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月子のグラウンド

作者: 水谷秋夫

 中学校の入学式を終えて、佐藤月子は困っていた。この大河原中学校では何かの部に入って部活動をしなければならない、と言われたからである。

 球技は苦手だった。ソフトボールでもバレーボールでも、投げたり叩いたりした後のボールがどこへ行くかは本人にもわからなかった。笛もハーモニカも苦手なのに吹奏楽部など考えられなかった。座って手先を動かす手芸部や茶道部にも興味はなかった。その時、走るだけだったら出来るかなと思った。月子の陸上部入りは、こうして消去法で決まった。

 陸上部に入ってみると、一週間をかけて様々な陸上競技の記録を取られた。一週間後に顧問の庄司先生が陸上部員の前で結果を読み上げた。佐藤、と呼ばれて月子は辺りを見回した。佐藤という苗字はありふれているので、自分以外に佐藤がいないことをまず確認したのだ。それから、はい、と手を挙げた。お前は長距離だ、と先生に言われた。それで月子は、長距離走に取り組むことになった。

「それぞれの競技の練習方法は、同じ競技をしている先輩に聞くように」

 陸上部は新人四名、総勢十三名の小所帯。長距離走の先輩というと、三年生男子の中村仁志だけだった。顧問の話が終わって中村先輩のところに行き、よろしくお願いしますと頭を下げた。先輩は月子を一瞥した後、じゃあ明日、と素っ気なく答えた。

 翌日グラウンドに行くと、しばらくして中村先輩もやってきた。日は射していたが風が強かった。土埃が舞って口を開けるのが嫌なほどだった。帰ったらすぐにでも髪を洗いたい、などと思った。しかし、中村先輩は慣れているようで気にしたふうでもなかった。二人で屈伸などの体操をした後に、軽くジャンプをするなどの準備運動をした。

「じゃあ、俺、走るから。後ろをついてきて。俺は俺のペースで走るから。ついてこられなくなったところで上がっていいから」

 月子は半信半疑で、位置につこうとする中村先輩のあとを歩いた。どれくらい走るのか、と聞くと、千五百メートル、と言われた。それは中学生女子の長距離走競技と同じ長さだった。その後は特に声を掛けることもなく中村先輩は走り始めた。月子は慌てて後を追った。四百メートルトラックを一周と少し走ったところで月子は振り切られた。トラックの内側に入り、両ひざにそれぞれの手を置いて、ぜーはーぜーはーと苦しい息をした。すると、さらに一周回った中村先輩がそばを走り過ぎていった。大きなストライドで跳ぶように走る先輩から目が離せなくなった。フォームが美しかった。

 それが月子の初恋だった。

 月子はその後も中村先輩が走る度にその後ろをついて走った。好きな男性に距離的に一番近づけるのがその練習だった。だから月子は授業中も、早く部活動の時間にならないかと思いながら過ごしていた。中村の後ろを走っている間は必死だった。先輩が離れていけば、それだけ心の距離も離れていくような気がした。中村についていける距離は最初より伸びた。だが、次第に頭打ちになった。八百メートル付近でどうしても振り切られてしまった。

 その日も八百メートル付近で振り切られた。トラックにいると邪魔なのでその内側に入って休んでいると、他の陸上部員の練習風景が目に入った。走り幅跳びをしているのは月子と同じ一年生の高橋陽子だ。名前はかろうじて知っていたが、小中学校を通じてクラスが同じだったことはない。だからあまり親しくはなかった。走り高跳びをしているのは三年生の加藤恵子だ。背面跳びというものを間近で見たのは初めてだった。棒すれすれに背中が流れていって、最後に足がピンと上がって落ちる。その姿が美しいと思った。

 ふと気がつくと走り終えた中村先輩が月子のそばに立っていた。月子は一瞬で緊張した。

「走り方は自分で考えてくれ。俺も一年の時、三年の先輩の後ろを走っていた。走り方は自分で考えて、一年をかけてようやく食いつけるようになったから」

「その中村先輩の先輩って、男の人ですか」

「そうだよ。でも走るだけだったらやること変わらないでしょ。男も女もないよね」

 ありますって、と思ったが口に出す前に中村先輩は月子に背を向けて歩き出していた。

(私は眼中に無いんだな)

 中村が歩いていった先には走り高跳びの練習場所があった。加藤先輩は練習を終えてタオルで汗を拭いているところだった。加藤先輩は自分が吹いていたタオルを中村先輩に投げた。笑顔で中村は受け取った。嬉しそうな顔をしていた。あんな顔をした中村を、自分の目の前にいる時に見たことはなかった。タオルを渡した加藤も笑顔だった。

(ああ、あの二人、お互いに好きなんだ)

 月子の初恋は、失恋が約束されていた。


 六月に入り、柴田郡中学校陸上競技大会の日が迫ってきた。

 陸上競技大会は他のスポーツとは異なる性格を持っている。例えば、ソフトボールや卓球の大会では、ソフトボール部や卓球部の部員しか参加しない。しかし陸上では、体育の授業などで計測した記録が標準記録を満たしていれば、陸上部員でなくても参加できることになっていた。そのため、部員どうしの対決というよりも学校同士の対決という面があった。

 月子は千五百メートル走に出場することになっていた。困ったことになった、と思った。練習では中村先輩の後ろを走って途中で降り切られることばかりを繰り返していた。千五百メートルをどのようなペースで走ればよいのか見当がつかなかった。困ったまま当日になった。女子一年千五百メートルの参加者は八名だった。とりあえず先頭の人の後ろについていこうと思った。スタート位置に並んでいると、応援団の応援歌が聞こえてきた。

「だーいちゅう、だいちゅう、だいちゅう、せんなんのゆう。だーいちゅう」

 だいちゅうとは大中、大河原中学校の略である。せんなんのゆう、とは仙南の雄だ。仙南は宮城県で仙台よりも南側の地域を指す。私は女なのだけれどもそれでも仙南の雄なのかな、などと月子は考えた。肝心な時に余計なことを考えるのは悪い癖だ。

ピストルの音がした。慌てて月子は走り出した。首尾よくトップの子の後ろにつくことができた。トップの子のペースは中村先輩よりは幾分か遅かった。良かった、これならついていける、と二位のまま食らいついていった。どうにかゴール前までついていけるのではないか、と思った。ところがそう甘くはなかった。

 残り四百メートル、あと一周というところで月子より後方の選手が前へ出ていった。それをきっかけに、ほとんどの選手が一斉にスパートした。月子の足はそのスピードについていけなかった。あっという間に置いていかれた。それまでのペースを保つことも出来ず、息も絶え絶えにようやくゴールした。八人中七位だった。

ビリでなくて良かった。と思いつつ息が整ってきたところで、大河原中学校の応援席に戻ろうとしたら、高橋陽子とすれ違った。

「途中まで良かったのにね」

「うーん、あれで精一杯」

 陽子と会話したのはそれが初めてだった。そう言えば陽子の出ていた走り幅跳びを見ていなかった。どうだったのか聞いてみた。

「四位だった。三年の時には一位になりたいね」

 ほどなくして、女子の走高跳が始まった。走高跳は時間のかかる競技で、後半に入るとバーを落とす失敗ばかり見るようになる。その中で、加藤恵子は最後まで残っていた。

 成功する時と失敗する時の違いがなんとなく理解できるようになった。助走して跳んでバーを越えて足を抜く。その一連の動きに無駄がなくスムースだと成功する可能性が高い。そして、成功した時の加藤先輩の体の流れかたには、洗練、という言葉が似あっていた。

 加藤先輩の跳躍を見て、敵わない、と月子は思った。喘ぎながらビリに近い順位でようやくゴールした自分とは何という違いだろう。加藤先輩と共に残っていた他校生は続けて失敗し、それと同じ高さに挑戦して成功していた先輩の優勝が決まった。同級生と共に、月子は拍手を送った。

 やがて、二・三年生男子の千五百メートル走が始まった。月子の目は中村先輩に引きつけられた。スタートと同時に先頭集団にいた中村先輩は最初から二位か三位をキープしていた。残り一周千百メートルまでは、先頭集団は後ろから数人離脱したぐらいで変わりはなかった。そこから中村先輩はスパートをかけた。先頭に立った。

(先輩、私が失速したところからスピードを上げた。すごい)

 ついてくるのは二人。なかなか振り切れない。頑張れ、と初めて月子は応援の声を上げた。あと百メートル。そこで先輩は二人に追い抜かれた。結果は三位。

中村先輩よりも速い人が柴田郡に二人もいる。先輩の後をただ走っていた月子には衝撃だった。

 そうこうしているうちに、陸上競技大会は終わった。大河原中学校は総合で二位だった。一位になれなかったのは十何年振りかという。総合の点数を見ると僅差で、例えば月子が千五百メートルで優勝していたら、総合一位と二位の順位がひっくり返っていた。

「お前らの声が小さいから負けたんだ」

 応援団の声が聞こえた。三年生が一年生に説教しているらしい。

あなたたちのせいじゃないよ、と月子は心の中で呟いた。

(私の足が遅いから負けたんだ)


 このままではいけない、と月子は思った。今のまま、現在の練習方法や心構えのままでは、何度走っても下から二番目だと考えたのだ。

 まず大河原町内の本屋に行った。何か参考になる本はないかと思った。スポーツ関連の本は少なく、月子と関係のありそうなのは、「陸上競技」と「マラソン」だけだった。マラソンは同じ長距離でも、月子の千五百メートルに対して走る距離が二十倍以上ある。中学女子の長距離は千五百メートルしかなく、マラソンはあまりに遠い距離だった。お小遣いで買えるのも一冊分だけだったので、月子は「陸上競技」を購入した。

 買ってみると書名にある通り、陸上競技全体を網羅した本だった。本を開くと、まず序文があった。何の競技であれ自分の記録を常に把握して、伸びているか停滞しているか、うまくいっているかそうでないか、理由を考えてから次に進むことが重要です、とあった。これまで月子の練習は中村先輩の後を走るばかりで、自分が速くなっているのか遅くなっているのか記録したことがなかった。考えてみれば、中村先輩が毎日同じスピードで走っている保証もない。と言っても、自分の記録を知るためにストップウォッチを使いたければ、顧問の庄司先生から借りるしかない。陸上部所持のストップウォッチは二台で、一年生がしばしば借りるのは躊躇われた。どうすれば良いのだろうと思った。

 次に個々の競技について読んでみた。円盤投げで投げる円盤は男子が二キログラム、女子は一キログラムなどと書いてあった。月子と関係したトラック競技の長距離走に関する記述は二ページしかなかった。

「マラソンの項に詳しく書きますが、長距離の走り方には大きく分けて、ストライド走法とピッチ走法とがあります。自分に合った走法で走ることが大切です」

 あとは、何メートルの競技があるとか、障害競走についての記述があった。

「例えば三千メートルの競技なら練習で三千メートルの距離だけ走っていればよいわけではありません。もっと長い距離を走って心肺機能と筋肉の持久力をつけることも大切です。それだけではなく、最後のラストスパートのためにスピード練習をすることも必要です」

 うーん、と月子は唸った。月子が陸上部に入ったのは、ただ走ればいいだけだと思ったからだ。しかし、どうも事は単純ではないらしい。次に走法について詳しいことはマラソンの項を見てくれということらしいので、マラソンの項をめくってみた。

「歩幅の大きな走り方がストライド走法、歩幅の小さな走り方がピッチ走法です」

 それなら中村先輩はストライド走法だ。足が跳ねるような走り方でダイナミックなのだ。自分もあんな風に走りたいと思っていた。だからその真似をしていた。

「ストライド走法は足を跳ね上げる分だけ足の筋力が必要です。ピッチ走法は腕を多く振るので腕の筋力が必要です」

 うーむ、とまた月子は唸った。必要な筋力など考えたこともなかった。どうやらストライドかピッチか走り方を決め、それに応じた筋肉トレーニングをしないといけないらしい。

 一読して、さて、と月子は考えた。書かれていた中で出来るものは試そう、と思ったのである。まず月子は、自分のタイムを計るために腕時計が欲しいと父に頼んでみた。

「そういう理由ならいいだろう。でもな、お父さんの腕時計は三万円だからな。それより高い値段のものは買わないぞ」

 日曜に月子は父と時計店に行った。買ってもらった自動巻きの時計は二万七千円だった。


 月子の練習方法は変わった。グラウンドで千五百メートルを走る日、短距離のダッシュを繰り返す日、グラウンドを出て道路で長距離を走る日、筋肉トレーニングをする日、と分けてローテーションするようになった。走る日はその度にタイムを計った。時計を見て何時何分出発と記憶してから走り出し、走り終えたらタイムを算出した。

さらに日記をつけるようになった。その日記には走ったタイムばかりではなく、練習がうまくいった、いかなかったと感想も書き添えた。それまで日記などを書こうと思ったこともなかったが、書いてみると少しでもタイムアップした日は嬉しかった。

 一方で、大会が終わり陸上部の様子も変わった。県大会に出る加藤先輩は、変わらずに走高跳の練習を続けていた。しかし、県大会に出ない三年生の先輩はほとんど部活動に出て来なくなった。その中で、三位で県大会に進めなかった中村先輩は、まだ部活動に出てくるほうだった。一週間に一回くらい顔を出して、以前と同じに千五百メートルを走った。

その日は土曜の午後だった。中村先輩が来ていた。グラウンドで中村を見つけると月子はその日の練習予定を棚上げし、彼の後ろを走ることにしていた。

「よろしくお願いします」

 それだけ言って、準備運動が終わると中村の後ろを走った。背中だけだが、彼を間近でずっと見ていられるのは、この練習の時だけだった。

月子はピッチ走法に変えていた。その後、先輩についていくのが楽になっていた。この日は千二百メートルで振り切られた。ついて行ける距離が伸びた。振り切られてからも、もがいて千五百メートルを走り切った。ポケットに入れていた時計でタイムを見ると、大会の自分の記録よりも七秒縮まっていた。成長している。それが嬉しかった。

 クールダウンして帰ろうかと思ったところで、同級生の高橋陽子から声をかけられた。

「部活終わったらさ、生クリームでも食べにいかない?」

 陽子から声をかけられることは滅多になかったので驚いた。だが、特に断る理由もなかった。自分の財布の中に入っていた小遣い銭を思い出し、生クリーム一個ぐらいなら出せると思って承諾した。二十分後、二人はケーキ屋で生クリームを食べていた。陽子は紅茶も一緒に頼んだが、月子は自分の財布と相談して生クリームだけにした。美味しいね、バタークリームとは全然味が違うね、などと二人でひとしきり話した後に、月子が尋ねた。

「今日はなんで私を誘ったの?」

「陸上部で同学年の女子は二人だけなのに、なんの会話もないのもなあ、と思って」

「お友達になろうと?」

「その前に、お知り合いになろうと」

「ああ、なるほど」

「聞きたいこともあったし。月子ってさ、中村先輩が好きなの?」

 月子は飲んでいた水を吐き出しそうになり、慌てて飲み込んだら水が気管のほうに入って思いっきりむせた。

「ああ、ごめん。動揺させちゃった」

「い、きなり、なに、けほっ」

「あ、もう答えなくていいから。わかったから」

 月子が落ち着いたところで、陽子が続けた。

「中村先輩ってさ、加藤先輩と付き合ってるよ」

「あー、それは知ってる。見てればわかる」

「そっか。わざわざ言わなくても良かったか」

「それを私に知らせたかったの?」

「あー、おせっかいだったね、ごめん。私に三年生の従姉妹がいてさ、聞きもしないのに、陸上部だったら三年生の誰と誰が付き合っていて、っていう話をしてくれたものだから。それで月子って中村先輩の後ろを走る時、目をハートマークにして走っているじゃない。知らなかったらまずいと思って」

「うん、それはおせっかいだ」

「否定はしないんだね。目がハートマークってところは」

「うー、腹立つ」

「ここで店から逃げ出さないでよ、私まだ紅茶飲み終わってないんだから」

「さっさと飲んで」

「やだ。まだお知り合いになってないし」

「十分に知り合ったってば」

「そうかなあ」

「じゃあ、陽子の話をして。好きな人とか。私の話ばかりじゃ不公平だ」

「そっか。好きな人はいる。三年生。陸上部とは関係ない。月子はたぶん知らない人」

「どうやって知り合ったの?」

「それは友達になってから話す。ところでさ、練習の仕方、変えた?」

「変えた。本屋で陸上競技の本を買った。貸そうか」

「いや、それ、私も買おう」

 書名や本の編集者の名前、価格の話などをして、その日はお開きとなった。


 夏休みになった。週に三日ぐらい部活動の日があった。月子はよほど体調が悪い時を除けば陸上部の練習に出かけた。中村先輩は夏休みに一度だけ来て、千五百メートルを走った。月子は例によってその後ろを走った。また残り三百メートルで振り切られたが、ゴールした時のタイムを見たら陸上競技大会の四位相当だった。着実に進歩していると思った。

「速くなってきたんじゃねえの?」

 帰り際の先輩に言われた。ものすごく嬉しかった。天に昇ったような気持でいたら陽子に生クリームを食べに行こうと誘われた。一ヵ月振りだ。財布と相談して行くことにした。

「月子が言ってた本、取り寄せて買ったら、走り幅跳びのことは四ページしかなかった」

「それは言ったじゃない。だから貸そうか、って」

「借りたら返さないといけないじゃない。自分のものにしたかったの」

「ふうん。それで、参考になった?」

「少しは。スピードが必要だから短距離走の練習を始めたし、踏切を蹴る瞬間の筋力が高まるようにトレーニングをしている」

「書くことがたくさんあるけど書くことを四ページに縮めたのか、それとも書くことがもともと四ページしかなかったのか、どっちだと思う?」

「わかんない。もし仙台に行く時があったら、大きな本屋でもっと詳しく書いている本がないかどうか探してみたいけど」

「うちではあんまり仙台にお出かけとかしないからなあ。行ったら様子を教えて」

「はいはい。ところでさ。なんか今日、中村先輩と話してすっごい嬉しそうな顔してたじゃない。ほめられたりしたの?」

「陽子ってただ練習してるだけだと思ってたら、そういうところはしっかり見てるんだね」

「だってほら、友達の様子は気になるじゃない」

「ああ、いつの間にか、お知り合いから友達に格上げされたの。だったら、陽子の好きな人のこと教えて」

「えっとね、二歳上の従姉妹がいるって言ったじゃない。その友達、というか彼氏。私、絶対に負けない。そのうち、従妹から奪い取ってやるから」

「うわー、三角関係だあー」

「月子も三角関係でしょ」

「いいえいいえ。私、陽子と違って争ってないし。それで男の人の名前はなんて言う人?」

「それは親友になってから話す」

「ケチ」


夏休みが終わり九月になった。月に一度の生クリームは、月子と陽子の間で恒例になっていた。

「誰かを好きになるってさ、この店で生クリームを食べるみたいなものかもね」

 陽子がぽそっと呟いた。

「どういう意味?」

「この店さ、ショートケーキもチョコケーキも売ってるじゃない。ひょっとしたらそっちのほうが美味しいかもしれないじゃない。でも最初に食べた生クリームが美味しいって言って、ここで食べ続けてるでしょ。誰かを好きになるって、他にもっと良い人がいるかもしれないのにそっちに目を向けてない、ってことだよね」

「ああ、でもここのショートケーキは生クリームより百円高いから私は買えない」

「そういう問題じゃなくて」

「そういう問題だって。他にもっと良い人がいたって、それは何か理由があって元々自分と関係ない人なんだって」

「そっか」

「そう」

「じゃあ、ここのプリンは? 生クリームより安いよ」

「プリンなら、お母さんが買ってくるスーパーで売ってるプリンでいい」

「ここのプリンみたいな、お手軽だけどいい人がいるかもしれないのに」

「いい人でもお手軽な人に憧れるってことはない」

「月子って、おとなしい人だと思ってたけど頑固者なんだ」

「そうかも」


「陽子って、いい名前だよね」

 夏に近い秋から冬に近い秋に切り替わる頃、例のケーキ屋で月子がぼそぼそと話し出した。

「太陽の陽だし。月なんて自分じゃ光らないし。無くたってそんなに困らない気がするし」

「月子、あのさ、雪月花とか花鳥風月って知ってる?」

「聞いたことはある」

「月はね、自分じゃ光らないくせに、他人がわざわざ光らせてくれて、それで綺麗だ綺麗だって、褒めて愛でてもらえるの。太陽はね、自分から光らないといけないの。そうしないと誰にも褒めてもらえないし、愛されないの。だいたい月子はね、学校でお昼ご飯の時に一人で食べようとしていると、いつの間にか机をくっつけられて、頼んでもいないのに何人かで一緒に食べているタイプでしょ」

「なんで知ってるの」

「私は誰も一人にしちゃいけないと思って机をくっつけていくほうだからわかるの。だからね、私はほうっておいても愛されないから、一番になって輝きたいわけよ」

「陽子は一番にならなくても輝いていると思うよ」

「嬉しいこと言ってくれるじゃない」

「私は、一番になりたくて陸上してるんじゃないなあ。戦いたいのでも争いたいのでもないし。なんだろう。やっぱり、中村先輩の後ろを走るのが楽しいからかな」


 冬が来た。中村先輩は部活動に出て来なくなった。寒さを嫌ったのかもしれないし、受験勉強にいよいよ本腰を入れたからかもしれない。前を走る先輩もなく、月子は一人でグラウンドを走っていた。やがて冬休みになった。家で年末年始の年中行事をこなしている合間にバタバタと過ぎた。その間に一度、大河原では十センチ程度の積雪があった。

 冬休みが終わって学校が再開された。放課後、月子は部活動のため女子の臙脂色のジャージを着てグラウンドに出た。冬休みに積もった雪はすでにほとんど溶けていたが、溶けた後も日々の冷気の中でグラウンドは乾かぬままだった。それでロードに出ることにした。

 コースはグラウンドの北側から道路に出て、田圃の中の道を西北西に向かう。一キロメートルほど走ってから九十度左に進路を取り、さらにすぐまた左に曲がって東南東に一キロメートルほど走る。するとグラウンドの南側に帰ってくる。およそ二キロのコースだ。このコースは、千五百メートルより少し長めだ。月子はスタミナをつけようとした時に、これまで何度もこのコースを走っていた。

 グラウンドから道路に出ると強い北西風を正面から受けた。蔵王おろしだ。月子は昨日の天気予報を思い出した。気圧は西高東低。天候は晴れ。仙台の朝の予想最低気温はマイナス五度。予報通りだ。顔に刺さるような冷たい風だった。

(ジャージの下に何か仕込んでくるんだったかな)

 今更そんなことを考えても仕方がない。何も植えられていない冬の水田が、右も左も海のように広がっていた。どうかすると風に押し戻されそうな気がした。しかし走っている以上、折り返し地点に必ず辿り着く筈だと思って月子は黙々と走った。

 この風を下ろしている蔵王連峰が西北西にあり、青く白い峰を際立たせているはずだった。だが、走っている月子には山があるなと感じる程度で鑑賞するような余裕はなかった。

 タッタッタッタッタッ━━。

 ピッチを落とさないよう、上げ過ぎないよう、月子は走り続けた。そしてようやく左に曲がる地点まで辿り着いた。左に曲がると少しの間川沿いの道を進んだ。流れの遅い川は不愛想な川面を見せていた。二百メートルほど進むとまた左に曲がった。

 折り返し点は過ぎた。ここからは中学校のグラウンドに向かって進む。蔵王おろしは追い風になった。

(もう少し、ピッチは上げられる)

 タッタッタッタッタッ━━。

 寒風の追い風と、自分の足音だけが耳に響いていた。

(もう少しピッチを上げよう。次の電信柱まで)

(このピッチで大丈夫。次の電信柱まで)

 次。また次。何本もの電信柱が過ぎて、グラウンドが見えてきた。

(私のグラウンドだ)

 スパートをかけた。比較的乾いている地面を選んで踏んで出発地点に戻った。足を止めて右ひざに右手を置き、左手でタイムを見た。このコースの自己ベストより五秒遅かった。

(前半の蔵王おろしで時間を食ったかな、まあ、でもタイムはそれとして)

 月子の内面からは強い思いが沸き上がっていた。

(明日も走りたい)

(明後日も、その次の日も、何日でも、走りたい)

 自己ベストに届かなかったにもかかわらず、月子は笑っていた。


 月子が練習を終え、昇降口に行くと陽子がいたので尋ねた。

「グラウンドにいなかったけど、どこにいたの」

「グラウンドが使えないから階段の下でトレーニングしてた。腕立て伏せとか。月子は?」

「ロード。あのさ、陽子」

 月子は近くに陽子と自分しかいないことを確認してから話した。

「私さ、中村先輩が好きで、先輩の後ろを走るのが好きだから、陸上をやってるんだと思ってた。違った」

「なんなの」

「私、走るのが好きだったんだ」


 春が来て、三年生の先輩たちはそれぞれに進学が決まり、卒業していった。月子の初恋は特に事件もなく、フェードアウトした。

「月子も制服のボタンくらい貰いに行ったらよかったのに」

「いらない。そんなものを持っていたら、かえって諦めにくいし。陽子はどうしたの」

「こっちはまだまだこれからだから」

「陽子、私ら、そろそろ親友になったんじゃない? 好きな先輩の名前は?」

「まだまだ親友じゃない」

「ケチ」

 たぶん陽子と親友になることはないのかな、と月子は思った。陽子はおそらく、どうしても言いたくないことは言わない、という性格なのだ。

 そして四月になり、月子らは二年生になった。

「月子、立志式、どうする?」

 立志式は大河原中学校独自の伝統行事である。中学二年生が自分の将来の夢や目標を文章に書き、その中で選ばれた学級の代表は壇上で発表する。発表は二年生の終わり頃だ。だが始業式で先生から、自分の将来を今から考えておくように言われた。陽子は春のうちから悩んでいた。

「だいたい、昔の十四歳は元服の時期だと言っても、私らは女だし」

「でも先生は、昔の十四歳の女は、嫁に行く時期だとも言っていたじゃない。だから大人として扱われると」

「嫁に行くなら玉の輿に乗りたい、とか言ったら先生に怒られるんだろうな。といって、なりたい職業とか特にないし」

「陽子は一番になって輝けそうな仕事を何か探して、そこで一番になりたいって書けばいいんじゃないの」

「なるほど。月子は?」

 月子はあまり悩んではいなかった。

「なりたい職業とかはこれから考える。ただ、私は走るのが好きだから、大人になっても走っていると思う。おばちゃんになっても」

「おばあちゃんになっても? うちのおばあちゃん、膝が痛いと言ってお茶の間から動かないよ」

「そうしたら車椅子でも走る。とにかく、一生、ずっと走る」

陽子が思わず感嘆して言った。

「良い顔で笑うなあ、月子」


―了―

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