 咒文が静かに口から流れ出す。


 掌の中に純白の光が生まれ、それはまるで温かな微風のように指先を撫でた。まるで、あらゆる痛みを和らげるかのような穏やかな輝き。


 私は光を導き、彼女の胸元へと手を添える。聖術の力をゆっくりと浸透させ、彼女の体内に巣食う呪詛を祓おうとした。


 ——しかし、その瞬間。


 異変が起こる。


 光が彼女の肌に触れた途端——


 黒き紋様が蠢き出した。


 それはまるで意思を持つかのように震え、瞬く間に彼女の体から冷たい黒霧が溢れ出す。


「……っ!」


 黒霧が私の腕に絡みついた。


 冷たい、粘りつくような悪意を孕んだ闇が、毒蛇のように絡みつき、貪欲に聖術を蝕んでいく。聖なる光が、呪詛に食われ、崩れていく。


「……なに?」


 思わぬ事態に、思考が一瞬止まる。しかし、すぐに強烈な寒気が腕を駆け上がり、神経を麻痺させた。


 聖術が、効かない? いや、それどころか、吸い取られている……?


 私はすぐさま手を引き、聖典を閉じて術式を断ち切る。


 ——瞬間、純白の光が掻き消えた。


 夜の闇の中に、かすかに聖力の余韻が漂うだけだった。


 私の手のひらには、まだ呪詛の冷気が残っていた。指先が微かに震える。


「……なぜだ?」


 これは、ただの呪いではない。

 何かが、この呪詛を守っている——

 再び少女へと視線を向ける。


 聖術の光に包まれていたはずの彼女の身体には、何の変化もなかった。


 呪詛はなおも彼女の中に巣食い、びくともしていない。


 これまで見てきたどの呪いとも違う。


 普通の呪詛であれば、どれほど強力な黒魔法であれ、聖術によってわずかでも揺らぐはずだ。浄化の力が僅かにでも作用し、拮抗する痕跡が残るはずなのに——


 この呪詛は、それすらも許さなかった。


 まるで、聖なるものを本能的に排斥するような侵すことのできない領域のように。


 私は困惑し、静かに息を吐く。


 手にしていた聖典を腰へと戻し、そっと自分のマントを彼女の身体にかけた。


 せめて、少しでも暖かさを——。


 傷を癒すことはできなくても、今夜を生き延びさせることはできるかもしれない。


 だが、この場に長く留まることはできない。


 血の匂いが濃く漂うこの場所には、すぐに獲物を求める掠奪者が現れるだろう。


 それは野生の獣かもしれないし、あるいは——教会の狩人かもしれない。


 どちらにせよ、彼女にとっては命取りだ。


 だが、幸いなことに、行く当てはある。


 近隣の町は危険すぎる。あの場所に彼女を連れていくわけにはいかない。


 だが、さらに北へと進めば、私の仮の住まいがある。


 小さな村の外れにある、質素だが人目につきにくい一軒の家。そこなら、少なくとも今夜を乗り越えるには十分だろう。


 私は彼女の姿勢を調整し、傷に負担をかけないよう慎重に抱え直した。そして、足を速め、暗闇の広がる荒野へと踏み込んだ。


 ——その時。


 少女の睫毛が、かすかに震えた。


 意識が、僅かに戻りつつあるのか。


 乾いた唇が微かに動く。


 それは、今にも消え入りそうなほど小さな声だったが——


 私は確かに、その言葉を聞き取った。

「……どこ……?」


 掠れるような声だった。

 力なく、まるで長い間口を開くことすらなかったかのように。


「目が覚めたか?」


 私は視線を落とし、腕の中の少女を見つめる。


「動くな。お前の状態はまだ回復していない。」


 彼女は私の言葉を理解するのに少し時間を要したようだった。

 そして、ゆっくりと震えるまつげを持ち上げる。


 銀白の瞳が薄暗い月光を映しながら、朦朧とした警戒心を滲ませる。


「……お前は……誰だ?」


 深い傷を負っているというのに、その声は冷たく、脆さを見せることはなかった。

 むしろ、それは長年染みついた警戒心の現れだった。


「通りすがりの聖職者だ。」


 私は名乗ることなく、簡潔に答えた。


 彼女の目がわずかに揺らぐ。


 意外そうな色を滲ませた後、微かに息を吐き、かすかな笑い声が漏れた。


 それは嘲るような、乾いた笑みだった。


「……聖職者、ね……?」


 小さく、今にも消え入りそうな囁き。

 どこかぼんやりとした響きを帯びながら、それでも確かな諦念が滲んでいた。


「……どうせ……殺すんだろう……?」


 彼女の言葉に、私はすぐには答えなかった。


 ただ、じっと彼女を見つめる。


 銀白の瞳が、淡い光の下で静かに揺れていた。

 そこにあるのは、冷淡さ。


 期待も、希望も、とうに捨てた者の目。


 この世界に、信じられるものなど残っていないと悟った者の目——。


 だが、それは私には関係のないことだ。


「……俺は異端を裁かないし、人を殺しもしない。」


「ただ、生きている者を救うだけだ。」


 聖職者であろうと、なかろうと——

 それが、私の答えだった。


 彼女の目が、一瞬だけ揺らぐ。


 だが、それはすぐに冷たい色へと戻る。


 信じていないのだろう。


 この世界に、そんな言葉が通じると本気で思っているほど、彼女はもう純粋ではなかったのかもしれない。


 それでも、彼女にはこれ以上問う力が残されていなかった。


 目を開いているだけで、すでに限界だったのだろう。


 最後にもう一度、彼女の意識が深い闇へと沈んでいくのを感じる。


 私は再び彼女を抱え直し、足を速めた。


 北へ——。


 小さな村へと向かい、この夜を越えるために。


 この暗き道のりは、まだ終わらない。

 懐の少女は依然として意識を取り戻さず、銀白の髪が風に揺れた。

 月光の下、その色はどこまでも蒼白く儚い。


 彼女の呼吸は先ほどよりもさらに微弱になっているのがわかる。

 まるで風に揺れる灯火のように、今にも消えそうだった。


 ——もう時間がない。


 私は腕に力を込め、歩みを速める。


 目指すは、遠くに見える小さな村。


 この村は森の外れにひっそりと佇み、かつて私に短い安息を与えてくれた場所だ。

 私は村人たちを助けたことがあり、その恩義から村長が一軒の小さな家を貸してくれた。


 外界から隔絶されたこの場所なら、彼女を匿うことができる。


 しばらくして、私は目的地にたどり着く。


 木造の扉に手をかけると、微かに軋む音を立てながら開いた。


 室内には淡い灯りが揺れ、温かな光が空間を静かに照らし出す。


 装飾は質素だが、荒れ果てた廃墟とは比べ物にならないほど落ち着いていた。

 木の机、椅子、壁にかけられた棚、そして暖炉——

 その隣には、一人を寝かせるには十分な大きさのベッドがあった。


 薪の燃え残りが微かに香る。

 それは、ほんのわずかでも安らぎを与えてくれる温もりだった。


 私はそっと少女をベッドに横たえる。


 傷口に負担をかけないよう慎重に姿勢を整え、彼女が苦しまずに眠れるようにする。


 しかし——


 彼女は小さく身体を縮こまらせたままだった。


 まるで寒さと痛みに慣れきってしまったかのように。

 深い眠りに落ちているというのに、どこか無意識のうちに身を守ろうとしている。


「……まったく、厄介な少女だな。」


 私は低く呟きながら、腰に手をやる。


 指先が、冷たく馴染んだ聖典の表紙に触れた。


 刻まれた紋様をなぞる。

 僅かに色褪せた紙の感触を確かめながら、ゆっくりとそのページを開いた。


 聖典——


 それは聖言を記す書であり、同時に私自身の過去を刻んだ唯一の証だった。


 私は深く息を吸い込み、視線を経文へと落とす。


「聖光よ、降り注ぎ、迷える子羊を導き、穢れし影を祓わん——」

 呪文が静かに口をついて流れ出す。


 指先に純白の光がゆっくりと凝縮されていく。

 それは聖術特有の温かさと浄化の気を宿し、穏やかな光となって少女を包もうとしていた。


 ——だが、その瞬間。


 黒き紋様が激しく蠢いた。


 それはまるで異質な気配を察知したかのように脈動し、次の瞬間、少女の体から黒霧が噴き出した。


 光が、喰われる。


 黒霧は飢えた獣のように光へと絡みつき、聖術の輝きを飲み込み、腐蝕させていく。

 拒絶するように、圧倒的な拒絶を示すように——。


「……またか。」


 私は眉をひそめ、すぐさま手を引く。


 だが、遅かった。


 手のひらに、なおも呪詛の冷気が絡みついている。


 指先が微かに震える。


 これは、ただの呪いではない。

 もっと深い、もっと根源的な何か……それこそ禁忌の領域に触れる力。


 私は聖典を閉じ、強く握りしめる。


 経文の詠唱に誤りはない。

 術式の発動も正確だった。

 それなのに——なぜ光は届かない?


 思考が絡まり、整理しきれぬまま、私はそっと息を吐く。


 今は考えを巡らせるよりも、まず彼女を生かすことが先だ。


 私は壁際の暖炉へと向かい、薪をくべ、火を灯した。


 ぱちぱちと小さく弾ける音が静寂を切り裂く。


 炎の光が、少女の蒼白な顔を淡く照らし出す。

 その僅かな温もりが、冷え切った空間に溶け込み、僅かに寒さを和らげる。


 だが、彼女の眉はまだ僅かに寄せられたままだった。

 まるで、意識のないままでも痛みや苦しみから逃れられぬかのように。


 この少女は、一体——?


 彼女の存在そのものが、まるで謎だった。


 この呪いの本質は何か。

 私の聖術が届かぬ理由は何か。

 そして、この少女が生きているということが何を意味するのか。


 この世界の腐敗に絡む何かが、彼女の背後に潜んでいるのではないか。


 私は炎の揺らめきの向こうで、静かに彼女を見つめる。


 ——この少女は、呪われし遺物なのか。

 それとも、新たな運命の始まりなのか。

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